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命―ミコト―  作者: 雛櫻
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前編:散り逝くは……①

 時は遡り、永禄三年。

 桶狭間の合戦後程なくして、当時人質として今川家に身を置いていた松平元康が、義元公の討ち死にに殉じ独立。其の二年後、織田と松平の両家は清洲同盟を結び、織田信長は、自らの背を護る屈強の兵・三河兵を手に入れる。

 そして、永禄十年八月。

 父・信秀の代より長年の目標であった美濃を、遂に攻略達成。こうして、信長は〝天下布武〟という四文字の印章を用い、天下統一の意志を、世に表していった。加え、近江を領国とする浅井家当主・長政に対し、妹である市を室に入れる事で、両家の同盟を成立。次の目標に向け、信長は充分な土台造りを行った。

 其の翌年の四月。

 美濃の地を流れる或る小さな川の畔で、二人は出逢ったのだ――。


* * *


 季節に殉ずるかのように咲き誇る桜の花弁が、春風に舞う。其の舞を肴に、数名の農民が酒等を施していた。

「いや~しっかし、尾張の殿様が此処を領地するようになって、城下の様子も豪く変わったわい……」

「んだなー。〝楽市〟云うんか、あれは? 知り合いの商人も、最近羽振りが良くなったって、えろう気前がええんやわ」

「昔から、尾張の跡継ぎは〝うつけ者〟で評判だったからのう~。どうなるもんかと思っとったが、なかなかどうして……」

 酒のせいか。此の場に織田家家臣が廻って来ようものならば、其れこそ命の保証ができない悪態を、其々揃って口にする。

 領主が代わり、どれだけ国が良い方へと傾いても、こういった声は決して無くならない。特に、現在彼等を統べる織田信長は、過去の振る舞いに於ける〝異色性〟が強すぎた。恐らく、彼が何かを成功させる度に、其れは同じく花開く事だろう。

「おーい、若い衆! お前さんもこっちゃ来て、一緒に呑もうや」

 ふと、一人が声を上げた。其の視線の先に居る、若者へと掛けた物だ。

 周りの者も、釣られてそちらへと顔を向ける。若者が一人、誰かと酌をするでもなく、其処に居た。

「折角の花見も、一人だとつまらんだろう! さあ、儂等と一緒に楽しもうや。――心兵衛!」

 花見というのを口実に、未だ日の高い頃から酒に溺れる者達とは違い、酒も摘みも殆ど手を着けず、彼は其処に居た。

 風に乗る桜花の舞を直ぐ傍らで嗜むが為、心兵衛は、一本の桜の樹の真下に居た――。

 自分を呼ぶ声に気付かないのか、心兵衛は唯、首を天へと向け佇んでいる。

 まるで、意識が其処に無いかのように。

「……? おーい、心兵衛。聞いてるのかー」

 再び心兵衛に声が掛けられる。だが、其れでも心兵衛は何の反応も見せなければ、行動にも変化は無い。

 酒が入ると、殆どの人間が感情を抑え切れなくなる。そんな最中にある彼等が、こう何度も自分を無視されたとすれば――

「~~~~心兵衛!!」

 ――意地になって執着するのは、当然とも云えよう。

「――え!? ……へ?」

 少なからず怒気の含まれた声に、心兵衛は躰を一つ大きく震わせ、やっと反応を示した。

 何事かと事態を把握できず、二度三度辺りを見回す心兵衛に、再び声が掛けられる。

「何をそんなに驚いてるんけ? ――まあそんな事より、お前さんもこっちで一緒に呑もうや」

 怒気の殆どが呆れに変わっていた其の声に、心兵衛はようやく事態を把握したようだ。

 杯を片手に掲げながら、男達は心兵衛を誘う。

「直におっ母達が飯を持って来るべよ。其れまで一杯やってようや」

 云いながらも酒を口に運ぶ男達の周りに、食べ物の類は見当たらない。在るのは、空になった酒瓶の列のみ。心兵衛の手元に在る摘みの出所である器は、綺麗に片付いてしまっている。

 つまりは、彼等は摘みも無しに酒を嗜み続けて居た事になる。

 朝方此処に着いてから今まで、心兵衛は唯ずっと、桜花の舞だけを眼にしていた。地に付けている尻のすぐ傍には、一片の花弁が酒に浮かぶ杯が置いてあるが、宴会の始まりに注がれた分であり、一切手を付けて居なかった。

 酒は嫌いではないが、強くはない。そんな心兵衛にとって、いくら桜の花が肴と粋な事を云おうとも、酒のみを頂く事には、其れなりの抵抗が生まれたのだ。

「――あ、わたしはもうしばらくこうしております。どうかお気遣いなく、皆さんで進めて下され」

 ――面白くない。

 とでも云いたげな仏頂面で、何とか笑みを作ってそう云った心兵衛に対し、男達は応対を切り止め、先程までと同じように酒を進めた。

 故意的にそうしているのであろうが、途切れ途切れに心兵衛を非難する言葉が、其の中を行き交う。草木のざわめきと共に、風に乗る其れは、当然心兵衛自身にも運ばれてくる。

 だが、彼は敢えて気付かない振りをしてみせた。

 止めたくなかった。邪魔をして欲しくなかった。唯、少しでも永くこうして、桜花に包まれて居たかった――。

 そんな心兵衛の意志に背き、風が再び彼に言葉を届けたのは、其れから一刻程経った頃だ。

「綺麗な桜ですね」

 聞き憶えの無い声。それも、女のものだった。

 何度か首を左右に振って、声の主を探してみるが、視界に入った人間といえば、正面の方向で酒を嗜んでいる先程の男達だけだ。

「……? ――!?」

 空耳か――。そう思った直後。

 背後に人の気配を感じた。地に付けた左手を軸に、躰ごと向き合わせるように振り返った心兵衛の眼は、腰まで伸びた髪を風に靡かせる、一人の女を捉えた。

 外見から判断できる齢は、心兵衛とそう変わらないように思える。

「あ……。も、申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」

 しかし、発した言葉通り、謝罪の意を浮かべた表情で心兵衛を視る彼女は、何処と無く幼くも見えた。

「い、いえ。お気になさらず。わたしが勝手に驚いただけですので。こちらの方こそ、みっともない姿を……」

 右手で頭を押さえながら、心兵衛は女へ頭を下げる。言葉に嘘は無かった。

 過剰な反応をしてしまった事に対してではなく、目の前の女に其れをしてしまった事が、堪らない恥ずかしさを覚えさせた。

 そんな心兵衛に、彼女は自分の非を押して、頭を下げる。其れに対し、心兵衛も同じくそうする。

 暫しの間、小さな〝いたちごっこ〟が演じられた。

「――私は、お香と申します。先日、京よりこちらへと身を移して参りました」

 恐らく自分達の行動の不毛さに気付いたのだろう。互いに話を打ち切る事に同意し、女は自分から先に、其の名を告げた。

 お香と名乗った女に、心兵衛の胸が一つ、大きく高鳴る。

 笑みを浮かべて口を開いたお香を、其の瞬間、風に舞い上がった桜の花弁が、彼女と其の周辺の空間を、桃色に彩ったのだ。

 ――美しい。

 純粋に唯、其の感情だけが、心兵衛の思考を埋める。異性に対し、こんな感情を抱いたのは初めてだった。

 だからであろう。心兵衛は気付かなかった……いや。気付けなかった。

「わ、わたし……わたしは、し、心兵衛。心兵衛と~~も、申します!」

 上擦った上に、割れた声。加え、切れ切れとなった言葉。誰の眼から視ても、心兵衛が正常な心境でない事は明らかだ。

 そう。二人の様子を窺っている、周囲の者達の殆どは感付いていた。解っていないのは、当の本人と、向かい合っているお香ぐらいのものと云っても良いだろう。

 出逢って間も無い。言葉さえも、自己の紹介と他愛無い謝罪を何度か交わしただけだ。其れでも彼は、墜ちていた。

 ――一目だった。

 声に振り返り、お香の姿を眼に捉えた瞬間、心兵衛は、初めて恋をしたのだ――。

 其の二人を、遠目から見守ろうとするのは、お香と共に食事を運んできた女達。齢を重ねていればいるだけ、他人のこういった色沙汰に気を引かれ易く、お節介を焼きたくなる物なのだろう。

 だが、そんな彼女達とは全く正反対の行動に出たのが――

「うおーい、其処の姉さん! 若いのばかり相手してないで、おら達年寄りの酌でも注いでくれんかー?」

 ――酒で顔を赤く塗った男達だ。

「いやだねー。あたい等おばあの酌じゃあ、不服だってのかい? いいよー、お香ちゃん。あんた等は若いもん同士、二人で――」

「どうせそいつは酒も満足に飲めん、もやしじゃあ! 相手をする必要もねえべー」

 咄嗟に女の一人が出した助け舟は、勢い付いた男達が立てる言葉の荒波に、無惨にも沈んでいった。

 酒の入った彼等を抑えるのは不可能と判断し、女達は潔く白旗を振る。

 何せ、先の口調からも、男達の機嫌が斜めに向いているのは、容易に感じられる。ただでさえ腕力では分が悪いのだ。酒によって理性のたがが外れ易くなっている今、余計な刺激を与えない方が、明らかに無難な行動だった。

「――で、では私はあちらに交じって参りますね」

 申し訳なさそうに自分に頭を下げる女達を見て、お香は心兵衛に対し、同じく――そして、何処か寂し気に、そう告げる。

「あ……は、はい」

 再び上擦った声で頷く心兵衛。其の表情もまた、お香と同じく寂し気なものだった。

 少し足早な歩みで宴の場に合流したお香は、そのまま男達に取り囲まれる形で、次々と差し出される杯に酌を強いられる事になった。

 其の困り顔を無理矢理に笑みで塗りたくす彼女を、心兵衛は遠目から見詰める。

 自身の不甲斐無さに、落胆しながら――。

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