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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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前編:散り逝くは……③

 永禄十一年九月。

 美濃の地を統べる織田信長は、松永久秀・三好三人衆を筆頭に企てられた謀反に因り、京を追われた足利義昭を擁し、見事に上洛を果たす。

 其の後、義昭は室町幕府第十五代将軍に就任。之によって、織田家は将軍家からの信望を確かなものとする。

 其の翌年――永禄十二年十月には、伊勢国の平定を達成。此の時織田信長は、事実上最も天下人に近い大名となっていた。

 織田家の其の勢いは止まる事は無く、勢力は更に拡大していく。そうなれば、織田家に人材が要される事は必然な事だ。

 世が世なだけに、自ら其れに名乗りを上げる者も少なくない。けれど、其の者達に反し、決して望みはしないものの、〝時代の力〟に逆らえず、泣く泣く徴兵されていく者達の姿もまた、少なくはなかった。

 そして、更に時は流れ元亀元年四月。

 心兵衛とお香。二人にとって、三度目の春――。


* * *


「明日、美濃を発つのですね……」

 虫が静けさを謳う、月明かりの夜。川のせせらぎに混じり、肩を合わせ隣に座る心兵衛に――けれども顔は向けず、お香は呟いた。

 お香の声に、心兵衛は応えを見せる素振りも無く、唯じっと、月の浮ぶ川の流れを見詰めている。

 そんな刻が、どれほど経っただろうか。そもそも、二人が此処へ来たのは夕暮れ刻だった。橙色に大地を染めていた太陽は、とうに顔を隠してしまっている。

 時間も景色も確かな変化を見せる中で、二人だけが、其れを拒んでいた。

 肩を伝ってお香が識る、心兵衛の震えまでも――。

「どうして……どうしてこんな……。どうして、私達がこんな……っ!」

 静寂の中に谺する、掠れた叫び声。

 怒りや悲しみ。其れ等よりも、憎しみが深く濃く滲んでいた。

 ――誰に。といった、特定のできる相手に向かってではない声。

 〝時代〟という、形を持たない相手に向けられたお香の悲痛な叫びは、空しく宙に飛散していくだけだ。

 心兵衛が……いや。お香と二人が其の力に苛まれたのは、先日の事だ。

 此度の越前侵攻表明によって、之までの戦の影響が比較的少なかった尾張・美濃での徴兵も行われ、心兵衛は其れに逆らう事ができなかった。

 心兵衛が震えを見せているのは、恐怖に因るものだ。彼は確かに恐れていた。

 戦場へ赴く事を。〝死〟を目の当たりにする事を。そして、〝死〟を其の身に受け入れる事を――。

「~~~~心兵衛様!!」

 ――だが、先に其れに耐え切れなくなったのは、お香だ。

 心兵衛が決して識り得ない恐怖。其れを想像するだけで、お香は途端に怖くなった。

 今、こうして肩を合わせている事も、そうする事で伝わってくる愛しき者の体温でさえも、全て消えてしまいそうな感覚に陥る。

 唯、怖かった。心兵衛が居なくなる事実を考えるだけで、何もかもから逃げ出してしまいたいと願う程に。

 だからお香は、湧き上がるあらゆる衝動に、其の身を任せた。

「――んんっ!?」

 心兵衛の頬を両手で押さえるように、強引に自分の方へと向かせると、お香は唇を心兵衛の其れと重ねる。

 二人が出逢い、夫婦となって三年。お香が初めて自分から行った接吻だった。

 触れ合う唇の温もり。震えに因り舌先が微妙に絡まり合う艶。頭では拒絶しても、〝男〟という本能が、心兵衛に少なからずの欲を生み出す。

 しかし、一粒の雫が刹那に其れを霧散した。

 雫の正体は――お香の涙だ。

 瞼から溢れ出した温もりを帯びた雫は頬を伝い、彼女の躰を支えている心兵衛の手に滴り落ちた。

 其れに気付いた時、心兵衛はやっと把握する。

 恐怖に苛まれているのは、自分だけではない事。そして、眼前の最愛の者の為に、自分は還ってこなければならない事を――。

 ゆっくりと、心兵衛は自ら唇を分かち、開かれた潤むお香の瞳を見遣る。そうする事で、生まれたばかりの決意が一層燃え上がっていく。

 意志という、糧を得て。

「必ず還る……。必ず――」

 お香の頬に優しく触れ、依然瞼から溢れ出す涙を親指で拭ったかと思うと、心兵衛は途端に彼女の躰を引き寄せた。

 強引とも云える程に、力を籠めて。

 逞しさに欠ける心兵衛の胸元が、涙で濡れる。不意だった事もあり、お香は声を上げる事もできなかったが、そうする気も起きなかった。

 怯えているような心兵衛の胸の鼓動が、彼女の耳を伝ったからだ。

 弱々しく、けれども足早に脈打つ鼓動の音が、お香には恐怖に抗っている強さを謳っているように響く。涙は依然として止まらないものの、何時の間にか震えは止んでいた。

 かといって、恐怖は消えない。だが、今は其れよりも強い感情がお香を――そして、心兵衛を覆う。

「心兵衛……様……」

 やっと想いに応え、躰を包んでくれた夫の肩に手を廻し、其の名を呼ぶ。

 離れてしまう事の哀しみ。何とも云い難い不安。次に逢える日は、何時になるか知れない。――もう、逢えないという事もある。

 望みもしない時代の風に、二人は唯、煽られていた。

 逃げる事もできず、立ち向かう力も無い。そんな二人は、まるで互いを護り合うように抱き合い、互いを確かめ合うように、再び唇を重ねた。

 僅かに肌寒さを持つ春風に吹かれながら、何時しか二人は家路へと着いた。まるで、肌を伝う相手の温もりを逃がさんとばかりに、寄り添って。

 二度の四季を伴に過ごした長屋。此処が、心兵衛の還るべき場所。そして、二人が互いを最も感じ合える場所。

 思い出が溢れる巣の中で、其れを侵そうとする姿無き力を追い払おうと、二人は今までよりも更に強く、深く相手を愛した。獣の如く、荒々しくもあり、されど〝生きるもの〟として、神々しくもある輝きを放って。

 そうして、二人にとって最後の夜が明ける。

 翌朝、心兵衛は時代の力に手を引かれ、時代の風に其の背を押され、美濃を後にした――。


* * *


 四月二十四日。

 心兵衛が――織田信長の軍勢が美濃を発って、幾日が過ぎた。

「――お香ちゃん。そろそろ陽も暮れるし、今日はもう……」

 風に舞う花弁が、圧倒的に数を減らした桜の樹の下。其処で蒼白に近い顔色で佇んでいるお香に声を掛けたのは、彼女の長屋の隣に住む農婦だ。

「清さん……。毎日、申し訳ありません。気を遣わせてしまって」

 あれから、お香は毎日欠かさず此の場所へ赴き、こうして清が其の身を案じて迎えに来るまでの間、唯佇むようになっていた。

 何も口にはせず、唯じっと其処に居るのだ。愛する者へ祈りを捧げる為だけに――。

「けれど、今日はもう少しだけ宜しいですか? 陽が沈む前には戻ると約束致します。ですから、今日は――」

 何時もと同じだった。僅か数日間のやり取りではあるが、清は昨日以前と同じ時間にお香を迎えに来た。

 だが、彼女の応えだけが、何時もと違ったのだ。

 一瞬だけ振り向いて見せた、生気の薄れた虚ろいだ眼。唯、其れとは裏腹に強い意志の色が確と見られた。

「……解ったよ。でも――」

 お香の其の眼に、清は譲歩する。元々赤の他人同士だ。こうして彼女がお香の身を案じて声を掛けるのも、お香にとっては御節介にしかなっていないのかもしれない。

 しかし、清は無意識に其れを否定した。

「……?」

「――陽が暮れても戻ってこなかったら、父ちゃんを連れてでも強引に帰らせるからね!」

 清自身は決して気付かない。気付けるのはそう。其れを受けたお香のみだ。

 お香は被害者だった。……いや。正確に言えば、被害者という〝立場〟に甘んじて浸っていたのだ。

 だからこそ、清の口にした言葉の重たさが解る。そして知らしめられる。

 彼女もまた、自分と同じ被害者なのだと。

「あ……ありがとうございます」

「うん、じゃあ約束だよ。ちゃんと陽が暮れるまでに戻るんだよ?」

「――はい」

 清は気付かない。

 彼女がお香に見せたのは、決して御節介なぞではないという事を。

 逆にお香は識る事になる。

 こんな時代でも、〝優しさ〟は実るのだと――。

 暴虐と野望に満ちた世。お香と心兵衛を引き裂いたのは、そんな時代の力だ。

 けれど、其れに流されて沈み掛けていたお香の手を取ったのは、清が見せた紛れも無い優しさ。

 夕映えに消えた其の清の想いに応える為、お香は彼女の分も祈る事にした。此の数日間で、初めて他人の為に時間を費やした瞬間だった。

「心兵衛様……必ず還ってきて下さい。私独りでは、とても抗えそうにありません」

 そして、自らの弱さを口にする。結果として清に反する事になった、何時もに増して胸に募る強い不安を流そうと、自らの弱さを晒す。

 蹲るお香を庇うように、其の顔を隠すように、夕陽に紅く染まった桜の花弁が、彼女の周りで風に舞っていた。

 清との約束通り、彼女が家路に着くまでの間、ずっと――。


* * *


 同日の夜。

 越前攻略を大詰めに控えた織田軍は、金ヶ崎に陣取り、明日の攻撃に備えていた。

 仄かな月明かりの下、重臣の一人を筆頭とした隊毎に人数は分かれ、各々の刻を過ごす。其の中の、工作を主とする木下秀吉率いる工作隊の中に、彼の姿は在った。

「……どうした心兵衛? 何処か痛むのか?」

 連日の戦に因って蓄積された疲労を労う為。そして、明日の戦に備え、兵の士気を高ぶらせる鼓舞を兼ねた酒の場を、秀吉は提案。過度に羽目を外すわけでもなく、かといって物静かに収まる雰囲気でもない其処で、心兵衛は生き永らえていた。

 そんな彼に声を掛けたのは、一回り程齢の離れた男だ。浮かぬ表情で俯く心兵衛を、然も心配そうに見詰めていた。

 声に顔を上げた心兵衛の眼に、良く識った其の男の顔が映る。

「久匡殿……」

 故郷である美濃にて、長屋で隣り合う関係にある久匡の気遣いに、心兵衛は心の中で感謝し、礼を云う。

 本来なら、存在しなくとも不思議ではない〝優しさ〟に対し、言葉を声にするのが礼儀なのであろう。だが、現在の心兵衛には、そんな余裕なぞ無かった。

「傷の痛みはもう……。ですが~~~~っ」

 叫びにすら成らない声と伴に、心兵衛は再び顔を伏せる。

 戦に因る躰の疲労。そして、其れを上回る程に蝕む恐怖に、彼の心は衰弱し切っていた。

幼少の頃より暴力とは縁遠かった心兵衛の顔は、それは綺麗なものだった。しかし、現在は違う。

 徴兵され戦場へと赴き、たったの数日で其の顔は傷と血に塗れた。

 生き永らえている事自体が、心兵衛にとっては〝奇跡〟と云っても良い。

 無論、全うに死と抗ったのではない。

 戦う術を知らず、ましてや其の意志すら持ち得ていない心兵衛が取ったのは、逃げの一手だ。

 共に出陣した兵達の陰に隠れ、只管に逃げ惑う。之だけだった。

 死は勿論、人を殺める事をも拒絶した心兵衛は、なるべく乱戦の場からは距離を置いた。其れが功を成したのか、無傷では無いながらも彼は生き延びる事に成功したのだ。

 ――隠れ蓑として、味方兵の命を犠牲にして。

 其の結果が、心兵衛の心を攻め立てていた。

 自らが生き残る為に、〝利用〟した他人。面識の無い者は当然居たが、逆の者も当然居たのだ。

 そんな彼等の最期の顔が、記憶の中で常に心兵衛の眼を直視する。眠れば夢にまで出てきそうで、其れもできなかった。

「しっかりしろ、心兵衛」

「~~~~久匡殿……」

 ふと、久匡が心兵衛の肩に手をやる。

 触れられるという確かな感触と、男らしい大きな手が持つ、確かな温もりを心兵衛は感じ取る。

「此の越前攻めを終えれば、また美濃に還る事ができよう。其れも、近々実現するであろう。信長様の力なれば、確実だ」

 肩を握る大きな手に顔を上げた心兵衛に、久匡は其の眼を直視して云う。

 心を蝕み続ける、怨みの眼ではない。今自分を見据える眼は、確かに生きており、自分の身を案じてくれる優しさを帯びた眼だった。

「久匡ど――」

「良い事を云うのう、お主」

 心兵衛が久匡の想いに応えようとした瞬間だ。

 まるで、二人の間を縫うように其の声は駆け抜けた。必然よりも、反射的に二人は声の方へと顔を向ける。

 聞き覚えのある、何処かひょうきんな其の声のする方へ――。

「~~~~ひ、秀吉様!?」

 声を揃えて、心兵衛と久匡が声の主の名を叫んだ。

 二人の眼が捉えたのは、声が連想させるお調子者を絵に描いたかのような、猿顔の男。しかし二人は其の猿に対し、眼を合わすどころか、自ら頭を地に着けて平伏して見せた。

「そう恐縮するない。儂ゃあ、堅っ苦しいのはどうも苦手で、大嫌いなんじゃあ」

 ひょうきんでありながら、明らかな拒絶を籠めた言葉で、猿――木下秀吉は二人の行動を払う。恐る恐る久匡が応えを見せ始めると、心兵衛は其れに続いていく。

 二人が顔を上げ、自分と眼を合わせた瞬間、秀吉は猿顔を更に不恰好に崩しながら、口を開いた。

「お主、嫁御は居るのか?」

 彼の言葉と眼は、心兵衛に向けられた。其れに気付いた瞬間、心兵衛の脳裏にお香の後姿が浮かび上がる。

 自らが創り出した虚像だと識りながら、心兵衛は彼女の顔を見たいと切に願った。脳内での時間間隔の矛盾の中で、心兵衛はお香の名を呼び、其の肩を抱く。其れに反応したお香が、心兵衛へと振り向き彼の願いに応えようとした正に其の瞬間だった。

「――? 聞いておるのか?」

 無情にも、秀吉の声が全てを消し去っていった。浮かび上げた最愛の者の姿も、〝彼女〟に向けた願いさえも。

「~~~~も、申し訳ありません。緊張してしまい、言葉を失っておりました」

 平伏しながら放たれた心兵衛の言葉が偽りの物だと気付いたのは、彼の隣で秀吉を見上げる久匡だけだ。だが、久匡が其れを他言する事は無かった。

 心兵衛の言葉を耳にした瞬間、一つの決意が生まれたからだ。

「全く……肩の力を抜けといったばかりじゃと云うのに。で、どうなんじゃ?」

「――居ります」

 確とそう答えた心兵衛に、再び調子の上がったひょうきんな声が届く。其れが宴への火種となったのは、決して当人の意思に因る物ではないだろう。

「そうかそうか。いやあ、儂にも居てなあ。之がまた儂には勿体無い位の別嬪なんじゃあ。『ねね』というんじゃが、そりゃあ――」

「秀吉様、鼻の下が伸びておりますぜ!」

「~~~~なっ!?」

 ふと背後から声が上がると、秀吉の言葉は断ち切られ、代わりに喝采と笑い声が陣を駆け回る。刹那、秀吉は心兵衛と久匡に背を向け、照れを隠すように大声を上げながら、そちらへ行ってしまった。

 更に力強さを増す喝采と笑い声。

 元々、武家の出身ではなく百姓からの出身である秀吉は、一部を除いた同格の将兵達よりも、兵の扱いに長けた。尤も、其れが百姓上り故の賜物と云えるかとなれば、そうではないだろう。恐らく、彼自身の性格に因るものが大きい。

 だからこそ、つい先日に徴兵されてきたばかりの兵までが、宴を演じるのだろう。

 すっかり放置されてしまった形となった心兵衛は、其れでも、宴と成った眼の中の光景に安堵した。

 そんな心兵衛の肩を、久匡が優しく叩く。

「儂等も混じろうではないか、心兵衛」

 心兵衛が肩に触れる手の方へ顔を向けた時には、久匡は既に隣から歩き出しており、拒否権が無い事を訴えていた。

 久匡が数歩歩く時間だけ、黙って彼の背を見据えていた心兵衛はやがて、意を決したように後を追う。其の気配を感じたのか、久匡は歩みを若干遅らせ、心兵衛と同時に宴の場へと乗り込んだ。

 幾つもの隊へと分断している陣の中で、唯一盛り上がりを見せる秀吉隊の面々。

 秀吉が心兵衛に再び声を掛ける事は、遂に無かった。代わりに、彼が説く〝自分達〟の在り方と、其れに続く兵達の喚声が心兵衛に届く。

 鼓舞と名を打った宴に因り、夜が更けていくにつれ士気が高まっていく秀吉隊の中で、心兵衛一人が心の内に疑心と不満。加え、恐怖を未だに抱いていた。

 何時しか自然と宴は治まりを見せ、夜が更けていく。

 高ぶった精神を維持しようと眠らない者。逆に、体調を整える為に眠りに就く者。様々な意志が集結、静まり返る織田の陣営。

 そして遂に、彼等に朝日が夜明けを告げ、戦いの場へと導いた――。

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