後編:芽で往くも、また……④
彼女は、唯待っていた。
時が過ぎ去るのを。同時に、彼の者が、自分の下へ還って来るのを。
「心兵衛さま……。私は未だ、其方へ逝けませぬ」
十年以上の時を経た此の日、彼女はやっと彼の者の死を認めた。
そう、認めたのだ。
名も無き存在である彼の者の安否の報せが、彼女の下に届く事は無かった。故に、幾ら待とうとも還って来ない彼の者の死を、悟った。そして、今迄ずっと否定してきた。
だからこそ、昼夜問わず、彼女は約束した場所で待ち続けた。
「――私は、貴方さまの種から芽生えた命を、育んでいかねばなりませぬ」
しかしそんな心を、先程交えた武士の言葉が。眼が。血が。そして生き様が。彼女の心の弱さを払ってしまったのだ。
「其の時が終えましたら、待っていて下さいまし。あの、桜の樹の下で――」
途端に、彼女の眼から大粒の涙が零れ始めた。其れも、止め処無い程に。
初めて流す、愛する者の死への涙は、止まる気配は無かった。本能的に顔を隠してはいるが、誰の眼にも、其の様が泣いているのは明かなであり、無駄な行為とも知っていた。
涙に塗れたくしゃくしゃの顔を、不意に彼女は勢い良く背後へ顔を向ける。……が、其処には誰の姿も無かった。少なくとも、直ぐ背後には。
けれど、確かな気配を感じた。無論、周囲に誰もいない現実をみれば、唯の勘違いでしかないのだが。
一瞬戸惑いを覚えた彼女だが、刹那、袖で涙を拭い取り、足早に帰路を駆け始める。一刻も早く、息子の――心太の顔を見たいと思ったのだ。
彼女の中に初めて、形だけでない〝母〟の感情が芽生えた瞬間でもあった。
顔を合わせた息子に、最初に伝える言葉はもう決めていた。有り触れた、当たり前とも云える言葉。だから、慣れない駆け足を只管に続ける。
お香が長屋へと着いた時には、月は其の姿を空へと溶け込んでいた。
「~~~~お、お香!? あんた一体其の成りはなんだい。け、怪我をしたのかい!?」
彼女が長屋の戸を開けた途端、時間に不釣り合いな声量の声が上がる。
声の主は、お静。恐らく、未だに戻らないお香を迎えに行こうと、支度をしていたのだろう。其処に丁度鉢合わせる形となったのだ。とは言っても、声を上げた理由は其れに対してではない。
深夜に、其れもこんな情勢に家を出ていた娘が、血に塗れて帰ってきたのだ。お静の反応は至極当然ともいえよう。
「あ――。こ、これは私のではなく……。話せば長く――」
「は、母上!?」
其れに気付いた瞬間、お香は息を切らしたまま必死に弁明しようとするが、直ぐに言葉を切る事になる。
騒々しく、慌しい気配を感じて駆け付けた心太が、二人の前に姿を見せると、お静同様に驚気に満ちた声を上げたのだ。
其の声に、お香は直ぐに視線をお静から外す。其の先で、尚も憂色の顔を浮かべる心太を捉える。
想えば、初めて息子の顔を自分の意志で見たのではないだろうか。そう識った刹那、様々な感情がお香の中を一気に駆け巡る。
痛みとは違う其の衝動に泪を零しながらも、彼女は其の言葉を口にした。
「――ただいま、心太」
* * *
朝陽が登り、また新しく時代は動きを見せる。
山崎にて勝利を収めた羽柴秀吉は、明智軍の残党を征伐し京での支配権を掌握しようと慌しく動く。昼を過ぎる頃には、至るところで明智光秀の首が取られたとの報が舞っていた。戦乱は尚も続き、民はまた苦しみを味わう事になるのだろう。
散って逝くものも在れば、芽生えて往くものも在り、そうして変化を見せていく。
陽に映えた影だけではなく、確と互いに手を繋ぎ合って歩く、お香と心太のように。
時は戦国。一つの夢の為に、個々の夢が争い合う、矛盾した時代――。