episode 8 闇童
カイムは己の描いた絵を、再び大幅に変更せざるを得なかった。そしてその絵も、描き切ることが叶わないであろうありさまとなっていた。
最初の不慮はシャクラの顕現だった。ここに来ての使徒来訪、しかも狙いは『器』。シャクラの力を理解していたカイムは、シャクラがクーロンに気を取られている隙に『器』を取り返す方法を取らざるを得なかった。いくら聖剣と魔剣、二振が揃っていようとも、人間が使徒に対抗するには甚だ力不足であると思っていたからだ。そう、彼ら使徒にとって人間は、激流に流されるだけの小枝のような、己の力の前には為す術もなく蹂躙されるだけの存在だった。更に悪条件は重なる。『器』をフチクッチから確実に取り返すには、かなりの時間が要するのだ。分の悪い賭博、カイムはそうとしか思えずにいた。そして、その賭けに縋る以外の方法を見いだせずにいた。
何とかクーロンには耐えて欲しい。そう思うカイムにとって、想像の範疇から遥かに外れた出来事が起こる。クーロンが使徒に肉薄したのだ。いや、圧倒してしまったのだ。
カイムはクーロンがシャクラを葬るさまを、苦い顔で見詰めていた。互いに拮抗する、それが最善であったからだ。クーロンがやり過ぎないよう、二人の戦いに介入することも考えた。だが諦めた。その戦いは己の領分を超えていた。そしてそれ以上に、その行動は『器』を放棄しフチクッチに差し出すことを意味していた。
打つ手も無いまま、状況は更に悪い方に傾く。新たに二体の使徒の出現したのだ。
それでもカイムは冷静だった。冷静に場を見渡し、冷静に『器』へと接近した。彼にとっては珍しく大きな雄叫びを上げながら。
そして未だ意味のある動きを見せない『器』の頭部を両手で掴む。と、そこを覆うように球形の魔法陣が現れる。それはカイム自身を『器』に送り込むために組み上げた術だった。しかし、魔神と呼ばれた男の抵抗はそこまでだった。カイムが術に魔力を注ぐも、その『器』は見ようによっては煩わし気に映らないこともないが、然して気に留める様子はない。逆に『器』がカイムに向け手を翳すと、その先にあるカイムの腰から下が消え失せた。
苦痛を顕にしながらも、術の行使を続ける。だが無情にも『器』はカイムの頭にぽんっと軽く掌を載せ、そのまますうっと振り下ろした。
体幹を失い器の頭をしっかり掴んでいた両腕が、ぼとり、ぼとりと一本ずつ壊れかかった床へと落ちた。
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その時、オレは……正確にはオレの意識は、自分の『闇』が満たされた空間に頭から爪先までどっぷり浸かり、微睡んでいた。
それでも自分の身に危険が及んでいることは、朧気ながらもかろうじて理解できた。まだ足りない、深く潜らなければ。だが徐々に自我が闇に溶け出し薄れゆく。それに抗い踏ん張り、オレの意識は曖昧なまま焦燥感に駆られ、精神の奥底へと進んでいった。
「アンタ誰だ?」
急に人の気配を察知し、それを合図に感覚が戻る。我に返る。意識の輪郭をはっきりと認識する。そこには年端もいかない子供が、オレを見詰めていた。
「こうして話をするのは初めてだね。ボクはそうだな……」
それは言葉であったが声ではなかった。言うなれば思念。クテシフォン、クトゥネペタムの発する言語に近いものだった。だが二振の剣とは違い、言葉や感情だけではなく五感全てが伝わってくる、そんな感じがした。
子供は愉しげに顎に指を添え考える仕草を見せる。
「『呪』でいいや。キミはいつもボクをそう呼んでいるしね」
そしてケラケラと笑った。
「その『呪』がオレに何のようだ」
「こっちに来たのはキミじゃないか。ボクはただずっとここに居ただけだよ」
「そりゃあ邪魔したな。道に迷ってたまたま来ちまっただけだ。もう少し奥に行かなきゃならないようなんでな、このままお暇させてもらうよ」
笑顔を向ける子供に、オレは背中を向け立ち去ろうと振り向く。すると背中から、今までとは打って変わって不機嫌な低い声がした。再度振り向く。と、子供は眉間に皺を寄せていた。
「そういう訳にはいかないよ」
「どう言うことだ?」
好意的ではない嫌らしい笑い顔で、態度が豹変した子供を見下ろす。
「ここから先は行かせないってことだよ。ボクの領域だからね」
「ボクのじゃねえよ、ガキ。オレの体ん中だ。悪いが好きにさせてもらうよ」
「ボクの体でもある。表層は自由に使っているじゃないか、深層まで踏み込むなんて欲張り過ぎだよ。だけど、仲良く分けあおうなんてのも無理。ボクはキミのことが好きにはなれないんだ」
「アンタがどう思おうが、知ったこっちゃねえよ。オレはこの先に行かせてもらう」
「ダメだ! 今戦っているのもボク。いつもキミを窮地から救っていたのもボク。キミはボクに恩があるはずだ。だから言うことを聞いてもらうよ」
「ほお〜言うじゃねえか。好き勝手暴れまくってぶっ倒れてるだけだろ。恩着せがましいガキだ。この先に何かがあるってだけは分かったよ。じゃあな、ガキ」
不毛な会話に嫌気が差し、立ち去ろうとするオレの前に子供が立ちはだかる。二剣を構えながら。オレはその剣に見覚えがあった。懐旧の情があった。感慨もあった。
「雌雄一対の雑種剣かよ。フンッ、嫌味なほど趣味がいいじゃねえか」
「何のこと?」
「アンタのその手に持ってる剣だよ」
「何言ってるのかわからないよ。ボク、そんなもん持ってないけど」
本当に何も知らない顔、そこに惚けている様子はない。どうやらここは、そういう世界なのだろう。子供の敵意が、戦う意思が、オレには剣に見えるようだ。しかもご丁寧に、そして皮肉なことに、その造形はブラマンテの魔森で魔族と戦った時に折れた、オレにとっては十年ほど世話になった馴染の深い剣とぴたり一致した。
「ボクちゃんが気付いていないなら、それでいい。始めるんだろ? かかって来いよ」
いつしかオレも両手に剣を握っていた。だがそれらは霞がかかったように見ることが出来ない。いやそうではない、どうも見えている。見えているのだが、それだけが意識に入ってこない、そんな感覚に近かった。
子供は、いかにも子供らしい覚束ない足取りで、細い右腕を振りかぶりながら走ってくる。だが、それが恐ろしく疾い。一瞬で距離を詰められたと思いきや、適当な動作で右手の剣を振り下ろす。それが何故か鋭い。オレはそれでも初動を抑えた動作で、左足を軸に右脚を後ろに引き躱した。オレに背を向けた状態で体制を崩す子供を見下ろし、右腕に握る剣を子供の右手首の辺りを叩くように小さく振った。
ストンと何の抵抗もなく刃は振り下ろされる。当然だ。そこにはオレの頭の中では、斬り落とされていたはずだった手首も何もない。ただ空を斬っただけだった。
子供はオレの左、十歩ほど離れた先で、声を噛み殺しながら笑っていた。可笑しそうではあるが陽気さはない。嫌な嘲嗤い、鼻につく。
足元は何かを踏みしめてはいる。だがそれが地面かどうかも分からない。見えているものも、確かなものと思えない。先ほどの一手も確実、そう思える手応えを感じていた。だが躱されるどころか、気付けば間合いを取られていた。相手が何をしたかすら分からない。何が虚で何が実か、判断をするにもその材料が乏しい。オレは簡単に苛立ってしまうほど、今の全てに心もとなさを感じていた。
「へえ〜、結構やるじゃん。じゃあこれはどうかな」
子供がゆっくり歩いて近づく。一歩、二歩、三歩……。オレは左の剣を担ぐ。そして右の剣の斬先が子供を向くよう、斜めに構えを取った。軽く腰を落とし背筋を立てる。前方からの攻撃を受け、流し、返す。これがオレの意図だった。
子供はオレの間合いに入る寸前まで歩き、すうっと視界から切れた。と、唐突に頭上からの気配。とっさに担いだ剣を頭上に振る。闇雲に、ぞんざいに。
響くは鈍い衝突音。その奥で、子供は目を大きく開き驚きを隠せずにいた。そのままオレは力任せに振り抜く。だが子供はまたしても消えた。
「なるほどね。彼女がキミを導いたってこと。仲間を連れてくるなんてズルいじゃないか」
何の気なしに自分の左手に視線を落とす。そこには『魔剣クトゥネペタム』が握られていた。
「アンタもここに来てたのか」
クトゥネペタムに呼びかける。だが返事はなかった。まあ返事をされたとして、理解できるとは思えないのだが。オレは魔剣の細く薄く、何処までも黒い刃を目の前の子供に向ける。
「退屈しのぎにオモチャでも持ってくるんだったな、ガキ」
「それちょうだいよ」
子供はそう言うと、いつの間にかオレの左に立ち魔剣の柄を握っていた。
「なんだよコレッ!」
そして喚きながら素早く手を離し、素早く退いた。
「よくこんな恐ろしい物、持っていられるね。呆れるよ」
見ると、子供の左目から左頭部に、何やら黒い靄のようなものがかかっていた。いや違う、かかっていたのではない。靄のようになって消えていたのだ。
「じゃあこっち側ならどうだ?」
と、オレは斬先を向ける。
「コイツは喰いしん坊でなあ、アンタくらいならペロリといっちまう」
そう嘯きながら、腰をぐっと落とし左爪先を進行方向に、刺突の構えをとった。ゆっくり息を吐きながら、斬先をゆらゆらと揺らす。
呼吸と斬先とを止める。瞬間、右脚で強く踏み込み左腕を伸ばした。
狙うは首。普通に考えれば躱されるであろう、見え見えの一撃である。だがオレは不思議と手応えのようなものを感じていた。




