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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
征服篇
60/65

第五三話「ギーラの帝国・後」

 シマヌの月(第三月)の下旬。ヌビア帝国ケムト遠征軍はケムト王国領内の都市、ジェフウトに到着した。ジェフウトは元の世界で言うならエジプトのダマンフールに相当する町である。町の横にはナガル川(元の世界のナイル川に相当)の支流が流れている。

 ガイル=ラベク率いるヌビア帝国艦隊はロカシスからその支流の河口の港町まで移動。何百隻という現地の川船を調達し、補給物資を満載してナガル川を遡上した。竜也達と同じ日にはジェフウトに到着し、陸軍と合流している。

 翌日。ジェフウトが開城、ヌビア帝国軍の軍門に降った。


「なんとまあ。やけにあっさりと」


「一合も剣を交えないうちにか」


 マグドとタフジールは呆れた様子である。竜也もまた内心では同様だったがそんな素振りは見せずに「計算通り」といった顔を作っている。

 竜也は町の外でジェフウトを統治する貴族と会談を持ち、いくつかの協定を結んだ。


「ヌビア軍はジェフウトに入城しない」


「ジェフウトはヌビア軍の進軍に協力する。ジェフウトでの新兵徴募・工作隊員徴募に協力する」


「ジェフウトはギーラ・プタハヘテプに今後一切の助力をしない」


 等である。なお、実際にジェフウトとの交渉に当たっていたのはイムホテプであり、それを手助けしたのはシェションクだ。


「奸臣プタハヘテプを排し、ケムトを国王陛下とファイルーズ様の手に取り戻す!」


 イムホテプがそんな論法でシェションクを説得、竜也もまたシェションクが乱発した借用書を各村から買い取るなどしてそれに協力し、ファイルーズ派へと鞍替えさせたのだ。そのシェションクが早速顔見知りのジェフウトの貴族を説得し、無血開城に合意を得ることに成功したわけである。


「市民や兵士の血が流れることなくジェフウトに協力してもらえるようになりました。これもシェションクさんの働きのおかげです」


 とファイルーズに讃えられ、シェションクは恐縮することしきりだった。

「これからもよろしくお願いしますね?」


 とにっこり微笑まれ、シェションクは感無量の様子である。その有様を横から眺める竜也は、ファイルーズの人心掌握術に舌を巻いていた。

 その夜、竜也は合流したベラ=ラフマを自分の天幕に招き入れた。ベラ=ラフマは竜也達の到着より数日前からジェフウト近隣に潜伏し、情報収集に当たっている。


「それじゃ聞かせてくれ。ギーラは、ケムト王国軍はどう動いている?」


 ベラ=ラフマは「はい」と頷き、卓上に広げられた地図のある地点を指差した。


「ギーラはこの町、テル=エル=レタベに自らの拠点を置いています」


 テル=エル=レタベはスアン海峡に面する港町だ。ケムトの中では最も東に位置し、アシューに近く交易が盛んで、経済的豊かさではケムト随一の町と名高い。だが、


「……何でそんな遠くに」


 西から侵入してきた竜也達から見ればナガル川を挟んでちょうど反対側にいるようなものである。当惑する竜也にベラ=ラフマが淡々と推測を述べる。


「二つの理由が噂されています。テル=エル=レタベの豊富な資金力に目を付けてこの町を支配下に置いたのだ、というのがまず一点」


 実際ギーラはその豊富な資金力を最大限活用して万に届く傭兵軍団を有するに至っている。一方のテル=エル=レタベ市民は臨時に課された巨額の税負担に苦しみ、怨嗟の声を上げていた。


「次に、この町ならいざというときにアシューに逃げやすい、というものです」


 二人の間に何とも言い難い空気が流れるが、やがて竜也が気を取り直した。


「ギーラはこの町から指示を出しているのか?」


「はい、各町の軍勢にナウクラティスへの結集を命じています。それにギーラも手持ちの傭兵部隊の半分を送っています。今ナウクラティスには大ギーラ帝国軍三万が集まっているとのことです」


 ナウクラティスはナガル川の三角州の西端、ナガル川の河口から四〇〇スタディア(約七二キロメートル)遡上した場所に位置している。河川輸送の中継地点として栄えている町だ。

 三万、と竜也はくり返した。


「思ったより集まっているな」


「はい。ギーラは各町を治める貴族や長老の子弟をテル=エル=レタベに集めています。『大ギーラ帝国の官僚教育のため』と称していますが、実際には人質以外の何物でもありません」


 竜也は表情に嫌悪感をにじませた。ベラ=ラフマが続ける。


「人質のうち、見目麗しい若い女性は自分の後宮に放り込んでいる、という噂も聞いております」


 竜也は思わず舌打ちした。


「のんびりしている場合じゃないな。……ギーラがどういう戦略を立てているか判るか? 三万程度を八万にぶつけても勝てないことくらいは判っているだろう?」


「まず騎兵隊で後方を攪乱、ヌビア帝国軍の進軍を妨害します。次にナウクラティスの三万が防御に徹し、ヌビア軍を足止めします。その上でヌビア軍内に入り込ませた傭兵に反乱を起こさせる。場合によっては皇帝クロイを暗殺させます。ヌビア軍が混乱に陥ったところで三万を攻勢に転じさせ、一気にヌビア軍を壊滅させる――このような戦略を立てているとのことです」


 結構ちゃんと考えているんだな、と竜也は感心した。


「それじゃ、それの裏をかくとするなら……」


 竜也は顎に手を当ててしばしの間作戦立案に没頭、やがてある案をベラ=ラフマに提示した。


「なるほど、問題はないかと思います」


「不安があるとするならこれがギーラ側に知られることだけど」


「それはシェションクと私の手の者で遮断できるでしょう」


 とベラ=ラフマが断言、竜也はそれを信頼した。

 その後、竜也はマグドやタフジール達を集め、作戦案を披露。いくつかの修正が加えられ、作戦が決定された。

 そしてシマヌの月の月末。ヌビア帝国軍がジェフウトを出発する。ロカシスから連れてきた工作部隊一万のうちの女子供・年寄りはこの町に留めておき、順次西へと帰還させることになっている。その代わりにジェフウトとその近隣から新たに兵を徴募し、工作部隊に配属した。遠征軍の総勢八万に変わりはない。

 騎乗した竜也が後続のマグドやタフジール達に、


「それじゃ行くぞ、ナウクラティスに! 足止めを食らいに!」


 そう呼びかけ、マグド達は笑いながら「応!」と答える。竜也率いるヌビア帝国軍八万はナウクラティスに向かって進軍を開始した。








 ケムト遠征軍はナガル川の支流に沿って街道を南下し、ナウクラティスを目指している。ダムジの月(第四月)の月初、東からやってきたエジオン=ゲベル軍一万が遠征軍に合流した。


「これでやっと一〇万を号することができる」


 と竜也は安堵の様子である。エジオン=ゲベル軍の一万が加わっても総兵数は九万をわずかに越えただけなのだが「四捨五入すれば一〇万だ」と竜也は強弁することに決めていた。


「久しぶりだな! 皇帝タツヤ、手助けに来てやったぞ」


「感謝する、国王ノガ」


 出奔の経緯を忘れたかのように何の屈託もなく(少なくとも外見には)ノガは竜也に声をかける。竜也もまたわだかまりを抑え込み、笑顔でノガを歓迎した。


「こいつは俺の懐刀のガアヴァーだ」


 とノガが紹介したのは、線の細い、神経質そうな青年だった。緊張に全身を硬直させているこの青年がアナヴァーの息子である事実は、事前に報告を受けている。


「この戦いは皇妃ファイルーズが宰相プタハヘテプから祖国を取り戻すためのものだ。それにエジオン=ゲベルが協力してくれたことを俺は決して忘れない」


 暗殺未遂事件のことをおくびにも出さない竜也にガアヴァーは恐縮する以外に何もできなかった。


 ……エジオン=ゲベルに戻ったノガは国王ムンタキムが人質にしていたアナヴァーやその部下の家族を解放、その中から志願者を募って自分の部下にした。そんな経緯でノガの麾下に加わったガアヴァーだが、知謀に優れ、エジオン=ゲベルの社交界でも顔が広く、参謀役・交渉役としてはこれ以上ない人材となった。いまやノガにとってはなくてはならない頭脳役、右腕役となっている。今回のヌビア軍への援軍もガアヴァーが強硬に主張し、実行にこぎ着けたものなのだ。


「いくらまだ戦闘が起こっていないとは言え、俺達はもうムンタキムに対して挙兵しているんだぞ。それなのにこの国を放っておいて、ここを空っぽにしてまでケムトに戦いに行くのか?」


 と難色を示すノガに対し、ガアヴァーは「はい」と強く頷いた。


「皇帝クロイは少しでも多くの兵を集めようとしています。ここで国王ノガが全軍で応援に駆けつければ皇帝クロイに対する大きな貸しとなります。ケムトでの戦いが終わればそれは何倍にもなって国王に返ってくることは疑いありません。それに、皇帝クロイに対して他意がないことを是非とも示しておく必要もあります」


 ノガはその言葉に反論できない。勢いでやったこととは言え、皇帝暗殺未遂犯を引き連れてヌビアを出奔したことは、竜也に対する害意があるものと受け止められても仕方がない。今またノガは暗殺未遂の主犯の息子を自分の右腕としているのだ。竜也にその気があるならこれを理由にエジオン=ゲベルに攻め込んでもいいくらいだった。

 こうしてノガは再び竜也と共に戦うこととなる。ヌビア軍と合流したその夜、ノガは自分の天幕にガアヴァーを呼び出していた。


「何とか最大の山場は越えたな。あとはギーラと宰相を始末すればいいだけだ」


 とノガはもう戦いが終わったような気分でいる。一方のガアヴァーは浮かない様子だった。


「ヌビア軍に対して貸しを作ったはずなのに、借りができる一方のように思えます」


 ガアヴァーの存在に対して竜也が何も言及しなかったことがガアヴァーにとっては返って居心地を悪くしている。

 一方竜也の天幕では、ベラ=ラフマが竜也に対してその点を確認中だった。


「あの者は皇帝を暗殺しようとしたアナヴァーの息子なのですが」


「俺はどこかの誰かが犯した罪をその息子に償わせようとは思わない。その息子が人質の立場だったというのならなおさらだ」


 もちろん竜也も聖人君子というわけでは決してない。ただ暗殺未遂事件の被害が結果として大したものではなかったために、わだかまりを理性で抑え込めているだけである。ヌビア側でもエジオン=ゲベル側でも、暗殺未遂事件に関してこれ以上は誰も何も言及することはなかった。

 なお、聖槌軍戦争中は第七軍団に所属し、ノガの指揮の下に戦ってきた百人隊長・千人隊長クラスの人間が何十人もこの遠征に同行し、ノガの合流を機にエジオン=ゲベル軍に移籍している。ノガは彼等の参集を大いに喜んだが、ガアヴァーは「皇帝にまた借りを作った」と身を縮めるばかりだった。

 そして数日後。ヌビア帝国とエジオン=ゲベルの連合軍がナウクラティス近郊に到着した。

 ナウクラティスもまたナガル川の支流に沿って建設された都市である。人口は一五万から二〇万人。分厚い城壁により全市が囲まれており、難攻不落という点ではケムト随一と言われていた。


「これは……」


 城壁を見上げた竜也はそう言ったきり言葉をなくしている。マグドとノガもまたそびえ立つ城壁を険しい目で見上げていた。


「これだけの城塞都市だと落とすのは至難だぞ。普通なら短くとも一、二年がかりの戦いとなる」


「新兵や素人を含めた九万じゃ到底足りん。戦い慣れた兵だけで一〇万はいないと」


 そんなに時間や人手をかけられるか、と竜也は内心で毒づく。


「……思ったよりもずっと強固な町だけど予定に変更はない。手元の兵だけで落とす」


 竜也は静かに、だが確固たる姿勢を二人へと示す。それを受けてマグドとノガも気を取り直した。


「そうだな。俺達がやるべきことに変わりはない」


「ああ、まずは手筈通りに」


 マグドとノガの命令を受けて各部隊が陣地を築き、所定の配置に動き出す。そして翌日からナウクラティス攻略戦が開始された。








 マグドが率いるヌビア帝国軍主力が集結しているのはナウクラティス城壁の正門と言うべき場所である。鉄板と木板を組み合わせた三枚の門扉が城壁の内外を隔絶する。門扉の高さは一〇メートルに達し、城壁と櫓の高さは一五メートルを越えていた。城壁や櫓の上には弓や火縄銃を持ったケムト兵がずらりと並び、さらに数十門もの大砲が設置されている。ヌビア軍の進軍を手ぐすね引いて待ち構えているようだった。

 一方のヌビア軍は、正門から三スタディア近くの距離を置いた場所に陣を敷いている。盾を構え、矢や剣で武装した数万の兵が、


「卑怯だぞ! そこから下りてこい!」


「出てこい! 野戦で勝負しろ!」


 と怒鳴っている。集結した数万の兵はケムト兵に対して総勢で罵声を浴びせ、太鼓みたいに剣と盾を打ち合わせているが、ただそれだけだ。突撃する気配は全く見られない。城壁のケムト兵はその騒音に閉口している様子だが、同時に口先だけのヌビア軍に苦笑しているようでもあった。

 ヌビア軍の中心にいた竜也とマグドは騒音の直撃を受け、大急ぎで後退。ヌビア軍陣地からかなり距離を置いてようやく会話が可能となった。


「……まずは予定通りってところか」


 竜也の確認にマグドが「はい」と頷く。


「それじゃ、ここは任せる。俺も予定通りに事を進めてくる」


 ヌビア軍主力部隊をマグドに委ね、竜也は都市沿いに流れるナガル川へと向かった。川面には補給物資を満載したガイル=ラベク達の川船が途切れることなく行き来しており、ファイルーズ達も船でこの町まで移動してきていた。竜也はそこでファイルーズ達と合流。竜也・ファイルーズ・イムホテプ、それに護衛の近衛を乗せた船がナガル川の川面へと乗り出していく。やがて船は川の中央の小さな中州に到着した。


「待たせてしまったかな」


「いえ、とんでもない。王女殿下と皇帝陛下にはご機嫌麗しく」


 そこで竜也達を出迎えたのはケムト貴族風の何人かの男である。竜也は彼等の用意した天幕の中へと入り、席に着き、そして会談が開始された。


「我々は決してヌビアの皇帝陛下に望んで敵対しているわけではありません。我々はメン=ネフェルの国王陛下の臣下ではあっても、プタハヘテプの家来ではありません」


 そう口火を切ったのはアーキルという四〇代の男であり、彼はナウクラティスを統治する貴族である。ナウクラティスに集結したケムト王国諸都市の指導者の中で、アーキルを代表とする最も有力な数名。今竜也と会談を持っているのはそういう者達だった。


「それなら、何故今あなた達はギーラの言いなりとなってヌビア軍と戦っている?」


「あのような男など……!」


 アーキル達は侮蔑と嘲笑に顔を歪めた。


「皇帝陛下がお望みとあれば、我々はいつでもあの男の首をお渡しいたしましょう。あの男の懐には私の娘と称する者を入り込ませています」


「そんなことをして、露見しないのか?」


 と竜也は疑問を抱くが、アーキルは侮蔑を募らせるだけである。


「普通ならこのような姑息な策が通用するはずもありませんが、あの男は底なしの阿呆ですので。あの男の部下に鼻薬を効かせさえすれば、娼館から借り受けた娘が『ナウクラティス貴族の息女』で通ってしまうのですから!」


 ふむ、と竜也は腕を組む。


「ならば、我が軍と戈を揃えてギーラとプタハヘテプを討つことに異存はないのだな」


「それについては異存はありませんが……いくつかの条件が。皇帝陛下は聖槌軍戦争の戦費をケムト王国の諸都市にも負担させるつもりだ、と伺いましたが」


「その通りだ」


 兵力三万を号する大ギーラ帝国軍だが、その内実は寒々しい限りだった。ギーラの暴走、プタハヘテプの耄碌、ファイルーズの威光、イムホテプの説得、ベラ=ラフマの策謀。それらの要因が奏功し、大ギーラ帝国軍の中でヌビア帝国軍と積極的に戦いたいと考えている者などただの一人もいない。だが、


「それについては撤回をお願いしたい、というのが我々の総意です」


 税負担を求められるとなると話は別だった。


「それはできない。ヌビアとケムトを一つの国とするのが帝国の目的であり、そうなったなら各都市に税負担を求めるのは皇帝の義務だ」


「我々はあくまでケムトの国王陛下の臣下であり、ヌビアの皇帝の臣下になるつもりはありません。宰相プタハヘテプを排除するのも国王陛下に対する忠誠のためのもの」


「それを否定するつもりはない。だがソロモン盟約はヌビア全土を守るためのもの、延いてはケムトの各都市を守るためのものだ。ソロモン盟約への加盟とケムトの国王への忠誠は両立できる」


 一方の竜也は愚直に各都市のソロモン盟約への加盟を求め続けた。両者の主張は平行線を辿るだけで決して交わることはない。会談は何回かの休憩を挟んで朝から夕方まで続いたが、その内容は互いに要求を言いっ放しにしているだけで議論と呼べるものではなかった。やがて日が暮れ、その日の会談はようやく終了となった。

 連絡用の川船に乗り込み、アーキル達他人の目がなくなった途端、


「ああー! 疲れたー!」


 竜也は船底に横になって突っ伏した。ファイルーズはそんな竜也を微笑ましく見つめている。


「思ったよりも強気でしたね。『戦っても負けはしない』、そう思っているのが目に見えるようでした」


 イムホテプの言葉に竜也も頷く。


「まあ、これだけの城塞都市に拠っていればそれも当然かも知れないが……」


 竜也はそこで言葉を途切れさせ、


(それが思い違いだって教えてやるさ)


 内心でそう続けていた。

 船が岸辺に到着し、竜也はマグドの元に向かう。日が沈んで世界は暗闇に包まれたが、本陣のマグド達主力部隊は、


「出てこいー! 出てきて戦えー!」


 未だひたすら声を出し、剣と盾を打ち合わせて騒ぎ続けていた。威勢だけはいいが兵は皆「うんざり」を通り越し、無表情になって機械的に罵声を出し続けている。その様子に竜也はちょっと腰が引けたようになりながらもマグドの元にやってきた。


「将軍、様子は」


「おう、特に問題はない。見ろ」


 とマグドは城塞正門を指し示した。暗闇の中に山のような正門がそびえ立っているのが判る。


「……結構近付いているかな」


 朝の時点では本隊と正門との距離は三スタディア近くあったのだが、今はそれは二スタディア(約三六〇メートル)に縮まっていた。マグド達は丸一日かけて、ケムト側に悟られないよう少しずつ少しずつ前進して距離を縮めたのだ。


「日も暮れたし、ここからが本当の勝負だ」


「皆疲れているだろうけど、よろしく頼む」


 竜也はそう挨拶し、自分の天幕へと戻っていった。後方の天幕の中で横になっても、正門前で騒ぐヌビア兵の声が聞こえてくる。精神的に疲れ切っていた竜也はすぐに眠りに就いたが、ヌビア兵の騒ぐ声は一晩中聞こえ続けていた。

 その翌朝、日が昇ろうとする頃。ナウクラティス城壁の正門前に陣取って騒ぎ続けていたヌビア軍がようやく静かになった。


「まったく、ご苦労なことだぜ」


「やれやれ、これでやっと眠れる」


「でももうすぐ朝だぞ」


 城壁の上で歩哨に立つケムト兵達はそんな風に笑い合っている。やがて朝日が昇り、その笑顔が硬直した。


「な、なんだあれは」


 正門から二スタディアほどの距離をおいて正門を包囲するように地面が掘られ、溝ができている。掘られた土は溝に沿い、正門側に向かって積み上げられていた。長さ数十メートル、幅二メートルほど。深さは正門側からは判らないが、積み上げられた土も含めれば人が立って隠れるくらいはできそうだ。


「いつの間にあんなものを、何故気が付かなかった!」


 正門の警備隊長が部下を叱責するが、それはただの八つ当たりだった。彼にも判っていたのだ、その塹壕が掘られたのは夜の間、ヌビア兵が騒ぎ続けてケムト兵の注意を逸らしていた間なのだと。

 夜が明け、ヌビア軍が活動を開始した。ヌビア軍は今日は無言である。数万の兵がモグラのようにひたすら地面を掘り進み、塹壕を延長することに集中している。呆然とそれを見つめていたケムト側だが、


「た、隊長。攻撃は?」


「……待て、上に確認する」


 警備隊長がアーキルへと朝から何度も問い合わせの伝令を送り出し、ようやく彼等の元に命令が返ってきたのは昼を過ぎてからである。


「こちらからの指示があるか、敵の攻撃があるまで攻撃を許可しない」


 警備隊長は唇を噛み締める。警備のケムト兵達はヌビア軍の蠢動を不安そうに見つめることしかできなかった。

 一方同時刻、ナガル川の中州。アーキル達ケムト側代表者の面々もまた不安を隠して竜也と対峙していた。


「皇帝陛下、ヌビア軍のこの動きは一体」


「交渉で決着できなければ剣を振るうしかないだろう? そのための準備だ」


 アーキルの問いに、竜也は当然のように答える。


「皇帝陛下は我が都市の堅牢さを、我が軍の勇猛さを軽視しているのではありませんか?」


「一〇万程度の兵でこの町が落とせるのかどうか、試してみてはいかがですか?」


 アーキル達も強気な姿勢は崩せない。その日の会談も前日と何も変わらず、竜也がソロモン盟約の加盟を求め続け、アーキル達はそれを拒絶し続けた。前日と違うのは、竜也は時折威圧するような目をアーキル達に向けることであり、アーキル達が不安を圧し殺していたことである。やがて日が暮れてその日の交渉は終了となった。その頃には正門前では百メートルを越える塹壕が何本も掘られている。

 中州からの帰路、船の上で不安げなファイルーズが、


「タツヤ様、市民が犠牲になるようなことは……」


「もちろんできるだけ減らすようこっちも努力している。でも、ゼロになるかどうかはアーキル達次第だろう?」


 ファイルーズが何か言いたげに竜也を見つめ続ける。だが竜也はそれを完全に無視、ファイルーズの希望には応えなかった。








 その一方、テル=エル=レタベ。

 テル=エル=レタベはアシューとの交易で栄えている町であり、ヌビア帝国と大ギーラ帝国――ケムト王国が戦争中であろうとその繁栄には何ら翳りはない。前線のナウクラティスとは八〇〇スタディア以上(約一五〇キロメートル)離れており、この町に閉じ籠もっている限りは戦争など遠い世界の話のようにすら思われた。

 ギーラはテル=エル=レタベ有数の豪商から邸宅の一つを譲り受け(譲渡を強要して)その豪邸を自分の根拠地としていた。広大な豪邸のあちこちに警備の傭兵が歩哨に立っているが、真面目に仕事をしているようには見えない。人目の多い場所でも駄弁に興じており、人目の少ない場所では居眠りをしたりサイコロ賭博に熱中したり、といった有様だ。

 警備の傭兵も立ち入りが許されない、豪邸の最奥。その寝室では昼間からギーラが酒宴に耽溺していた。巨大なベッドに寝転がるギーラに、何人もの半裸の女達が口移しで酒を呑ませている。


「わたしが皇妃になるのでしたら、やはりそれなりの装飾が必要だと思いませんか? わたし、金の冠にこんな大きな金剛石を付けてほしいですわ」


「わたし、銀の首飾りにこれくらいの蒼玉を!」


 女達はギーラに媚びを売りながら法外なおねだりをし、


「ふん、任せろ。それくらいどうということはない」


 ギーラは何も考えないままそれを承諾。女達は喜びの嬌声を上げ、それぞれギーラへの愛撫を始めた。ギーラの口元は弛緩し、その目は情欲に濁っている。

 ……ギーラは各都市から集められた人質のうち、若くて美しい女性を片っ端から自分の後宮に放り込んだ。だがその女達のほとんどが、各町が娼館から借り受けた若い娼婦であることに今でも気付いていない。その娼婦達が手練手管と媚態の限りを駆使し、ギーラはすっかり骨抜きとなってしまっている。政務の大半を放り出し、一日のほとんどを彼女達とベッドの上で過ごしていた。

 そのとき、そこにメイドの一人がやってきて少し怯えながら、


「皇帝陛下、大将軍キヤーナが大至急お会いしたいと申しております」


 元々はギーラの護衛として雇われたキヤーナだが、今ではギーラにとっての唯一の腹心と言うべき存在だ。ギーラはそのキヤーナに対し、功績に相応しい地位に任じることで報いていた――もっともその地位に内実はなく、やっている仕事は傭兵のまとめ役やケムト王国軍との連絡役などだったが。


「キヤーナが?」


 ギーラは煩わしげに舌打ちするが、それでもベッドから起き上がった。女達の一人が不安げに呟く。


「ナウクラティスで何かあったのかしら……」


 その言葉が癇に障ったギーラだが、女達の前ではそれを出さずに頼もしげに振る舞った。


「あのクロイの軍など、今頃はナウクラティスの城壁の前で立ち往生だ。何もあるはずがないだろう」


 そう言い残してギーラは服を着、寝室を出て執務室へと向かった。ギーラが立ち去ったのを確認すると女達もまた身を翻し、服を掴んでどこへともなく走り去っていく。

 一方ギーラは廊下でキヤーナに掴まっていた。


「旦那、ヌビア軍の騎兵隊がすぐそこまで迫っていやす」


 開口一番そう告げられ、ギーラはしばらく唖然とした。


「……何を馬鹿な。ナウクラティスからこの町までは八〇〇スタディアもあるんだぞ」


「ええ、八〇〇スタディア。騎兵なら二日で走り抜けられる距離ですぜ」


 キヤーナの反論にギーラは沈黙するしかない。少しの間を置いて、


「……ナウクラティスの我が軍は何をしていた! それにケムトの地理に暗いはずのヌビア軍がこんな短期間で」


 ヒステリックに声を荒げるギーラだが、キヤーナはそれを手振りで封じる。


「今はそんなことを言ってる場合じゃないですぜ。どうやったのかはともかく、ヌビア軍が間近まで来てやがるんです」


 ギーラはしばらく判断に迷っていたが、やがて「くそっ!」と罵声を上げた。そして執務室へと入っていく。キヤーナがその後ろに続いた。

 ギーラが執務室に到着するが、その部屋には既に各傭兵隊の隊長が十数人集まっていた。ギーラが彼等に指示を出す。


「城壁の門扉を閉ざして敵をこの町に入れないようにしろ!」


「もう遅いです、市民が城門を占拠して門扉を開け放っています。既に敵の騎兵隊がこの町に侵入しているんです」


 ギーラは執務机に掌を振り下ろし、


「そんな叛徒共は生かしておくな! 殺せ!」


 と獣のように牙を剥く。だが傭兵隊長達は白けた目を向けるだけだ。過大な税負担で市民の恨みを買い、この結果を招いたのはギーラ自身なのだから。

 その間にも偵察兵が入れ替わりやってきて隊長達へと報告する。


「敵の騎兵は四つの隊に別れて進んでいます! 金獅子族・赤虎族・人馬族の旗が確認できました!」


「シェションク隊がヌビア軍と共に進軍しています!」


 激しい怒りを抱きつつもギーラは理解するしかなかった。


「あの裏切り者……!」


 シェションク隊がヌビア軍に協力し、騎兵隊を先導しているのなら道案内には何の不安もないだろう。ギーラが各地に放った偵察隊が沈黙したままだったのも、シェションク隊に懐柔されたか潰されたかのどちらかに違いない。

 ギーラは町の地図を指差して、


「バリケードを築いてこの三箇所の通りを塞ぐんだ、敵の進軍を阻止しろ!」


 ギーラの指揮に傭兵隊が従おうとするが、その動きは鈍い。テル=エル=レタベにいるギーラ配下の傭兵は五千に届くが、敵はその数倍だ。練度も士気も地を這うような水準でしかないし、第一時間があまりにもなさ過ぎた。


「敵が屋敷のすぐそこまで!」


 と伝令兵が急ききって報告する。一同の視線がギーラに集中した。ギーラは逡巡するが、それは長い時間ではない。


「各町の人質を集めろ! 人質を使って敵の突入をためらわせろ、時間稼ぎだ!」


 ギーラはそれだけを命じて執務室を飛び出した。後宮へと向かって走るギーラ、その後をキヤーナが追う。既にこの場では勝ち目がないことはギーラも理解している。逃げるのにお気に入りの女達を連れて行くつもりだったのだが、


「……どういうことだ」


 後宮は既にもぬけの殻となっていた。人の気配が全くない後宮にギーラだけが立ち尽くしている。そこにようやくキヤーナが追いついた。


「どうやらヌビア軍の接近に感づいていたようですな。ここを脱出してヌビア軍に保護を求めるつもりなのかもしれません」


 ギーラは「くそっ!」と手近な椅子を蹴飛ばす。買えば庶民の年収が飛ぶくらいの豪華な椅子がバラバラになった。


「旦那、傭兵を指揮して時間を稼ぎやすから、その間に船で脱出を」


「判った、後を頼む」


 ギーラはそれだけを言い残し、脱兎のごとくに逃げ出していく。キヤーナは嘲笑を浮かべながらその背中を見送った。

 その後、キヤーナは傭兵隊長や使用人を集めて指示を出して回った。


「我々はヌビア軍に降伏する! 人質に危害を加えるような真似をするな!

 落ち着いて、こちらの指示に従って行動しろ」

 傭兵隊の半分はどさくさに紛れて逃げ出したが、残り半分はキヤーナの指示に従い降伏準備をする。そうこうしているうちにヌビア軍の騎兵隊のうちサドマの隊が到着した。キヤーナは屋敷の門前で彼等を出迎える。


「お待ちしておりました、キヤーナ傭兵団団長・キヤーナでございやす。我々はヌビアの皇帝陛下に降伏します。どうか屋敷の者への狼藉のなきようお願いいたしやす」


 その出迎えを受けたサドマは「お前が」と驚いた顔を見せた。


「ギーラの側近のキヤーナだな。お前のことは『絶対に殺すな』と命じられている。大人しくしていれば決して危害は加えない」


 キヤーナはそれを「へい、判りました」と受け入れる。キヤーナ達傭兵各隊は降伏し、人質は騎兵隊が保護、ギーラはアシューへと逃亡。それがテル=エル=レタベの戦いの結末だった。大ギーラ帝国は事実上この日この町で潰えた。だがナウクラティスにはまだ三万の大ギーラ帝国軍が残っている。








 ダムジの月も中旬に入ろうとする頃。ギーラがアシューに逃亡した事実は竜也の元にも、ナウクラティスにも伝わっている。


「アーキル達は頭を抱えているだろうな」


 と竜也は他人事のように笑うが、実際その通りだった。


「一体これは誰のための戦いなんだ?」


「一体何のためのファイルーズ様と戦うことになったのですか?」


 兵や市民にそう問われ、アーキル達も答えに窮するしかない。アーキルを始めとする各都市代表は鳩首を揃え、この茶番をどう収拾させるか協議を重ねている。また、ギーラに雇われていた傭兵達と契約の結び直しをしようとするが傭兵側はアーキル達の足元を見て報酬を吊り上げようとし、交渉は紛糾した。一部の傭兵はナウクラティスから退出してヌビア帝国側に付こうとしている。

 竜也は騎兵隊が確保した各都市の人質を無条件で解放することを宣言。各都市側は謝意を伝える使者を竜也の元へと送った。ベラ=ラフマがそのうちの何人かに密かに接触、書状をもった使者がナウクラティス城壁内外を何往復かした。

 数日後、その日の朝一番。アーキルの元にある報告が届けられた。


「アンジェティが……?」


 首都ハカー=アンクに近隣する、有力な都市の一つであるアンジェティ。その代表がヌビア軍と休戦・中立協定を結んで大ギーラ帝国軍を離脱すると宣言したのだ。

 アーキル達は歯噛みをする。アンジェティの代表は個人的にアーキルと折り合いが悪く、大ギーラ帝国軍の指導部からは排除されていた。そこをつけ込まれたのだろう。

 なお、その協定ではアンジェティの扱いは現時点では保留で、「ナウクラティスや他の都市と今後結ぶ協定での扱いに準ずるものとする」となっている。要するに、ナウクラティスが死力を尽くして戦ってソロモン盟約への加盟を拒否できたならアンジェティもそうなるし、ソロモン盟約に加盟するならアンジェティも加盟するこということだ。


「つまり、戦っても戦わなくても結果は変わらないということか?」


「それじゃ戦っても兵や戦費を損なうだけ、損をするだけじゃないか」


「我が都市もこの協定を結べないのか?」


 ナウクラティスに集まった各都市代表の何人もが密かにヌビア帝国軍に使者を送る中、アーキル達はナガル川の中州で竜也との会談を再開していた。


「皇帝陛下は我々にどの程度の税負担を求めるおつもりですか?」


 アーキル達は帝国による併呑を、ソロモン盟約への加盟は最早避け得ないと判断した。残る問題はどの程度その条件を緩和させられるか、だ。


「あなた達はギーラから求められた戦費負担には応えたではないか。それはギーラに協力してヌビア帝国と戦う意志があったということだ」


「ギーラの要求に応えただけで我が都市の財政は危機に陥っているのです。そのような高率の税負担では」


 会談は長時間に及び、いくつかの点で合意が得られたが、いくつのかの点では平行線を辿ったままだった。合意を得られたのは「ケムト王国の諸都市がソロモン盟約に加盟する」ことであり、平行線のままなのはその際の税負担率である。日が暮れたのでその日の交渉は終了となり、竜也は自陣へと戻っていく。竜也は冷たい無表情で夕闇に浮かぶナウクラティスの城壁を見つめていた。

 それから数日後、ダムジの月の中旬。

 その日、アーキル達は早朝からナガル川の中州で竜也を待っていた。が、いつまで待ってもやってこない。使者を出しても曖昧な答えしか返ってこず、苛立ちが頂点に達した頃、ようやく中州に連絡船がやってくる。だがそこから降り立ったのは竜也やファイルーズではなく、白兎族の男だった。


「白兎族……!」


「皇帝は我等を敵にする気か!」


 アーキル達の敵意に満ちた視線を一身に浴びるベラ=ラフマだが、それを涼風のように受け流した。


「私は交渉に来たのではない。皇帝の布告を持ってきたただの使い走りだ」


 とベラ=ラフマが何かの書状を差し出す。アーキルはそれを部下に受け取らせ、持ってこさせる。書状を広げるアーキルとそれを横から覗き込む各都市代表。読み進むにつれ、彼等の顔が蒼白となった。


『……ナウクラティス、イムティ=バホ、ニイト=ミフト、ケント=イヤブ……これらの都市は皇帝を僭称するギーラに与し、大ギーラ帝国軍に加わることにより自らの立場を鮮明にした。すなわち、ヌビア帝国の敵である。皇帝と皇妃は慈悲をもってこれらの都市にくり返し降伏を勧告したが、彼等はこれを拒絶。よって皇帝はここに、ナウクラティスを拠点とする大ギーラ帝国軍の殲滅を決定した。


 本日正午から攻撃を開始し、ナウクラティス全市を破壊する。市内に残っている者は兵士・民間人問わず、老人から赤子にいたるまで一人残らず皆殺しとする。皇帝を敵とする意志がないのであれば直ちにナウクラティス市内から退避せよ。残っている者は死を免れないものと知れ』


 アーキルの身体が恐怖と憤怒に震えている。アーキルは舌をもつれさせながら、


「こ、皇帝と話を……! ファイルーズ様はこのことを知っているのか!」


 烈火のような詰問を受けてもベラ=ラフマは静かに佇んでいるだけだ。その態度はまるで氷壁のようである。


「話すことは何もない。皇帝に伝えられるのはお前達の『降伏する』という言葉だけだ」


 アーキル達は揃って歯を軋ませた。そのうち代表の一人が気が付く。


「……ヌビア軍に一〇万の兵がいようとこちらにも三万の兵がいる。それにナウクラティスの城壁がある。あれは一〇万程度の兵で打ち破れるものではない」


 「そうだ、そうだ」とベラ=ラフマを除く一同が頷いた。その時、遠雷のような轟音が響く。時刻は正午ちょうどである。アーキル達は不安げな目をナウクラティスへと向けていた。

 同時刻、ナウクラティス城壁の正門。


「大!粉!砕! 大!爆!砕!」


 塹壕の盛り土の上では、両手に火縄銃を持ったタフジールが踊り狂っている。その下手な踊りに合わせるかのように、塹壕の中からの砲撃が連射された。砲弾は次々と正門を直撃している。


「くそっ! なんて数だ!」


 ヌビア軍の総攻撃に曝されている正門では警備隊長が毒づいていた。正門を包囲するように掘られた塹壕から何十という大砲により砲撃をくり返されている。


「一体いつの間にあれだけの数を!」


 そう言いながらも、彼にもある程度は推測できた。この数日の対陣中にもヌビア側の塹壕は延長され、今はナガル川の岸辺にまでつながっている。輸送船を使って川から運び込み、塹壕の中を通っていけば城門側に見られることは決してないだろう――だが今そんなことに気付いても何にもならない。


「こちらからも砲撃だ!」


 ケムト側が砲撃による反撃を開始する。標的は警備隊を挑発するように踊っている阿呆である。ケムト側の砲弾が舞い踊るタフジールのすぐ横に突き刺さり、土を吹き飛ばした。だが、それだけだ。タフジールは全身土まみれで唾と土を吐き捨てているが、怪我一つ負っていない。


「皇帝の叡智を敵に回した自分達の愚かさを恨むがいい! 大!全!滅! 大!殲!滅!」


 タフジールは踊りながらも砲撃の指揮を続ける。その指揮に従い、第十軍団の砲兵は大砲を移動させて砲撃を続けた。

 ――位置関係ではケムト側が有利だが、土を盛った塹壕はその有利を覆して余りあった。砲弾が塹壕に当たったところで突き刺さって終わりであり、さらにヌビア軍は何回かの砲撃のごとに大砲を移動させてケムト側の砲撃を避けていた。一方のケムト側の砲台は固定式であり、敵の攻撃を避けようがない。砲弾が大砲を直撃することはほとんどない。だがヌビア軍の砲弾は石の壁を砕き、その破片でケムト兵に負傷させているのだ。

 ヌビア軍はまず城門側の大砲に対して砲弾を集中させた。大砲の射程距離を考えれば、二スタディアという距離は至近としか言いようがない。喉元に突き付けたナイフを互いに振り回すようなものである。砲弾が雨のような密度で飛び交う激しい砲撃戦は、思いの外短い時間で終わってしまった。ヌビア側の被害も決して小さくはないが塹壕の中のことのため傍目にはそれは判らない。一方ケムト側の被害が甚大なことは誰の目にも明らかだった。

 破壊された大砲はほとんどない。が、ある砲台は台座が崩れて傾き、ある砲台は倒れた石壁の下敷きとなり、ある砲台は火薬に引火して爆散していた。そして砲手が全員死傷している。

 城門側の大砲が全て沈黙しても第十軍団は砲撃を続けている。その援護射撃を受けながら、塹壕から出てきた奴隷軍団が、彼等が牽引する荷車が城門へと突撃する。藁・火薬・原油の入った瓶、荷車に満載されているのはそんな可燃物だ。それら十数台の荷車が城門に体当たりし、広範囲に炎が燃え広がった。消しようもなく火災が延焼し、城門が炎に包まれる中、第十軍団は砲撃を門扉に集中させている。鉄板を張った門扉は一枚ずつ、順番に撃ち抜かれ、撃ち砕かれていった。

 数刻後、可燃物が燃え尽きて炎が収まってくる。城門は煤焦げた無残な姿をさらしていた。砲台は全て沈黙、櫓は焼け落ち、城壁は穴だらけとなり、門扉もまた跡形もなく崩れ落ちてしまっていた。正門は城壁としての機能を失い、今や堤防に穿たれた一穴となっている。

 砲撃戦が終了し、塹壕からヌビア兵が這い出てくる。数万のヌビア兵が弓を構え、槍を手にし、正門前に結集して突撃の合図を待っている。一方のケムト軍もまた正門前に集まっていたが、その数は一万に満たなかった。ヌビアの皇帝が発した最後通告がビラになって町中に撒かれており、恐慌を起こした市民が町から脱出しようとして町中が大混乱に陥っているのだ。混乱に巻き込まれて正門に移動できない部隊も多いようだが、それ以上に混乱に乗じて雲隠れする部隊が多かった。何とか正門前に結集した部隊は彼我の兵力差に絶望しながらも「死んでも市民を守る」と悲壮な覚悟を決めている。まだ年若い兵が震える手で槍を強く握り締めた。

 正門を挟み、ヌビア軍とケムト軍が対峙する。両者の激突は……始まらなかった。両軍とも何かを待つように静かに立ち尽くしている。しわぶき一つしないような奇妙な静寂が思いがけず長い時間続き、不意にそれが破られた。


「降伏だ! アーキル様が降伏を決めた! 戦いを止めよ!」


 騎乗した若い貴族がそう叫んで両軍の間に割って飛び込んできたのだ。


「皇帝クロイの軍よ! 我等は降伏すると決めたのだ! 武器を収めよ、ここは退け!」


 ヌビア軍の中からマグドが前に進み出、静かに告げた。


「――ならば、我等に戦う理由はない。退かせてもらおう」


 マグドは自軍を見渡し、鋼鉄の右拳を突き上げる。それを受けてヌビア軍数万が一斉に勝ち鬨を上げた。一方のケムト軍一万は力尽きたようにその場に座り込む。

 一方ナガル川の中州、同時刻。そこにケムト側の連絡船がある知らせを持ってやってきていた。


「軍が……軍が降伏したと言うのか」


「は、はい。戦っても勝ち目はない、市民を守るため、と」


 アーキル達もまた気が抜けたようになってその場に座り込んだ。しばらくそのまま呆然としていたが、やがて投げ遣りとなった目をベラ=ラフマへと向けた。


「……聞いての通りだ、軍が降伏した以上はもう戦えない。我々は皇帝に降伏する」


「了解した。あなた達のことは決して粗略には扱わない。市民や兵にこれ以上の危害を加えないことを約束する」


 ベラ=ラフマが即座に確約、こうしてナウクラティスはわずか一〇日の攻防戦で陥落した。

 ……後日、アーキル達の降伏と軍の降伏がほぼ同時だったことが判明。どちらが先に降伏したのか、責任の押し付け合いと諍いが展開される。だが真相が判明することはなかった。

 アーキル達への最後通告と同時にナウクラティス市内で最後通告を印刷したビラをばら撒き、市民と兵の恐怖を煽りに煽ったのはベラ=ラフマの部下である。戦闘が開始され、混乱するケムト軍の幹部の中で「降伏すべきだ」と強く主張したのはイムホテプの影響下にあった者達だし、「軍が降伏した」「アーキル達が降伏を決めた」とデマを飛ばしたのはベラ=ラフマから指示を受けた者達だ。そのデマを事実と思い込んだ者達がそれぞれ行動を起こし、結果として軍とアーキル達がほぼ同時に降伏することとなったのだ。

 その日の夕方、ヌビア軍の陣地。廃墟同然となったナウクラティス城壁の正門がそこからでも見えている。マグド達はそれを眺めながら、


「これほどの城塞都市がたった一〇日で」


 半ば感嘆し、半ば呆れずにはいられなかった。一方竜也は肩をすくめる。

 ナウクラティスが堅牢な城塞都市とは言っても何百年も前に建設された城壁でしかない。火砲がこれだけ発達していれば城壁の意味は大幅に減じている。それに、火力をこれだけ大規模に、集中的に運用した例は三大陸全体を見渡してもほとんどない。火砲が発達し、戦乱が続いていたエレブでも辛うじて二、三例思いつくくらいで、天下太平が長いケムトでは絶無だ。ナウクラティスが経験や前例のないことに対応できなかったとしても無理はない――ナウクラティス陥落の理由としてまずそれが挙げられる。だがもっと大きな、もっと根本的な理由があった。


「ナウクラティスに本気で戦うつもりがあったなら一〇日ですむわけがない。降伏に当たっての条件が折り合わず、説得するのに時間がかかっただけだ」


「……あれが『説得』か?」


 と引きつったような笑いを浮かべながら、ノガは砲撃で穴だらけの正門城壁を指し示し、


「あれも『説得』だ」


 と竜也は大真面目に頷いた。

ナウクラティスが陥落し、同市に結集していたケムト王国軍三万はファイルーズに対して忠誠を宣誓。これにより大ギーラ帝国軍は完全に消滅した。元々砂上の楼閣のように危ういものだったが、その潰え方はまさに蜃気楼のようである。

 この世界で二番目に登場した帝国・「大ギーラ帝国」。それはわずか二ヶ月ばかりで命数を使い果たし、愚かしい記憶を除いては何一つ残さずにこの世界から永遠に退場した。まるで出来の悪い劇の上演が終わり、幕が引かれたかのように――





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