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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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後編:芽で往くも、また……②

 ――織田信長、明智光秀謀反により、本能寺にて死す。

 此の報は、瞬く間に京を中心として流伝していった。無論、お香が身を置く小栗栖にもだ。

「――あ、お静さん! ちょっと聞いたかい? 織田の殿様が討たれたって!」

「~~~~なんだって? そりゃあまた……」

 そう活気の良いとは言い難い村にしては、やけに賑わしい表の様子に戸を開けたお静が、先ずは隣人から聞き及ぶ。

 放っておいても直ぐに耳にするであろうが、お香へ伝えるか僅かに迷った際、お静はふと周囲を見渡していた。

 恐らく、村の住人の殆どがこの場に居るのではないだろうか。それ程の騒ぎだ。しかも、其の声は次第に大きくなり、荒々しささえも感じられるようになっている。

「――母さま、今の話は……?」

 そうした声を、屋内からでも拾ってしまったお香は、真意を確かめるべく、恐る恐る表へと足を運んだ。

 本当は、村人達の様子――特に表情を目にした時点で、答えを得ていた。其れでも、お静を見つけそう訊いたのは、問い掛けではなく願望だった。

「ああ、出てきたのかい。聞いての通りさ。全く、要らぬ事をしてくれたもんだよ」

「そん……な……」

 しかし、お静は娘の其れを躊躇なく一蹴した。

 とはいえ、お静が非情に徹したわけでもなく、お香の心内に気付かなかったわけでもない。

彼女は唯、現実を伝えたに過ぎない。

 郊外とはいえ、京を傍らにする。〝都〟と呼ばれる、人の最も出入りする其処から発せられた報。しかも其の内容からして、偽報だというにはあまりにも難しい。嘘が心を癒す事もある。だが、此度の件では正に仮初のものだ。

 故に、お静は娘に受け止めてほしかった。

 二人が目にする村人の誰もが、怒りと悲しみに表情を染め、収まり切らない其れ等を、次第に声に変えて吐き出していく。

 悲しみが向けられるのは、織田信長が討たれた事に――だ。けれど、怒りはそうではない。

 村人達の怒りの矛先は、謀反を起こした明智光秀へと向けられた。

 ――第六天魔王。

 いつの頃からか、織田信長をそう呼ぶ声が広がった。其れはやがて、彼を〝恐怖〟と相称するに至る。由来や意味さえも解らない者達までもそうなってしまったのは、彼が辿ってきた〝道〟にあるのだろう。

 苛烈と云われる箍の外れた軍事行動は、残虐非道という心像を植え付けるには充分であった。敵対する勢力は勿論、統治される側の人間でさえも、織田信長を恐れた。

 けれども、其れを片隅へと追いやる程の〝期待〟が向けられていたのも、事実である。

 金ヶ崎での戦いを機に布かれた包囲網を打破し、室町幕府をも滅ぼした後には、琵琶湖湖岸に拠点として五層七重の城を築いた。そして尚も、四国・中国の平定を展開しようとしていたのだ。

 事実上、織田信長は天下人に最も近い地位にあった。之が、期待の根源だ。

 悪行での恐怖に依る統治にしても、どれだけの良政を施したとしても、敵対する勢力が在るのならば、意味がない。

 お香等〝女〟を初め、所謂平民に位置する者達が真に望むのは、戦国の世の終結。

 自分達の地が平定されたからといって、其れが〝平和〟だとは限らない。周囲で戦が起これば、火種がどう転ぶかなぞ判らないのだ。いつ、自身が巻き込まれるかと怯え、眠るに眠れぬ夜。そんな日々が終わるのを願い、人々は其れを織田信長に託した。

 だが、其の夢が間近なものに成ろうとした正に矢先、彼は討たれた。しかも、其れが身内の手によって――だ。

 平民にとって、之以上の侮辱はないだろう。お香のように落胆するよりも、怒りに狂う姿の方が自然なものかもしれない。

「これからどうなるのかねえ」

「此処は明智の奴が統治するんじゃろうかあ?」

 やがて怒りは不満へと形を貌え、言葉に宿す事で、人々は其れが胸の内に留まる事を拒んだ。

 解ってはいるのだ。幾ら嘆き騒いだとしても、其の声が何処へも届かないという事を。

 そうする以外の手段を知らなかった。……いや、取れなかった。現状を招いた張本人に怒りをぶつける度胸も、自らが時代を変えるという志も、其れを抱く強ささえ持っていないからだ。

 唯、そんな弱さも数を揃えれば強さへと成る。共鳴を行いながら、其れは村を覆い、やがては小栗栖の外へと馳せていった。

「――母上、大丈夫でございますか?」

 広がり続ける負の感情に、お香は字の如く押し潰されていた。元が既に罅割れた硝子のような心境だったのだ。崩れていくのは、至極当然の事でもあった。

 其のお香に手を差し伸べたのは、またも息子である心太であった。

 お香と時を同じく、屋内から外の騒ぎを耳にしていた。其れでも今まで留まっていたのは、母親への齢不相応な遠慮からだ。

 耳にした声の意味を、全て理解したわけではなかったが、此の状況で自分が寄り添えば、お香は更に気遣わしくなると判断した。しかし、崩れていく母親の姿を目の当たりにして尚、其の姿勢を突き通す事はできなかった。

「……心――」

「――心太、すまないが八百黒さんのとこまで使いに出てくれないかい?」

「ですが、婆様……」

「婆やはちょっとやる事があってねえ。母あにも手伝ってもらわないといけないんだよ。――なあ?」

 堪らずお香の肩に手をやった心太を制止したのは、お静の言葉だ。放っておけ――。そんな、命令にも似た声に乗せて。

 自分が、未だ十の子供にどれだけ酷を強いているのかは、充分に理解している。だが、心太を想えばこそ、其れを曲げる事はできなかった。

「――わかり……ました」

「すまないね。ああ、駄賃は取っとくといい」

 銭を差し出すお静の手を、心太は無言のまま取る。握り慣れた皺の上からでも伝う温もりは、確かに感じられた。しかし、声を出すことも、笑みを浮かべる祖母の顔を見上げることもしない。

 其の体温以外が、嘘だと解っているからだ。心太は、恐らくお静やお香が考えているよりも、賢く育った。だからこそ、従う振りができる。

 年端のいかぬ男児ならば、駄々をこね大人を困らせるのが定説であろう。そんな当たり前ができないというのは、云わば歪みでもある。心太の其れを、周囲の大人は充分に識っていた。故に、彼に向けられる言葉も優しさも無くならない。

「頼んだよ」

 お静が言葉と伴に手に力を籠めようと瞬間、心太の手は静かに解けた。そして、心太は再び無言で頷いてみせると、其のまま駆けていった。

 彼の其れは、正しく反抗であった。

 齢相応の子供が取る形とは真逆の態度。母親と伴に居たいという訴えを呑み込み、二人が困らぬように其の場を後にする。子供が取るには不釣り合いな程の、そんな優しい反抗。

 其の後姿をお静が咎めなかったのは、心太の其れを理解したからだ。同時に、視界の隅で二人のやり取りを捉えていたお香も、見えなくなる息子の後ろ姿に涙を零した。

「~~~~まったく、どっちの吐いた嘘が悪いんだろうね」

 称賛でもなく悪態でもなく、お静は心太から眼を外すと、そう吐いた。

 嘘というものは、時に優しさとして用いられる。他人に優しくできるというのは、決して悪ではない。相手の当時の心境次第では、其の形が正しく伝わらない場合もあるが、相手を傷付けるものには成りえないのだ。

 だが、必ずしも自分自身を癒し、守るものでもない。

 心太が振る舞った優しい嘘は、お静は勿論、お香を傷つけてはいない。心太の其れにお香が痛みを覚え涙したというのなら、根拠の元は別のものが要因だ。

 問題なのは、僅か十を数える程度の子供が、自身を殺している事実。

 想いを言葉にも行動にもできず、表に出さないというのは、言い表すには難しい苦しさを伴う。そして、心太は現実に其れを行っており、そうさせてしまっているのが、お香とお静だ。

 声の無い言葉の裏に、どれだけの痛みを抱えているのか、二人には凡そ計り知れないだろう。だからこそ、大人故の責務を負う。

「さあ、とっとと立って飯の支度をするんだよ!」

 お香の腕を引き上げながら、お静が言葉を放つ。

「――あんたは母親なんだ。せめて、こっちの嘘でも本当にしな」

 続けて発した声に若干の苛立ちが含まれるのは、お香に対してだけではなく、自身に対してもだろう。

 大人として責務を感じ、心太の為を想うのであれば、お静が選ぶべき嘘はこちらではないからだ。

 そうしてしまったのは、お香が実の娘であるからか。それとも、自身もまた彼女の悼みを知るからこそであろうか。どちらにせよ、この瞬間お静は二つ目の嘘を吐いた。

 こちらも、自身を傷つける類の優しさだ。

「は……いっ……」

 其れを振り払う程、お香はまだ壊れてはいなかった。だからこそ、二人が自分に向ける優しさが痛い。先程とは別の涙が溢れてくる程に。

 弱弱しく立ち上がり、お香は眼元を拭いながら長屋へと向かった。覚束ない足取りではあったものの、其の歩みは確と前へと進む。

「母上、婆様。ただいま戻りまし……た」

 丁度陽が真上に差し掛かり、昼食時となった頃、帰宅した心太は其の眼で見た。

「おかえり、心太。駄賃はちゃんと取ったかい?」

 お静の声の隣に広がる、嘘だと思っていた光景を――。


* * *


 近畿を中心に広がる時勢の波紋は数を増し、尚も治まる事なく広がり続けた。其の中でも最も大きな石を投下されたのが、山崎の地だ。

 織田信長没の報を耳にし、何より過敏な動きを見せたのは、他勢力ではなく身内である織田家の軍勢だった。

 近畿をほぼ手中にし、残る勢力の平定を成さんが為、織田の主力は東西に分散。柴田勝家と滝川一益は東にて、上杉と北条を。羽柴秀吉と丹羽長秀は西にて、中国と四国の攻略を其々担っている最中であった。

 其の中で、いち早く時勢に接触したのが、羽柴秀吉だ。

 備中高松にて、毛利軍と交戦していた秀吉は、本能寺での報を受けると、講和をもって迅速に戦を終えると同時に近畿へと急行。信じ難い機敏さで近畿へ到着すると、堺にて四国征伐の為に待機中であった長秀と合流し、二万を超える大軍を率いて戦いを開始する。

 相手は当然、謀反を起こした明智光秀である。

 天正十年六月十二日。予想外の秀吉の到着と戦力に対し、光秀は充分な態勢を整える事ができないまま、決戦へと臨む。

 其の兵力差は二から三倍とも見られ、士気を保つことができずに明智側の兵が脱走ないし離散し、徐々に崩壊。

 翌十三日。日没と、驚異的な行軍によっての疲労故に追撃をままならない秀吉側の状態もあり、光秀は坂本城を目指し敗走。という形で、戦は決着をみせた。

 まるで、蝋燭が燃え尽きる前の激しさの如く流転する時世に、何よりも痛みと悲しみを負ったのが、民だ。

 自分達の無力さを識り、其れ故に唯嘆き、祈る事だけを強いられる日々。誰もが、そんな未来を思い描いていた。比較的戦乱から落ち着きを見せていた近畿方面でも、其の地を離れていく者もいる。不安や不信の負の感情に駆られ、病んでいく者も。

 本能寺の報に続き、山崎にて戦が開始されたという報を耳にしたお香もまた、然りであった――。

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