episode 9 投身
【そして、後から行く、と最後に言って消えたのです】
天幕を設営し、そこにニースをうつ伏せに寝かせた。震えている。寒さのせいなのか、それとも痛みが激しいのだろうか。
切り裂かれた服を裂き傷の具合を確かめる。わずかに漂う死を連想させるすえた臭い。臭い自体は慣れている。どうということはない。だがそれでもオレは顔を顰めてしまった。
「んっ」
動かす度に小さなうめき声が漏れる。我慢強い娘だ。
顕になった白く細い骨ばった背中。こんな小さな背中であの斬撃を受け止めたのか。
その傷は深く、オレの予想を遥に上回っていた。背骨を砕き臓腑にまで達している。これでよく生きているものだ。普通なら即死だ。
「治るのか?」
何とも間の抜けた質問である。しかし気の利いた言葉は何一つ思い浮かばなかった。
「死ぬことは……ありませんよ」
オレは無言を返す。余程頼りない表情をしていたのだろう、ニースが微笑みかけた。優しくも痛ましい笑顔。そこまでしてオレに気を配る必要はないというのに。
「大丈夫ですよ……今の私なら首だけになっても生きて行けます」
それはそれで怖いんですけど……。だが「治る」の一言はニースの口から発せられることはなかったし、オレももう問い掛けることをしなかった。何となしに分かってしまったからだ。そしてその事実を、拒絶してしまったのだ。
荷物から幅広の帯を取り出しニースの体に巻きつける。帯が一周りする度に彼女の口から悲痛なかすれ声が溢れる。だからといって手を緩めるわけにはいかない。オレもニースと同じように歯を食いしばって無言で治療に没頭した。
「恥ずかしい……ものですね」
手当が終わり片付けをしているオレの背中に小さな声が届いた。ケガをしたことだろうか、または傷を見られたこと? 裸を見られたこと? それとも他の何かか。どうとでもとれた。そのため少し返答が遅れる。
「気にするな。オレが怪我したら同じようにしていただろう?」
しかしニースの反応はない。オレは懲りずに話を続けた。
「そんときゃ喜んで裸になるよ。そんで、下は脱がなくていいですよ、なんてアンタは言うんだろうな」
ですがそれでも二回のうち一回は脱いでしまいそうです……。オレが一人笑い声をあげると、彼女は無言だったものの、目を閉じたまま少し口角を上げた。この手の話、普段ならばせいぜい温度が低めの冷笑、または苦味成分多めの苦笑いが返ってくるだけだというのに。
ニースを毛布ですっぽりと覆い背負う。そしてロープで固定した。本当は背中合わせに背負子のようにして背負うつもりでいたのだが、ニースはそれを拒否した。軽い。その軽さに、ニースの存在が希薄になっているのではないか、そのうちポッと消えてしまうのではないかと不安を覚える。
オレは急ぎその場を後に、北へ向かって歩きだした。ニースのケガに気遣ったこともあるが、急いだ最大の理由は魔族の出現のおかげで周囲の瘴気がスッカラカンだったからだ。カイムがいなくなり、ニースがこうなってしまった今、魔獣が現れないうちにできるだけ先に進みたかった。
オレの肩にニースの頭がもたれかかる。すると吐息が首筋にかかる。き、気になる……。
「クテシフォン。何があったか教えてくれないか」
【先ずは煩悩を抑えてからにするのです】
だからこのタイミングで聞いたのだ。とにかく気を逸らしたい。
【そういうことなのですか。やはり、なにも覚えていないのですか?】
「断片だけポツポツ頭ん中に浮かんできたよ。洞窟の時と同じだ」
意識を失った後何が起こったのか。クテシフォンは事細かに話しだした。
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ケガを負ったニースを左腕に抱きカイムはその場を離れる。だが三体の魔族は、クーロンがその場に最初からいなかったとばかりに、脇目も振らず二人を追ってきた。
一体の魔族が何かの衝撃を受け遥か後方へ吹き飛ぶ。カイムが術を組んだのである。
「一体だけかい」
カイムが小さく歯噛みした。二体の魔族に魔術を回避されたのだ。術を組んだカイムに隙ができる。そこにその二体の魔族が同時に襲いかかった。
紅刃を魔族に向けニースを庇う。振り下ろされる二本の黒刃。躱しきれるものではない。だがそれはカイムに届くことはなく抉れた地面へと落ちた。そしてその持ち主である二体の魔族は、抵抗する間も与えられず、それぞれが二分、三分となりその活動を停止していた。聖剣と銀剣の斬先から滴り落ちる血が、雪を赤く点々と染めた。
【逃げるのです】
必死の声が届く。クテシフォンは全力でクーロンの『呪』を抑えこんでいた。だがそれでもクーロンの意識はどんどん絶望の底へと沈んでいく。
これが本当にただの人の力か? まるで自分と同様の『使徒』のような圧倒的な力、そんな錯覚を覚えた。だが『使徒』とは違う明らかに別の何かである。僅かな恐怖と大きく膨れる好奇心がカイムの両足をその場に釘付けにしていた。
クーロンの感情を失った目はカイムを一瞥した。次にニースを視界に入れる。その時、瞳の奥で何かが小さく揺らいだかのようにカイムには映った。
クーロンはそのまま踵を返し追ってきた魔族に立ちはだかる。同時に遠距離魔術が周辺を襲った。カイムは魔術を無効化する。
【今のうちに早く逃げるのです】
巻き上げられた雪により、閉ざされた視野の向こうから、甲高い声が直接脳を刺激する。あんなのからどう逃げろというのか。無茶を言う。
状況は前にもまして絶望的だった。ちっぽけなはずのたった一人の人間が、全てをひっくり返してしまったのだ。しかしカイムは不思議と高揚していた。
「ははははは。オッサン。キミはいつもボクの想像を越えてくれるねぇ。楽しくて仕方がないよ」
感情に逆らわずに大きく口を開ける。カイムは笑わずにはいられなかった。神の顕世での姿『使徒』。それを越えるかもしれない力の片鱗を見つけたのだ。それはカイムが長きに渡り探し求めているものの一つだった。
クーロンはクテシフォンを盾に上手く魔術をいなしていた。だが相対する魔族は魔術を全身で受け止めてしまっていた。うつ伏せに倒れる魔族に青白く発光する巨大な刃を吸い込ませとどめを刺す。そして何事もなかったかのように、魔術を放った最初の一体の魔族に向かい飛ぶように走っていった。
遠くで剣と剣が打ち鳴らされる音がした。しかしそれもたったの一回で終わってしまう。
「さて、ボクはどうすればいいのかな?」
カイムは心話でクテシフォンに問いかけた。
【分からないのです】
「洞窟の時はどうだったんだい?」
なおもカイムは問い続ける。クテシフォンでもわからないことは分かっていた。だが問い続けることによって何かしらのヒントがあるかもしれないと、一縷の望みを掛けたのだ。
【ニースが止めたのです】
「なるほどね」
左腕に抱くニースを見下ろす。顔を蒼白にして朦朧としている。とても相対する状態ではない。カイムは意を決しニースをそっと地面に寝かせた。
「戦うしかないだろうねぇ」
それに対するクテシフォンの返答はなかった。
近づいてくる気配。察知した瞬間、既に間が埋まっていた。速い。カイムは準備していた魔術を放つ。しかし分かっていたとばかりに余裕で躱された。躱されたと同時に紅刃がカイムの脇腹めがけて襲いくる。その軌道を遮るように同様に光る紅の刃を滑りこませた。
ガキッ。鈍い音が響く。しかしクーロンは止まらない。防がれることを前提としていたかのように、狂いのない滑らかな動きで蒼刃がカイムの頭上から振り下ろされた。予め準備していたもう一つの魔術を発動させる。カイムの頭上を覆う魔術の盾。しかし盾は簡単に無効化されてしまった。
「これが魔術砕きねぇ。厄介な技だよねぇ」
しかし、そこで間ができた。カイムは後方に飛び距離を開ける。すぐさま追いつこうと踏み出したクーロンに十六本もの魔術の矢が襲ってきた。全ての矢がクーロンの体のいたるところに襲来する。しかしクーロンは躱せる矢は躱し、躱せない矢は魔術砕きで無効化した。
「あっけないねぇ。奥の手は正直使いたくないんだけどねぇ」
クーロンの剣がカイムの右腕を切り離した。僅かに反応することしかできなかった。
「これじゃあ奥の手も使えないねぇ」
残っていたなけなしの余地が全てなくなってしまった。これで手詰まり。カイムは頭の中でそう呟いた。
万事休す。そう思い動けずにいた時、視界の片隅で何かがうごめいた。弱々しい気配。だがその気配は力強い意志を悪魔と化した男へと投げかけているようだった。
「クーロンさん……もう、終わりに、しましょう」
両手をつき、膝を立て、ニースがゆっくりと立ち上がる。青白い顔面に薄っすら笑みを浮かべ焦点の合わない目でクーロンを見つめていた。そしてフラつきながら一歩一歩クーロンに近づいていく。
再びクーロンの一つしかない瞳が揺らぐ。そして動きを止めていた。
カイムは迷っていた。確かに千載一遇の機会ではある。だがここでちょっかいをかければまた再び襲ってくるかもしれない。どうする。
【ニース! 逃げるのです】
だがその声はニースの知覚を刺激することはなかった。彼女の意識も明瞭とはほど遠い。それでも少しずつクーロンに近づいてゆく。カイムも警戒は怠らず、ゆっくり近づこうと一歩を踏み出した。しかしそのカイムの行動にクーロンが反応してしまった。
クーロンはニースとの空間を一気に詰める。そしてニースの頭上から青白い刃を突き下ろした。ニースは反応しない。クテシフォンがあわやと思ったその時、カイムが魔術の盾で受け止めていた。だがその盾も脆くも貫通してしまい、そのままカイムの胸を貫く。軌道を変えた聖剣はニースの脇を通り大地を穿った。
ニースはそのままゆっくりクーロンの胸元へと歩み寄る。そしてよろけるニースに押し倒されるように倒れて、二人共動かなくなってしまった。
【カイム、大丈夫なのですか?】
魔獣がその最期を迎えるように、徐々に霧散していくカイムにクテシフォンが声をかける。
「しばらくはムリだねぇ。オッサンに伝言を頼むよ」
【了解なのです。一言一句たりとも違わずに伝えるのです】
カイムはいつもの鷹揚な笑顔を見せた。
「帝都へ行って魔剣を手に入れてねぇ。後から行く……」
カイムは最後まで言い終えることができずに煙のように消えてしまった。
クテシフォンは不思議だった。カイムの表情からは否定的な感情は一切受けなかったからだ。いや、むしろ喜んでいるとさえ思えた。
喧騒が終わりを告げ、静寂に覆われた。クテシフォンは一人考える、これからどうすべきかと。
【形振りかまっていられないのです。魔剣でもなんでもいいのです。利用できるものは全て利用するのです。ヘリオ様、カドゥケイタ様、そしてカイム……。敵を取るのです。魔族を根絶やしにするのです】
そして意識を失い重なるように横たわるクーロンとニースに話しかける。
【今はゆっくり休むのです】
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「カイムは生きているのか?」
話を聞き終えたオレの最初の言葉はそれだった。
【分からないのです】
「アンタはどう思う」
自分でも驚くほどに冷静で静かな口調だった。
【分からないのです】
何故分からない。そう口を突きそうになった。だがその言葉をグッと飲み込んだ。
とにかく先に進もう。そして目指すは帝都。
そこに行けば何かしら答えが出るかもしれない。国を興そう。ヤーンと一緒に立派な国を創りあげよう。そしてこんな血なまぐさい世の中、もう終わりにしてやる。自分にそう言い聞かせた。
しばらくは無言で歩く。すると耳元で微かにニースの声が聞こえてきた。
「カイムさんは……あの人は最後まで何一つ投げ出しませんでした……。大丈夫、きっと大丈夫です……」
消え入りそうな声。本当のことだろうか、それとも。だがニースはその後、しばらく口を開くことはなかった。




