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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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後編:芽で往くも、また……③

 水面に、顔を欠けた月が揺れる。少し水気を含んだ風が、草木を薙いで駆けていく。いつもと同じ場所。いつもそうしている、緑色の葉を飾り付けた樹の下。

 ――約束を交わした場所。

 十年。言葉にすれば一瞬で終えてしまうこの刻の中を、お香は其処で待ち続けている。其の行為が報われないという事を、識りながら――だ。

 そんな彼女の姿を目にする者は、或る種の病なのだと決め込んだ。すれ違う長屋の住人とも碌に言葉を交わす事もなく、一日の大半を唯々立ち呆ける。所詮は他人である者がそう理解するのは、至極普通の事でもあろう。

 しかし、事実はそうではない。

 病なのなら。いっその事、壊れてしまっていたのなら。お香自身がそう想う。

 簡単にそうなってしまう程、人間の心というのは存外弱くはなかった。ましてや、お香には其れをさせんとする枷が在るからだ。

「今日も、駄目なのですね」

 誰に――という事無く、お香は呟いた。其の視線の先には勿論、周りにも人一人として姿は無い。一刻程の刻を経ても、呼び掛けに応える者は、誰も居なかった。

 夜も深まり、大抵の人間は寝入っているのだから、当然ともいえよう。ましてや、山崎で戦があったばかりだ。再び流転を見せるであろう情勢を警戒して、民は怯えを隠すように息を潜める事を、知らずに選んでいた。

 にも拘らず、そんな状況で外へと抜け出したお香をお静が止めなかったのは、彼女もまた疲弊してしまっているからだ。娘とはいえ、自分以外の――其れも正常に交流が取れない相手との接触を、無意識に拒んだ結果なのかもしれない。

「また、明日来ます」

 応えを待つ事もなく、川に背を向けた途端だった。

「~~~~きゃあ!?」

 お香が、呟きから悲鳴にも似た声へと一変させる。街道と川を隔てる小さな坂から、何か大きな物影が転がり落ちてきたのだ。

 不意という状況下で、驚気と恐怖が混じった心境。そうさせたものの正体が、人間であると識ったのは、月明かりが其れを射してやっとの事だった。

 そして、其の者が武士である事にも――。

「……お、お侍様? だ、大丈夫でございますか?」

 恐る恐る、お香は武士に声を掛けた。

 坂とはいえ、本当に小さく緩やかなものだ。昼間には、子供等がはしゃいで転び回るのを、彼女は其の眼で幾度と無く見ている。決して――それも、成人した男性が大怪我をするような坂ではない。しかし、其処から転げ落ちてきた其の武士の様は違った。

 立ち上がろうとしてはいるものの、躰を支える腕が大きく振るえ、やがては折れてしまい、再び地に平伏す格好となる。

 其の様に慌てて手を差し伸べたお香だったが、生温かいものが手に触れた瞬間、反射的に其の手を引いた。

月の幽かな光が、手を伝う液体を映し出す。

「――ひっ!?」

 刹那、お香は思わず再び悲鳴を上げる。状況のせいで、識っている色とは異なっているが、其れは確かに血だった。

 無論、初めて見るわけではない。――が、好ましいものとも思ってはいない。ましてや他人の血だ。拒絶しようとする反応を見せる事は、何ら珍しい事でもなく、恥ずべき行為でもないのではなかろうか。

 だが、お香は其のどちらも直ぐに抑え込んだ。

「……み、み……ず……。水……を……」

 武士へともう一度視線を戻すと、今にも息絶えかねない様子で、切れ切れに、ゆっくりと口を開いた。

「――は、はい」

 其の言葉に、お香は即座に応えた。またしても、思わずだ。

 恐らく、其れが助けを乞うものだったからであろうか。そして、彼女は其れを拒否できるような性分ではなかったという事だろう。

 幸い、二人のすぐ背の後ろには川が流れている。いくら武士の方が存分に動けないとはいえ、其の距離を支えながら向かうのは、難しい事ではない。

 そう判断し、お香は武士の躰を支えようと、手を差し出した。――が、寸前で咄嗟に其れを止める。

 躊躇いが生じてしまった。

 現在も尚多量の血を流す武士の躰に触れる事で、其の血が自らの躰や衣類に付着する事に――。

 お香の手が、武士の躰を前にして震える。自分を疎ましいと思えども、躰は其の意思に背いてくれなかった。

「――ゴ……ゴホッ!!」

 そんな彼女の前で、武士が塞いだ手から血を零しながら咳き込んだ。

 お香が其の姿から想像し悟ったのは、死。どう見ても助かりはしない其の存在に対し、今更手を差し伸べる事への疑問までが生じる。

「――!?」

 だが、其処へ武士がふと顔を上げて、お香の眼を見据えた。

 其の表情は酷く澄んでおり、助けを乞うものとは全く異質の、言うなれば幼い子供のようなものだった。

「――さあ、こちらです。私の肩に、お摑まり下さい」

 云いながら、ゆっくりと彼女は自らの躰を武士へと寄り添わせた。直後、衣類や手、そして長い髪にも血が付着する。慣れない血の臭いが鼻を衝き、感覚を狂わせる。

 躊躇いや疑問が消えたわけではない。心の片隅で自問自答する自分にも気が付いていた。

「す、すま……ぬ……」

「いえ……」

 武士の言葉がどちらに対してなのか、お香にとっては定かではない。けれど、彼女は応えてみせた。

 どう見ても自分よりも齢を取っているこの武士が、先程見せた表情により生まれた感情に、素直に従ったまでの事。

 ――この者の助けになりたい。

 もはや、お香はこの武士に関わる事に、抵抗は無かった――。


* * *


「どうぞ?」

 其の小さな両の手を川に付け、水を掬い上げると、お香はそのまま武士に差し出した。

「な、何から何まで……。か、忝い」

「いえ。……それより、早く飲んでくださいまし。零れてしまいます」

「う……む……」

 武士はゆっくりと其の顔を女の手の方へ運び、小さな掌の間に貯えられた僅かな水を吸い上げていく。

 まるで、赤子のように弱々しく。

 お香は悟っていた。この武士には、既に川から水を掬う力も無い事を。

 二人にとって、川までの距離は長いものだった。

 元々体力も力も秀ていない女が、唯でさえ体格の違う武士の体重に加え、着込んでいる甲冑の重量を支えるのだ。殆ど立っているだけの武士を一人で支えつつ移動するのに、それなりの時間と体力を費やしてしまった。

「ふ……。死に逝く身に、水がこれ程美味う感じるとは……」

 掌のほんの僅かな水を飲み干し、武士は薄く笑みを浮かべ、そう溢した。

 ――死に逝く身。

 武士の其の言葉が、お香の心に深く衝き沈んでいく。

 そう、この者は死ぬ。其れも、そう遠くない刻の後には。悟っていたとはいえ、やはり当人から云われてしまうと、其の意味の大きさを実感してしまう。

「お主、名はなんという?」

 ふと、武士が問う。

 其の表情は、先程とは打って違い、生気が浮かび上がっていた。血は今も尚止まってはいない。自分でも云ったように、助かる筈が無い程の有様だ。しかし、明らかに先程までの死人のような顔ではなかった。

 唯水を飲んだだけで、こんな事が起こり得るのか。一瞬そう考えたが、其れが無駄だと悟り、お香は応えた。

「――お香。と、申します」

「……お香……か。お主の優しさ、この心に強く響いた。感謝する」

「……いえ。私は唯、貴方様の願いに応じただけでございます」

 そう云ったお香だが、少しだけ嘘を吐いた。

 彼女が願いに応じたのは、武士の見せたあの表情のせいだ。あれを眼にしなければ、そのまま逃げ出していたかもしれなかった。

 だが、そんなお香に、武士は小さく笑みを浮かべ、再び口を開いた。

「お主、夫は居るのか?」

 其の問いに、お香は躰を大きく一度震わせた。薄らいでいく視界を持つ武士の眼にも、しっかりと判る程に。

「すまぬ。いらぬ詮索をし――」

「――貴方様が此れから赴く場所に居ります」

 武士が非礼を詫びようと、口を開いた瞬間だった。打ち消すように、お香が言葉を紡いだ。

 明らかな憎悪を抱いた両の眼を、真っ直ぐ武士の其の眼に向けて――。

「……戦か?」

 お香の眼に宿る其の感情に気付きながらも、決して逃れる事はせず、武士は其の眼を見据えながら更に問う。

「…………」

「…………」

 川のせせらぎと、風に揺れる草木の音。そして、虫の鳴き声だけが響く、自然が作る静寂が訪れる。そして互いが息を吐いた直後、一つになっていた視線は、元の通り二つに分かれた。

「――争いの無い世を創る為、争い合う。なんとも矛盾した話です」

 背けたのは、お香だ。

「……返す言葉も無い。名は何という? あちらで逢う事があるやもしれん」

 武士に背を向け天へと眼をやっていたお香が、其の言葉に小さく、だが少し長めに一つ息を吐く。何かを必死に堪えているように、躰を抱えている。

 其の様に、唯眼を逸らさずに言葉を待つ他ない武士は、其れだけに没頭した。

「名なぞ有りませんでした。戦場という地で彼の人は、貴方様の様な一個の存在では在りませんでしたから」

 決して長くはない時の切れ間、ゆっくりと振り向いてみせたお香が、口を開く。其の表情は月の灯りに照らされ、云うなれば、妖艶な笑みを浮かべているようにも見える。

「――お主……。某を識っておるのか?」

 お香が小さく首を横に振る。

 嘘ではなかった。だが、武士の格好を観れば、誰にでも判る事だ。

 如何なる攻撃を受けても、容易には貫く事が難しいであろう甲冑。とても名も無き者が着るような代物ではない。そして、この者の態度。

 決して自分と対等ではなく、自らを下とするのでもない。この武士は、常に自らを上に置き、お香と接していた。

 ――個の群れを束ねる者の表れ。

 束の間の交わりであったが、お香はそう感じ取っていた。そして、其れを肯定するように、武士は唯、微笑を浮かべ続けた。

「そう……か……」

 少し強く、風が吹いた。

 お香の心内を表すかの如く、ざわめくように二人の間を吹き荒び、駆けていく。

「しかしお香よ、お主は生きねばならぬ。其の身に新たな命を受けねばならぬ。其れは男ではできぬ。人で在る前に、女として在るお主であるからこそ、できる事だ」

 其の風を縫うように、再び言葉を紡いだのは男の声。拳を握り締め、今まで一番力強く感じられた声だった。

 靡いた髪を手で押さえ、お香はふと天を見返す。薄い青色が、幽かに闇を覆おうとしているのが、其の眼に映る。

「――このような矛盾した世に芽生えた命は、倖せなのでしょうか?」 

 未だ遠くではあるが、陽が昇ろうとしていた。

 朝がくれば、時代は再び大きな動きを見せるだろう。特に今日の陽の出は、其れを告げる狼煙ともいえよう。

「例え私が新たな命を芽生え育んだとしても、彼の人のように、名を持たぬまま散って逝くのが、定めでしょう。私には、其れが憐れでなりませぬ」

 吐き捨てるように、お香が言葉を紡ぐ。

其の荒いだ口調には、憐れみに加え、悲しみ。そして、時代に対する怒りが込められていた。

 言葉を放つ中でお香が思い描いていたのは、息子である心太の姿。およそ母親らしい振る舞いなぞしていない。母子の関係に資格というものが在ったとするなれば、彼女は其れを持っていないとさえ自負していた。

 けれど、当の心太は其のお香を責める素振りもせず、健気に彼女を支えようとする。時には屈託のない笑顔を作って見せもした。

 武士と初めて顔を見合わせた時、お香が重ねた其の表情だった。顔立ちが似ているわけでは決してない。唯何故かあの時、二人の顔が重なって見えた。

 お香は最後まで心太の事を口にはしなかった。だが、そんな彼女の様に、武士は何かを感付いたのだろう。云い掛けた其の言葉を寸前で飲み込み、別の言葉を吐いた。

 自らを、卑しめるように。

「某ではできなかった。強大な力の前に生まれた自らの野望に、勝てなかった。其の結果がこれだ。……誠、情けな――ゴフッ!」

「――!」

 最中、武士が再び大きく吐血した。其れに伴うように、辛うじて保っていた躰の姿勢が崩れていく。しかし、お香は一歩として動こうとはせず、唯、其の様に眼を向ける事だけに務めた。

 最早助からないと悟っていたせいもある。だが其れよりも、武士が発する気配が、お香の脚を、躰の動きを封じていたのだ。

「……遂に此の命、散り逝く時が来たか」

 自らの血で紅く染まった掌を見詰め、薄く笑みを浮かべた表情に、ほんの先程まで浮かんでいた生気は、微塵も無かった。現在の武士の其れは、初めて二人が顔を合わせた時よりも酷かった。

「――た、泰平の世。近い先必ず、誰かが成し遂げるであろう。お香よ、お主は其の世を生き永らえてくれ。お主が芽生え、育んだ命と伴に……!」

 薄らいでいく月の灯りが、二人を照らす。

 口から真紅の血を垂らす蒼白色の顔をした男。其の男を支え歩いた事で、衣類だけではなく手をはじめとする躰の部位。そして、顔までも血に濡らした女。

 生き死にが絡んだ濃厚な時間。にも拘らず、二人は此の時初めて、互いの顔を確と観た気がした。

 其の様を、互いに美しいと想った。

 此れから死に逝く者と、此れから先を生きる者。反する者通しだけが感じ得る感情だったのだろう。

「最期にお主と逢うた事……定めのように思う」

「私も、そう思います」

 血の気の無い表情で笑みを見せる武士の言葉に、お香は小さく頷いた。

 別れを――最期を惜しむ素振りはない。二人が伴に、其れを求める事はしなかった。何より、必要がないと考えていたのかもしれない。

「――では、さらばだ」

 そう云い捨て、男は其の身を引き摺るように下流の方へ歩いて行く。言葉に答える事も頷く事もせず、お香もまた其の背を向かい合わすように、長屋への帰路へ着いて行く。

 其れから二人は、互いの存在を其の眼に二度と映す事は無いまま、其々の道を歩んで行った。

 二人が互いにふった、別れへの唯一の応えだったのかもしれない――。

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