episode 13 紅砕
背後から迫りくる威圧感。だが彼女は追ってくるだけで何も仕掛けては来なかった。
オレがどんな手を用意しているのか、様子を窺い見極めようとしているのだろう。猫に嬲られ遊ばれる鼠のような気分だ。本当にさっぱりしない。
いやいやそうではない、と思い直す。
既に彼女は苛立ちを顕にしていた。圧倒的な差というものを見せつけたい、そんな思いがその態度から覗かせた。何をしても届かないことをオレに知らしめ、恐怖に引き攣った顔をゆっくりと拝み、命乞いでもさせて、それを十分堪能した後仕留める、そう思っての行動とも思えた。
だとすると我が妹ながら、なかなかにいい性格に育ったものと改めて思う。
だがどちらにしろ、それはそれでオレにとっては都合の悪いことではなかった。
彼女は近づき、離れ、また近づく。内股で歩幅狭くしなしなと上品に走ってくるような妹だったなら、もう少し楽をさせてもらっていたところだが、淑女を気取る彼の妹は大口で声高らかに笑い、ドレスをばさばさとはためかせ、白い太腿を顕にしながらも、それでも気に留める様子はどこへやら、大股で追ってくる。
針でケツをチクチク刺されるような心地の悪さに嫌気が募るも、考えを放棄し自棄になればそこで終わる。せいぜいその気にさせておく、今はそれが肝なのである。オレは必死の形相を作り、つまづきよろめき敢えて振り返り、無様に逃げるこそ泥のような三文芝居を打った。賭けるは自分の命。安いもんだが、経験乏しい大根役者。釣り合いはとれていよう。
春を迎える空は未だ晴れ渡り、降り注ぐ陽光が木漏れ日となり地面に投射した。それは繁る下草に複雑な模様を描き、微風に揺れる。その隙間を縫うようにオレは右に左にと脱兎のごとく全力で逃走していた。
やってられん。そう思うたびに、ニースの秀麗ともいえる顔が浮かぶ。記憶の中の彼女は何よりもよく微笑んでいた。いつも他人ばかりを気に掛ける優しく少し寂しげな、そんな微笑みだった。
「クソッタレがっ!」
そんなクソ女神が脳裏にちらつくことで、逃げて隠れてこの場をやり過ごす選択は、考えから外されてしまっていた。お陰でこうして泥に塗れ足掻き藻掻く始末である。オレらしいといえばオレらしいが、それでもそれを呪わずにはいられなかった。今や不機嫌を通り越してしまっていたオレは、思わず荒らげに声を発していた。
それに反応し、いつもは何かしらの悪態をつきそうなクテシフォンが、今は沈黙している。彼女も己に迫られるであろう危機に深く思い悩んでいることであろう。ざまあ見やがれ。
そろそろか……。オレは頃合いを見計らい、調度良い太さの樹木を選び、そこに身を隠した。鋭い棘がチクリと頬を刺激した。皀莢か……。
右か左か。賭けに出る。外れたら、まあ良くて元の木阿弥である。意を決し、オレは彼女が右から回りこむ姿を強く思い描く。そして拍子を取りつつクテシフォンを振り下ろした。
すっとした滑らかな斬り口が横一閃に伸びる。彼女は右にも左にも回りこまず、幹ごとオレを横に薙いだのだ。
下から見上げる彼女は満面の笑顔だった。「あなたの策ってこんなもの?」とでも言いたげの、勝ち誇りご満悦の様相だ。だがその表情は一変した。
クテシフォンを持っているはずのオレの右手がそこにはなかった。剣身が重力に引かれ地面へと落ちる。
何が起こったのか理解できない不思議な表情を浮かべた彼女だったが、次の瞬間再び笑顔を取り戻し、倒れ落ちる聖剣の柄に手を伸ばした。
オレはその間、ずっと能力を開放していた。能力に対する理解が深まったため開放時間は伸びているであろうが、それでも気休め程度と思われる。じきに確実に襲い来る意識の混濁。その前に彼女を仕留め切らなければ、オレの負けなのである。
早く。早く。掌に滲む汗を握りこむ。
機会は必ず訪れる。彼女の欲深い目がそれを物語っている。あとはオレがどれだけ『呪』に抗えるかであった。
シーロンは聖剣をその手に収めようと見下ろす。そこでオレが視界に入ったようだった。聖剣から一旦目を離し、オレを見据える。そこにいたのかとばかりに、にいっと真紅に染まる唇を横に大きく開いた。
何のことはない、オレはクテシフォンを手放し、それを囮にその場に低くしゃがみ込んだだけであった。だがそれだけでは、残念だがシーロンは仕留められない。追い込まれ不格好な罠を仕掛けたと、まず彼女に認識させる必要があったのだ。そう、彼女が疑いを持たず聖剣をその手に収めてもらうために。
その時、がつんと鈍器で頭を叩き割るような感覚がオレを襲った。早くも『呪』がオレを侵食し始めたのである。逸る気持ちをぐっと堪えその時を待つ。
間に合うか? 自分にそう問いかけた時、言葉にもなっていない意識がオレの脳内にかすかに触れた。雑音混じりの拙い意思。それは初めて感じる聖剣オウブの意思だった。
オレはそのオウブの気持ちに答えるかのように心話で告げた。
オレの『呪』を受け止めろ、オウブ!
途端に聞こえるひび割れのような音と、手に伝わる小さな衝撃。オウブの淡く紅に光る水晶の剣身に亀裂が走った。同時にオウブの苦痛が伝わってくる。オレはこうなることを予期してはいなかった。オウブ自身、果たして知っていたのだろうか。
もういい、止めろ。オレは心話でオウブに伝える。だがオウブは一向に『呪』をオレに返す気配はなかった。言葉を理解しているのかどうかすらオレには分からない。
何故受け止めた、何故返さない。何度も問い質す。だが返事は得られない。そのまま亀裂は深くそして大きく広がってゆく。それに比するように伝わる苦痛も激しさを増してきていた。
我慢の限界だった。オレは立ち上がろうと両足に力を込める。すると辿々しい掠れた声がオレの脳を刺激した。
【……タ、エ……ロ……】
タエロ……? 耐えろと言ったのか。オレは言われるがまま、そのままの体勢を維持し待った。両足は今か今かと待ちわびているかように、力み震えていた。
シーロンが右手にクテシフォンの柄を握った。このまま聖剣に認められれば全てがお仕舞いである。じっと堪え凝視する。
パアーン
大きな音が木々に跳ね返りこだました。シーロンは握るその手を聖剣に弾かれ体を仰け反らせ、動きを止めていた。よくやってくれた、クテシフォン。
だが、破裂音は一ヶ所からではなかった。同時にオウブの剣身が『呪』に耐え切れず細かく砕け散っていた。
能力で加速され時間がゆっくりと進む世界で、オウブの雑音混じりの声が脳に響いた。
【……アリ…が………と………】
その声は確かに「ありがとう」とそう言った。オレがアンタに何をした? ただの武器として振り回しただけだ。何がありがとうだ。畜生、ふざけやがって。
クテシフォンの感情も流れこんできた。それはまるでその剣身のような透き通った悲しみ、そしてその揺らぐ蒼白の光のような静かな怒りだった。
聖剣の恩恵を失ったオレの体は、これほどに重かったのかと再認識させられた。
斬り刻んでやろうと画策していたものの、その得物は今や木っ端微塵である。だが千載一遇のこの機会を逃すわけにはいかない。これがダメなら残る策は一つ。目一杯闇に潜って自分自身も含め、全てをぶっ壊すしかないのである。結果が全く見えない危険な策である。できる事なら避けたい。
とにかく彼女を捕まえてやろうと右手を伸ばす。だが圧倒的に遅い。このままでは間違えなく逃げられる。歯噛みしようとゆっくり顎に力を入れたその時、柄に残ったオウブの剣身が仄かに紅に光り、そしてふっと消えた。
オウブの最後の恩恵は、僅かではあるがオレに力を与えてくれた。今ここでオレの手が届く場所は彼女の右手しかない。魔剣を振り切ったその右手である。この力、無駄にしてなるものかと腕を千切れそうな勢いで伸ばす。
掴もうにも紙一重で逃げられる。そう思った時、偶然か、砕けたオウブの破片が彼女の右眼に飛び込んだ。思わず瞼を閉じ眼球を守るシーロンの隙をつく。
一瞬だけ膨れ上がる筋力、幾つもの筋肉の動きを大事に大事に絡み合わせ、推力へと変えてゆく。
そして伸ばしたオレの右手は、彼女に握られていた魔剣の柄に何とか届いた。当初の予定と大幅に違うものの、とにかく捕まえた。もう離してやるものか、と力強く握りこむ。
その時だった。
【……カヘロ……】
低い女性の声がオレの脳を直接刺激した。
【カヘロ……カヘロ……】
視界が歪み、意識が遠のく。
【カヘロ……カヘロ……カヘロ……】
右手を伝い、全身に痛みが走る。
【カヘロ……カヘロ……カヘロ……喰へろー!】
精神がごそっと削られる感覚とともに、魔剣はオレの手に馴染んだ。同時にシーロンの腕が肩まで一気に黒ずみ、消し炭のように細かく崩れ、ぼとり落ちた。
彼女は後ずさり膝をつき、今は無き右肩を左手で押さえオレを睨み上げていた。
「それは私のよ。返しなさい!」
耳を劈く金切り声を合図に、おかしくなっていた感覚がふっと戻ってきた。
「魔剣様は、こっちの居心地がいいだとよ。悪いが貰っとくよ」
一旦能力を解いたオレは、少女を見下ろし魔剣を肩に担ぎ、ふてぶてしい笑みをくれてやった。必要以上に挑発的な態度だということは理解していた。だが、さんざん好き勝手甚振ってくれたんだ。オレは大人げないとは思いつつも、感情を抑えることが出来なかった。
わざとらしい程悠長な動作でオウブを鞘に収めると、魔剣を左に持ち替え、ゆっくりと屈みクテシフォンを拾い上げる。そして見せつけるように掲げた。
「はっはっは! 随分物欲しげな目でチラチラ見てたんでな。心優しいお兄様としては、かわいい妹にくれてやろうと思ったんだが、残念だな。気難しい聖剣様はアンタがお気に召さないようだ。まあ、仕方がないんで返してもらうよ。そして一つ、お兄様が特別に忠告してやる」
そして両剣をだらりと下げ、構えを取る。シーロンはそれまでの悠長な悪態は鳴りを潜め、歯を噛みオレを睨みつけたまま、声を出そうとはしなかった。
「武器なんざ信用するな」
衣が擦れる音。下草が揺れる音。そして、ぎりっと歯を軋ませる音が聞こえた。
当てこすり余裕に振る舞ってはいるものの、オレはこのような結果になろうとは想像すら出来なかった。
伝説に名高い二振の剣が手元に収まっている。蒼く灯る聖剣と光を全く帯びない魔剣を交互に見遣り、恐ろしさに身震いした。
その時、不意に頭に直接響くいつもの声が聞こえた。
【フンッ! どの口が言うのですか、食わせ者】
そしてそれに追随するかのように、低い声が頭に響く。
【わいー。随分と酷んでーこと喋るんでねな、今度のマシターは。いんや、ダーリンは】
それは分かるような分からないような、聞いたこともない不思議な言葉だった……。




