episode 12 疾速
彼女はそのオレの行動の隙をついた。仕掛けてきたわけではない。
飛び退き、身を翻し、着地と同時に裏返がひしめく南に向かい、木々の間を野兎が跳ねるかのように器用に駆け抜けて行った。
当然オレも後を追う。だが彼女との距離がみるみる離される。手負いとは言えシーロンの方が幾分速い。その上、オレの行く手には裏返が殺到した。
時に斬り、時に躱す。裏返の群れと樹木の隙間から見えたシーロンは、遠くに佇みしばらくオレを睥睨していた。そしておもむろに傍にいる裏返の胸辺りに左手を伸ばし、あろうことか拳を振り抜いた。背中から吹き出すドス黒い血。オレはそれを横目に剣を振るった。
大小様々な円軌道を描く二振の剣は、各々蒼と紅の光の線を引きながら次々と裏返の屍を築き上げ、確実にシーロンの許へとオレを運んでくれている。
嫌な予感がする。先ほどのシーロンと裏返の光景を頭に浮かべ、その意味を思惟した。
辿り着いたそこには、再び余裕の笑みを浮かべ肩に戦鎌を担いだ少女と、その足元には、しおれたという言葉が適切であろう二体の裏返が横たわっていた。
一旦能力を収めたオレは、彼女に相対する。
「遅かったじゃない。待ちくたびれたわ」
見ると、先ほど負った怪我は綺麗さっぱりとなくなっていた。傷跡すら残っていない。手段はどうあれ裏返を『喰った』のであろう。嫌な予感というものは大概当たる。ヒヤリ、冷たい汗が頬を伝った。
「その足元の食いカスはアンタのか? しつけの行き届いていない淑女様だ」
「あら。そういうのは召使の仕事でなくって」
「そんなでかいカス、ぽろぽろ溢されちゃあ、さぞかし苦労しているだろうな。アンタの召使とやらは」
言い終わるやいなや、オレは再び能力を開放。シーロンへと踏み込んだ。
戦鎌が左から迫る。全く芸のない、ただ速いだけの一撃。当然予想していたオレは、難無くオウブで弾きながら一歩詰める。そしてそのまま左に飛んだ。
目の前には白く端正な顔。それが驚きに表情をひきつらせていた。皮肉なことに彼女も同時に同方向に飛んでいたのだ。オレを避けるために。
ヤマが当たった。オレは既に振りかぶっていたクテシフォンをここぞとばかりに振り下ろす。
今や無防備となった彼女の細い胴を二分してやるつもりだった。だが僅かに遅れた。いや彼女が僅かに速かった。蒼白い水晶の刃はまるで最初からそこに切り込みが入っていたかのように、彼女の左大腿をすんなりと斬り落とした。
一緒に切り落とされたドレスの裾がひらめき、流れる鮮血が赤く尾を引いた。片脚を失った彼女は派手に転がり泥に塗れそのまま倒れた。オレはとどめを刺すべく詰め寄る。
「アンタの動きは速いよ。だが、ただそれだけだ」
オレを見上げる充血した目、震え掠れた声には痛み、そして怒りが込められているように感じた。
「わ、私を……殺す気?」
「察しが良くて助かるよ」
彼女は最後の抵抗とばかりに戦鎌を投げつけた。充分な投擲など出来る体勢ではない。やけになったとしか思えない行為。気持ちの乗らない攻撃などたかが知れていた。オレは左にひょいと躱すと、今度こそ止めを刺すべく少女に近づく。
だがまたしても裏返がオレを遮った。左、右、そして上から。
思わず舌打ちしていた。だが焦ろうが怒ろうがどうしようもない。時間を与えれば彼女は再び回復するだろう。今はとにかく一瞬が惜しい。
オレは最小限の動きを思い浮かべ心を落ち着かせた。二振の聖剣の恩恵と能力に後押しされ、剣筋が冴える。
一度目を閉じ薄く開く。そして右足を一歩、首が飛び力なく倒れた。左足を一歩、眉間から血を流し痙攣した。更に右足を一歩、縦に二つに分かれ同時にどさりと落ちた。立て続けに三体の裏返を葬ったオレはシーロンに向き直った。
だが案の定、間に合わなかった。彼女は裏返の背中に拳を突き吸収していた。生命力を失い枯れ草のように萎んでゆく裏返とは対照的に、シーロンの左脚はみるみるうちに切り口から生え出てきた。完全に元に戻った白く華奢な素足を視界に収め、さすがにたじろいでしまった。
しかし、今度ばかりは少女の表情に余裕らしきものは感じられなかった。
すまし顔で目を閉じ、腰に差さる剣、なのであろう。その柄の部分を右で握り……抜いた。
細く、そして薄い。本当に薄い。真っ直ぐに伸びる片刃の剣身。その色は柄、鞘と同じ黒。だがその黒は能力を以ってしても、光の反射を一切確認できない純粋な黒であった。
見るからに鋭利な刃先。美しくもあり禍々しくもある。オレは思わず進む足を止め、一歩退いていた。
「本当はこれ、使いたくなかったのよね」
彼女は面白くなさ気に言うと一瞬にしてオレとの距離を無にした。疾い彼女だが更に疾い。能力のおかげで認識は出来たものの、反応が出来ずにいたオレの眼前に、少女は顔を突き出す。
「だって、遠慮無く命を削ってくるんだもの」
剣を握る彼女の手首の辺りが、どす黒く変色するのが見て取れた。
構わずオレはクテシフォンを一閃、横に振った。が、そこにはもうシーロンは存在していなかった。
と、次の瞬間、背中から敢えて感づかせるかのような鋭い気配を感じた。振り返ろうとするオレの左頸筋に冷たいものが、ぴたり触れる。気づくと黒く細い斬っ先が背中越しに充てがわれていた。
まだ疾く動くのか。驚いた。
「いいこと教えてあげる。これは魔剣クトゥネペタム。お兄様の持つそれと対を成す剣よ」
触れる刃から暗い感情が伝わってきた。これが魔剣。絶体絶命のこの状況よりも、この一振の剣を恐ろしく感じた。なるほど封印したくなる気持ちも分かる。
オレは今の状況を覆すため、クテシフォンに心話で告げた。潜る。いいところで引っこ抜け。と……。
意識が遠のく。が、失ってはいなかった。体の制御は全くきかない。だが何が起きているのかは認識できた。これがニースの言う能力を理解するということなのだろうか。
とにかく一瞬だった。
オレは僅かに左に傾いた。刃が肌にくい込み皮膚を斬らせる。シーロンは少し怯んだのだろう。剣身が微妙にぶれた。それに合わせ今度は右に傾き出来た小さな隙間に、オレの耳と肩を浅く斬りつけながらオウブの剣身が滑りこむ。
硬質な衝突音が耳元で鳴る。オレはそのまま右に旋回。同時に彼女の右脚をクテシフォンで払った。
その時、オレを引っ張り上げるような力がかかった。軽い頭痛と眩暈を代償に、オレは命と、そして体の自由を取り戻した。
「さすがは聖剣様だ」
【油断は禁物なのです】
オレの精神を泥沼から引き上げてくれたのはクテシフォンだった。
軽くふらつきながらシーロンを目で追う。オレから距離を空けた彼女もまた若干ふらついていた。右膝が赤く滲んでいる。
彼女は大きな瞳でオレを睨みつけ、小さな口元を動かしポツリと一言告げた。
「今、何をしたの」
答える義理はない。オレは黙り彼女の一挙一動を瞠った。彼女の傍に立つ裏返が一体、また萎む。なるほど、雛にエサやりをする親鳥よろしく自分が喰ったものを魔剣に与えるって寸法か。自分自身の代わりに。
「何をしたのよっ!」
裏返が倒れこみ下草がざわつく音と甲高い怒声が鳴り響く。と、少女がその速度を活かし一気に距離を縮めてきた。能力で認識は出来る。だが動きが追いつかない。
シーロンは間合いぎりぎりまで近づき一閃、そのまま右に飛びすさった。体を去なすも躱しきれず右肩に横一文字の切創が引かれ血が滲む。更に彼女は間髪入れずにオレの背を斬りつけ遠ざかる。そこには左肩から右脇腹にかけて真っ直ぐに皮膚が斬られていた。そしてまたしても近づき、斬り、離れる。
なおも少女は、何度も何度も何度も同じことを繰り返す。よくぞ飽きずにやら馬鹿正直に、とは思うものの、一本ずつ増えていく切創と少しずつ蓄積される痛みに焦りが募る。深い創はないもののこのままだと必ず捕まる。反撃しようにも速さが違いすぎる。捕まえなければ当たらないうえに、下手に動けばそれが隙になりかねない。成すすべがないとはこのことだ。
何回斬りつけられたのか、バカバカしくて数えるのをやめた頃、ふと攻撃が止んだ。不思議に思い彼女を見やる。
シーロンは表情を歪め、爪先をとんとん鳴らし、親指の爪を前歯でぎりぎり噛んでいた。分かりやすい不機嫌な仕草である。
「情けない姿。まるでやせ細って震える野良犬みたい。甲高い声で命乞いでもしなさいな。だけどもうダメ。あなたは私をここまでこき下ろしてくれたのだから。お兄様、蹂躙してあげるわ。そしてその聖剣、私が貰って差し上げるわよ」
言葉の真意を図る。単なる挑発なのか? 違う。焦っているのはオレだけではない。なかなか仕留められない彼女も、どうやら焦れている、そう思えた。
そして彼女の言葉は、オレに一つのしょうもない閃きを与えてくれた。
周囲を見渡し、腹を括る。と、クテシフォンの心話が届いた。
【マスターがこれほどのアホとは思ってなかったのです。思い直すのです】
死んだらな。と簡単に心話を返し、オレはシーロンから全力で遠ざかった。




