episode 4 潜闇
ニースにオレの声が届いた? いやそうではなくとうとう限界に達したと見るべきであろう。
彼女の痛々しい姿と、いつも見せる健気な笑いが脳内で繋がる。華奢な両肩にのしかかっていた世界、どれだけ考えても想像も及ばない重圧。今、その荷が下ろされたのだ。よくぞここまで耐えたものだ。ゆっくり休め。と、労う気持ちが沸き起こる。そして思った。この世界を護りたいんだろ? 悪いようにはしねえ。そのしょうもない運命とやらに、オレも少しだけ付きあわせてもらうよ、と。
フチクッチの足元にも変化が起きた。虚空から浮かび上がる何か。それは人、いや違う。金属のように光沢を帯びた髪は銀、そして僅かに覗く瞳は紅。それは魔族のようなモノだった。だがそれも違う。この世の全てを押しつぶしてしまうかのような、ひりつく殺気。魔族とは明らかに別のモノだった。
横たわる物体の不透明度が徐々に増し、像が実を結んでゆく。オレはその圧力に抵抗するかのように、両下肢に力を込め立ち上がり、ガチガチ震えそうになる歯を噛み締めた。これが魔神か。なるほど、封印したくなるわけだ。
「これはねぇ魔神の器を召喚する術だったのさ。人間がほんの一歩だけとは言え神の領域に足を踏み込んでくるとはねぇ。楽しいことは尽きないよ。これじゃあまだまだ死ねないな」
何を呑気に、と思ったものの、確かカイムは言っていた。仮にニースが器を復活させても、何処に現れるかは見当もつかないと。そして自分より先に、数で勝る魔族に、器を奪われる可能性が高いということを。なるほどな、それでババアの思惑に乗ったってわけか。魔族とババアとカイム、果たして誰が誰を化かし化かされているのやら。
ここで魔族が動いた。反応しオレも動く。ヤツらは果実に群がる小バエのように、一斉に自分達と同じ姿形をした器へと向かって行った。
そう、その光景はまるで何かの遊戯のようだった。用意されている椅子は一つ、それを何らかの合図で皆で取り合う子供の遊び。だが興じる様子はない。一体一体が欲望にの形相顕に、我先にと犇めき合っていた。
結果形成されるは十一体の魔族で構成された不格好な塊。これが世界を絶望させた人の上位種族。頭では理解しているが、あまりのふざけた姿が笑わせる。カイムに怯みオレを怖れ、頼みの綱は魔神の器。
滑稽を通り越して心に抱くは憐憫。すでに敵などと言う感情すら微塵もない。だが、ヤツらにとっては残念なことだろうが、オレは消滅させる相手にこだわりや矜持などは持ちあわせていなかった。
瞬間、怒りが冷える。無感情に、そして素振りでもしているかのようにごく自然に聖剣を振るう。だがその斬先では、はためく薄刃が魔族とて目視敵わぬ速度で、オレの意思を汲んだかのようにまっすぐに魔族の集団へと伸展する。
それで終わり。オレは、そう思っていた。だから不測の事態に対処が遅れた。いやそれは言い訳か。対処していたとしても、どうにもならなかったであろう。
肉体の内側から何らかの衝撃が走った。力が抜け、両膝をつく。うつ伏せに倒れそうになる身体を気合で支えその体制を維持する。魔術? 違う。魔力の残滓は感じられない。理解できない力がオレへと向けられた。ぼやけた輪郭の先には、上下を分かたれ倒れ蠢く魔族。そして、そうはならなかった一体が佇んでいた。
今度は正面からの衝撃に襲われる。だが見ることも感じることも出来ない。抗うこと許されず、まともに喰ったオレはそのまま吹き飛ばされ壁へと叩きつけられた。
そのまま壁にもたれ立つ。
「よく立っていられるわねえ。あなた何者?」
野太い声に女性のような口調。普段のオレなら何通りもの嫌味が頭に浮かんでいたことだろう。だが、今は残念なことにそんな余裕はなく、キレ味の悪い一つ浮かぶが関の山。更に残念なことは、それを吐き出す余力とて残ってはいなかった。
「とんでもないものが混ざっているねぇ。恐れいったよ。コレはさすがに詰んだかも知れないねぇ」
カイムはオレを庇うように前へと立ちはだかる。そして右手を魔族へと翳し告げた。
「だけどやっとできた友人なんだ。この人は、殺らせないよ」
魔族のナリをした女口調の男は、そんなカイムを呆れ見下すかのようにニヤつく。
何が起きているか、全く理解が及ばない。そんなオレに縋るかのように、カイムが小声で話しかけた。
「五分だけ……いや無理だ、止そう」
それは、独り言とも取れる呟き。焦慮が伝わる。
なるほど、五分か……。五分、あの訳が分からない魔族のナリをしたバケモノを、抑えこむことが出来ればどうにかなるのか? 疑いが晴れることはないものの、オレは自分自身を確かめる。
そう、まるで何かの儀式のように。
両手には、二振の剣。
握る力は、残っている。
腕は、動く。
目も耳も、問題ない。
体は、痛むがどうってことはない。
脚は、何とか踏ん張れるか。
口は……。
「五分でいいんだな」
カイムが俯くオレに振り返る。オレはゆっくり顔を上げ、目を合わせた。驚き? 焦り? アンタもこのような表情ができるのか。オレは絶望に近い状況の中、場違いな程呑気な感情に引っ張られながら、もたれ掛かった壁からゆっくりと身体を引き剥がす。そして大きく笑顔を作り、オレの心の底、深い深い湖のように満たされた闇に、何の抵抗もせず、恐れもせず、覚悟も決めず、ごく自然に自分の意識をどっぷりと沈み込ませた。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。全ての感覚が捩れ歪み、意味をなさない。記憶と思考に靄がかかったように、ぼやけ薄れる。何が起こり何をすべきか、曖昧になる。それでも意識を手放すことはなかった。
磨き上げられた大理石の表面の模様のような不可思議な世界の中で、オレの体が勝手に動き出す感覚だけが鮮明に脳を刺激した。
「何なのそれ。何なのあなた」
と、女口調の野太い声が聞こえる。
「ダメだよ。敵う筈がない」
カイムがオレを凝視する感覚が伝わってくる。馬鹿なことをしやがってと、半ば呆れているに違いない。ああ、何となくは分かっているよ。だけど、悪いがここは退けない状況なんだ。あとを丸投げするようで悪いがアンタが言い出したんだ、宜しく頼んだよ、魔神殿。
闇だか歪みだかに引っ張られるように、体が勝手に動き出す。一切の躊躇いも淀みもなく、呼吸をするかのように当たり前に……。
右足裏の空気が歪み出現する波紋。それをタンッと踏みカイムの脇をすり抜け、魔族の皮を被った得体のしれない何かに一直線に向かう。だがまたしても捉えることが出来ない力に阻まれ、オレの動きが止まりヤツには届かない。そして上から押さえつけるような衝撃。それは僅かに喰らうも右に躱し、かろうじて逃れることが出来た。
まだ、足りねえか……。
オレは意識を更に深みへと潜らせる。一気に感覚と認識が遠のく。戻る気はさらさら無い。オレは悪魔のようにおどろおどろしい存在なっちまうのか、逆に天使のような清らか存在になっちまうのか。どのみちオレではいられなくなるだろう。コレばかりは仕方がない。
悪いなカムラン。アンタの娘を護り切ることが出来ないかもしれん。
悪いなヤーン。帝都へ辿りつけなさそうだ。
悪いなニース。言ったそばから約束、破っちまいそうだ。まあ、気づいていないだろうがな……。
オレの精神の奥深く。そこはもう何もない闇だけが存在していた。生きているのか死んでしまったのかも分からない。時間の前後すらあやしくなっていた。
だが、そんな中でも『潜る』そのことだけが意思として単純すぎるほど明確に存在していた。ただ潜ったところで、どうなるかは分からないというのに。
暫くは闇をたゆらう。暫くというのは語弊があるかもしれない。なぜなら永久の中を流れているようでもあり、刹那も経っていないようでもあったからだ。
意識を手放したオレは、例のバケモノに肉薄していた。洞窟での魔族との戦い、それを彷彿するように表情を失い目を虚ろにさせながら、謎の衝撃を幾つもの波紋で和らげ、そして躱す。その波紋を常に足裏に展開させることにより、空中での跳躍、歩行を可能にしていた。
「ちょこまかと鼠のように。いい加減にしてちょうだい!」
屋敷の屋根が弾け飛んだ。それを皮切りに、ハーシェスの村全体を見えない衝撃が襲った。大地が抉れ、全てが木っ端微塵に砕かれる。直後、屋敷を護るように無数の波紋が現れるが、その衝撃に触れたのであろう、次々と消えてゆく。だが屋敷の周囲だけはそれでも、後から後から現れては消えてゆく波紋に遮られ衝撃はまだ届いてはこなかった。
「ふふふ。さあどうするの。って意地悪い質問だったかしら。分かっているのよ。どうしようもないわよねえ」
「残念。とても残念だよ」
「何よ!」
緩やかではあるが、徐々に近づいてくる衝撃。空を見上げたカイムは、だらりと下ろした右手を固く握り、俯き歯噛みそのまま目を閉じる。
「器が欲しいんじゃなかったのかい?」
「私にとっては、あなたに渡さないことのほうが大事なの」
カイムと女口調の男、互いに会話を交わし、互いの視線が交差する。
「キミ達は思い通りに行かないだけで、こうして全部ひっくり返そうとする。気に喰わないねぇ。ニースが滅べばこの世界も崩れてしまうのは、もちろん知っているよね」
「だから何? あなたはここで死ぬの。死ぬわけではないわね。自分の世界に戻されるの。そしてもう二度とここには来ることは出来ない。楽園を通過する権限のないあなたじゃ、どうすることも出来ないわよ。この世界があればの話だけどね」
「分かっているよ」
「何にも分かっていないおバカさんのクセに偉そうに。じゃあこの状況、あなたはどうする気なの?」
「気に喰わないだけだよ」
カイムとは対照的に魔族らしきナリをした女口調の男は、弄んでいるかのように厭らしく笑う。だが、その笑いも長くは続かなかった。




