episode 13 撞鐘
「器を発見。これより器と融合処理を開始いたします――――失敗。何者かが器と融合を果たしています」
頭上から、まるでクテシフォンのような感情の乏しい女の声が聞こえた。それはカイムの器を覆った波紋が、何者かの手により消されてからすぐの事だった。オレ、そして三体の使徒も声に釣られ空を仰ぐ。そこにはおそらくは使徒なのだろう、巨大な生まれたての赤ん坊のような物体が浮いていた。遠くてよく分からないが、どうも山ほどの大きさに達している。そして身につけているものはなく、肌を剥き出しにしていた。当然か。あんなでかい服、あってたまるか。
それは一瞬だった。女口調の男が蹴り上げたイオカステの肉体の一部が、どさり落ちた音を合図に俗に言う戦い火蓋ってやつが切られようとしていた。その時、周囲に展開された波紋が全て跡形もなく消失した。ヤツらの仕業か、と一体一体見回したが、どいつもこいつも狐に頬を摘まれたか、狸の尻尾に撫でられたかのように呆気にとられている。その時、桁外れの威圧感と共にその声が聞こえたのだ。その威圧感はカイムの器と相対した時と何気に似ていた。
「こりゃあ、とんでもなくヤベえヤツだ」
思わず声に出していた。背中から吹き出る冷たい汗が、傭兵として生きてきた本能のようなものが、オレにこの上ない危険が迫っていることを警告してきた。不安になり無意識にニースの姿を目に収める。彼女は未だすやすや寝息でも立てているかのように、安らかに目を閉じていた。
「クックック。ザマァありませんね、シャクラ。器を横取りなんか、しようとするからでございますよ」
黒の男は相変わらずニタニタ笑い、シャクラと呼ばれた女口調の男の肩にトンと軽く手を乗せた。シャクラは必要以上とも思える素早さで、後ろを振り返る。
「クッ……。もう少しだったというのに……」
そして顔を真っ赤に染めながら歯を食いしばり、ぎりぎり不快な音を立てていた。黒の男を睨みつけ、悔しがる姿をまるで隠そうとしないシャクラに、散々この男に甚振られたオレは、少しだけ気分が晴れたような気がした。
「器が主神のものなんて、アナタ達が勝手に決めたことじゃない。従う謂れなんかこれっぽっちもないわ」
さらに憎々しげに言い返す。黒の男は当然ながら、その言葉をさらっと受け流し嫌味な笑みを維持していた。あの赤ん坊は主神なんて御大層に呼ばれているのか。それとも主神は、ここには居ない別のヤツか。疑問に思うも、この場の雰囲気が訊くことを躊躇わせる。だがその答えはすぐに明らかになった。
「主神様、ご命令を」
白い男があの赤ん坊を仰ぎ、畏まりながら右手を胸に添え恭しく一礼した。やはり主神はアレだったか。
「了承。状況を解析。敵性対象・五。使徒・ニ。武器の形状の個体・ニ。高度生命体・一」
主神は状況などと言いながらも、この状況にそぐわない淡々とした口調を保ち、意味が分かりかねることを何やらぶつくさほざいていた。その声が耳障りだ。オレは奥歯を噛む。それは不快感と、認めたくはないが恐怖に煽られてのことだった。こっちは満身創痍、立っているだけでやっとである。そこに来て新手、しかもあんなでっかいシロモノときたもんだ。
何度も戦場に身を置いた。何度も命のやりとりを交わした。そして、何度も生きながらえてきた。そのような経験を重ねても、今、何をどうすればいいかさっぱりだ。オレは、ただ見上げていることしか出来ずにいた。
「使徒ニース・沈黙。使徒カイム・混乱。脅威度・零。優先攻撃対象から除外。個体一・脅威度・五十二。個体二・四十八。対象の破壊は困難。優先攻撃対象から除外。生命体一・脅威度・十一。優先攻撃対象に指定。排除してください」
白の男が動いた。同調するかのように黒の男も。そして、オレも。あからさまな敵意を向けられ、それに従う行動を取られると、固まっていた体が自然と動きだす。とっさに波紋を展開し、聖剣を掲げ薄刃を伸ばした。
「空間の歪曲を確認。性質を解析――――判明。空間の歪曲を解除します――――完了」
歪んだ景色の見通しが良くなる。それは波紋が全て消失したことを意味していた。あのデカイのの仕業か。仕方なくオレは、折れた脚と痛覚神経を痛めつけながらも左前方を魔剣の斬先と共に白の男へと向け、腰を落とし後ろで踏ん張っている右脚をさらに踏む。と、同時に左脚と左腕を、前方へ投げ出すように伸ばす。耳に伝わる衝突音と手に伝わる硬質な抵抗。黒刃を防いだ白の男は、吊り上がった糸のような目を開き、痩身を退かせた。オレがまともな攻撃を繰り出したことに驚いたらしい。あと数回は驚いてもらおうか。
その時すでに薄刃が黒の男を襲っていた。水平に薙ぐ一本の薄い刃を、黒の男が後ろに倒れ込みそうな勢いで体を逸らして躱す。そこへ透かさずもう一本の薄刃が垂直に振り下ろされていた。諦めたかのように、刃を受け入れる黒の男。その体は綺麗に真っ二つになり、活動を停止した。
だが、すぐさま背後から殺気を浴びせられる。反応は出来るのだが、この体でこの攻撃を避けるのは無理というもの。背中に肘が喰い込み、呼吸が詰まる。オレはそのままつんのめりながら倒れ伏した。
「いつまで元気に動きまわるのでしょうかね。見ものでございますな」
オレが立っていた場所には、オレを見下ろす黒の男が、あいも変わらずニタニタしている。コイツも使えなくなった体を捨て、新たな体を手に入れたってわけか。
「優先攻撃対象の脅威度を十一から六十に引き上げます。攻撃支援を実行します。有効な攻撃支援を解析――――判明。攻撃支援を開始します」
急に呼吸が苦しくなる。目が霞む。音が遠くなり、消えた。クテシフォン、クトゥネペタムの声だけが耳鳴りのように鳴っている。
「対象周囲に領域を形成。領域内の空気を消失。対象は五分後に沈黙すると予測します」
体の中のものが外に飛び出しそうな感覚に陥る。熱した焼きごてが水を弾き蒸発させるかのように、口の中がからっからだ。同じように額から垂れた血も、あっという間に乾いてしまう。どうにかしなければと、次々に波紋を展開するも、引く力、弾く力を載せる前に消滅させられてゆく。薄刃を周囲に伸ばし抗うも、たいして意味があるように思えない。体はすでに力が入らない。視界が暗くなり、意識が遠のく。全てが引き剥がされるような感覚の中、焦りだけが山盛りと言わんばかりにオレの中で募り、留まっていた。
おそらくはシャクラと呼ばれた使徒であろう。『式』を組みながら頭上にめがけ飛んだ。たんっと踏み込んだ振動が伝う。何をする気だろうか。まあどのみちもう何も出来やしない。手も足も出ないとは、まさにこのこと。やはり神サマってのは偉い。逆らうべきではなかったのか、と弱気になった時だった。
――いいですか、あなたは人生を投げ出したりなんかしなくていい人なんです。それくらいは理解して下さい
たぶん唐突、なのだろう。いつぞやのニースの言葉が頭に響く。怒気を孕んだ顔が浮かぶ。濃い霧に隠されてゆくように薄れゆく五感が、その瞬間晴れる。一気に鮮明になる。オレは薄刃を闇雲に動かし始めた。途端、右腕が強い力で引かれる。反射的に意識を右手に集中させ、握る手にありったけの力を込めた。
わけも分からずオレは、引っこ抜かれるかのように宙に浮き、落ち、体は床に叩きつけられた。その薄刃を視線で辿る。その先端は、カイムの器のだらりと垂らされた腕に巻き付いていた。助けてくれたのだろうか、それとも偶然か。器は虚ろな目で風になびく雑草のように、ゆらゆらと上半身を揺すっていた。半開きの口から垂れた涎が糸を引き、振り子のように行ったり来たりしながら、ぽたりぽたりと落ちていた。
「優先攻撃対象を変更。高度生命体・一から使徒シャクラに更新します」
頭上からの生真面目な声に、再び顔をあげる。みると、女口調の男ことシャクラが、白黒二体の使徒を引き連れ、主神と呼ばれる巨大な赤ん坊へと向かっていた。いやアレは引き連れているのではない。追われているのだ。
「器はワタシのものよ。今まで何にもしてこなかったアナタなんかに、渡してなるものか!」
上空、アリのように小さくなったシャクラが、低い声で叫びながら主神に迫る。奴さん達も一枚岩じゃないってことか。とにかく巡ってきた好機ではある。
「クテシフォン、届くか?」
【分からないのです】
小声で聖剣に問うと、困惑した返事が返ってきた。どうにでもなりやがれ、とオレは痛む脚を引きずりながらも立ち上がり、聖剣の長い柄を右肩に担ぐように構えた。踏み込む脚と力む背中に激痛が走る。耐え、食いしばった歯からでた不快な擦過音が、骨を通し耳に直接伝わった。
ゆっくりと吐き続けていた呼吸を止めた直後、全ての筋肉を連動させ聖剣を振り下ろした。一瞬遅れて二本の薄刃が、揃ってオレの頭上に無音で伸張してゆく。そして大きく弧を描きながら振り下ろした刃の軌道の延長上、遥か彼方を追随してゆく。狙いは主神だが、アレだけの大きさである。届くことさえ可能ならば目を閉じていても当たる。オレはついでとばかりに、白と黒の男も巻き込むハラでいた。
薄刃は曲刀のように反りながら、主神の手前にいた白と黒、二体の男の頭上に迫る。そしてあっけなく通過した。完全には仕留めきれてはいないようだが、それも狙い通りだった。どうも仕留めてしまえば、新たに五体満足でどこからともなく現れる仕組みからである。
そしてその後すぐに、シャクラの両脇を抜け主神の体をもなんなく素通りした。轍のような二本の赤い線が垂直に引かれる。そしてそこから勢い良く、赤い液体が噴き出した。浅かったか。いやいや、そうではない。アレが深すぎるのだ。
「優先攻撃対象を変更。使徒シャクラから高度生命体・一に更新します。高度生命体・一の脅威度を六十から百に引き上げます。敵性個体の脅威度・百に到達。これより『鐘』を発動します」
リーン、ゴーンと辺り一帯に大きな鐘の音が響き渡る。オレは、白の男と黒の男が、真っ逆さまに落ちていくさまを見ながら、この音を聞いていた。シャクラは主神の血を浴び銀色の長髪を真っ赤に染めていた。そしてわなわなと震えているようだった。
数回ののち、鐘の音は止んだ。その時オレの目に映ったものは、空一面を覆う使徒の大群だった。オレの心に混じりっ気なしの絶望が巣食い、どっしり胡座をかいていた。




