episode 2 魔森
〈あらすじ〉
アレンカールの町でしがない傭兵業を営む中年男性コート。コートはいつものように美人で名高いニースをあわよくば口説こうと町の庁舎を訪れていた。その時、男が一人庁舎へと駆け込んできた。彼は言う、町に滞在している貴族が森へ侵入したと。
僅かな光さえ届いてこない洞窟の奥深く、そこに少女の殻を破ったばかりの頃合いの女性が一人、何かに導かれるように歩みを進めていた。彼女は周囲の陰鬱とした雰囲気に対比するように白く光沢のあるワンピースだけを身にまとい静かにやさしい笑みを浮かべていた。
彼女はふと足を止める。その先には魔獣の群れに囲まれ、血と泥にまみれ仰向けで倒れている一人の男の姿があった。男に動く気配はないものの僅かながら生命の営みが感じ取られた。彼女は意を決し殺到してくる魔獣をかき分け男のもとへと駆け寄る。襲いくる魔獣に背中を突かれ頭をたたきつけられ肩を食いちぎられる。それでも前に進む。そして全身血だらけになりながらも彼女は魔獣の襲ってこない洞窟の奥へと男を引きずりこんだ。
「美しい……」
彼女は痛みも忘れ、うっとりとした目を男に向け、泉に滴りおちる朝露のように淡く可憐な声で呟いた。そして気付く。彼女が感じ取った小さく美しい光が今にも消えかかろうとしていることを。
彼女は迷うことなく『力』を開放し『式』を組み上げた。気の遠くなるような長い年月をかけて少しずつ少しずつ溜めてきたなけなしの『力』を、男の命を救うために使いきったのである。
翌朝、傷の癒えた男は目を覚ます。しかしそこに彼女の姿はもうなかった。
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それほど標高が高いわけでも過酷な地形というわけでもないカロリス山脈。ここがなぜ国境となっているか。それはそこに漂う瘴気の濃さにある。
瘴気とは目に見えるようなものでも臭いを発するものでもない。無色透明、無味無臭である。ただカンが鋭いと言われているごく一部の人は瘴気が漂っている場所に立ち入るとなんとなくわかるそうだ。
瘴気自体どのようなものかは未だ判明していない。しかし濃い場所では、様々な気象条件・星の位置・月の満ち欠け・昼夜など様々な影響も受けるものの、我々人間が暮らしを営んでいる世界・顕世と魔の眷属が跋扈する世界・幽世との境界が曖昧になると言われ、その効果が人間社会に大きな影を落としている。人を食らう魔獣の発生である。そして出会ってしまってこんにちは、などとゆっくり挨拶などしている暇もなく、魔獣は否応なしに襲い掛かってくるのである。
また長時間瘴気に晒されると身体的にも精神的にもかなり疲労すると言われ、さらには極端に濃い瘴気は人体に何かしらの影響を及ぼすと囁かれていた。
この濃い瘴気のおかげで大陸を縦断するカロリス山脈は人間を寄せ付けず、得てしていつの時代も国土を拡大していくと、きまって最後にたどり着く終着点となっていた。
カロリス山脈の麓、アレンカールの西に広がるブラマンテの森。通称『魔の森』略して『魔森』と呼ばれるこの森はそんなカロリス山脈でも特段瘴気が濃い場所とされ町の人に怖れられていた。
はたして『の』だけを省略する必要があるのだろうか、疑問に思うが気にしない。中途半端に略すことで、初めてここを訪れる人たちにとっては畏怖の念がちっとも感じられなくなってしまっているような気がするが考え方次第としておこう。
貴族どもが森に踏み込んだ原因はこのネーミングセンスが原因なのかも……。考え過ぎか……。
話によると森へ侵入した輩はアレンカール領主であるボレリアス卿の寄親トリスメギスティ卿が三男ヘルマエ・トリスメギスティなる人物とその側近、合わせて五名の者達だということだ。どこぞの恋の呪文よろしく、ややこしくも仰々しい名前である。家族に最低一人は立派なカエサル髭を蓄えていることが安易に想像できてしまう。
彼らは狩猟目的で三日前アレンカールを訪れた。昨日までの心地よい秋晴れの中、上々の成果をあげ、すこぶる機嫌が良かったと町では話に上っていた。そしてガイドや酒場、至る所でかなりの浪費をしていたそうだ。
ところが今朝になって状況は一転した。生憎のぐずついた天気に見舞われてしまう。そのことが原因かどうかは定かではないが収穫がパタリと止まってしまった。
苛立った彼らはガイドの注意を無視し獲物を求め森に踏み込んだ。そして音沙汰のないまま数時間が過ぎた。
以上がオレが先ほど聞いた事の顛末である。
どんよりとした寒空の下、いつもとは違う緊迫した空気が漂う庁舎のロビーで、ニースはその整った眉をひそめ、心配そうな笑顔をオレへと向ける。
クソッ! 可愛いな。
「本当に気をつけて行ってきてくださいね。もうそんなに若くないんですから、あまり無理しちゃダメですよ」
「無理なんかしないさ。五体満足揃っての物種。それに疲れたり怪我したりってのは正直あまり好きじゃないんでな」
しかしそれも一転。やれやれとでも言いたげに苦笑いにも似た笑顔へと表情が変わった。彼女にならいオレも苦笑いを一つ返す。
「気をつけて行ってきてくれ。ヤーンにもいつも苦労をかけると伝えてもらえるか」
「ああ、了解だ。それでは行ってくるよ」
いつものようにカムランから声を掛けられる。本当にいつもどおりだ。
「土産は何がいい?」
「そうですね〜」
そう嘯くオレに、彼女は指を顎に当て目だけを右上に向ける。その仕草にクラっとくる。あざとい!
「元気に笑って帰ってきて下さいね」
そしていつものように穏やかに笑う。そんなニースに小さな安心感を覚つつも、いくばくか……いや、そんなもんじゃない、それなりに心が乱される。オレは僅かに染み出す邪な心情をごまかすかのように、急ぎ庁舎を後にした。
瘴気の性質の一つに、日没後から日出前にかけ、その濃度が高くなる傾向がある。それに伴い魔獣の発生頻度も増え、また強力な魔獣も現れやすい。
庁舎から貴族が遭難したあたりまで、徒歩だとざっと四時間。日没前には到着しそうではあるが、捜索するとなると時間は圧倒的に足りない。明るいうちに帰路につきたい。
そこでオレは直接森へは行かず、急ぎ我が家でもある厩舎へと向かった。
そこまでの時間すら惜しい。相乗り馬車でもあれば便利なのだが町の真ん中で馬やら馬車やらを走らせるような裕福層はこの町にはいない。この町の住民は全員徒歩なのである。
已む無くオレは、ちんたら適当なことを考えながら、西へと走った。凹凸の少ない整備された道は、オレを軽快に運んでくれた。うっすら汗も滲み疲労を感じ始めた頃、オレを呼ぶ声が聞こえたような気がした。気のせいだろうか? オレは立ち止まり、あたりを見回す。
「だんなぁ! 片目のだんなぁ! やっと気付いたか。馬、必要なんだろ」
声の方を見る。すると、ありきたりな顔で、ありきたりな髪型の、ありきたりな服装をした中肉中背の男が馬に乗っていた。
え〜っと、誰だっけ? 覚えているような覚えていないような。
「なぜそのことを知っている。誰から聞いた? オレは庁舎から急ぎまっすぐ来たはずなんだが」
「いただろ? 一緒に」
い、いましたっけ?
「さっきまでニースと三人で楽しく話していたじゃねえか」
「あ、ああ、そう……だったかもな」
お、覚えていない……。
「急いでるんだろ? いいから乗って行きな」
そうして男は馬から飛び降り、オレに手綱を手渡した。
「悪いな……え〜と……悪いな」
オレは馬に乗りその場を後に北へと向かった。ところで、コイツ……誰だったっけ?