episode 1 辺境
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
息が苦しい。鬱蒼とした森を宛てなく彷徨っていたからだけではない。
滝のように降り注ぐ雨とは、こういうことを言うのだろう。それが口と鼻に入り込み、呼吸の邪魔をしたからだ。
雨はオレの耳に入る全ての音をかき消し、森の地面を泥水へと変えながら削った。と、同時に否応なくオレの体力と気概をも削いでいった。
空を覆う厚い雲は陽光を阻み、ただでさえ暗いこの森を夜と見紛うまでにしていた。すでに陽は沈んでいたのかもしれなかったが、オレはその判断がつかなかった。
おおよそ大人の肩から指先程度の刃渡りの諸刃の剣を『片手半剣』と呼ぶ。が、巷では『雑種剣』などと揶揄され、どちらかと言えばこの呼称が一般的だ。片手持ちでも両手持ちでも扱えるが利。だが長剣とも短剣ともつかない半端な長さは、双方の優位性をも損なう。勝手の悪さから使い手を選ぶため、欠陥品の烙印が押されていた。
どこにも属さないし、やりようによってはどうとでも使える。それが故に雑種。だがオレの両手にはそれぞれ、ほぼ同じ形状のそれが雌雄一対握られていた。オレの意志通り動き、疾り、跋扈する魔獣と呼ばれる群れを相手取っていた。
「今日はまた随分と働くじゃないかアンタら。だがあいにくの天気だ。そろそろどっかで雨宿りしないと風邪で寝込んじまうんじゃないか?」
オレは毒づいた。が、それは無意味なことだった。依然として襲い来る数多の魔獣も、否応なく篠突く雨もおさまりを見せないは当然、それどころか皮肉にも激しさを増すばかりだ。
「心配して言っているんだ。そういうのに甘えるってのも礼儀のうちなんだがな」
懲りずに嘯いてみる。
血と泥に覆われた剣身は、雨粒が当たる度に本来の銀色を覗かせる。すでに鈍り刃こぼれもあるだろうことは、手に伝う感覚で分かった。だがそれでも薙ぐ。仕留める必要はない。ヤツらの足を止めとにかく逃げる。オレの真意はそこにあった。
魔獣の肉片が泥水に次々と落ちて、煙となって消えた。しかし追い足が鈍るものの、執拗に確実にオレの許へと迫っていた。
履きつぶされたボロの革靴は、張り巡らされている木の根、それも一定の太さの箇所を常に捉えるようにしていた。濡れた木の根は確かに滑るが、泥濘に足を取られることが、それ以上に嫌だったからだ。
得物が木々や茂みに阻まれないよう、突きを主体に振りは腕をたたみ極力小さな弧を描く。それは森での戦闘を熟す上での知恵であり経験であった。慣れたものだ。
外套はとうに脱ぎ捨てていた。雨水を存分に含んでしまったため、重くしつこく纏わり付き、動きを阻んだためだった。
と、ここで図らずも魔獣の囲みから抜けた。
踵から飛沫が上がる。オレは、ここぞとばかりにひた走っていた。無意識に近かった。だがそれは絶望への逃避行だということくらいは、理解できていた。なぜなら、もうどこへ向かっているかすら、分からなくなってしまったからだ。
「ハラ …… 減ったな ……」
大木に背を預け腰を下ろしたい気持ちをぐっと耐えながら、ぼそり口から出た言葉は、この場にそぐわない何とも呑気なものであった。が、それはオレの本音でもあった。
面倒になった。何が? と問われたならこう返しただろう。全てが、と。
この大木が、戦いと己の命の終着点だろうと直感した。
なぜなら、そう考えるいくつものネタが思い浮かんだからだった。
今一度剣の握りを確かめようとしたが、しかし指が上手く動いてくれない。感覚も鈍い。よくぞ今まですっぽ抜けなかったと思う程の握力しか残されてはいなかったし、今頃になって左足首にずきりとした刺激も襲った。気づかぬうちに強く捻ったのであろう。それだけではない。体中が痛み、軋み、苦痛のない所など存在しないように思えた。そして怠かった。
それもそのはずだ。オレが剣を振り続けてから、既に半日は過ぎていたはずだからだ。
だが今更だ。愕然とすることのほどでもない。昔からこうだった。オレは事実を平常心で受け止めようと努めた。
「頃合、か。怖いもんだな ――――」
口の中で呟いた。同時に両手をだらり落とす。オレはそのまま俯き加減となり、瞼を閉じる。誰かが見ていたなら、何かの儀式でもおっぱじめたと思われただろうか。いや、気でも触れたか、と皮肉げに笑われたか憐憫の表情を向けられたであろう。
オレは隻眼を刮目させた。
周囲は数えるのも馬鹿馬鹿しく思える程の魔獣が犇めき、ざわざわと草木をざわつかせ、我先に喰らいつかんと蠢いていた。
腰を屈め、前を見据える。作り笑いをしてみせた。とびきり凶暴に、皮肉げに。そして直後、自分自身に命令する。「潜れ」と。
そう言えばむかし言われたことがある。潜った時のオレはまるで表情がなく鉛のようだったと。たぶん今もそんな顔をしているのかもしれない。
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「あの時はもうお陀仏だと思ったんだがなあ」
「あはは。無茶しすぎですよ。だからと言って、いつものように毎日毎日、ダラダラしてるのも、それはそれでどうかと思いますけどね〜」
無垢で屈託のない笑顔をオレに向けている彼女の名はニース。肩までのびるは細く光沢のある金色の髪。右はサファイアような蒼、左は翡翠ような翠を嵌めた、アンバランスだが透明度の高い澄んだ大きい瞳。白磁のような滑らかな肌。完成されていると言ってもいいあどけない美貌は、絶世と呼ぶに過言ではなかった。もっと食えよ、と言ってしまいたくなるような小柄で華奢な肢体でさえ、これはこれで魅力的だから始末に負えない。
だがそれでいて、それを鼻にかけた様子は微塵も感じられない。
それを証拠にしがない傭兵稼業でその日暮しの三十八歳独身男相手に、嫌な顔ひとつ見せず話の相手にのってくれている。まあ彼女は庁舎の受付嬢で、オレはその来訪者。仕事と言えば仕事、それまでなのだが。
十年前、五十年程続いた大戦が終結。王国と帝国との間に講和条約が結ばれた。ただ戦争終結とは言いつつも外交と言う名の新たな形での戦争の勃発にすぎないのだが、まあそれはいい。オレ達市井の者にとってはそれほど重要な話ではない。とにかく表向き命のやりとりはなくなった。その点で言えば平和になりつつあったのだ。
だがそれに伴い当然武力の必要性が大幅に減った。その割を食ったのが当時大量に雇用されていた傭兵である。正規の軍隊は平時でも国から俸給が支給される。しかし雇われ軍人である傭兵はそうではない。国のため、家族のため、はたまた食い扶持の確保のため。理由は様々ではあるが最前線で命を張った彼らは就職戦線氷河期にまで最前線に晒されることとなった。
貴族の私兵として働く者、生まれた土地で家業を継ぐ者、手に職をつけようと職人の門を叩く者、彼らはごく一部の成功者であった。うらやましい限りである、まったく。しかし多くの傭兵たちは路頭に迷うこととなった。
そこでそのような傭兵を利用してひと稼ぎしようとする者が現れた。新たな傭兵稼業。そう言うと聞こえはいいがはっきり言えば日雇いの便利屋稼業である。
この新傭兵稼業、一人の豪商が始めたと言われている。必要な時、必要な所に、必要最低限の人員を配置できる便利な仕組みは瞬く間に王国全土に広がり、さらには周辺諸国にも飛び火していった。頭の回る奴ってのはどこかにいるもんだ。
当然、国家や地方の役所、貴族や商人、はたまた魔術師等の上流階級が傭兵稼業に目をつけることとなる。土木工事や魔獣退治、キャラバン隊の護衛や魔術の素材、触媒集め。様々な場面で傭兵がこき使われた。この食い扶持確保の政策が新しい時代の傭兵、戦争を知らない第二世代の傭兵を産んだ。
彼らは一つのことに特化していた。魔獣退治、力仕事、薬草採取、物探し等々。ゆえに元々戦争屋でしかない傭兵に比べ効率的に稼ぐことができた。当然すこぶる不器用で脳筋の傭兵とインテリ傭兵の対立が起こる。荒くれ者の集団である傭兵のこと。治安の悪化は免れなかった。
オレはそんな戦争を経験した古く頭の固い傭兵の一人だ。
しかし王国の西の果て、休日のダメおやじのごとく国境に横たわるカロリス山脈の麓、公式には騎士爵であるボレリアス卿の領地ではあるのだが、交通の便がすこぶる悪く、瘴気の濃い森に囲まれているがゆえに事実上住民による自治権を確立している田舎町、ここアレンカールでオレに与えられた主な仕事は雑用、そう思ってくれればいい。
赤ん坊の世話から大工の手伝い、薬草採取に溝さらい。町で一人しかいない傭兵に、争いのない平和なこの町の住人は容赦することがない。まあ、おかげでおまんまにありつけている訳ではあるのだから、文句を言えた義理ではないが。
そういや最後に剣を抜いたのは、いつの事だったやら。
「はははは…… 平和だねえ」
「どしたんですか? 急に」
自然と出てきた、乾いた笑いと苦い顔。ニースが訝しげにオレを見る。それすら美しい。じっと見られることに耐え切れなくなったオレは、視線を彼女から逸らした。
「ところでコートさん。最近いっつもここで長居してますね。仕事ちゃんとしてます?」
「あ、ああ……。なんとかな」
『女神ニース』
神話に語られる古い神である。名づけた親は、彼女に随分と期待を込めたであろうことが伺える。
だがその女神様ですら妬んでしまいそうな容貌を持ちながら、誰とでも明るい笑顔で器量良く接する彼女に、俺も含めた男どもが黙っているはずもない。当然である。今まで求婚されること数が知れない。それどころか噂を聞きつけてこんな辺境の田舎町まで足を運ぶ貴族もいるくらいである。お妾さんにでもしようというのだろうか。
それはともかくとして、オレは居心地の悪さに話を逸らしにかかった。
「ところでアレどうした? この間熱心に誘ってた、なんて名前だったかな鍛冶屋の次男坊」
「あはは……。まあご縁がなかったということで。それよりコートさん食べるものなかったら家に来てくださいね! 腕によりをかけて待ってますから。おじさんもお酒の相手ができて喜びますし」
「鍛冶屋の次男坊にボコボコにされそうだ。怖い怖い」
年を取るに従い素直さがだんだん削られていくもんだと実感する。今もみみっちい自尊心が発動して反射的にニースの誘いを断ってしまった。まあ、いい歳したオッサンが、若い娘にまで心配されるなんてちょっと恥ずかしい。
それに、ニースの手料理を饗された暁には、恨みを買いそうな人物はすぐ思いつくだけで二十は下らない。そんなことなら、今みたいにサラリと流すのも悪手ではないはずである。
こうしていつものように庁舎の受付嬢と朝の雑談という、いい大人が取る行動としてはちょっとアレな日常業務を楽しんでいた時、いつもと少し違う出来事が起こった。
ガタンと大きな音を響かせ、不意に庁舎のドアが乱暴に開けられる。
「カムランさんは居るか? って、おっ! コートのダンナも居たか。ちょうどいい。狩りに来ていた貴族様の連中が森に入った。悪いが手を貸してくれないか」
状況を詳しく聞こうと口を開きかけたが、ただならぬ様子を感じとったのだろう、奥のドアが開きカムランが顔を出した。
「ああカムランさん。滞在中の貴族が森に入った。ヤーンたちはこれから森を探索するらしい。コートのダンナに手を貸して欲しいとのことなんだが」
「コート、そういうことらしいけど危険だが行ってくれるかな。相手は貴族だ。下手なことを起こして欲しくはないからね」
カムランはいつもの口調を崩さず、オレに話を持ちかける。オレは横目でニースをちらりと見た。その笑顔は少し曇っているように見える。アホ貴族とは言え昨晩まで毎晩酒を酌み交わした仲なのだ。無理やり付き合わされたにしても心配と見える。優しい娘だ。
彼女をいつもの笑顔に戻してあげたい。年甲斐もない思いにオレは再び苦笑いを浮かべてしまった。
「カムラン、アンタの頼みは無碍にできんからな。了解だ。どこの森に入ったのか教えてくれ」
「ブラマンテの森。魔森だ。街道沿いの入り口付近から入ったらしい」
「はははっ。酒代を稼ぐにも命がけだなこれは。だがしばらくは贅沢できそうだ」
オレは心にもないことを言って戯けてみせた。しかし、その命がけという言葉が、冗談では済まなくなるということを、この時のオレは知らずにいた。
とても残念なことに、贅沢できそう、こっちの方は冗談で済んでしまうのだが……。