episode 1 何故
「海……だな……」
「海だねぇ……」
【海なのです……】
【海だばな……】
一人と一柱と二振の声が、寄せては引き、引いては寄せる波のささやきに、静かに、そして滑らかに溶けて消えた。
ハーシェスの村を後にしたオレ達は、当初の予定通り一路帝都へと向かった。だが、その道のりは平坦なものとは言えなかった。神々との戦いで、必要とされていた書類が全て消し飛んでしまったからだった。どちらも偽造したものではあるが、身分を明かすための腕章、関所を通過するための手形。そして貨幣、地図。更には仮にも帝都に辿り着いたとしても、そこで手詰まりに思えた。なぜなら、王国第三王子カドゥケイタ・メルクリウス二世の密書までもが、きれいサッパリ消失してしまったのである。
一度、要塞に戻ろうとも考えた。だが再びカロリス山脈を越え、そしてまた戻る。現実的な方法とはとても思えなかった。
「とにかく行ってみたらどうだい? 案外何とかなるかもよ」
とはカイムの言葉だった。確かに先に進めなくなれば、その時点で戻ればいい。オレ達が取りうる選択肢で、おそらくそれが一番合理的なものと思えた。
罪は極力犯さなかった。別に綺麗事に拘ったわけではない。国と国との交渉事である。なまじミソをつけることに依る面倒事を、避けたのである。
道なき道を踏破し、魔獣の跋扈する森を突っ切ったこともあった。カイムの封印が解かれ世界の歪みが解消されても、瘴気は漂い魔獣は現れた。曰く、歪みがなくなったところで急に元通りになるわけではないとのこと。幽界は、時間をかけてゆっくりと消えてゆくのだそうな。
逆境の中で、それでも追い風とも言える事柄もあった。魔剣クトゥネペタムの存在である。これが免罪符の役割となっる場面が幾度となくあった。また、永らく失われた魔剣を帝都に戻す、なんてでっち上げ大義名分らしきものも得たし、オレが魔剣を抜くことで、その役割を担うことが黙認されたりもした。帝国では魔剣は不吉なものとされ、忌み嫌われていたからである。体のいい運び屋に、向こうも胸をなでおろしたことだろう。
それでも頭の固い役人もいた。いや、役人とは本来そうでなくてはならないのだ。「それは本物か?」とよく尋ねられた。全く光を反射しない剥き身の剣身を見せつけるとその異様な雰囲気にたじろぎ、それで済むことも多かったが、そうもいかないこともあった。そういう時は魔剣の柄を相手に向け、こう言うことにしていた。
「握ってみればいい。アンタが喰われちまったら、ホンモンだ」
ここは退いてくれ、と切に願いながら。
ここまで来ると大抵のヤツは、この子供じみた挑発に乗った。責任感から行動したヤツもいた。逆上し顔を真っ赤にしたヤツもいた。青ざめ恐る恐るってヤツもいた。だが、どんなヤツであってもこれだけは例外ではなかった。魔剣に喰われたのである。そして全身への侵食を防ぐため、已む無くオレが腕を落とす羽目となった。その惨劇をカイムは鷹揚な笑顔で、ニースは「あちゃー」って顔をして見ていた。この時改めて、こいつら人間じゃねぇと思った。クテシフォンは【愚かなのです】と見下す。怖かったのは当の本人、と言うか本剣、魔剣クトゥネペタムである。
【喰へろ。喰へろ。喰へろ。……】
と、延々と呟いていた。これにはゾッとした。
帝都に着くと、ことは意外なほどすんなり進んだ。
都を取り囲む高く厚い城壁は、かつての戦乱の名残を思わせた。四方を取り囲む巨大な門には絶えず兵士が詰めていたが、魔剣を見せ事情を説明すると思いの外あっさり通ることが出来た。そしてご丁寧にも、城まで案内してくれる始末だ。異常とも言える配慮に罠かとも思ったが、そうなればその時、それにオレたちを罠に嵌める理由も見当がつかなかった。まあ客として扱われる筋合いもなかったわけだが。
「やあ、こんなところで会うとは奇遇だな。片目のダンナ」
皇帝カリスティス・ジュピトリウスは生きていた。地下に幽閉されていたところを、目の前のこの男に助けられたのだという。警護は抜かりがなかったと思われるが、剣を扱うようにも魔術師とも思えないこの男が一体どうやって……。服装からして身分の高さを窺わせるが、その男は何故か気さくに話しかけてきた。更にはオレを知っているかのような話しっぷりだ。ニースとも旧知の仲のように振る舞う。はて? と思慮にふけり、男の姿をまじまじと観察する。在り来りな髪型に、在り来りな顔つき。中肉中背という言葉を表したような体型に、まったくもって特徴のない言葉遣いだった。うむむ、思い出せん。話によると、男はどうやらスィオネの従者の一人だったようで、王国への潜伏の任を仰せつかっていたらしい。ひょっとしたら、どこかですれ違っていたのかもしれん。
皇帝に謁見できたのは、数日が過ぎての事だった。
オレはここまでの道のりとオレ達の事情を、包み隠さず洗いざらい話すことにした。王国のこと。オレ達が何をしようとしているかということ。ハーシェスの村でのこと。フチクッチのこと。シーロンと魔術師のこと。魔族のこと。使徒との決戦と、女神と魔神のこと。そしてスィオネのこと。彼女の名前を出すと、皇帝はそれまで滑らかだった口を、少し閉ざした。おそらく彼女は生きてはいまい。最期は安らかだったことを願うばかり、そうオレは話を締めた。
これからのことは交渉次第だが、王国西側地域の独立に関しては帝国は干渉しない、との約定を取り付けた。互いに話し合うためのテーブルが設置されたと見ていいだろう。とりあえずは上々の滑り出しに思えた。
そして今、帝都を後にしたオレ達は、これから王国の行く末が、そしてオレ達の命運のかかった一通の書状を携え、一路アントニアディ要塞へと向かっていた。筈だった。
ジリジリとした日差しが皮膚を鋭く刺すわけでもなく、かと言って吹く風がじんじん骨身に沁み渡るわけでもない。何かを記念する日でも、特別な思い入れがある日でもない。当然歴史に残る一ページでもない。そんな晴れてるとも曇っているとも言えない、当然雨でも雪でもない、別段これといって何でもない日のこと。オレが何の気無しにニースに尋ねた一言、それが、あろうことか世界を揺るがしかねない悲劇の鐘を鳴らすことになろうとは、この時は誰も、そう全知全能を謳う神とて予想もしていなかったろう……。
「なあニース。『式』を使ってあっという間に要塞へ行ったり出来ないものなのか?」
きっかけはその一言だったように思う。オレの前を歩くニースの背中がビクッと跳ねた。そして何事もなかったかのように、再び、そのまま、すたすたと歩き出す。聞こえていなかったのだろうかと思い、もう一度声を掛けた。
「『式』でヤーンの元に行けないものなのか?」
今度は何の反応もなかった。不自然なほどまっすぐ見据え、やおらに、平然と、軽快に、規則正しく靴の音を鳴らしていた。その所作にオレは確信に極めて近いであろう答えを見出した。たぶん……聞こえている、と。
「造作もなってことはないけどねぇ」
答えたのはカイムだった。間髪入れずに『式』を組み始める。『力』の発動が、意識の集中が感じられる。それを敏感に察知したオレの臓腑が震えだす。力が流れ、空間が歪みはじめた。
「わたしがやります」
ニースはカイムに正対し、両手を包み込むように握り行動を制した。オレは、そしてカイムも呆気にとられていた。場に充たされた力がふわっと消える。
「わたしがやります」
力強い眼差しと、違和感の残る行動に、オレ達二人は沈黙を余儀なくされる。
「わたしがやります」
三回目だ。何故? と湧き上がる疑問は、オレの本能がニースの表情を視界に入れ、危険と判断したのだろう。抑えこむことに決定したようだった。
「わたしがやります」
二人共、無言で、無表情で、こくんと頷いた。
で、この有り様である。
「ぐ、ぐああああ……」
カイムのいつものおおらかさは露と消えた。決して変わることのないと思われた鷹揚な笑顔は、今、ひくひくと糸で小刻みに引っぱられているかのように口角を震わせている。直後、断末魔の叫びが聞こえた。その矢先、絶叫がブツッと途切れた。カイムは世界の狭間に飲み込まれていった。
「カイムさ〜ん、どこ行ったんですか〜」
白々しい。不純物のない、純度の高い、まさに純白と思えるほどの白々しさだった。力の発動をニースから感じた。
彼女はくるり振り返る。両手を後ろで組み、首を傾げている。
「どうしていなくなったんですかね〜」
と、小さく可憐な花が咲くような控えめな笑顔を向けられた。オレは戦慄が走った。背筋がざわついた。目を逸らせば殺られると思った。まるで殺気を感じない、それが一番怖かった。
事の発端は、こういうものだった。
「どうして海なんかに……」
オレは疑問を口にする。と、すかさずニースが答える。
「な、なんででしょうね〜。失敗しちゃいましたかね〜」
ここでしれーっとしていれば何も問題はなかったのだ。怪訝な笑顔を浮かべたカイムが正義感に駆られたのか、はたまた自分の知識をお披露目したかったのかは分からない。ただここで不用意に口を滑らせたことこそが、彼、そして世界の運命を決定づけた、と言えよう。
「間違ったからって海に来ることなんて、確率で言ったらそれこそゼロに等しいもんなんだよねぇ」
「どういうことだ?」
「今使った『式』は転移。空間に干渉するってことは『根源』に近いからね、そう簡単ではないんだけどちょっとしたコツがあるんだよ。転移させる座標にボク達と同一の情報を配置する。逆に元いた場所には転移先の情報を配置するんだ。そして交換する」
「よく分からんが、だからって間違えることもあるんじゃないか?」
「座標と言うのはねぇ、この『世界』全体の座標なんだ。いわゆる絶対座標。ボク達は『星』と言う巨大な球体の上で生活しているんだけどねぇ、それは絶えず太陽の周りを回っているのさ」
「ああ、そこまでは知っている」
「その太陽も『黒体』と呼ばれる大きな『星』の周りを回っている。とてつもない速さで、何億年もかけてねぇ。その『黒体』だって止まっているわけではないんだよ。常に『世界』の流れに沿って動いている」
「何が言いたい?」
「つまりね、仮に失敗したとしたら大体は星々が漂う『真空』に放り出されてしまう…… ぐ、ぐああああ……」
最後に見たカイムの赤い双瞳は「何故? 何故?」 そう訴えているようだった。




