episode 6 恐怖
〈あらすじ〉
アレンカールの町でしがない傭兵業を営む中年男性コートは美人で名高いニースをあわよくば口説こうと町の庁舎を訪れていた時、町に滞在している貴族が森へ侵入したと報告を受けた。助けに向かったコートと自警団の面々は魔獣の群れに襲われるも優勢に戦いをすすめる。しかしその時魔族の男が現れた。
そのころ、アレンカールの街ではどんよりとした曇り空の下、ニースが何かに祈るように胸の前で両手を握り、遠く西の空を眺めながら、庁舎の前の道端に佇んでいた。その端正な顔立ちには、いつもの朗らかな笑みは消え失せ、憂いを帯びた笑顔が浮かんでいた。
「どうしたんだいニース、浮かない顔して。なにかあったのなら話してごらん」
珍しい彼女の姿に、やさしい声をかけたのは所長のカムランだった。領主不在のアレンカールの町において、カムランは実質、町長の担っている。そして彼はニースの理解者としての役割も引き受けていたつもりであった。
ニースは、一時何かを逡巡するように俯いたが、すぐに明るい微笑み繕っい彼に向き直る。
「おじさん……。何でもないです。ただ、ちょっと心配で……」
が、すぐに表情に陰りが差した。
「ああ、森へ向かった自警団の連中のことだね。彼らなら大丈夫。憎まれ口を叩きながら帰ってくるよ、きっと。いつもそうだったじゃないか。今頃、例の貴族のお坊ちゃんたちに言いがかりでもつけていることだろうよ。あ〜あ、嫌な仕事が増えるなあ。ははは」
ことさら明るく振る舞うカムランであったが、それでもニースの表情は晴れる様子はない。
「そうだといいんですけど……」
曇りがかった顔を受け、カムランはニースがなにか言いたげにしているのではないかと感じていた。ただ、自分から言うまでは黙って見守っていこうと決めていた。それが恐れ多くも、ニースの保護者的な立場になってしまった自分の役割だと感じていたからである。
── 本当に何でもいいんですか? う〜ん、じゃあ、ちょっとだけでいいですので町を案内してもらえませんか?
彼女の寂しさを含んだ笑顔を見ていると、不意に初めて出会った時のことを思い出した。神々しいほど美しい姿とはうらはらに、どこか儚げで、まるで今のように少し寂しそうに笑い、ささやかな願いを言った彼女。それを、当時のカムランは放ってはおけなかった。
「さあ、中に入って。そうだ、紅茶でも淹れてもらおうか。お酒でもちょっと垂らしてな。ははははは」
「はい。今すぐお湯を沸かしますね。あと、お酒は控えてくださいね」
無理やり明るく振る舞うカムランの気持ちを察し、それに答えるようにニースもいつもの笑顔に戻す。
ニースはアレンカールに来てから既に三年が経とうとしていた。その間ニースは、自分にはもったいないくらいの穏やかに日々を過ごしたと思っている。このような日常を自分なんかに与えてくれたカムランを始めとするアレンカールの人々には感謝のしようもない、そう考えていた。
この優しい時間がいつまでも続けばいい、いつも思っていた。しかしそれと同時に、それほど長く続かないのだろうともいつも思っていた。
ニースは、丁寧にお茶を淹れながら、ひとつの小さな決意を胸に秘める。
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時を同じくして、ブラマンテの森では魔族と人間が対峙していた。規模こそ違えど、これはこの国にとって十年ぶりの出来事である。その因縁めいた歴史的戦いが、誰に知られることもなくひっそりと始まろうとしていた。
オレは緊張していた。手にはぐっしょりと汗をかいているのが自覚できた。恐怖で体が硬い。
魔族はすでに戦闘態勢に入っている。この状況では選択肢はほぼないに等しかった。何も考えずに逃げる。若しくは、何も考えずに斬りかかる。そのどちらかであった。
攻めあぐねもたもたしていた時、不意にヤーンが動き出す。隊列から離れ、向かって魔族の右側に回りこんだ。
「魔族の気を引く。その隙に全員退却!」
囮になるつもりのようだった。クソッタレめ。そういうのは年長者の役割って相場が決まっているものを。
しかし、魔族の男はヤーンにつられることなくこちらに掌を向けたまま、集中を始めていた。直後、掌から少し離れたところに眩い火球が出現する。魔術である。前の大戦末期、城塞を破壊しつくし、そこにいる人間を焼きつくした、あれと同じ炎だ。徐々に火球が大きくなり、程なくして、人の頭ほどの大きさとなった。
そしてそれを、オレ達めがけて射出した。
「うわあああああっ!」
軋む体を無理やり動かし恐怖の雄叫びをあげながら、オレは火球に向かい突進していた。怖い、怖いが今はやるしかない。
すべての感覚を研ぎすます。先ほど怪我を負ったところだろうか、今まで気にならなかった痛みが強烈になって襲ってきた。何もないはずの口の中に僅かな苦味を感じる。鼻腔に充満する土の匂いと血の臭い。オレの使える『能力』の一つ『感覚の拡張』を開放した結果である。今の状態で唐辛子なんか食べたあかつきには、会ったこともないおばあちゃんが川の向こうで手招きしている光景を見ることができるだろう。
死に別れた母親は『祝』などと呼んでいたそうだが、そんな脳天気な能力ではない。これは単に『呪』なのだ。だがしかし、今この時だけは便利なシロモノであった。痛みは増したが状況がよく見える。自分や魔族、自警団の連中までもが、まるで俯瞰したようなイメージで感じることができた。
そうして火球が近づいてくるギリギリを狙い、二つ目の能力『思考の加速』を開放する。空気の流れが滑り、体がどんっと重みを増した。
火球の中に走る魔力の流れをはっきりと視認する。実に強固で複雑な術であったが、見覚えもあった。
火球に剣を刺し、魔力の流れを断ち切るようにゆっくりと剣をたてる。一瞬その流れが乱れる。乱れた魔力の流れに従い剣を走らせる。そして最後、乱れに乱れた魔力により術が途切れた。
火球は不完全な状態で爆発した。まったくの無傷とまでは行かないがまともに食うよりよほどマシである。オレは地面すれすれまで身をかがめ爆発に耐える。
後ろの連中は? 見るとやはり爆発に巻き込まれていたようだ。大盾を構えて身を守ったオーワとその後ろにいたペギー以外は地面に倒れこんでいる。オーワの大盾はひび割れ、持ち主も無傷には程遠い状態である。ペギーもダメージを負ってしまったのだろう、うずくまってしまった。意識があるのかどうかも疑わしい。
次にヤーンを見やる。離れていたせいで、こっちはどうやら無傷のようだ。ただ、恐怖に立ち竦んでいた。あんなものを見せつけられたら誰だってそうなるってもんだ。こんな時でも状況を確認できる余裕があるのは『祝』だか『呪』だかのおかげである。ありがたや、ありがたや。
爆発に耐え切ったオレは、魔族へとその剣を向ける。皮肉にも、自分の作り上げた火球に巻き込まれてしまったらしい魔族は、大きくのけぞり驚きの表情を浮かべていた。そりゃそうだ、こういう魔術の返し方をされたのは初めてだろう。ざまあみやがれ。
唯一届きそうな魔族の右手に、左の剣を斬りつけ、中指から小指を斬り落とした。直後、左に持った剣を手放し右手の剣を両手に持ち替え、大きく踏み込む。衝撃が足の裏から脳へと伝わる。そして隙だらけの脇腹めがけて、渾身の力を振り絞り横に薙いだ。
「す、凄い……」
研ぎ澄まされた聴覚に、風の音、衣擦の音、肉を断ち斬る音、雑多な音に紛れ、ヤーンのか細い声が聞こえた。
ヤーンは自分たちとは全く次元の違うやりとりを目の当たりにして、何が起こっているのか完全には理解しきれていないのだろう。驚愕の目を見開き立ち尽くしている。そんな様子だった。
不意の一撃。魔族を倒すにはこれしかなかった。いきあたりばったりではあったものの、中々に上手くいった。あとはこのまま振りぬくだけである。脚、腰、腕、背中、関連するすべての筋肉を連動させ右から左へと力を込める。
ぐぐぐっと剣から伝わる抵抗が増す。その抵抗に必死に抗う。
すると、ふっと急激に手応えが消失した。体が左へと流れる。見ると、魔族の脇腹に四分の一程度食い込んだ剣は、刃の根本を支点にポッキリと折れていた。魔獣との連戦で疲弊していたのだろう。いや、もう長いこと使い続けていたんだ。寿命だったのかもしれない。
魔族の男は、口から血を吹き出しながらも、今までにない怒りの表情でオレを見下ろしている。少なくないダメージを負っているはずである。少なくともまともな人間なら重症である。戦うどころか、とても動ける状態ではない。
だが、相手は魔族である。まだ動けるのだろうか。オレは目を見張った。
あろうことか、魔族の男は動こうとしていた。オレは、ここで一旦仕切りなおすため退避しようと試みた。だが、少し油断した。魔族の男は右足をオレのみぞおちめがけて鋭く振り上げた。不意を付かれ躱せない。両腕を交差し受けの姿勢を取るも間に合わない。腹部に鈍い衝撃が走った。
何倍にも増幅された痛覚がオレを襲う。一瞬意識を失いかけるも、なんとか踏みとどまった。それにしても痛え。痛みにうずくまるオレの後頭部に、ヤツは左手を掲げた。万事休す。逃げられない。
能力が解除され、感覚と思考が通常に戻る。痛みが和らぎ、空気が肌をなでる嫌な感覚が消えた。しかし今度は体が言うことを聞いてくれない。ここは回復までの時間を稼ぐしかない。まあ、回復したところでどうにかなるとは到底思えないが、何もしないよりはマシだろう。オレは思い切って魔族の男に話しかけることにした。
「今更だが、挨拶をしていなかったなあ。オレはコート。アレンカールの町でしがない傭兵をやっている者だ。アンタ名前はあるのか? あるんだったら冥途の土産に教えてはくれないか」
返事がない……。ただのしかばねのようだ。ってそんな訳はない。ヒリヒリとした殺意が間断なく浴びせられる。構わず話を続ける。
「いやあ、参った参った。アンタみたいな強くて色男の戦士に殺されるってもんなら、まあ納得するしかない。だけど喉がカラカラなんだ。最後に一口水を飲みたいんだがどうだろう。いやいや、抵抗する気は微塵もないし、解ってるだろうが、オレはもう何もできん。なあ、頼むよ」
抵抗する気満々です。しかしなんの反応もないが、攻撃も仕掛けてこない。コレはいけるか? そう思った矢先に、無言で蹴り上げられた。
「グホッ!」
思わず変なうめき声を上げながら体をのけぞらせ、そのまま仰向けに倒れこむ。下手に出ているってのに容赦のないヤツめ。腹が立ってきた。
「くそったれ! 俺達がアンタに何をしたと言うんだ」
「我らの同胞を殺したのは貴様だな」
低くくぐもった特徴的な声が耳朶をうつ。ひょっとして、それって十年前の話? やっべー。バレてる?
しかし、こちとら命がかかってるんだ。そう簡単に認めるわけには行かない。だが話は通じた。ここで隙をつけるかもしれない。このままみんな逃げてくれればいいのだが、そうやすやすとは行かないよなぁ。
「知らねえよ。なんでそう思う?」
話をつなげる基本。質問で終わらせること。
「魔術砕き。貴様が先ほど見せた技だ」
「何だそれ? そんな技、知らねえよ。詳しく聞かせてくんない?」
完全にバレてるじゃないですか〜! だが十年前の話をぶり返すとは、ずいぶんと根に持つやつだ。ヒヤヒヤしっぱなしである。しかしここから、この話をきっかけによもやま話なんか始まって、盛り上がってくれたらありがたいのだが。淡い期待を込める。
「剣が折れなければ危ないところだった。貴様は危険だ。今すぐ消えろ」
よもやま話、即終了……。お好みの話題ではなかったようですね、ハイ。万策尽きた。もう好きにしてちょうだい!
嫌がらせの一つでもしておきたい衝動に駆られたが、ここにいるのはオレ一人ではない。自警団の連中もいるし。近くにはアレンカールの町もある。ここで変に刺激しようものなら、へそを曲げて八つ当たりに何をしでかすことやら。くわばらくわばら。仲間たちの安否を気遣いつつ、オレは力を抜き、目を瞑った。
ヤーン、悪い。お前だけでも助かってくれ。そして、アレンカールのみんなに伝えてくれ。いや、伝えたところでどうなる。魔族が相手なら、逃げる場所なんてどこにもないだろう。いや、本当にどこにもないのか? 全員散り散りになって、森へ逃げ込めば。生き残る奴がいるかも知れない。そんなことをしてまで生き残ってどうする。しかし、死ぬよりかは幾分マシだろう。
様々な思考が乱雑に頭の中を行き交う。
ここで、どうにかしておきたかったが、すまないカムラン。あとは、そうそう、ダメ元でニースを口説いておくんだった。失敗失敗……。って、最後に思うことがこんなちっぽけなこととはなあ。いやいや、そんなものかも知れない。生まれてこの方三十八年、その程度の人生だったってことだ。世界平和なんか願うよりもずっと健全な思考だ。
オレは自然と苦笑いを浮かべていた。
しばらく待っても何も起きる気配がない。額の前のデコピンを待っている気分だ。ひとおもいにやってくれ。
しかし何も起きない。
さすがに何かおかしい。恐る恐る目を開くと、そこには苦しみながら霧化していく魔族の姿があった。一体全体、何が起こっているのやら。