episode 3 果実
その光景は昨夜オレの予期していたもの、そしてオレの願ったものと、同一の方向性を持っていた。しかしである。それでもそれは、オレの予想など遥か彼方に置いてけぼりにしてくれた。
「クーロンさん、どうかしました? 私の顔に何かついています?」
オレは不覚にもいつしか眠っていた。そして、ニースのただならぬ気配で目覚めた。太陽はとうに昇り、穏やかな海を燦々と照らす。それが海面に跳ね返り、一つしかないオレの瞳を遠慮無く照射していた。オレは今のニースの変わり果てた姿を目に収め、眩しさに目を細めるどころか瞬きすら拒絶していた。
どうかしているのはアンタだろ。すっとぼけたことを。喉頭を介し咽頭を潜り抜け、口から出かかった寝起きの第一声をゴクリと飲み込み、再び辿った道へと戻すことに成功した。危うかった。ギリギリだった。そして代わりの言葉を何とか声にして捻り出せた。今、自分で自分を褒めて遣わしたい。
「い、いや……何も……」
確かに顔には何もついていない。そう、顔には……。だから嘘ではない。だが違う場所に二つの「たわわ」という単語が控え目に思えるほど立派な果実が、完熟も完熟に実り「どうだ! コレでもかまだグダグダ抜かすかっ!」と言わんばかりに、純白のワンピースに覆われつつも「出してくれー! ここから出してくれー!」と囚人が無実の罪を訴えているがごとく、激しく自己主張していた。隠そうと意図しているのだろう、それはほっそりとした両腕の奥に控えている。いや、控えてはいない。溢れている。零れている。はみ出している。その弾力に両の肱が埋もれている。そこに視線が吸い込まれ離れてくれない。
それを言葉にするとなんだろうか。そう、それは違和感って言うんだろう。オレは遠い空……ではなくニース腕の奥を凝視しながら、そんなことを考えていた。
「あまりジロジロ見ないで下さい。恥ずかしい……」
と、ニースは視線をオレに向けたまま俯く。言葉通り恥ずかしげに、そしてなぜか嬉しそうに。瞳は潤み、耳は朱に染まっていた。
オレは無意識に首を振っていた。違う、断じて違うんだ。たしかにオレはアンタから目が離せない。それは認めよう。だがなぁニース、勘違いしないでくれ。オレはアンタが思っているような視線を向けているわけではないんだ。そう心で訴える。しかしそれを口にしては憚れる大いなる力が存在した。魔神、聖剣。ヤツらのようになるのは御免だった。
そんなオレの心中を知ってか知らずか、しゃなりしゃなりと腰を動かし始めた。当然、一ヶ所、否、二ヶ所、たぷんたぷん揺れる。オレはそれが何か別の生命体に見えた。
「いや、なんと言うかそんなんで女の価値が決まるってもんじゃないからな。アンタは……充分……」
出なくていい言葉はガンガン押し寄せてくるくせに、出掛かった言葉が出てこない。だが、言いたいことは伝わったようだ。ニースは俯き加減で小さな声を出した。
「そんなふうに……。胸が張り裂けそうです」
だから、そんなに……。っていうようなツッコミ待ちなのだろうかと下卑た考えが頭を占める。だが自然と生まれた馬鹿げた思考を、無理矢理頭の隅に追いやった。追いやったはずだった。だがひょっこりと顔をちらつかせる。その気持ちを再度追いやる。だがひょこっ。
それを何度繰り返しただろうか。ニースはそんなオレの気苦労も知らず、たゆんとした二つの……もとい、キョトンとした二つの目を向けていた。
またしても言葉を飲んだ。まだ朝だというのに、本日何回こうしたかもう分からない。このまま飲み続けると、満腹になってしまうのではないかと錯覚してしまう。いくら言葉を飲もうとも、そうはならないと言うのに。
ニースは足元の砂浜に目を向ける。そこには波に打ち寄せられたのであろう巻き貝のカラが転がっていた。まさか……。刹那に過る。まさかだった。ニースは腰をかがめ貝殻に手を伸ばした。その時、己の目を疑った。重力に引かれ瓜のように垂れ下がった物体が先に地面に到達しやがった。
ニースはそこで手を一旦止め、オレを見上げた。視線が交差する。彼女の頬に血が集まる。その瞬間、目を左下へと逸らした。拙さは残るものの誘う素振りだった。紛うことなき絶賛勘違い中の仕草だった。だがオレの脳髄は彼女の意図を汲み上げることをモーレツに拒否した。それを人の体の一部と認識してはいないようだった。逆に警鐘を鳴らしている。ある種の興奮状態には陥ることなく、竦み上がっている。お陰でオレはどうもその気にはなれず、だからと言ってどうしていいかも分からず、全身を主君の傍で控える近衛兵のように固く直立姿勢を維持した。あくまでも全身だ。
垂れた髪をふわりとかき上げる。予想だにしない動きにオレは反射的に右手で左の腰の辺りを弄った。当然そこに得物はない。何もないから拳をぐっと握るしかない。手にぐっしょりと汗をかいていたことを、その時初めて認識した。
髪はいい。それじゃない方の垂れたものを何とかしてくれ。恐怖に煽られながらも、心は必死に嘆願していた。
オレの気持ちをよそに、ニースは貝殻を耳に当てる。海に来た恋人同士が、波打ち際を走った後によくやるアレだ。いや、実際はそんなことするやつなんかいてたまるかってアレだ。
「波の音が聞こえますよ」
と、うっとり目を閉じ聞き入っていた。ああニース、それはオレも聞こえている。ついでに磯の香りもプンプンするし、塩っ辛い湿った風も肌に纏わり付く。なぜならここは、そういう場所だからだ。そんなことより三百年間洞窟に引きこもっていたクセに、どこで覚えたんだその仕草、と突っ込みたくなる。が、ふと気づく。それは些事。それよりも問題は、今にも襲いかかってきそうなその異形であることに。
確かにだ。無いものを無遠慮に視界に収め、あまつさえ遠回しに苦言を呈し、別に自分が悪いわけでもないのに改善させた。いや、改悪させた。そもそも崇めるべき存在の神に対し不遜とも取れる態度を取っている。だがそれでもこの状況、オレは……決して……悪くは……ないっ! 心の中で叫んだ。何度も、何度も…………。
「クーロンさん。今日も、いい天気ですよ」
曖昧な返事を返す。
あの日のニースはもういない。板とも壁とも「どっちが背中?」とも呼ぶにふさわしい、いつもの、自然の、昔から知っているニースだ。
彼女は窓に腰掛け、む……こう脛を交互に揺らし、梳ったような黄金色の髪と白のワンピースの裾を靡かせながら、蒼碧の双眸を空に向け半ば呆けていた。だが、それでいいのだと思う。それも魅力だと、今はそう……、そこまでは思えない、サスガに。
カイム達は無事だった。聖剣、魔剣を引き連れ、今は揃ってどこかへ旅立ってしまった。と言うか、カイムに連れて行かれた形だ。
オレ達は出会った町で静かに暮らしている。町で一人の傭兵稼業。辺境が故に戦乱を知らず平和を当然のように享受しているここの住民は、遠慮無くオレをこき使う。体のいい便利屋だ。贅沢とは言えない。不満がないわけでもない。小さないざこざもあるし、ニースはどうもこの町の人々に受け入れてもらっていない。だが、ここにはオレ達が渇望していた平穏があった。在り来りな人の営みがあった。
永遠ならざることは分かっていた。もうすぐ世が乱れることを知っていた。オレ達の要請を受け、ついに帝国が重い腰を上げたのだ。呼応しないわけにはいかない。
多くの屍を踏み台にしてきたオレに、本来安寧など贅沢が過ぎることかもしれない。
だから今は、甘かろうが苦かろうが、この生活を存分に味わう。
軋むドア。歪んだ床。薄汚れた壁。小さなテーブルと椅子とベッドが一つずつ。窓も一つ。どれ一つとして上等なものなど、ここにはない。夜に灯す明かりすらない。どこからともなく隙間風が吹き込む厩舎の二階。いや、だいたい目星は付いている。が、そんなことはどうでもいい。小さく区切られた物置のような粗末な空間が、女神様とそれに付き従うしがない中年傭兵の護るべき城だ。二人で護る。偉くも立派でもない。到底言えない。
それでも、目の前の女神様は「幸せ」と微笑んでくれる。本当にありがたい。
暖かな日の光が差し込む。ニースのほっそりとした背中を見詰めた。今にも振り返りそうだ。
穏やかな時の流れに身を任せる。今日は何もしない。そう決めたオレは、棚からとっておきの酒瓶を取り直接口をつける。とっておきだが安酒だ。
何でも無い一日にする。腹が減れば、まんぷく亭のオバチャンのたるんだ腹でも見に行けばいい。暗くなれば、椅子にもたれたまま眠ってしまえばいい。こうしていると満たされていくのを実感する。潤いを実感する。この心の有り様を、なんと呼べばいいのだろう。そして、どういう言葉にして彼女に伝えれば……いいのだろう。
あの日以来だろうか。「胸いっぱい」という比喩は、決して使いたくないオレだった。
お読み頂きありがとうございます!
いよいよ完結まで、残すところあと一話となりました〜。もうほんの少しお付き合い下さると、ありがたいです。




