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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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前編:散り逝くは……④

「全軍、突撃――!」

 軍の先頭を行く信長の声に、大きな喊声が共鳴する。同時に、大軍と呼ぶには充分過ぎる軍勢が、怒涛の如く進軍を開始していく。

 元亀元年四月二十六日。

 運命という物が在るのならば、此の日が心兵衛にとっての其れを告げる日となった。

 越前国の入り口とも云える金ヶ崎を落とされた朝倉家は、木ノ芽峠一帯の防御を強化し、織田軍勢に対抗。しかし此の時、朝倉家君主である義景は戦場には居らず、一乗谷へ引き返していた。

 之を勝機とみての、突撃の号令だった。

「ぐわ――!?」

 大勢の、誰の物かも判らない悲鳴が、次々に上がっていく。

 血の臭いが、鼻を衝く。血の色が、視界を紅く染める。そして、血の重たさが、戦場という地に立つ者達に圧し掛かっていた。

 戦況は、完全に織田軍の優勢であった。

 そんな中、木下秀吉率いる隊へ、朝倉家の矛先が向けられる。織田か朝倉か……。どちらとも判らない兵士が瞬く間に倒れ、血が宙を舞っていく。

 其処に、心兵衛は居た。

 之までの戦の経緯と同じように、上手く味方の兵を隠れ蓑とし、現状まで生き永らえていたのだ。

 其の木下隊を初め、織田全軍に伝令が届けられたのは、勢いに乗る織田軍の勝利で戦も終わりを告げようとせん、正に其の時だった。

 ――浅井軍勢、越前到着。

 其れは、戦況を大きく変える事になる。

 自らの天下取りへの両翼として信長が選んだのは、三河の徳川家と近江の浅井家。

 此度の越前討伐に於いて、信長は両家に各々に指示を与えていた。

 徳川家には、織田との連合に依る参戦。其れに対し、浅井家に与えた指示は、此度の朝倉家との戦を静観する事だった。

 之には、浅井家が先代の久政の代より朝倉家と同盟を結んでいた事を、信長が配慮した背景が在った。

 しかし、其の浅井家が軍を率いて、越前に現れた。

 報を耳にした両家の兵士達は次第に動きを止め、朝倉だけでなく、織田軍に混乱が生じる。

 そして、其処を衝くように、浅井軍が進軍を開始した。

 ――其の矛先は、織田軍勢に向けられた。

 心兵衛には、何が起きているのかさっぱり解らなかった。当然でもある。彼を統べる存在である信長を初めとする各家臣達にも、現状を呑み込むのは容易な事ではなかったのだ。

 だが、心兵衛にとって其れはどうでも良かったのかもしれない。

 浅井と朝倉の挟撃を受け、織田軍は雪崩れの如く崩れていく。彼の眼に、そんな光景が鮮明に映されていた。

 血の臭いが更に強まる。逃げ腰だった朝倉兵の勢いが一変していた。士気は下がり、混乱している織田軍に、対抗し得る力はとうに失せてしまっていた。

 そんな中で心兵衛は、何かに対して命を乞うた。唯、只管に――。

 そして遂に、撤退の命令が織田全軍に告げられる。直ちに織田は撤退を開始するが、そう易々と事は進まない。前方には朝倉。後方には浅井。最早、兵力と士気の差は圧倒的であった。

 其れでも、心兵衛は只管に逃げた。

 降り注ぐ矢雨の中を駆け回り、頬や躰を矢に掠められ、飛び散る血を其の身に幾らか浴びながらも、脚を止めずに駆け続ける。

 賢明な其の姿を嘲笑うかのように、更なる窮地が彼を襲う。

 信長の退却を成功させる為に、心兵衛の属する隊将である秀吉が、殿に名乗り出たのだ。

 心兵衛には、何が何なのか解らなくなっていた。同時に、秀吉を初めとする他の味方達の考えまでも、理解出来なかった。

 彼等は何の為に戦うのか? 何を求め戦うのか?

 作夜の宴の場で耳に届いた幾多の言葉が、ふと記憶を介して頭を過ぎった。

 出世。栄光。名声。そういった言葉が、心兵衛の記憶に確と根付いていた。自分の持つ〝欲〟とは違う其の言葉達に、心兵衛は笑いが出るのを必死に堪えた。

 死んだ後に、そんな物が一体何になる? 死して尚、名声や栄光を称えられる事に、一体どれ程の価値がある? 死は無。勿論、死んだ事なぞ無いが、云い切る事はできた。

 生きているからこそ、残せる物が在るのではないのか。

『……待っておりますね』

 ふと、最愛の者と最後に交わした言葉が頭に過ぎる。其れが、生きる事への想いを強く沸かせていく。

「ぎゃあぁぁぁ――!!」

 刹那、すぐ隣に居た味方から悲鳴が上がった。そして、心兵衛の躰に飛び散る血潮。そっと視線を外した先で、其の者は既に息絶えていた。

 周りを見渡せば、隠れ蓑としていた味方兵は、完全に包囲されていた。後方の遙か先には、少しずつ小さくなっていく味方の軍勢が、眼に映る。

 嫉みにも似た、躰の動きを封じた其の凝視が、心兵衛に油断と隙を生じさせた。

 朝倉兵の一人が、心兵衛に向かって刀を振り被っていた。

「~~~~っ!」

 其れに気付いた瞬間、彼は確かに〝死〟を覚悟した。自らの実力の程は、良く見極めていたからだ。不意を衝かれた此の現状を打破できるほどの力を、心兵衛は持っていない。

 故に、朝倉兵の振る刀は、容易に心兵衛を斬りつけた――

「ぐ……ふっ…………」

 ――筈だった。

 しかし、其の刀身に絡み付いた赤い血を流したのは、心兵衛ではない。

「…………?」

 〝其の時〟を迎えても可笑しくない現状に疑問を抱き、心兵衛は咄嗟に塞いだ瞼を、恐る恐る開いていく。

「――っ!?

 そして、見開いた己が眼で、其の解答を得る。

「~~~~ひ、久匡ど……の……?」

 何時の間にか自分の前に立ち、大の字を書く久匡。其の足許には、音を立ててでき上がっていく血の溜まり。

 心兵衛が得た答えは一つ。

 文字通り〝盾〟となり、心兵衛に代わり刀を其の身で受け止めたのだ。

自らの命を顧みず、心兵衛を護る為に――。

「久……!」

 背を向けたまま、自身の前で立ちはだかる其の者の名を口にし掛けた瞬間、心兵衛の視界が鮮血に塗れる。

 微かな隙間から垣間見えた其の光景で、久匡の胴を貫き、その切っ先を現した刀が、嗤っているかのように陽の光を反射した。

 紛れも無い、其れは止めの一突き。

「……う……わ――――!!」

 木ノ芽峠に谺する喊声を掻き消さんとするかのような咆哮が、勇ましげに駆け抜けた。

 其の声の主は他でもない。

 ――心兵衛だ。

 今にも手から離してしまいそうだった刀を力強く握り締め、尚も咆哮を上げながら、自我を失った心兵衛は、崩れ掛けていく久匡の脇をすり抜けた。

 驚気を隠す暇すらなく、朝倉兵は唯、眼前の心兵衛の発する気迫に圧される。一変した戦況で、自身の士気は之以上に無い程上昇していた。今正に地に伏そうと倒れていく久匡を襲ったのは、彼だ。そして、其の結果は更に自らの士気と勢いと自信を高揚させた。

 だが、そんな彼が、迫りくる心兵衛に明らかな恐怖を抱いたのだ。女子供のような、華奢な体格である敵の何がそうさせたのか。結局、彼が其れを識る事は無かった。

 次の瞬間、痛みとも判り難い衝撃が胸を襲い、思考を完全に停止させたからだ。

 衝撃の正体は、心兵衛の放った一突き。

 直ぐ傍らで天を仰ぐ姿勢となった久匡が突かれた箇所と、心兵衛が朝倉兵に突いた箇所が同じであった事は、唯の偶然であろう。

 閉じる寸前の、微かに機能していた視力の中で、久匡は確と其れを眼にした。

 朝倉兵の胸を突いた瞬間、心兵衛はほんの一瞬だけ自我を取り戻す。そして、視界の端で倒れている久匡の顔を捉える。

 最早、眼を開く事は愚か口を利く事すらできないのは明白だった。しかし、そんな彼の表情は悔いや怨みなぞではなく、別の何かを訴えているかのような――そんな表情を浮かべていた。

 其の表情が、結果として心兵衛の何かを切ったのだろう。

 突き刺した刀を引き抜くと、多量の血潮が吹き出し、今度は心兵衛の躰を刹那に紅く染める。

 ――人を殺した。

 一瞬。そう、本当に一瞬だけ、そんな迷いが彼に宿る。だが、其の直後に心兵衛は刀を握る手に力を籠めると、最寄りで長槍を構えていた浅井兵に向かっていった。

 応戦の仕草を見せた浅井兵だったが、心兵衛は其れよりも疾く、そして一片の躊躇も見せずに、刀を振りかぶった。

 確かな手応えが、刀を通じ手に伝う。振られた刀は、見事に朝倉兵の首を斬り裂いた。

 罪悪感なぞ無かった。逆に、覚悟さえ生まれていた。

 目の前の全員を殺めてでも、必ず生き残ると――。

「おおおおおおおぉぉぉぉ――……っ!?」

 そんな決意の下、再び咆哮を上げると同時に刀を振るおうとした、正に其の瞬間だった。

 躰に響いた鈍い音が、心兵衛の躰の動きと咆哮を止めた。微かな痛みが彼を襲う。

 首を下へ向けると、腹の肉を突き破り、顔を覗かせる槍の矛先が見えた。ゆっくりと後ろを振り向いた視線の先で、其の槍を手にした浅井兵を捉える。

 何が起きたかなぞ、考える事は無かった。不思議と、心兵衛は恐怖を感じていなかったのだ。

 僅かな間を置いて、彼が微かに動きを見せると、浅井兵は牽制するように突き刺したままの槍を、ぐるりと廻してみせた。刹那、心兵衛は再び動きを止め、口から多量の血を吹き出す。

 誰の眼からしても、心兵衛の〝死〟は確実だった。恐らくは、此の瞬間の彼自身さえも。

『……下で、待っておりますね』

 しかし、お香の言葉がまた、心兵衛の頭を過ぎる。

すると、信じられない事に、彼はそのまま脚を前に進め、槍から躰を開放し、刀を握った手を、天へ向けて翳した。

 心兵衛の其の姿に恐怖を覚えたのは、敵の朝倉と浅井の兵だけではない。心兵衛の振る舞いを眼にした織田の兵でさえも、彼の姿に言葉を無くしていた。

 誰もが、尚も引き摺りながら脚を進める心兵衛に、強い――まるで獣のような意志を感じていた。

 そんな異様な雰囲気の中、心兵衛は翳した其の手を、最寄の敵に振るおうとした。だが、翳み始めていた彼の視界に、一本の矢が映る。

 其れは、時間間隔の矛盾だった。

 迫ってくる矢の速度はかなり遅い。勿論、心兵衛だけがそう感じただけだ。しかし、確実に其れが自分に向かってくる事も、解っていた。

『あの桜の樹の下で、待っておりますね』

 お香の声がまた、今度は其の姿と伴に頭を過ぎる。

 約束の言葉であり、最後に交わした言葉だった。瞬間、紅に塗れた顔を、血を乗せた雫が伝っていく。

 鮮明なお香の姿に手を伸ばし、其の名を呼ぼうとした時、無情にも運命が心兵衛の全てを引き止めた。

 周囲の者にとっては一瞬であった、時間の流れの終わり。

 視界が矢先で完全に埋められた其の刹那、心兵衛の意識は途切れた――。


* * *


 金ヶ崎での戦より日を経た、四月三十日。僅か十名程となった供に囲まれ、織田信長は京へと帰還。辛くも其の命を紡ぎ続けた。

 戦場からの撤退――事実上の織田軍敗北の報は、瞬く各地へと流布する事となる。当然、美濃の地にもだ。


* * *


 花の散り切った、彼の桜の樹の下。

 夏が訪れ、眩い陽射しが照る。秋がきて、紅色と黄金色の葉が踊る。冬と成り、吐息と伴に景色が白く染まる。

 四季が移ろい彩を変える中、お香は変わらず、其の場で彼の者を待ち続けた。

交わした約束を胸に抱いたまま、毎日――。

 清を初めとする周りの声は、彼女の行為を止めるには至らなかった。時が経つにつれ、次第に其の声も数を減らしていく。だが、無くなる事はなかったのは、お香が抱える躰の状態が原因であろう。

 其のまま時は流れ、心衛兵が姉川へ経ってから、一度目の春を迎える。

 お香と心衛兵が交わした桜の樹は、再び桃色の花を咲かせ、変わらず其処に在った。

 しかし其の下に、二人の姿は――無い。

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