episode 7 覚醒
またも顕現する女口調の男。寸前まで自分の体だった物体がバラバラに散らばる様を、黙ったまま見下ろし、分厚い唇を引き締めていた。余裕の無さが顔から滲み出る。
そこへ間髪入れずに聖魔二振の剣が襲う。薄刃が巻きつき右腕に絡み、黒刃の斬先が己の首元に向かってきた。だが男は集中を乱し『式』を組めない。できる事といえば左腕を前に伸ばし、引き攣る顔を背けることだけ、の筈だった。
「ああああああっ」
雄叫びとも聞こえる野太い悲鳴を上げ、絡め取られた右腕を力任せに闇雲に振り回す。人や魔を遥かに凌駕した膂力の為せる業だった。薄刃に引かれクーロンが左へと大きく振られる。が、体制を崩すこと無く波紋を宙に拡げそこに身体を丸め着地、そのまま両足で踏み込む。二人、否、一人と一柱の距離がまたしても詰まった。
女口調の男は、今度は伸ばした左腕を羽虫を振り払うかのように、何度も振る。乱雑に動かす。それは拒絶を意味していた。二度も身体を斬り刻まれ、恐怖が植え付けられたのだ。だが秩序を失ったその動きは、この局面で意味をなすことはない。男の目の前に着地したクーロンは、ひらひら動く掌を掻い潜りながら腰を低く落とし、懐深く潜り込んだ。
そしてすぐさま……後方に飛び退く。
「シャクラとあろう者が、鼠一匹退治できないなんて。腹でも壊した?」
そこには糸のように細く白い光が横一線に射していた。それをクーロンは寸前で躱した。
シャクラと呼ばれた女口調の男は、その赤い瞳を左へと向けた。その先、ちょうど暖炉の前に立つは白いローブを纏った白髪白肌、細身の男だった。口を開かなければこっちが女性を思わせる顔立ちで、キツネのように吊り上がった目を閉じたまま、静かな笑顔を浮かべていた。そして、サンゴのように細い滑らかな人差し指をシャクラへと向けていた。クーロンを捉え損ねた細い光はその先から伸びていた。男がやおらに腕を下ろすと、光もすっと消えていった。
白い男をぎろりと睨むシャクラ。だがシャクラに気付かれることなく背後に聖剣が迫る。横薙ぎに剣を振り後頭部を狙うクーロン。あわや首を落とそうかとその時に、非ぬ方向から何者かの手がクーロンを襲った。遮るべく空気が波打つかのように揺れた。が、一旦は遮られたものの、それをものともせずに突き破り、クーロンの頭を鷲掴み、そのまま床に叩きつけ引きずり回した。赤く太く不規則な線が、がりがりと鈍い音を立てながら引かれる。そして、先ほどまでシャクラだった肉体から溢れ出る血だまりに到達し、ぬるりと滑った。
ここでクーロンは体軸方向に回転し、ぬめる床板にその勢いを借り、押さえつける手から逃れる。と、同時に遠心力を利用し魔剣を振った。漆黒の長髪を彗星のように引きながら、黒い物体は刃を大きく躱しクーロンから離れる。そして銀と白、二人の男の間に降り立った。
「ケッケッケ。旨そうな獲物でございますね、シャクラ。独り占めなんてケチなことしないでくださいませ」
薄くくすんだ紫の唇を開き、甲高く下品な声で笑うは、頬の痩けたこれまた細身の男だった。だが白い男の細くもあるが均整のとれた体躯と違い、目は落ち窪み、黒いボロのようなローブから見え隠れする関節は節榑が目立つ。骨と血管の浮き出た土色の肌はカサつき、すらり滝のように背中に伸びた長い黒髪と、赤に縁取られ縦に細長く開く金色の瞳孔だけが、妙な光沢を帯びていた。
二体の異形とも言える男を目に収め、シャクラは屈辱から、頬を引きつかせ握る拳を震わせ、押し黙った。
だがそんなシャクラに気遣うことなく、否応なしに襲い来るクーロン。白と黒の男達に気付いてすらいないかのように、脇目も振らず、今度は真正面から聖剣を突く。目を閉じることすら許されない速度でシャクラの鼻先に迫る蒼く透明な斬先。だが皮膚に触れる寸前で左に逸れた。シャクラの左、クーロンの右から迫る骨張りゴツゴツした裏拳。それをクーロンが体を捻り、突きから移行させた横薙ぎの一閃で防いだからだ。
第三、四指の間に刃を食い込ませながらも聖剣もろとも叩き込もうと、そのまま力を込める黒の男。左半分が血で塗れ、朱に染まった仮面を被せたかように表情から感情を消したままのクーロンは、やや押し込まれるも自身と聖剣との間に波紋を展開、抵抗する。力が拮抗する。刃が食い込んだ拳は、その鋭さに元の形を維持すること敵わず、あっけなく二つに分断され剣身を素通り、赤い尾を引きクーロンに触れること無く振り抜かれた。
が、その時、巨大な鉄槌が打ち下ろされたかのような衝撃がクーロンを襲う。堪らずその場に転がり、床板を割り体をめり込ませた。
「迷いは『存在』を曇らせ『力』を鈍らせる。正気に戻ればこの程度の虫、造作もないことなんだけどね」
クーロンを襲ったその衝撃は、白の男の『式』の発動に依るものだった。透かさず白の男はクーロンに向け両手を伸ばす、そして握りこむ仕草を見せた。途端、クーロンは糸でも吊るされたかのごとく不自然に起き上がり、太い縄で雁字搦めにされたかのように悶え苦しんでいた。
「なんで、あなた達がここにいるのよっ!」
シャクラが抗議とも取れる視線を二人の男に向け声を荒らげた。だが当の二人は雀のさえずりとばかりに聞き流し、動揺を見せる様子はない。
「あれだけ楽園を行ったり来たりすれば、気付かない筈がないのでございますよ。シャクラともあろう者が、欲を張ったばかりに下手を打ちましたな。ケッケッケ」
黒の男の下劣な丁寧語と蔑む笑い顔が鼻についた。だがそれ以上に、白の男の余裕を持った笑みと佇まいがシャクラの感情を揺るがした。
「よしなよナジャファハン。彼のお陰でこんないい『魂の庭』を見つけることができたんだからね」
「彼ってまさか、私のことを言っているんじゃないでしょうね」
シャクラが凄み、白の男の胸ぐらに手をかけたその時であった。握り潰す仕草をしていた白の男の掌が弾け、開き、血が飛び散った。シャクラの頬に飛んだ赤い飛沫がポツポツと点を打つ。
「驚いた。『式』を解くなんてね。シャクラが何度も世界を渡った理由が分かったよ。感謝をする相手はシャクラではなく彼の方だろうね」
今度は彼ではなくシャクラと呼んだ白の男は、当のシャクラから目線を切りクーロンへと向けた。白の男のその表情はなんら変わらない。痛がるどころか、怒りも焦りすらも顕してはいなかった。
クーロンは、頭を擡げてはいるものの視線だけは真っ直ぐ前、三人の男を見据えている。聖剣から伸びる二枚の薄刃は大きく螺旋を描き、クーロンを護るかのように周囲を取り囲む。だが白の男は目を閉じたまま、その余裕の笑みは相変わらず翳ることはない。逆に口角に傾斜がつく。と、一瞬にしてクーロンの背後を取っていた。
そして狐のような目を大きく開いた。開かされたと言ってもいいだろう。予想外の出来事に、驚いたからである。
クーロンの後ろに立った白の男の眼前を黒刃が過った。反応できずに鼻背を横一線に浅く斬られ、反射的に身を仰け反らす。その彼の目に映ったものは、回し蹴りを聖剣で受け止めながら、流し去なす、今やボロ雑巾のように成り果てたクーロンの姿だった。ナジャファハンが、ここでまたも動いていた。そうしなければ、白の男の顔は横真っ二つになっていたであろう。
白の男は狐目を更に吊り上げ、口端を下げた。右脚でクーロンの両足を払う。体を崩されたクーロンだが、倒れる先に波紋を広げ己の体を受け止め、素早く立て直しを試みた。だが白の男は目の前に持ち上がったクーロンの右脛を右手に捉え、握り、潰した。ごきりと鈍い音が鳴り、関節が一つ増える。白の男は再び笑顔を取り戻すも、それは先ほどの余裕を持ったものとは打って変わって狂喜を孕んでいた。
握る脚を振り上げ、力任せに投げ飛ばす。が、手を離した時だった。空間の揺らぎが投げ飛ばした体を空中で受け止めた。その時、クーロンは既に聖剣を頭上に大きく振り被っていた。振り下ろされる蒼く透明な刃が白の男の左肩に触れる。『式』を組む間も、避ける隙も、笑顔が恐怖に変わる時間も与えられること無く、体は二つに分けられた。
残心の余韻に浸ることを許されず、クーロンは右に大きく飛んだ。そして屋敷の壁にぶつかる。壁は崩れ瓦礫となり、クーロンを埋めた。ばたりと臥す白の男の傍らにはナジャファハンが、クーロンを護るべく出現した波紋から、膝を突き出していた。
「許さん、許さん、許さん、許さん……」
屋敷の外から肩を怒らせぶつぶつと呟きながら、新たな体を得た白の男が歩を進めていた。
「キプロスともあろう御方が、これでは形無しで御座いますなぁ。ケッケッケ」
声が裏返ったような下卑な笑いにも反応せず、見開いた目を血走らせた白の男キプロスは、クーロンが生き埋めにされているであろう瓦礫の前で立ち止まると、笑顔の欠片もない怒りに引き攣らせた顔で見下ろし、大きく蹴り上げた。一つ、二つ、三つと展開された波紋が、白の男の脚を受け止める。奥歯を噛み締め、ぎりぎり音を立てながら、もう一度蹴りつけるため脚を戻す。だがその動作は瓦礫から這い出た黒刃により阻まれた。
足首に深々と刺さる魔剣。キプロスは自身でも抑えきれない憤怒に体を震わせ、力みきったその足で瓦礫を踏みつけた。
舞い上がる塵芥が視界を遮る。残骸が崩れる音に混じり、男の声が粉塵の中から聞こえた。
「ちょっと眠っている間に、派手に甚振ってくれたじゃねえか。アンタら神様だろ? なあ、今時の神様ってのは迷えるか弱い子羊に、よってたかってこんな酷い仕打ちをするもんなのか?」
徐々に視界が晴れる。と、そこには体中に傷を負い、顔半分を赤く染め上げ、ボロ雑巾のように成り果ててしまった一人の人間の男の影が浮かび上がる。それは不安定ながらも両足で大地を踏みしめ、だらりと下ろされた両腕に二振の剣がしっかりと握られている。
そして、感情を失っていたその目に殺意をギラつかせ、作り物のようだったその顔は不敵に笑っていた。




