episode 17 楔絆
ニースは斬撃を浴びながらも、淡々と『式』を組む。だが、その内心は焦燥していた。果て無く広く深い因果。そこにぽつり漂うクーロンの因子に干渉するどころか、見つけることすら出来なかったからである。己の記憶の中のクーロンを頼りに痕跡を辿るも、あまりに絆が乏しかった。弱かった。自分とクーロンを繋ぐ確かなものが何も思いつかなかった。愕然としながらそれでも没頭していたその時、ふと忘れかけていた記憶が蘇る。
── 魔除けみたいなものです。次に来る時まで預かっていて下さい。きっと御利益ありますよ
── ああ、ありがとう。じゃあそろそろ行くことにするよ。またなニース
アレンカールの西。ブラマンテの魔森。湖のほとりの洞窟の奥。
ちりちりと松明が爆ぜる音に混じり、岩肌に反響する二人の声。魔族の出現を知り世界の崩壊を防ぐため、自分を封印へと送り届けるよう彼に願い出たその別れ際、ニースはクーロンに青く光る宝玉を手渡したのだった。それは僅かではあるものの、自分の力を込めた宝玉だった。ずっと一緒に居たいと、叶わぬであろう願いを込めたものだった。
ニースは四方に張った感覚を、その宝玉へと志向させた。それは道標となり、灯台となり自身の感覚を導いてゆく。ただ不安もあった。クーロンが宝玉を携えている保証など、どこにもなかったからである。
しかし、
── ずっと、持っていてくれたんですね ──
やはりと言うべきか、クーロンはその日以来、宝玉を肌身離さずに持っていた。ニースは無表情を維持しつつも、昂揚を抑えきれない。目にじわり潤いが増す。視界が滲み、歪む。
どういった意図かは分からない。大切にしていたのかもしれないし、ただ受け取ったまま忘れていただけなのかもしれない。だがそれによって、今、彼を感じることが出来た。大海原に滴下された小さな雫のような存在を、見つけることが出来たのである。
だが、その昂揚もほんの一瞬だった。未だおよそ半分の使徒に『式』を『解式』されている。そして、ひっきりなしに奇妙な口調の使徒に斬りつけられ、集中が乱される。その上、器の再構成に『力』を注がねばならない。もう一つ。この世界の崩壊の『式』を組み始めた主神の行動も、同時に阻止しなければならなかった。
にも拘らず、ニースの『式』は着々と構築されている。が、その速度は明らかに落ちていた。因果に漂うクーロンの痕跡を見つけたものの、このままじゃ彼のもとに自分の力が届かないことをニースは直感した。おそらくは、使徒の邪魔立てがなくとも今の彼女の力では、クーロンを引き戻すことが不可能であろうことを理解してしまっていた。
「生温いのよ」
奇妙な口調の使徒の背後から、彼の制止を振り切りニースに飛び込む物体があった。それはまるで巨大な卵を思わせた。ツルンとした白色の楕円形に小さな手足が一対。その体の上半分には、目鼻口のようなものが中心に集中していた。それがおそらくは顔なのだろうが、顎や首は体と一体になり境界は区別できなかった。
彼女の小さな手が、ニースの華奢な顎に触れる。と、そのままニース顔の半分が消失した。
「待たれよ。そう云うたではないか」
卵型の使徒は左腕を掲げ牽制する奇妙な口調の使徒には目もくれず、そのまま通り過ぎ振り向きざまにニースを見下ろす。そして、目元口元を歪ませた。
「私こそが女神の名を享受すべき唯一の神。女神の称号は、あなたごときにはふさわしくはないわ」
視線の先の、か細いもう一人の女神は既に下顎を再構築していた。自分の攻撃など微風にそよぐ草木のごとく、何事もなかったかのように振舞っていると、卵型の使徒には映った。確かに、ニースは卵型の使徒に対し一瞥もせず、涼し気な表情は一変もしなかった。
本当はそうではない。ただ余裕がないだけなのだが、そうは捉えられなかった卵型の使徒はニースの態度が癪に障った。そして、ニースと距離を取りながら取り囲む数多の使徒に、顔を歪めたまま檄を飛ばした。
「忌々しい。我慢することはないわ。殺ってしまいなさい」
「皆の衆。待たれい、待たれい」
卵型の使徒のやや震えた底冷えのする声に、数体の使徒が反応し殺気を顕にした。制止の声を張る奇妙な口調の使徒。だが、タガが外れたように感情の赴くまま襲いかかる使徒どもに、その声は届かない。
「已むなし……」
そう呟き、ニースに背を向け、卵型の使徒に対峙する奇妙な口調の使徒。このままでは如何にニースといえど危うい、そう感じた。
だがその時、苦痛を伴う強い力に背中を押された。踏ん張るが敵わない。地から足が浮き宙へ投げ出された。見ると己と同様ニースに集る全ての使徒が、吹き飛ばされ距離をとっていた。卵型の使徒もその例外ではなく、逆さに投げ出され苦悶していた。
ニースが発した力ではない、それだけは分かった。なら誰が。奇妙な口調の使徒は空中で体制を整えながら『力』を放出したであろう方向、ニースの傍らに向き直る。
「何奴っ!」
声を上げた直後、言うまでもなかったと思い直す。切れ長の目に収まる、血のように赤い二つの瞳。滑らかだが腰のある、長く艷やかな銀髪。それだけではない。奴が何者なのか確信できたのは、そこから抑圧してくる気勢を感じたからだった。それは主神をも圧倒していた。一人では足掻きようがないことを悟った。女神と共に奴も侮っていた、と己の過ちを悔やみ、刀を象った右腕をだらりと下ろし項垂れた。
「カイム……生きておったか。ゴキブリのようにしぶとい奴じゃ……」
遥か頭上から一本脚の使徒、エクバタナの野太い声が空気を震わせた。他の使徒はカイムが発する威圧感に中てられ、動きを止めている。そんな中、主神の抑揚のない声が響き渡った。
「器を使徒カイムと認定します。脅威度・計測不能。優先攻撃度・使徒ニースと同等とみなします。使徒ニース殲滅行動をとっていた使徒は速やかに使徒カイムの殲滅行動に移行することを提案します」
「みなの者、殺ってしまうがいいっ! 歯向かう気など起こせない程の屈辱を味あわせてくれるのじゃ」
だが使徒の群れはカイムを包囲したまま、動くことをしなかった。ある者は歯噛み、あるものは顔を引き攣らせ、我先に、という者は誰もいなかった。なぜなら皆、カイムに相対して煮え湯を飲まされていたからだった。足元にも及ばないことを、カイムの足元を這いずることしか出来ないことを、皆、知っていたのだ。
カイムはいつもの様に鷹揚な笑みを湛え、ニースをチラリと見た。同時にニースと目が合う。胸にちくりと棘が刺さったような感覚を覚えた。ニースの歌を思わせる抑揚をつけた詠唱が、舞を思わせる靭やかな体の動きが、自分を封印した忌々しい光景と重なったからだった。だがカイムは意地を張り、その感情を無理矢理抑えこんだ。
歌も舞も効果としては僅かなもの。神の『力』に比べればチリにも満たない行為である。だがニースは太陽や星の輝き、風の靡き、大地の動き、物の組成、全てを味方につける。他の使徒が、瑣末なものと切り捨てるあらゆるものを『式』に込める。ニースが唱える詠唱も、言葉としては意味がない。そもそも言語と言えるものではない。大気を振動させることで構築する『式』を後押しするのである。舞もしかり。『式』構築に有用な体位をとっているのである。
馬鹿げたことを、カイムは当初そのように感じていた。だがこれがニースの強さと今は確信している。ニース行動自体は取るに足りないこと、だが何一つとして蔑ろにしないニースの気構えこそが、大きな力なりうる。そう思えるようになっていた。
「他の余計なことはボクが何とかするよ。だからキミはオッサンを頼むよ」
ニースの目に疑問が浮かんだ、とカイムは感じた。意外な反応だった。もう少し自分のことを理解しているのではと思っていたが、そうではないことに少し不満だった。カイムはすぐさま笑みを深め、彼の考える疑問に答える言葉を発した。
「神々からはどうも嫌われているようだし、ボクもそんなに好きじゃないからねぇ。それにねぇ、ボクは大切な友達を殺されてヘラヘラ笑いながら黙っていられるほど、人間が出来ちゃいないんだよ」
カイムは敢えていつもどおり鷹揚に笑い、敢えて自分を人間と言った。軽く皮肉も込められてはいたが、ニースにとって頼もしく妙に居心地がよい仕草であり、言葉だった。彼女は詠唱を唱えながらも「ふふっ」と口の中で少しだけ笑った。
主神が組む『式』にカイムの『解式』が干渉を始めた。それを感じ取ったニースは、使徒が固唾を飲みながら凝視する中、己の力の全てを因果へと向ける。
届かせる。でもこのままじゃダメだ。このまま、だけじゃ届かない。愛、執着、人の心。それらは自分の心に芽生えた悍ましいものだった。それが縋るものに変わった。大切なものとなった。強いものとなった。ニースはそれを『式』に籠め始める。
── ある強い雨の夜 暗い洞窟の奥で 私はあの人に出逢いました
ニースの詠唱がその趣を変えた。単なる空気の振動を誘発するのではなく、意味のある言葉となる。詠唱に感情が乗る。同時に空気が変わる。『式』の性質が、変えられる。
その様子を横目に、カイムは
「『解式』しながら使徒を相手取りニースを護って、あともう一つ……たぶん手が足りないねぇ」
と、ひとり小さく呟いた。そして足元に視線を移す。
「クテシフォン、クトゥネペタム。キミ達はすっかり忘れているだろうけど、これからが本当の使命で、それがキミ達の希みでもあるからねぇ。さっそく働いてもらうよ、一対の神殺しの剣よ」
【どういうことなのです】
【何、言ってらば】
そしてカイムは重なりあう二振の剣を拾い上げた。聖剣に弾かれることも魔剣に喰われることもなく、二剣はカイムの両手にしっくりと納まった。クテシフォン、クトゥネペタムの驚きの感情がカイムの脳を刺激する。
「オッサンには驚かされることばかりだよ。この剣に受け入れられるどころか、ボクも知らない本当の使い方まで教えてくれたんだからねぇ」
薄刃が二本の帯のように撓り聖剣の斬っ先で螺旋を描く。頭上には水面に浮かぶ波紋のような空間の歪みが、幾つも出現していた。
「そろそろ、始めようじゃないか。三千年ぶりの宴を」
三千年前に起こったいわゆる『宴』の惨劇を知る奇妙な口調の使徒は、カイムから発せられた言葉に気負が感じられなかったにも拘らず、ごくりと咽を動かした。そして未だ震えの止まらぬ右腕を突き出し、腹をくくった。だが踏み出すことを躊躇していたその時、曲剣を模した右腕が体から離れ、重力に抗えずに落ちていった。彼は反射的にそれを目で追おうと眼球を下に向けたが、視界が光りに包まれ何も見ることができなかった。気付いた時にはもう、首から上が綺麗に消失していた。
青く光る宝玉は『第二章 episode 8 痛痒』に出てきます〜。
誰も覚えていないでしょうが……。
作者も危うく忘れるところでした(笑)




