episode 21 女神
『式』を組んでいるのはわかる。だが何のために。未だ黙したカイムを一瞥し、オレはペッと唾を吐き捨てボヤく。
「クソッ。どんだけ居やがるんだ」
「百五体、のはずです」
致命傷と思しき斬撃を食らいながらも、蠢き呻き声を上げる使徒どもを乱暴に踏みつけながら、声の主であり、数歩先でオレを見詰めるニースの元へと闊歩した。陥没した地面に血液が染み込み泥濘となる。足が取られ歩きにくい。そのため使徒の体を踏み台にしたのだ。それと、返り血に浸りたくはない思惑もあったにはあった。
「場を支配したとか何とか言ったな。この状態をいつまで維持できる?」
「いつまででも大丈夫です」
「いつまででもって、この先ずっとか?」
「はい。ずっとです」
と、ニースはオレを見上げ笑っていた。ここ数ヶ月の淋しげとも儚げとも違う。町の庁舎で働いていた頃に見せていた、まるで屈託のない笑顔だった。だがその笑顔は、オレの胸にちくりと刺さった。
「何をへらへらと。分かっているのか? 笑っていられる場合じゃないだろ。またアンタはこの世界に縛られ続けることになるんじゃねえか。これじゃあ元の木阿弥だろ」
「難しいことを言いますね」
胸の痛みを誤魔化すためのふてぶてしい物言いに、彼女は静かに答える。だがその言葉の真意はいまいち理解できず、オレは「はあ?」と嫌味臭く凄んでみせた。ニースはそれでも喜色ばって首を横に軽く傾げる。そして落ち着き払い言葉を続けた。
「あなたがこうして無事で帰ってきたんです。笑わずにいられません」
なんて顔をしやがる、と口をつきそうになった。ニースの浮かべる満面の笑顔に、憂いのない佇まいに、小さな仕草に引きこまれそうになってしまった。オレはそっぽを向き、舌打ちを一つ鳴らす。せめてもの抵抗を試みたのだ。声を荒らげてしまったのも、それが故のことだった。
「ずっとこうしているつもりか。『式』も『力』も使えない。また今までみたいに逃げて隠れて、ひっそりと生きていくつもりなのか?」
だがそれでもニースは態度を崩すことはない。心に波ひとつ打つ様子はない。オレをじっと見据え大事そうに言葉を綴ってゆく。
「そのようなつもりはないです。今はあなたがいますから。あなたが私を護ってくれます」
横目で彼女を見遣る。強い。一念を込めた本当に強い眼差しが穿ってくる。オレは正直、怯んでしまった。
「だが、相手が相手だ。さすがに分が悪いよ」
「そんなことは些細なことです。あなたはどのようなものにも負けません。決して」
深い。本当に深い慈しみの笑顔を、そんなオレに向けてきた。心の底から信頼してくれているのか? 悪いが、それは買いかぶりと言うもんだ。確かにまともに戦えるだけの力は備わった。だが四六時中、しかも相手は使徒。護り切ることなんて到底出来るわけがない。それにオレは、ただの人間である。夜は寝るしクソもする。人間であることに抗えない。必ず隙が生まれる。それにオレは間違いなくアンタより先に逝く。それからはどうする?
そのことを言おうとしたが彼女の声が僅かに早く、オレは開きかけた口を噤んだ。
「それに大丈夫です。カイムさんが上手くやってくれるでしょうから」
と、カイムの背中に顔を向けた。大きな安堵とそして、少し滅入った。無理だと言ったものの、それでも何としてもニースを護らなければ。胸に秘めつつあったそのような決意が、はぐらかされたからだった。
嫉妬を抱えながら、オレは動きの悪い使徒を選びそれを足場に四歩、五歩と跳ねるようにカイムの許へと近づいた。特に何かをしようとするつもりではなかった。何をしているのか、そんな少しの疑問と少しの蟠りが足を向かわせた。
その時だった。ニースは素早く振り返り、その視線を未だ主神が横たわっている後方へと向けた。気配を察知したオレも、透かさず彼女の視線を追う。そこには、ぬるりとした真っ赤な塊が、ほうき星のように飛沫を引きながら高速でニースに近づいていた。気を抜いたつもりはなかった。気配が感じられないのだ。いや、感じられないとは少し違う。辺りに漂うたくさんの使徒の気配に、上手く溶け込んでいた。迂闊だった。
深層に潜るにはタメがいる。今、オレが最速で対処できるであろう波紋も間に合いそうにない。薄刃もしかり。思考だけが空回りしたようにどんどん速度を上げているが、反面体が追いつかない。動きが追いつかない。何もできないオレをよそに、そのくすんだ深紅の物体から鈍器のようなものがせり出し、ニースの頭頂めがけ振り下ろさんとしていた。
避けろ、ニース! と叫ぼうとしたが、口はゆっくりとしか動かず、声は咽に留まったままだ。思考だけが加速された世界、当然動きは緩慢に感じる。じれったい。なのに、考えることだけはいくらでも出来た。
甘かったのだ。護ると誓ったが、早くもこれだ。オレ身の丈には全然合っていない事だったと改めて認識した。どうしようもない真実が、オレの胸を穿つ。
ゆっくり振り下ろされるさまを、まじまじと見る。今のオレにはそれしかなかった。目を閉じるどころか、眼球を動かし視線を逸らすことすら出来ない。当然そのつもりなんて無いが、自分の無力さを実感させられた。
あわや。そう思った刹那、紫の物体が視界に割り込んだ。それはニースに襲いかかる寸前で、赤い物体と衝突、弾き飛ばした。物体を覆っていた赤い液体が八方に飛散する。それを薄刃が追った。咄嗟に進行方向に展開された波紋が、二つの物体を受け止める。そして二本の薄刃は双方とも赤い物体に突き刺さった。
「や、やられたのか。真なる王、真なる神である余が、やられたのか」
物体の赤は血が纏わりついていたからだった。それが弾き飛ばされ姿が顕になった。先端だけをくるりと巻いた金色の髪に戴くは黄金の冠。偉そうなカイザル髭を蓄え、精緻な刺繍が施された金色のマントの裏地は、鮮やかな赤に染まっていた。王族のようにも見えたそれは、一本脚の使徒だった。鳳声はすっかり色あせ低く掠れ、先ほどまでの尊大さは鳴りを潜めていた。そしてもう一つ、その一本脚の使徒と衝突した物体は、数多の使徒の一体だった。なぜニースを助けたのか。その疑問は、この使徒が口を開いた瞬間勢い良く吹っ飛んだ。
「ふふふ。ざまあ無いわね、エクバタナ」
「貴様あああ! 許さぬぞーーーぉ!」
胸を貫く薄刃はそのままに上げるエクバタナの怨嗟の怒声と、かき消された皮肉げな声。乱れた紫の髪に、定まらない紫の瞳。骨ばったゴツイ顔は色を失い、分厚く大きな唇が不自然なほど赤々としていた。見覚えはない。だが弱々しくはなっていたが、そのよく通る低い声には覚えがあった。あまり気持ちのいい声とは言えなかった。散々オレを弄んでくれた、女口調の男のものだったからだ。
「シャクラと言ったか。本当はこんな薄気味悪い姿だったとはな。なあ、どうしてこんなことをした」
「言ったでしょ、アナタが好きだって。それに私がカイムの器を欲した理由は、この世界を護るため。あんなヤツらに好き勝手させたくなかったのよ。それに……」
「それに?」
「不本意だったけど、あの子を甚振ってしまったのは事実だし、せめてもの罪滅しってとこかしらね」
強ばっていた肩の力を抜き、シャクラの虚ろで今にも閉じてしまいそうな紫の瞳を見下ろした。何かを言おうと試みたが、自分のしでかしたことに言葉を詰まらせてしまった。シャクラは黙るオレに、ふっと小さく、優しく笑いかけた。
「分かったら、それ、抜いてくれないかしら」
様相に反する穏やかな声音だった。男の胸には黒の刃が根本まで刺さっていた。使徒と判断した瞬間、有無を言わさず魔剣を突いたのである。オレは男の言う通り、すっと魔剣を抜いた。だが侵食は既に始まっていた。証拠に男の胸は穿たれた穴を中心に黒く染まり、それがみるみる広がっていた。
「ありがとう。神に抗う力をと考えて人に術を授けた。まあ、あまり期待はしていなかったけど。でも人はアナタを作り上げた。抗う力を手に入れた。凄かったわアナタ。この世界を、お願いね」
首だけになるまで、あっという間だった。魔剣は使徒をも喰らう。おそらくは『力』を失った所以であろう、そう思いながら黒い刃に一瞬目を向けた。最後にそう言葉を残したシャクラは、変色しぼろぼろと崩れ黒いドロの塊のようになってしまった。シャクラの本意は分かろうはずもない。ただヤツも長いことここで暮らしてきたはずである。国を裏で操り、魔術師や魔族を配下に置き、己の都合のいいように世界を動かしてきた。褒められたもんじゃない。だがヤツも必死だったのだろう。最後の言葉から、そんな思いが伝わった。
「主神の体の中に隠れていたとはねぇ。お陰で気づかなかった。サスガだよ、エクバタナ。サスガだけど胸糞が悪くなるねぇ」
やることってのに片が付いたのだろうか、背中越しの声に振り返ると、そこには皮肉の混じった笑顔を浮かべたカイムが歩いていた。わざとらしい程にゆっくりとした歩み。仰向けに藻掻き苦しむエクバタナの傍らで、ひたと足を止めた。笑顔が消える。見下ろす視線は厳しいものだった。
「キミ達がニースに封じ込められている隙に『楽園』は返してもらうことになったから、よろしくねぇ」
「どう言うことだ」
「言葉のとおりさ。ニースが場を支配してくれたお陰で、主神から貰い受けることができたんだ。今、キミ達が解放されても、ボクの許可がなければ『楽園』は通過できない。使徒にはなれないし、当然ここには来られない。何なら試してみるかい?」
ニースの言う「何とかしてくれる」ってのはこういうことだったのだろう。カイムの言葉が終わった途端、不意にニースから放出される『力』の奔流が消え失せた。同時に使徒の気配も消え去る。場の支配を解いたのだろう。残ったものは、躯となり果てた幾つもの『器』と、エクバタナと呼ばれる使徒一体だけだった。そして、ヤツらはこの世界に戻ってくる様子はなかった。シャクラも自分の『世界』に帰ったに違いない。
エクバタナは悔しさ顕に、ぎりぎりと歯を食いしばり、ふるふると体を震わしていた。オレ達三人は少しの間黙ってその様子を見下ろした。ニースとカイムがどう思いそうしていたかは分からない。蔑ろにされこの世界に閉じ込められ生きるために足掻いた三千年、それぞれ思うところがあるのかもしれない。オレが何もしなかったのは、ただこの二人に倣っただけのことだった。
この沈黙の堰を切ったのは、やはりエクバタナだった。多くの使徒を従えていた神は、倒れたまま顎を上げ見下ろすようにニースを見上げた。
「ニース、お主の使命を果たす時が来た。カイムとそこの人間を葬るのじゃ。早く、早く」
ニースは俯き、目を閉じたまま首を横に振る。
「あなた方はただこの『世界』が欲しくて、私を焚き付けたのでしょう? なんの非もないカイムさんを私に封印させてまで…… いまさら使命なんて、虫が良すぎます」
そして目を開く。可愛らしくも秀麗な顔は、既にキッと引き締められていた。
「それにあなた方は、この人を傷つけ、蔑み、あまつさえ命まで奪いました。私はもう、あなた方を許せそうにありません」
「ならばカイムお主じゃ。余は寛大だ。今一度、お主の罪を洗い流す機会を授けてやる。そして復讐の機会をも与えてやる。ニースとニースに幻惑されたその虫けらを消し去れい。それが条件じゃ」
返答はなかった。カイムは峻険さを維持したまま黙していた。野良犬が威嚇するような唸り声がエクバタナから漏れる。
「そこの人間、なんでも願いを叶えてやろうぞ。そうだ。貴様を使徒にしてやろう。永遠の命と大いなる力を手に入れられるぞ。何をすればよいか分かっておろう。そこの堕落した神共を粛清するのじゃ」
「はははは。なんとも慈悲深い神様だな。だがオレは今までカミサマに願ったことも望んだこともないんでな、急にそんなこと言われても何も思い浮かばねえよ。それにそんなモン、ありがたくもねえ」
そう言い、ニースとカイムに視線を向けた。二人はほぼ同時に黙ったまま首肯する。
「世界を手に入れられるぞ。人間は皆、お前にひれ伏す。永遠にだ。どうだ、悪い話でもあるまい。とにかく止めろ!」
「オレは恥ずかしがりやでな、そんなことされたら顔が火照っちまう。それになアンタ、人様に物を頼む時はそれなりの礼儀ってもんがあるんじゃねえのか? なあ、カミサマ」
女神と魔神、二人の意思を受けとりオレは聖剣を大きく振りかぶる。と、巨大な水晶の影がエクバタナの体に重なった。先端は二本の薄刃が忙しなくちろちろと動いていた。さながら蛇が舌を出し入れしながら、獲物に狙いを定めているかのように。
「や、止めてくれ。頼む」
「カミサマの懇願ってのもなかなかにサマになるもんだな」
嫌味な笑顔を向ける。使徒は、屈辱顕に猛犬のごとく低く唸ることしかできずにいた。だが己の立場を弁えているらしく、黙って堪えるに留まる。
いい加減にしたらどうだと言わんばかりの視線が、ニースから投げかけられる。オレは肩を竦め口を開いた。
「まあ、及第点ってとこだ」
「そうか、所詮は人間。己の欲には抗えぬということか。何が望みだ。何をすればよいか言ってみよ、人間」
目の前の使徒はいきなり殊勝な態度を不遜なものへと変えた。表情まで緩んでやがる。なんとまあ現金な、と半ば呆れるもオレは意地悪く弄ぶように勿体つけた。
「そうだな……アンタこそ望みは何だ。言ってみな」
「戯言を。今はカイムに侵された『楽園』解放にある」
「そうか。一応聞いてみたが参考にならなかったよ。まあ、たいして期待もしていなかったがな。ってなわけで取引はご破算だ。悪く思うなよ」
訝しげに睨むエクバタナ。そしてすぐにおちょくられていると感じたのか、顔を紅潮させる。耳まで赤い。オレの意図を正確に読み取ってくれた自称真なる王は、屈辱なのだろう、弱った四肢、否、三肢をつっぱり、起き上がろうと藻掻いていた。しかしオレも黙って見ているわけがない。波紋で抑えこむ。エクバタナは神らしからぬ下品な悲鳴を上げ、地面に貼り付けられるように伏した。
「そろそろお別れだ。達者でな、カミサマ」
「悪魔めーーっ! うあああ! 止せ! 止せと言っているではないか!」
憤怒で歪んだ顔が、恐怖で引き攣る。そんな醜悪な使徒をオレはニヤけた面で睥睨し、そして、告げた。
「なら、祈ってみたらいい。得意だろ? そういうの」
「終わりましたね」
オレは暫くの間、立ち竦み肩で息をしていた。興奮を上手く冷ますことができなかったためだ。
頃合を見計らったかのように、ニースが近づく。オレは、はっと我に返った。憂いのない声音に、かつてのどんな時でも絶やすことのなかった明るい笑い顔が重なった。だがオレは、その笑顔をすんなりと受け入れる準備ができていなかった。反して篭った声に、辿々しい口調。それはオレの今の心境を表すのに充分だった。
「なあ、ニース。本当にその、なんだ。結婚、とか、する気なのか?」
「はあっ? こんな時にそんなこと気にしてたんですか? そして何言うんですか、今さら」
「いやな、アンタ、カミサマだろ。カミサマと結婚するって、なんかな……」
彼女は不機嫌さをあからさまにした。確かにだ。こんな時というに、オレは何故か場違いなことを考えてしまっていた。煮え切らないオレを、笑顔を維持したまま半眼で睨む。実に器用な表情だと思った。
「取り敢えず、冷静になろうか。事は焦れば仕損じるしな」
とりとめのないことを言い、誤魔化すも、
「冷静ですし、焦っていません」
「とにかくだ。ちょっと待ってくれ」
「もう、待てません。何が気に入らないんですかっ!」
ニースに退路を塞がれたじろぐ。たじろぎながらも、オレは更に言葉を紡いだ。だが当然のごとく、それは水に濡れてぼやけた手紙のように、意味が捉えきれないものだった。
「いやそれでも……な。オレは、オッサンだ。王様や貴族様だったら良かったのかもしれんが、家もない。金もない。女にモテるわけでも甲斐性があるわけでもない。傭兵崩れの、ただのしがないオッサンだ。釣り合いってのが取れてないだろ」
「なに今頃怖気づいてるんです? 言い出したのは、そっちじゃないですか。私は覚悟を決めました。あなたもいい歳した男だったら、覚悟してください」
その覚悟に年齢も性別も関係ないだろと思いつつ、ついでにそっちの方が圧倒的にいい歳しているんじゃね? とも思いつつ、それでもオレは浮かない顔を浮かべた。真っ直ぐな言葉がオレを抉る。だがオレも負けじとニースに尋ねた。
「なあ、ニース。カミサマと人間が結婚するってどんなんだ?」
「そんなこと、私が知ってるわけないじゃないですか。私を何だと思ってるんです?」
怒涛の剣幕は薄れ、彼女は呆れたように鼻で一息吐いた。何だと思っているかって? アンタは神であり、使徒であり、人間の遥か高みの存在である。それに比べ、オレはただの人間だ。どちらかと言うと卑しい部類のちっぽけな人間である。ニースと共に生きる。それは理想だ。理想であり幻想だ。届くわけがない。叶うわけがない。
「国、作るんですよね。行きましょう、帝都へ」
悩むオレをよそに、食後の散歩にでもいくかのように一大事を告げた。何の抵抗もなく、殊更、自然に。
フチクッチ、カリュケ、イオカステ、そして見知った村の人々に、形ばかりの弔いをしたのち、取り敢えずオレ達は村を後にすべく歩き始めた。が、その村はもう跡形もないという言葉が可愛げに思えるほどの惨状だった。全ての家屋どころか形あるものは皆、消滅していた。村全体が単なる大きな窪みとなり、そこに使徒の躯が所狭しと折り重なっていた。ゆくゆくは草が生え、木が生い茂り、森となろう。人の営みなど露ほど感じることがなくなるであろう。そしてオレ達は……。
「なあ、オレ達これからどうなっちまうんだろうな」
村を出て、街道沿いに北西へと進んだ。他には誰も居ない。ここは辺境、もともと人が少ない上に戦乱が起こったのだ。当然と言えた。
ニースは跳ねるように先頭を歩き、聖剣、魔剣と雌雄一対の雑種剣、四本の剣を携えたオレはがしゃがしゃと乾いた金属音を立てながら彼女に続く。いつもの鷹揚な笑顔でカイムは、少し離れて両手を後頭部に宛てがいながら、のんびり後をついてきていた。
オレは歩きながら、恐る恐る独り言を呟くかのようにニースに疑問をぶつけた。聞こえなければそれでいい。いや、むしろその方がいいとさえ思いながら。
「さあ〜」
彼女は意味深な横目を流すと、はぐらかすように首を横に傾げた。そして立ち止まり、軽やかに振り返った。金糸を思わせる艷やかな髪が羽毛のようにふわり舞い、白のワンピースの裾が軽やかに踊った。愉しげな笑顔、その前で人差し指を真上に指す。
「空、見てください」
そのままじっとオレの顔を見つめる。悪戯っぽさを滲ませながらも、蒼碧の瞳は深く瑞々しく透明に輝く。吸い込まれそうになり、クラッときたオレは、言われるがまま遥か高い空を見上げ気を逸らしにかかる。と、遅れてニースも同じ空を見上げ、左手を庇のように滑らかに弧を描いた額に翳した。
「どう思います?」
「どうって言われても、なあ」
「どう、思います?」
空は……青かった。いつもどおりだ。何事もなかったかのように、晴れ渡っていた。薄い雲が高く疎らに浮かぶ。この世界が危機に瀕していたと言うのに、その実感を与えてくれない。全く呑気なものだ。全く……。
「天気、いいよなあ」
オレは気だるげに言う。
「はい。そして?」
「空、綺麗だなあ」
「はい。で?」
「風、気持ちいいかもなあ」
「はい」
「だから何なんだ!」
しつこさに嫌気が差し、空から目を切りニースを見下ろした。既に彼女は強い視線をオレへ向けていた。強く、柔らく、慈愛に満ちた、包み込むような視線。
「私もです」
「はあ?」
「私も同じように思います」
ニースは、嬉しげに、優しく、強い意志を湛えたまま、その目を細める。
「はあ……」
意図が掴めない。オレは、ため息にも似た返事をした。
「人とかそうじゃないとか、そんなの別にどうでもいいじゃないですか」
ニースは口元に指を当て、くすくすといたずらっぽく笑う。
「身分だとか、オッサンだとか、お金がないとか、モテないとか、抜け毛が気になるとか、ブサイクだとか、お腹周りがダブついているとか、ボケが始まってきたとか、脱毛が激しいとか、それも別にどうでもいいことです」
女神様、何を仰っておられるのでしょう? それに後の方は、それっぽいことも言ってない上に、毛髪関係被っちゃってるんですけど……。そこだけ非常に気になるんですけど……。ついでになんですが、どうでもいいことリストに、薄い胸板も追加していただきたいと……。
「同じですよ、同じです。青空は気持ちいいし、花は綺麗です。水は美味しいし、そして笑顔はうれしいです。私達はいろんなものを同じように感じます。ですから同じなんです。ですから、どうにかなっちゃいますよ。たぶん。きっと」
心臓が一拍大きく打った。先程吐いた暴言を、さも何事もなかったかのようにさらっと流しつつ、大股で一歩近づき人懐っこい猫のように下からオレの顔を覗きこんできたからだ。
「何となく、上手くいくような気、しません? あはは……」
この先どうすればいいか、オレは想像できずにいた。悩んでいた。だが彼女は、そんなもの魔獣にでも喰わせてしまえと言いたげに、細い腰をくの字に曲げ、薄っぺらい腹を抱え、子供のように心底楽しそうに笑う。まるで他人事だ。だが、その笑顔に鼓動が高鳴る。呼吸が詰まる。
出逢った頃のニースは、確かに今のような陽気な笑顔を見せていた。それにオレは惹きつけられた。それまでオレは世界に除け者にされたんだと卑屈になっていた。全てが無意味だと思っていた。そんなオレの生涯に意味のようなもんを齎してくれた。
だが魔族の出現をきっかけに、オレ達は濁流のような流れに引きずり込まれた。ニースの笑顔に翳りを感じたのは、それからだったように思う。
なぜオレはこんな大それたことに首を突っ込んでしまったのか。きっかけは些細なものだった。いつも笑っているニースが儚げに見えたからだ。寂しげに見えたからだ。
だから無茶をした。命まで張った。
いろいろと難癖をつけて理屈をこねくり回して、理由のようなものを後から付け足したりもした。だが、そんなひん曲がったもんで戦ってきたわけじゃあなかった。彼女には心から笑って欲しい。本音を言えば、ただそれだけのことだった。
オレは、何故か笑っていた。命からがら何とか生き延びたすぐ後というのに、立ち尽くし笑っていたのだ。何のてらいもなく単純に純粋に、ニースに釣られ
ただ笑った ────
ー 第6章 神の宴編 完 ー




