episode 2 喰余
ニースの部屋を後にし、フチクッチの住まう屋敷へと向かう。雪が解け始め泥濘が道を占める。足が取られる上に滑る。この上ない歩きにくさも相まり、足取りの重さが増した。
春が近いのだろう。風に土の匂いが乗る。だが遠く見上げる尾根はいまだ深い雪が覆っていた。よくぞあんなところを越えたものだと、我が事ながら色んな意味で感心した。そして思う。もう二度とあんな無茶してやるものかと。
カロリス山脈を吹雪の中さまよっていたオレとニースは、そこで出会ったカリュケと名告る痩身の魔術師とイオカステと名告る大柄な剣士に誘われ、帝国を構成する七公国の一つウラヌシアス公国、その辺境、ここハーシェルの村に案内された。
そしてオレ達を見つけ、ここに案内させるよう二人に命じた人物が、フチクッチなる齢三百をこえるという妖怪じみた女老魔術師であった。
その老女は、今や伝説上の人物として高名な勇者カドゥケイタ・メルクリウス一世とともに、王国の危機を幾度となく救ったのだと語った。確かにその名が王国史に刻まれていることは、オレでも知っていた。
だからと言って信じる信じないは別の話である。当然だ。最初は呆けたババアとしか思えなかった。戯言のでかいジジイは多いがババアにもこういった奴がいるんだなと、うんざりしながらも、助けてもらった手前話半分に聞いていた。
だが、老女はニースのことを知っていたし、ニースも彼女のことを知っていた。当時カドゥケイタの手に握られていたクテシフォンとも面識、と言っても片やただの武器なのでその言葉が適切かどうかは分からないが、そのようなものがあった。ニースもクテシフォンも三百年ほど、ブラマンテの魔森の洞窟奥で引きこもっていたのにも拘らずである。
後に回復したニースが言った。年を取ったが間違いない。彼女はあのフチクッチだと。クテシフォンもそれに追随したのだ。
「コートか。お前もババ様に呼ばれたのか?」
「よう野良、アンタもか。何があったか分かるか?」
「知らないよ」
背後から低く穏やかな声がした。カリュケである。艶のある黒髪、深い黒眼。逆に顔は白を通り越してやや青みがかっていた。だがその作りは悪くなく、髪を整え、着るものを新調し、貧相な無精髭をどうにかしたら、黙っていても女が寄ってくるであろう。
オレはここでもコートを名乗っていた。クーロンの悪名は帝国でもそこそこ高いと考えたからである。当初、ジムと名乗ったカイムの気持ちも少しは理解できた。はっきり言えばいろいろ面倒に思ったのである。
「何故仕官しない。引く手数多だろうに」
「興味ないよ」
「偏屈な奴め」
この男は俗に言われる野良である。
野良。どこにも仕官していない魔術師の蔑称だ。
魔術師は希少性、有用性が高く、王国、帝国共に国を挙げて人材を求めている。実際、王国で公表されている魔術師は、たったの十二人しかいない。帝国は知らん。
在野の魔術師を野良と差別し卑下することにより、官民一体となって追い込み、仕官を促す国の政策の一環なのだ。この男が野良と呼ばれているあたり、そこら辺は王国も帝国もなんら変わりはないようである。
ニースが以前、魔女と誹られたことも、この慣習が根底にあった。
国家がいかに民衆の自由を重んじているのか、ツバを吐きつけたくなるほど分かりやすい一例と言えよう。
国に仕えた魔術師は、ほぼ例外なく富と地位が約束される。だからであろう、野良は殆どいないと言ってもいい。オレもお目にかかるのは初めてのことである。
だが、この村にはこの男とフチクッチ、野良が二人もいる。異常である。何かがある。
「相変わらず桁糞悪い屋敷だな」
傾斜のきつい屋根、ただれた土壁、窓は見当たらない。比較的大きく、全体的に歪な屋敷を見上げ口元をしかめるオレを、カリュケはふっと軽く笑った。こういった仕草が妙によく似合う男である。
「入るよ」
カリュケはそのまま部屋をノックし扉を開けた。そして中へと入る。続きオレも屋敷へと一歩踏み込んだ。
そこでまず目にしたものは、イオカステの大きな背中だった。なぜ、この男も呼ばれたのか。一体何事というのだろう。
陰鬱とまではいかないものの、薄暗くあまり気分の良くない部屋の奥には、大きな大木を輪切りにしたテーブルが鎮座し、フチクッチと、その隣にスィオネと呼ばれている年端もいかない少女が座していた。
夕陽のように艶のある橙色の髪を綺麗に結い、銀の髪飾りで頭の後にまとめられている。年の頃は十四、五ほどであろうか、まだまだ幼さがその表情から滲み出ている。だが、それほど上等ではない外套を羽織ってはいるものの、言い得ない気品のようなものが感じ取れた。少女の後には、彼女の従者であろう三人の兵士が控えている。しかも、その毅然とした佇まいや、なめらかで機敏な所作から三人が三人、手練の者と思われた。
フチクッチはこの少女をどこぞの貴族の庶子と説明していた。しかしその少女に侍らすはオレの知る限り、見るからに練度の高い五人の兵士と、洗練された二人の侍女であった。これには靄のような、感じの良くない違和感を残らせた。
「早く座らぬか、若造」
急いではいなかったものの、これと言って落ち度のなかったオレに、フチクッチは何が気に入らないのか面白くなさ気に言った。これには、苦笑いを浮かべるしかなかった。面倒なババアだ。
古ぼけ歪んだ椅子を引き腰を下ろす。ささくれが大腿にチクリと刺さった。オレの気分も僅かにささくれ立つ。体重を掛ける。すると、ぎいっと小さく軋む音がした。かけた体重を一旦戻す。
なんなんだこの小さな『悪かった』の連続は。思えば朝、靴の並びが左右逆だった。ニースの部屋に向かう途中、黒猫が横切った。些細なことも、こうも続けばさすがに鬱憤が募る。
そんなオレの気分をよそに、ババアがこほんと咳を一つ払った。
「コート、帝都へ行くのじゃな」
「話が唐突過ぎてついて行けねえよ」
オレは口をへの字に曲げ挑発してやった。
「猜疑心の強い男じゃのう」
「それがオレの長所みたいなもんだ。お陰で女には苦労はしないよ」
「そうやって女神を誑かしおったのか」
だが今度はその口元が自然とへの字に曲がってしまう。
「女神の変化。ヌシは何か知っておるのか?」
「知るかよ。まあ暗い洞窟から三百年ぶりに出てきたら、待ってましたとばかりに、よってたかって虐められたんだ。そりゃあやさぐれるわな」
「はぐらかしおって。まあ良いわ。帝都に行くのなら頼まれごとをいくつか願いたいのじゃがな」
カリュケ、イオカステもこの話は知らなかったことなのだろう。ババアにじっと視線を向け、口を引き結んでいた。だが、二人とも取り敢えずは口を開く気はないらしい。
仕方ない、と言うことでもないが、オレはババアに答えた。
「内容によるよ」
「帝都の状況はさんざん話したな」
ババアの言うように、さんざん聞かされた帝都の様相は、オレの想像の遥か斜め上を悠々と滑空していた。
帝都中心に威風堂々と聳える帝城。と、偉そうに言いつつも、王国民であるオレは実物にお目にかかったことはない。せいぜい本の挿絵程度である。三百年もの間栄華を誇ったそこは、水滴がゆっくりと注がれ徐々に満たされていくように、誰にも気づかれぬまま徐々に徐々に、魔術師と魔の眷属によって幾重にも張り巡らされていた謀略の底にどっぷりと浸かってしまっていたという。そしておよそ三年前、ヤツらにとっては潮が満ちた時期なのであろう。帝国民に知られることなく帝城はあっさり占拠、皇帝とその血族の尽くが行方をくらましたのだという。
そうして帝国は静かに魔術師と魔の眷属に、実効支配されることとなってしまったということだ。
にわかに信じがたい話である。そんな反乱劇は聞いたことがない。だが、残念なことに完全に否定する理由も見当たらなかった。
信に足る人物が周囲にいないからである。だから事の真偽は、自分の目で確かめるしかないのである。
「そのことは恩に着るよ。お陰で絶望的な気分になった」
「いちいち突っかかる奴じゃな」
そしてフチクッチは鼻をふんと鳴らすいつもの仕草を取った。
「皇帝に与するものは粛清されておる。じゃが僅かながらに残った者達もおる。その者達は粛々と反抗の準備を進めているそうじゃ。その者達に会ってきて欲しいのじゃ」
「符号か何かあるのかよ」
「残念じゃが無い」
「見分けは?」
「分からぬ。残念じゃが何も分からぬのじゃ」
オレはやれやれといった表情を浮かべ、わざとらしく大きく溜め息を吐いた。その態度がお気に召さなかったのであろう。いや、そもそも端からオレを歓迎していなかったのであろう。スィオネの後に侍る兵士の一人が殺気を放つ。オレはこの男を煽るように嫌味な笑みをこしらえ視線を合わせた。
すると、男は右足を半歩前に、そして腰を軽く落とし右手で左腰に差した剣の柄に手をかけた。右斜は愚者の構え。珍しい。しかも堂に入っている。すぐさま隣のイオカステが反応し、いつでも立ち上がれるよう腰を浮かしていた。
「止めよ」
子供らしいたどたどしさと、わずかに刺さる違和感を残しつつも、命令慣れはしているのであろう、品位のある声が男を制止した。男は悔しさを滲ませながら、直立の姿勢へと戻る。それにつられイオカステも腰を下ろした。
少女はそれらを確認したのち口を開いた。吐出された言葉は、可愛らしい口許には似つかわしくない、これまた随分と偉そうな口調であった。
「無理は承知。妾はもうそなたに縋るしか無いのじゃ」
「アンタは大人を従えてるんだ。悪いがガキ扱い出来ないが、いいか?」
その時、少女の後から怒気が乗った声が張られた。
「無礼者。どなたと心得る!」
「それを今、聞こうと思っていたところだ。一体何者だよ、アンタ。人様に命がけの頼み事をするんだ。少なくともテメエの腹ぐらい割っ捌くってのが礼儀じゃないのか?」
「黙れっ!」
別の兵士が怒鳴る。カリュケとイオカステはことの成り行きを見守っているようだった。思いは同じなのかもしれない。だがどうして、いい人ぶりやがって。へなま狡いヤツらだ。
「分かった、話そう」
少女は静かにそう言うと、キッとオレを睨んだ。そして肩にかけていた薄手の外套を右手で外し、はらりと落とした。見ると左の袖が肘の辺りから、中身が存在しないかのようにだぶついていた。
室内の空気が変わる。だが、少女のこの行動が何を目的としたものか、オレにはさっぱり分からなかった。イオカステの気配が変わる。物事にあまり動じないこの大男を以ってして、驚き、そして何かを理解したのだろう。一瞬目を見開いた。カリュケはそれでも無表情と沈黙を貫いていた。
「そなた王国の者だったな。ならこの左腕の意味は分かるまい」
少女は自身の左腕を見やる。そしてすうっとその袖を捲り上げた。左腕はやはりと言うべきか肘辺りで途切れ、その先端は深い火傷跡のように皮膚が引きつり不規則な凹凸をなしていた。
少女は再びオレへと顔を上げる。
「この左腕はな、魔剣クトゥネペタムに喰われたのじゃよ。言ってみれば妾は魔剣の喰い余しみたいなものじゃ」
読んでいる人が本当にいるのか気になります……。
底辺の性でしょうね。




