後編:芽で往くも、また……①
女が居た。
陽も沈み、空が藍色に染まり始める中で、せせらぎを立てる川の畔。束ねずに自然のまま流した長い黒髪を、六月の少し湿った風に靡かせ、特に動きを見せる事も無く、女が一人――其処に居た。
眼は何処を捉えるとでもなく、何を追うともなく、唯真っ直ぐと前に向けられていた。
その先に何があるわけでもない。誰が居るわけでもない。……いや。彼女は何を視ているわけではなかった。
女がそうするようになったのは、何も今日に限った事ではない。遡ればもう、十年という時を経ていた。
始まりは、第二の故郷として身を置いていた美濃の地だった。
春を迎えれば、其の美しさに吸い込まれるような花を芽吹く、一本の桜の樹。二人が其処に居合わせたのは、偶然に過ぎない。
しかし、其れでも二人は出逢ったのだ。
愛が芽生え、愛を育み、やがて其処は〝約束〟の場所と成った。
望まない別離。抗う事はできず、其の流れに従う他、道も術も無かった。正確には、選べなかった。が、適当だろうか。
――二人には、そうする力が無かったのだから。
だからこそ、〝再会〟を誓ったのだ。互いにとって、最も大切な場所で。
そんな彼女は現在、其処を離れ〝小栗栖〟の地へと身を移していた。自身が産まれ、十数年の時間を過ごした故郷へと。
之も、望まない事だった。けれども、抗う事はできた。
他の何よりも〝約束〟を――自分自身を優先していれば、女は其処に留まり、待ち続ける事ができたのだ。
其の〝約束〟が、紡がれる事は無い現実を識りながら。
それでもそうしなかったのは、たった一つの或る存在のせいだ。
「――お香」
ふと、風に乗って人の声が宙に流れた。だが、主から控えめに出された其の声は、物思いに耽る女の気を引く事はできず、せせらぎに呑み込まれていった。
女の少し後方から声を向けたのは、初老の女。
其の右手には、十を数えるぐらいの童の姿がある。短く息を一つ吐いた左手を握り締めている女と、前方に見える川の畔に佇む女とを、交互に見渡す。
声を発した女から、何の反応を示さない対象に焦燥を抱いた様子が見られなかったのは、此の童のせいかもしれない。
「~~~~お香!」
――が、時を置かずに先程とは一変して荒々しい声を発してみせた。
今度は〝乗って〟ではなく、まるで風が差すかの如く鋭く、其の声は女――お香へと突き刺さる。
決して過剰ではない程度に躰を震わせ、ゆったりと振り向いてみせるお香。
「母さま……」
そして其の両の眼は、自分を迎えに来た母――お静を捉えた。当然、彼女の右手に繋がれた童の姿も。
其の二人の姿を視た途端に、場を駆けていくなだらかな風も手伝って、お香が纏う哀愁が際立った。
理由は一つ。
「母上、もう陽も暮れます。夜風が躰に障らぬ内に、帰りましょう」
「~~~~心太……」
お香が、お静と実の息子である心太に見せている潦倒の様を、確と自覚しているからだ。
半ば放心の身で帰郷し、生活の殆どを賄わせている母。其の間に産んだ、自身も注がれた〝母親〟という存在の愛情を、之まで碌に与えていない息子。
二人に対する負義が、お香自身を締め付けていた。
逃げ出したい衝動に駆られる。其れを、躰が拒む。
そんな、幾度となく繰り返す〝自身〟の衝突が、お香の背負う罪からの枷。
外す術は識っている。しかし、其れを行わないのは、できないからだ。その理由さえ解していながら、お香は縛られ続けている。
「お香、今日はもういいだろう? 儂だけなら兎も角、心太に要らぬ気遣いをさせるんじゃないよ」
お静が、怒気でも呆気でもなく、憐れみに満ちた言葉を投げるのは、其の相手が実の娘だからだろうか。
自身も知らしめられた〝時代〟の力。其れに抗えず、彼女もまた、生涯の付き人と定めた相手を失った。故に、お香が今負っている悼みは良く解る。
其れこそ、痛い程に――。
だが、違った。
正しくは、変わった。で、あろうか。相手へと抱く哀憐の情ではない。変わったのは、其れを向ける相手だ。
「母上、さあ――手を」
心太が、お香の足元まで歩み寄り、其の未発達の幼い手を差し伸べる。大人であるお香は、唯肘を上げるだけで攫めるような――そんな距離。
母親の顔を見上げながら、限界まで伸ばしきられた小さな右手。か細い其れが、何よりも強く放つ、健気さ。
「――っ~~~~」
震える肘を曲げた先でお香が合わせたのは、掌ではなく、指。浮かべる表情とは全く別物である其の力強さを、彼女は受け止める事ができなかった。
声に成らなかった母親の言葉を、心太が理解できたかは判らない。しかし、彼は其の触れた指を握り緊めた。震えを治めるように、幼いながらも精一杯の力を込めて。
何より、触れた温もりを、放さぬように。
途端に、お香が残った左手で自身の眼元を覆う。溢れ出した涙を、隠す為だ。
誤魔化しにも成らない其の行為に、応えはなかった。恐らくは、其れこそが応えだったのだろう。
「――さあ、帰るよ」
「はい、婆様」
母子が演じるには、冷たすぎる場面。
其れを観るに堪え切れなくなったお静が、二人に帰宅を促す。結果として、彼女は更に心を痛める事になる。
そうしなければ、恐らくは尚もそうしていたであろう。其の心太が応えた、母親の指を引いて歩き出す姿が、お静には痛すぎた。
しかし、其れを口にもしなければ、心太に言葉をやる事はしない。……いや。できなかった。
尚も顔を覆うお香の手を引く心太もまた、表情を誤魔化していた。
容姿に合わぬ、芯たる強さを見せる幼き士に、掛ける言葉が無かったのではない。そうしてしまえば、此の士が崩れてしまう事を識っているからだ。
だからこそ、娘に向けていた情を、孫へと向け直したのだ。
後ろ目で待ち、やがて二人が追いつくと、お静は心太の左手を黙って握った。其の行為に思わず足を止め、俯きだった顔を上げて、自身を見上げる。そんな心太の表情を、お静は見ない振りをした。
沈んでいく夕陽に伸びる、帰路につく三人の影。
其の不自然な並びが、持たぬ口で物悲しさを語っていた――。
* * *
其の夜更け、京・本能寺に向けて進行する軍勢があった。
桔梗を印した旗を翻し、一万三千を数える兵達の顔に浮かぶのは、疑心と不安。自分達が向かう先に在る〝敵〟を、確と理解しているのであろう。
そして、其の意味も。
『敵は、本能寺に在り!』
の直前に、彼等を率いる大将が発した言葉だ。異を唱える者がいなかった筈がない。けれども、許されなかった。
眼前で鮮血に塗り潰された其れが、彼等の意思を奪う。抗う事で辿る道を知らしめられ、取る行動は限られた。
其れが、現状である。
総てではないにしろ、多くの者が恐怖した。
大将の振るった力にではない。彼を突き動かした、時代の力に――だ。同時に、自身等も其れに屈している事実を、充分に識った。
翌早朝、哀れにも想える兵士達が、主君が居座る本能寺に到着。瞬く間に包囲を完成させると同時に、嘆きにも似た鬨を上げる。
それでも、流れる涙はなく、矢と血が其処を飛び交い、舞う。
様々な思念が蔓延る寺中で、やがて火の手が上がった。まるで、何かを訴えるように猛々しく広がる其れに、ひと時の間、誰もが動きを止め、眼を奪われる。
燃え崩れていく寺に、自身の思想を重ねて。
こうして、時代は再び流転を開始した――。