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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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前編:散り逝くは……②

 陽が真上を過ぎた刻。

 民達の宴は、未だ続いていた。

 桜の花弁の舞う其の真下に身を置いていた心兵衛はというと、彼もまた状況を変えてはいなかった。

 背を樹に預け、やはり杯に手を付ける事無く唯、宴の様子を見詰めている。正確に云えば、彼の眼が捉えるのは、最早宴の主役となってしまっている、お香だ。

 心兵衛の眼の中で、彼女は数人の農夫に絡まれるように身を迫られ、対応に追われている。其の様子に心兵衛はいつしか、胸の奥が何か熱くなるような感覚を覚えていた。

 ――嫉妬。

 其れが一番近い感情だろう。だが、心兵衛は其の感情の名を知らない。……いや。知っていたとしても、気付く事ができなかった。

 ふと、お香と眼が合う。彼女が宴の場へ赴いてから、之で四度目だ。其の度に、彼女は優しく微笑んだ。

 心兵衛は其の三度の全てで、逃げるように顔を背けていた。

 そして、今回もそうする。

 舐める程度にしか酒に手を付けていないのにも拘らず、其の顔を夕焼け色に染めて。

 お香に取り巻いている農夫達に抱く、熱く滾る嫉妬という炎。心兵衛は知らないのだ。

 其れを灯す感情が、〝恋〟と呼ばれる想いだという事を――。


* * *


 更に陽が傾いた頃、何時の間にか心兵衛は瞼を閉じていた。春の陽気に誘われ、眠ってしまっていたのだ。

 そんな彼に、一つの影が刺さる。

「ん……」

 何か気配を感じたのか、小さく声を漏らし、心兵衛はゆっくりと其の瞼を開いていった。

「あ……。申し訳ありません、起こしてしまいましたか」

「お、お香……殿……?」

 未だぼやけた視界の中で、ふと影の刺さる方から声が聞こえた。記憶という見えない空間の中から、出入り口の直ぐ傍で掴んだ其の名を口にする。

 少しずつ視界が確かになっていく途中、波打つように形の定まり切らないお香が顔を覗かせ、続けた。

「風邪でも引かれたらと思い、掛け物を持ってきたのですが……。却って邪魔をしてしまいましたね」

 心兵衛の手に、布の感触が伝わる。そして、視界が明けた。出逢った時と同じような、そんな光景。

 長い黒髪を風に靡かせたお香が、心兵衛の視界の中に居た。唯、其の表情は少し違う。

 起こしてしまった事への罪悪感で揺らぐ表情の中に、決して小さくない笑みが含まれている。何処か、嬉しそうな――そんな笑み。

「隣、宜しいですか?」

「――も、勿論です。どう……ぞ……?」

 其処で心兵衛はようやく、お香が自分の前にいる事を疑問に思う。憶えている限り、彼女は宴の場へと駆り出された筈だ。疑心で色を染めた眼をお香から外し、心兵衛は宴の行われていた場所を見据えた。

 しかし、心兵衛の意に反し、既に宴の騒ぎは収まっており、あれだけ騒ぎ立てていた農夫達はというと――

「皆さん、先程から酔われてしまって」

 ――小さく声を漏らしながら、お香が今度は確かに笑みを露にして云う。

 二人の視界の先で、農夫達は其々思い思いの格好で寝入っていた。心兵衛が憶えているあの勢いなぞ、微塵にも感じられない静けさだ。

 そんな中で、二人の視線に気付いた何人かの農婦が、相槌を打ち、手を振る。

「――失礼しますね」

 お香が、そう云って心兵衛の隣へと腰を下ろした。

 其の時、風に靡いた彼女の髪が、心兵衛に僅かばかり触れる。途端に心兵衛は、顔を赤らめて腰を浮かせた。

 二人の距離が、ほんの少し開く。其れでも、お香の髪は心兵衛に届く。其の事実と、初めて経験する異性との時間に、心兵衛の胸は迷いにも怯えにも似た鼓動を鳴らした。

 そうして、一刻が経つ。

 其の間、二人は何か言葉を交わす事は無く、覗くように眼を動かして相手の顔を見ては、直ぐに逸らす。そんな行為が、互いに何度か見られただけだ。

 無言の気まずい刻。其の均衡を言葉で破ったのは、お香だった。

「心兵衛様は――」

 僅かに声を震わせ、心兵衛へと顔を向けて、お香は口を開いた。相手から声を発してくれた事に、心兵衛は安堵を隠せない表情で、お香を見やる。

「――ご家族とは離れて暮らしておられるのですか?」

 先程から一人で居る心兵衛。自分が駆り出された宴の場にも、彼の家族を名乗る者は居なかった。会話の切り出しとしても定石であり、何ら不思議は無い。

 しかし、心兵衛は途端に表情を曇らせた。

 青天を象徴する太陽に、厚い雲が掛かったように、暗く。

 其れは、お香にとっても一驚を喫した。そして、思い知る事になる。

 自分が如何に、心兵衛という人間を知らないかを――。

 二人が出逢った時間を考えれば、至極当然の事だ。しかし、そんな彼女が自身の心に失言に因る後悔と自己嫌悪の念を沸かせたのは、心兵衛がお香に抱く想いと同じものを、彼女もまた、彼に抱いていたからであろう。

 心兵衛は表情を変えぬまま、ゆっくりとお香から顔を背け、空を見上げた。陽に眼を眩めながらも、其の向こうを見ているような。そんな眼だ。

 やがて、意を決したのか。お香へは向き直らずに、心兵衛は其の口を開いた。

お香の問いに対する、答えを。

「父はわたしが幼い頃、死にました」

「――っ!?」

 まるで、感情の無いような声。そんな声で事実を告げられ、お香は堪らず絶句する。

 重く、深い沈黙。

 其れを創ったのは自分なのだと識りながらも、お香は訊かずにはいられなかった。

「病……ですか?」

 心兵衛が幼い頃となれば、其の両親も齢をそれほど重ねてはいない筈だ。寿命ではないだろう。では、何故そうも早過ぎる〝死〟を迎えてしまったのか。

 好奇心なぞという邪なものではない。一度お香に向き直った心兵衛は、其れを察した。

 そして、問いに応える。

「戦です」

「~~~~っ」

 またもお香は絶句する。

 心兵衛が答えてくれた、理由のせいではない。

 再び訪れる、沈黙。

 心兵衛は相手の問いに答えた。故に、彼の性格上、自分から言葉を発する事は無い。そして、其の相手であるお香は、心兵衛の言葉に声を封じられた。

 云わば、当然の沈黙だった。唯、刹那の如く飛散していったが。

「……同じ……ですね」

 今も尚、宴が続いていたのならば、恐らくは聞き取れなかったであろう程の、其れは呟きだった。

 だが、心兵衛は確と聞き取った。

 声の方に顔を向けた心兵衛の眼に、顔を伏せたお香の姿が映る。

 声を聞き取った心兵衛だったが、其の言葉の意味は解る事ができなかった。一体、何が〝同じ〟だと彼女は云うのか。

 若しも心兵衛がお香と顔を合わせながら答えていたならば、理解したのだろうが。

「私の父も、戦場へと連れ出され……」

 疑心を顔に出していた心兵衛に応えるように、お香がゆっくりと顔を上げる。そんな彼女の表情……いや。眼に、心兵衛は自分の眼を疑った。

 顔を、眼を。先程心兵衛がそうしていたように天へ向け、お香は続けた。

「……帰って――きませんでした」

 深く暗い、暗澹の闇にも似た憎悪を、其の眼に宿して。

「お香……殿……」

 此の時、心兵衛はやっとお香の言葉の意を解した。そして、彼女もまた自分と同じ、戦に因る間接的な被害者なのだと。

「――っ! も、申し訳ありません。私、取り乱してしまったようで……」

 そんな二人の間を割って入るように、一際強く風が吹いた。其の風に舞う桜の花弁が視界に入った途端、お香は我に返る。

 自身に落胆するかの如く、頭を下げ謝罪するお香。心兵衛は唯、無言で首を振って彼女を制止した。

「心兵衛……様……」

 心兵衛の振る舞いに、嬉しさと恥ずかしさを交じり合わせた表情で、お香は心兵衛を見据える。

 彼女の眼が映したのは、慈愛に満ちた笑みを浮かべる心兵衛の姿。

「もっと話して下され、聞かせて下され。――貴女の事を」

 宙を舞う桜の花弁の隙間を縫って、心兵衛がそっとお香へ手を差し伸べる。

 此の時の心兵衛に、何故か恥じらいの気は微塵にも感じられなかった。唯自然と彼の手はお香へ差し出され、其の指先は、お香の頬に舞い降りた花弁を拭い取る。

「そして、聞いて下され、知って下され。わたしの事を――」

「――は、はい……」

 変わらない表情のままそう続けた心兵衛に、お香は浮かべる笑みから恥じらいを振り払い、答えた。

 心兵衛もお香も、母親の事は口にしなかった。解っているのだ。同じ想いをしてきた二人だからこそ。

 女は戦場へは行かない。だが、〝死〟を知る事はある。

 愛した者の〝死〟。其れに因る悼みと悲しみに勝てなかった者が辿る道。二人は其れを識っている。故に、口にはしない。

 そうして二人は、互いの事を語り合う刻を過ごしていった。陽が橙色の灯りを灯し、空を朱色に染めるまでの間、ずっと。

 日を改めた、其れからの月日。

 二人は、同じ時間を過ごすようになっていた。日を追う毎に増えていく〝二人の時間〟。二人の想いが一つになるのに、其れ程永い時は要しなかった。

 やがて桜の花は散り逝き、夏を向かえ秋が過ぎ、冬を越えても尚、二人は変わらずに居た。

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