表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄金の帝国  作者: 亜蒼行
逆襲篇
48/65

第四一話「敵の敵は味方・前」



 ユーグによる示威行動は翌日も、その翌日もくり広げられた。アミール・ダールは来もしない敵に烏合の衆を率いて備えることを強いられ、自軍の惨状を、否応もない現実を突きつけられる。竜也だけでなくアミール・ダールもまた戦いの先行きに対して悲観を覚える他なかった。

 竜也達が軍の立て直しや町の復興に時間と労力を費やしている一方、ギーラは派閥工作だけに全精力を投入することができた。ギーラは元老院の有力議員の元を訪問し続け、ユーグとの和平を、自分への支持を説いて回っている。またそれとは別に、


「王弟殿下はあの狂信者とはわけが違う。バール人であろうと分け隔てなく、気さくに接してくださるのだ」


 アニードも和平協定への支持を訴えて回っている。アニードの訪問先は東ヌビアのバール人商会だが、彼等の反応は以前とは一変していた。


「ヴェルマンドワ伯に手土産を用意してある。もちろんお主の分もあるぞ」


「聖槌軍に食糧を売る準備をしている。今は皇帝の目があるから表だっては動けんが、和平が成立したなら堂々と商売できるだろう」


 商会のほとんどがアニードを通じてユーグとのつながりを得ようとしているのだ。アニードもまた仲介の労を厭わなかった。


「あの皇帝もよくやってくれたのだがな、ここらが限界だったか」


「まあ、百万の敵を相手にヌビアの半分を保てただけでも上出来ではないでしょうか」


 ナーフィア商会すらがアニードの元に代理人を送っているのだ。ナーフィア商会と言えば竜也の元に当主の愛娘を送り出し、竜也をどの商会よりも強力に支援してきた、バール人の中では最強硬派とされる商会だ。その商会が和平を見越した行動を取っている意味は決して小さくはなかった。

 実家のその動きをカフラは知らないままだったが、竜也はベラ=ラフマを通じて把握している。


「どうしますか? アニードの動きも含め、何らかの対処が必要ではないかと」


 ベラ=ラフマの促しに対し、竜也は苦り切った顔で首を横に振った。


「……バール人に手は付けられない。放っておくしかない」


 竜也の念頭にあるのは、以前ミカがハムダン商会を告発したときのバール人の行動だった。ミカが不正を摘発してハムダン商会を潰した際、バール人が抗議のためにヌビア軍に対する補給を一斉にストップ。軍は大混乱に陥り、ミカは兵站担当から外される結果となった。


「軍の立て直しや町の復興にも、バール人の全面協力がなければどうしようもない。今彼等にそっぽを向かれたら俺達は完全に終わりだ」


 竜也の判断にベラ=ラフマは異議を唱えなかった。だがそうなると二人にできることはろくに残らなくなってしまう。竜也はアニードだけでもどうにかできないかと一人検討をするが、


「……アニードさんがもっと普通の、金に目がないだけのバール人だったらよかったのに」


 竜也の口から出てきたのはそんな益体もない愚痴だけだった。

 アニードが普通の、金儲けだけが目的のバール人なら、ルサディルを守ろうとしてタンクレードと協力することもなかっただろう。ルサディルの惨劇自体は避けようもないが、事前にルサディルから逃げ出す人は増えたかもしれない。

 アニードがルサディルの惨劇の償いをしようなどと考えなければ、タンクレードの御用商人となることもなかっただろう。そうなればユーグの意を受けて和平工作をすることもなかったに違いない。


「このまま戦争が続けば枢機卿が東ヌビアも侵略し、何もかもを破壊し尽くし、誰もかもを殺し尽くしてしまう。王弟殿下に西ヌビアを割譲してでも和平を結ぶこと、それこそが東ヌビアの安全を守る唯一の方法なのだ」


 今、アニードの中ではヌビアへの償いとユーグへの忠誠が矛盾なく一つとなっている。アニードはある意味幸せだと言えるだろう。もし両者が矛盾するなら、アニードがどちらを選ぶとしても苦しまずにはいられなかっただろうから。

 ギーラが蠢動し、竜也が後手に回ったまま二日が過ぎて、タシュリツの月(第七月)の九日。北岸でユーグの示威行動が続く中、臨時総司令部には元老院議員のほとんどが集まり元老院が開会された。議員に働きかけて開会を要求したのはギーラであり、その議題が「ヴェルマンドワ伯ユーグから呈示された和平協定」についてであることは言うまでもなかった。


「しかし、露骨なことだな」


 竜也は皮肉に口を歪めた。ユーグとギーラが歩調を合わせて行動していることは誰の目にも明らかだ。和平派の議員であろうと敵に与するギーラに対して好意を持つことは困難だった。


「なるようになれ、だ。和平を選んで自滅したいのならそうすればいい」


 ギーラの蠢動に対応できず、対策も立てられなかった竜也は半ば投げやりになりながら元老院に臨んでいた。ナハル川の防衛線がろくに機能していないことを竜也は誰よりも理解している。ナハル川の防衛線なくしてヌビア軍の勝利もまたあり得ない。


「俺がヌビア軍を勝たせる」


 虚勢でもそう言えない今、和平という屈服が選ばれることもまた運命――それは達観と言うより諦念である。長雨の戦いの大損害、バール人の離反、先行きに対する悲観、それらが竜也の戦意を削りに削ってきた。あと一撃でへし折れる寸前、竜也はそこまで追い詰められていたのだ。

 アミール・ダールやマグドは前線で敵の動きを警戒中。その代理としてミカとライルが出席。また、ファイルーズやカフラも竜也に同行していた。一方のギーラはセンムトを伴っている。


「ご機嫌よう、センムトさん」


 ファイルーズの挨拶を受け、センムトは一瞬動揺する。が、即座に無表情を取りつくろった。ファイルーズに一礼してギーラの後を追うセンムト。センムトはギーラへの同行を職務と割り切っているようだ、とファイルーズは感じた。

 そして開会の時間となり、議長のラティーフが開会を宣言しようとし、


「この恥知らずが! 敵に媚びを売る裏切り者はこの国から出ていけ!」


 その間もなく恩寵の部族を代表している議員の一人がいきなりギーラを指弾する。大荒れが必至なこの元老院の、それが開会の号砲となった。


「自殺がしたいのなら一人でやれ! 敵はまだ四〇万も残っていて、こちらは戦力が半減しているのだぞ!」


「ここで和平を結んだところで聖槌軍は体力を回復させたなら必ずまた攻めてくる。今戦うべきだ!」


「それで連中に負けて、東も連中に占領されるのか? 冗談じゃない!」


「自分の町だけ守れればそれでいいというのか!」


 和戦両派の議員が自説を主張し、相手に反論し、相手を罵り、反撃し、掴み合いになる。そんな光景が議場の各所で展開された。竜也は充分な時間を取って双方の議員に言いたいだけ言わせた上で、シンパの恩寵の部族の議員を使って乱闘を鎮圧。議場に仮初めの平静さを取り戻させた。


「――ところで聖槌軍との和平協定を提案したのは特使ギーラだったと思うが、特使ギーラの主張はまだ聞いていなかったな」


 竜也はギーラに水を向けた。和平派議員の有象無象は竜也の眼中にはなく、竜也はギーラ一人を論戦の相手と思い定めている。竜也の挑戦を受け、不敵に笑うギーラは舞台俳優のような足取りで一同の前に進み出た。


「諸君! 諸君は聖槌軍百万の軍勢という空前の敵とよく戦った! 諸君の勇気も献身も、私は誰より理解している!」


 上から目線のギーラの演説に竜也は白けた思いを抱かずにはいられない。「お前はつい先日まで、この戦いの間中ずっとケムトにいたんじゃないのか」と竜也は内心で突っ込んだ。


「にもかかわらずヌビア軍は敗北寸前だ! 何故か?! 理由はただ一つ、クロイ・タツヤの戦争指揮がまずかったからだ! この者の油断が長雨の戦いの大損害をもたらした、全ての責はこの者にある! 私はここに、クロイ・タツヤの皇帝解任を提案する!」


 ギーラの動議に議場がざわめいた。意表を突かれた議員達がその動議の是非について話し合っている。竜也の脳内は怒りと殺意に埋め尽くされたが、それもわずか一時だ。ゆっくり深呼吸をし、竜也は怒りを静めて心のコントロールを取り戻した。


「それで? 俺を解任して次の皇帝にはお前がなるのか?」


「それは私が決めることではない。だが、議員の諸君が私を支持してくれるのならば、私はこの身命をヌビアに捧げることを約束しよう」


 竜也の問いにギーラが芝居がかった振る舞いでそう答える。「なりたいのなら勝手になればいい」という言葉が竜也の喉元まで出かかっていたが、それでもその前に確認するべきことがあった。


「もし俺が皇帝から解任されたなら、皇妃のファイルーズはどうなるんだ?」


「それについてはケムト王からの内勅をいただいている」


 ギーラの回答にファイルーズが「父上が、ですか?」と目を見開き、ギーラが満腔の自信を持って大きく頷いた。


「陛下が宰相プタハヘテプに示されたものです」


 ギーラは懐から一枚の書状を取り出し、それを読み上げた。


「――『クロイ・タツヤなるマゴルと王女ファイルーズが婚儀を結んだとの風聞、断じて許し難し。されど、王女自ら風聞を生む責なしと言えず。かくなるは王女速やかに故国に帰還すべし。王女の身柄、特使ギーラ預かりとす』」


 それは……という誰かの呟きが竜也の耳に届いた。あるいはそれは竜也の口からこぼれ出たのかもしれない。あまりのことに竜也の憤怒のメーターは一周してゼロ位置に戻っていた。ギーラに対して怒るよりもむしろ感心してしまう。


「……それは要するに、わたしとタツヤ様との結婚をなかったことにする、ということでしょうか?」


 ファイルーズが小首を傾げて問い、ギーラが頷きつつ「少し違います」と言い、


「『なかったことにする』ではありません。『実際に何もなかった』のです。それこそがケムト王のご意志」


 と力を込めて説明する。さらには、


「エジオン=ゲベル王からも同じ内容の勅書をいただいております」


 ギーラは書状を一枚追加した。それを見てミカが顔色を変える。


「王女ファイルーズ、王女ミカは速やかにケムト艦隊に移動をお願いします。お二人の身の安全は私とこちらのセンムトが生命を懸けてお守りいたします」


 ギーラの言葉にセンムトが小さく頷く。その鋼のような瞳を見れば、センムトが武人として、軍人として信用できることは明白だった。たとえ血迷ったギーラがファイルーズやミカを手籠めにしようと試みてもセンムトが決してそれを許さないに違いない。

 最大の切り札を切ったギーラは勝ち誇った顔を抑え、神妙な表情を作るのに自制心の全てを投入していた。


「……まだだ、あと少し。それまでは我慢だ」


 歓喜に顔を歪め、高らかに哄笑をあげたいのをギーラはかろうじて堪えている。


「あと少しであの小僧は何もかもを失う。王女ファイルーズと王女ミカの威光を失えば、もう誰もあの小僧を皇帝とは認めない。そして私が本当の皇帝となる。二人の王女を私が娶り、東ヌビアを私が支配するのだ……! 私が栄光を掴む姿を目にしながら、あの小僧はどこかでのたれ死ぬがいい」


 ギーラの脳裏には己の未来図が黄金と極彩色で描かれていた。東ヌビアの支配者・皇帝として君臨し、軍の精鋭と万民に崇められている、自分のその姿が。目も眩むほどに巨大な宮殿を建設し、二人の王女だけでなく何百というヌビア中の美姫が集められたハーレムで酒池肉林の毎日を送っている、自分のその姿が。ついでに竜也が乞食となって裏路地で残飯をあさり、そのまま一人寂しくのたれ死ぬところも想像していた。


「――お断りしますわ」


 だが、その確固たる未来図は一瞬で単なる妄想へと転落した。ギーラはその事実を受け入れられず、思わず問い返す。


「お、王女、今なんと」


 ファイルーズは華やかな笑みを日の光のように振りまきながら、疑う余地を一片も残さずに断言した。


「お望みなら何度でも言いますわ。――わたしはタツヤ様と添い遂げることを太陽神に誓った身、わたしはタツヤ様の妻です。タツヤ様から離れるくらいなら死を選びます」


「そ、そんな……」


 ギーラは予想外の事態にうろたえるばかりである。そこに初めてセンムトが口を開いた。


「しかし、王女ファイルーズ。先日の戦いでヌビア軍は大打撃を受けました。この状況で戦い続けるのは無謀というものでは?」


 ファイルーズは「それは違います」と静かに首を横に振った。


「確かにわたし達は苦しい状況に追い込まれています。ですが、聖槌軍はわたし達以上に苦しいはずなんです。考えてみてください、ヌビア軍のどこで人食いが横行したりしていますか? 今はわたし達と聖槌軍の我慢比べのとき。あなた達は今なお暖衣飽食していながら聖槌軍より先に音を上げるのですか?」


 ファイルーズの問いに和平派の議員が気まずそうに目を逸らす。ファイルーズは新事実を呈示したわけでも、特別目新しいレトリックを駆使したわけでもない。同じようなことは抗戦派の議員が既にくり返し主張している。にもかかわらず、ファイルーズの言葉に和平派議員の全員が口を閉ざした。太陽神殿の巫女長たるファイルーズが「ヌビアを守れ」と命じているのだ、それに抗弁するのは誰にとっても至難だった。


「しかし、王女ファイルーズ」


 反論するのはこの戦争を他人事としているセンムトである。


「もし聖槌軍が攻めてきたならヌビア軍の敗北は免れません。にもかかわらず皇帝クロイは戦い続けようとしています。このままでは東ヌビアは侵略され、征服され、聖槌軍の魔手はケムトまで届くようになるでしょう」


「いえ、そうはなりません」


 にこやかに断言するファイルーズにセンムトは戸惑った。それはセンムトだけではない。ギーラや竜也も含めた議場の全員がその当惑を共有している。


「聖槌軍と戦って勝つ方法があるというのですか? 一体どうやって」


「タツヤ様が何とかしてくれますわ」


 ファイルーズのその宣言に、今度は全員が沈黙した。それに構わずファイルーズが、祈るように心臓の前で両手を結びながら、静かに、だがよく通る涼やかな声で続ける。


「わたしが良人と見込んだ殿方を見損なわないでください。この程度の苦難、我が半身と思い定めた方なら必ず乗り越えてみせます」


 そこにあるのは竜也に対するわずかの疑いもない、完璧なる信頼。竜也は自分の胸の内が火傷しそうなほどに熱くなるのを感じた。こぼれそうになる涙を堪えるために上を見上げる。

 皇帝の地位なんかほしければくれてやる。和平を結んだことでこの国が滅んだとしても、俺の知ったことじゃない――それは竜也の掛け値なしの本音である。でも、ファイルーズを奪われることだけは許せない。ファイルーズを喪うことだけは認められない――それは竜也の心からの欲望であり要求だった。欲求の薄い竜也が生まれて初めて抱いた、魂からの衝動だった。

 だが、ファイルーズを奪われないためにはヌビアのこの窮状を何とかしなければならない。破滅の縁に立たされたヌビアを救わなければならない。聖槌軍を撃破し、この戦争に勝つための新たな筋道を見つけなければならないのだ。


(そんなの、一番最初にファイルーズと約束していたことだ。やるべきことは最初から何も変わってない。この程度のことができないでいて何が皇帝だ、黒竜の化身だ……!)


 竜也の思考回路が光の速さで高速回転した。この数日間、ヌビアを救うために散々考えていたようで、その実思考が堂々巡りのただの空回りだったことを実感する。枢機卿アンリ・ボケ、ヴェルマンドワ伯ユーグ、特使ギーラ、ケムト艦隊、聖槌軍、モーゼの杖。竜也を包囲する様々な要素があるいは結合し、あるいは分離する。その反応が無数にくり返され――


(あれ……? ちょっと待て)


 竜也の中である図式が完成を見た。竜也の頬が高揚に熱くなる。


(馬鹿げているとしか言いようがないけど、でもそれができるなら……)


 竜也はその図式に穴がないかを様々な角度から検討した。検討すればするほど、それが必然だ、それ以外に解はないと思えてくる。検討に没頭した竜也は周囲の状況も忘れてしまい、誰の声も耳に届かなくなった。


「お、王女ミカ! 王女ミカはどうなのだ!」


 ファイルーズを竜也から引き離す謀略が不発に終わり、さらにはファイルーズの託宣により議場の風向きが変わってきている。それを肌で感じたギーラはミカだけでも竜也から引き離そうとした。


(風向きくらい何度でも変えられる! アミール・ダールさえ味方に付ければ――)


「お断りです。わたしは父上とタツヤと共に、この地で敵と戦います」


「馬鹿な!」


 ミカにまで拒絶されたギーラは一瞬自制が利かなくなり半分くらい激発してしまった。


「エジオン=ゲベル王からもらったのは内勅ではなく正式な勅書なのだぞ! それを」


「ということはケムト王の内勅はやはり宰相のでっち上げですか」


 槍で胸を穿つがごとき鋭さでミカが指摘し、ギーラは思わず言葉に詰まる。ミカの指摘は根拠のない、ただの揚げ足取りに等しいものなのだが、ギーラの態度はそれが事実だと自分で認めたようなものだった。


「いずれにしても」


 ミカはギーラを見下ろすような目を向けて、


「故国からわたし達を追放したのはエジオン=ゲベル王です。その命令に従う理由などどこにあるのですか」


 馬鹿ですかあなたは、とは言わなかったが、それが省略されただけなのは誰もが理解できたことだった。ギーラの口から歯の軋みが、獣のような唸りがかすかに漏れている。


「――ところでギーラさん、一つ確認したいんですが」


 突然カフラが発言し、余裕をなくしているギーラは「何だ!」と怒鳴るように返答した。


「もしタツヤさんが皇帝じゃなくなってギーラさんが次の皇帝になったなら、ギーラさんはタツヤさんの借金を引き継いでくれるんですか?」


「はあ? 馬鹿を言うな、何故私がそんなものを」


 想定外のカフラの質問にギーラは本音そのままに回答。それを聞いたカフラは「ありがとうございます」と一礼した。だが、


「……何が言いたい」


 カフラがにやにやと嫌らしい嗤いを浮かべているのを見、ギーラは苛立ちを抑えつつ問う。


「いえ、何でもありませんよー。あとでお仲間の皆さんに確認してみたらどうですか?」


 カフラは嘲笑混じりにそう言うだけだ。ギーラは大きく舌打ちした。


「――王女ファイルーズがどのようにお思いになろうと、肝心のクロイ・タツヤに戦う方策がなければ意味がない!」


 ギーラは一呼吸置いて冷静さを取り戻し、その舌鋒を竜也へと向けた。


(こうなったら論戦であの者を論破して、皇帝解任を採決させるしかない)

ギーラは未だ勝利を諦めておらず、それを勝利への筋道とした。が、


「……おい、聞いているのか、おい!」


「え? 何か言ったか?」


 自分の考えに没頭していた竜也はギーラの問いかけが全く聞こえていなかった。屈辱にまみれたギーラは眩暈がするほどの怒りを覚えているが、竜也はそれすらも気が付いていない。


「今のヌビア軍の有様で、貴様はどうやって聖槌軍に勝つつもりなのかと訊いている!」


「それは言えない」


 竜也の即答にギーラは数呼吸分沈黙し、


「ふざけているのか……!」


 歯をこすり合わせて出しているかのようなその声音に、竜也は「なんでこいつはこんなに怒っているんだ?」と首を傾げた。


「これは秘中の秘だ、今は公表できない。だが」


 竜也は立ち上がって議場の一同を見渡した。議場の全員の視線を竜也は一身に集めている。期待、希望、疑念、警戒、様々な眼差しをその身に受けながら、竜也は欠片も怯んでいない。まるで涼風を受けているかのような爽やかさでそこに堂々と立っていた。

 ファイルーズ達は竜也がまとう空気が一変したことを感じている。つい先ほどまで竜也は傷付き、疲れ、諦念し、それが積み重なった濁った気配をまとっていた。だが、今それが完全に消えている。まるで生まれ変わったかのように、この場で進化を遂げたかのように、竜也はわずか数刻で一回りも二回りも成長していた。


「休戦協定はあと四日、一三日までだ。その間に結果を出す! あと四日間、何も言わずに俺に力を貸してほしい!」


 ギーラも含め、誰も竜也に反論できない。その場の全員が竜也の威風に圧倒されていた。竜也は今日、このとき、この場で、初めて本当の意味で「皇帝」となったのだ。


(くそっ、何故だ、こんな小僧に……)


 ギーラは歯噛みをするが、まるで呼吸が止まったかのように声が出ない。竜也に威圧されている、竜也に位負けしている、その事実をギーラは認めることができなかった。


「……結果を出せなかったらヴェルマンドワ伯と和平協定を結ぶ、それに異存はないのだな?」


「ああ。好きにしたらいい」


 何とか発したギーラの確認に竜也が頷く。ギーラの他に異議や疑義を挟む者はおらず、その後早々に元老院は閉会。竜也は危機の一つを乗り切り、四日間の猶予を手にしたのである。








 元老院を期に風向きは完全に変わっていた。


「くそっ、どうしてこんなことに……」


 和平派の議員の大半がギーラから距離を置いている。それはいい、四日間の猶予で竜也が結果を出せなければ彼等はまたギーラを頼るようになるだろう。だが、それまではひっきりなしにギーラの元を訪れていたバール人商会がぱったりと来なくなっている。それはギーラにとって予想外の事態だった。


「どういうことだ?」


「部下に調べさせやしょう」


 とギーラの意を受けるのはキヤーナだ。ギーラがサフィナ=クロイを離れてケムトに赴く際に護衛となったのがキヤーナ傭兵団で、キヤーナはギーラにとってはほとんど唯一の腹心だった。ギーラがケムト艦隊という戦力を手に入れてからは、キヤーナ傭兵団は情報収集や謀略等、表には出せない様々な仕事を担うようになっている。

 バール人の態度が変わった理由は実にあっさりと判明した。


「我々が皇帝クロイにどれだけの金を貸していると思っているのだ。それを反故にしようという人間に何故力を貸さねばならん?」


 ある商人が語ったその理由を聞いたとき、ギーラは真っ先にカフラを罵った。


「あの女、これを狙って……!」


 カフラのあの嘲笑、あれはギーラから望む回答を引き出したが故のものだったのだ。竜也への支持不支持にかかわらず、今このヌビアでバール人商会として営業していて総司令部の公債を買っていない(買わされていない)商会は存在しない。総司令部の公債と言えば聞こえがいいが、その実態はクロイ・タツヤ個人名義の借金だ。つまりは借金を返してほしければ竜也を皇帝として支えなければならない――借金もある限度を超えると借り手と貸し手の力関係が逆転する、その典型例である。

 もしギーラが「竜也の借金を引き継ぐ」と宣言していればバール人達は安心してギーラを支持したことだろう。国主としての責任感や真っ当な政治感覚があれば普通はそうするものである。それがなくとも、少なくともバール人としての常識がありさえすれば、ギーラが正解を選ぶのは難しくはなかったはずなのだ。


「まー、ギーラさんなら期待に応えてくれるんじゃないかと思っていましたけど」


 とカフラは一人ほくそ笑む。ギーラの反応を読み切ってカフラは賭を打ち、その賭に勝ったのだ。ギーラは自分の失敗を悔やむが今さらどうしようもなかった。


「……まだだ、まだ私は負けたわけじゃない。あの小僧の秘策などどうせただのはったりだ。あの小僧は結果など出せず、結局ヌビアはヴェルマンドワ伯と和平を結ぶしかなくなるのだ」


 ギーラはそう信じて疑っていない。現時点ではそれは単なる予想であり、やや辛く言うとギーラの願望に過ぎないのだが、ギーラの中ではそれは事実と区別が付かなくなりつつあった。


「だが、ただ待っているだけなのも芸がない。何か手を打つべきだろう」


 とギーラは竜也に仕掛ける謀略を考えるが、新たな手が出てこない。ケムト、エジオン=ゲベル両国王の勅書というギーラ最大の切り札をあっさりと無効にされてしまったのだ、新たな手立てが何もないのも当然である。結局思いついたのは「竜也を暗殺する」という、実に陳腐な陰謀だけだった。

 軍船の船長室を訪れたギーラは偉そうにセンムトに命令する。


「艦隊の兵士から精鋭を選抜して、クロイ・タツヤを暗殺するための決死隊を編成しろ」


「断る」


 センムトは刹那の速度で返答。ギーラはしばらく二の句が継げなかった。


「……貴様、私の命令に従えないのか」


 ギーラは怒りの目でセンムトを射貫こうとするが、センムトもまた氷壁のような冷徹さでその視線を跳ね返す。ギーラは内心で焦燥の汗を流した。


「わ、私は特使だ! 宰相プタハヘテプから特命を受け、この艦隊の指揮を委ねられているのだぞ!」


 センムトは犬に吠えられたかのような煩わしげな顔で、かすかに舌打ちをしつつギーラから視線を逸らす。勝った、と思ったギーラだが、


「それで? 決死隊をどうするつもりだ。まさか総司令部に突撃させるつもりではないだろうな」


 まだそこまで考えていなかったのか、センムトの確認にギーラは答えられない。センムトは呆れたような小さなため息をついた。


「陛下から預かった兵を無駄に死なせる真似はできん。兵を死なせるつもりなら、確実に皇帝クロイを殺せる状況を作ってからにするがいい」


 それ以上はギーラが何を言っても無駄だった。とりつく島もないとはまさにこのことだ。ギーラは忌々しげな舌打ちを残して船長室から退出する。ギーラが立ち去ったことを確認し、センムトは腹の空気を全て吐き出すほどの大きなため息をついた。

 ……なお、この船長室での会話をギーラはもちろんセンムトもまた誰にも口外していない。にもかかわらず、二人のやりとりはその日のうちにケムト艦隊中に広まった。


「何で俺達があんなバール人のために戦わなきゃならないんだ?」


「あのバール人、身の程知らずにも王女に言い寄ってふられたって話だ。皇帝を殺そうとするのも王女のことをまだ諦めていないからだって」


「冗談じゃないぞ、あんなバール人のために戦って死ぬなんて」


 ケムト艦隊の将兵の士気は海の底へと潜る勢いで落ちていく。ギーラがファイルーズを竜也から引き離そうとしたことにはそれなりの政治的理由があるのだが、ケムト艦隊の兵士はそれを知らず「ギーラは王女に横恋慕している」と勝手に理解しており、この見方が支配的となっていた。あるいは、末端の兵士達の方が物事の本質を見抜いていたのかもしれない。ギーラがこの噂を知れば怒り狂っただろうが、幸いギーラがそれを知ることはなかった。


「あの小僧をどこかにおびき出し、そこを襲撃できれば……おびき出すにはあの連中が使えるだろう。あの連中はサブラタに待機しているから船を送って連絡を取って……」


 自室にこもったギーラは竜也暗殺の計画立案に夢中となった。ギーラは決して無能ではなく、時間さえあれば充分勝算のある暗殺計画を立案できただろう。だがそれを計画し準備し、実行するには四日という猶予は短すぎた。結果としてギーラは貴重な時間を全くの無為に過ごすことになるのである。








 一方の竜也には無駄にする時間など一秒たりともありはしない。元老院が閉会し、臨時総司令部に戻ってきた竜也はその足で執務室へと向かい、そのまま閉じこもってしまう。その部屋に同席するのはベラ=ラフマ、そしてディアの二人だった。


「アンリ・ボケと手を結ぶ」


 前置きも何もなしに発せられた竜也の言葉に、ベラ=ラフマもディアもしばらく何も言えなかった。かなりの時間を置いて、


「……わたしの耳がおかしくなったのでなければ、皇帝は聖槌軍の枢機卿アンリ・ボケと手を結ぶ、と言ったように聞こえたのだが」


 ディアの確認に竜也は当たり前のように「その通りだ」と頷く。ディアは哀れむような視線を竜也へと向けた。


「どうやらおかしくなったのは皇帝の頭だったようだ」


「いえ、確かに現状を打破するにはそれが唯一の方策でしょう」


 ベラ=ラフマまでそんなことを言い出し、ディアは狂人の国に迷い込んだかのような不安を覚えた。そんなディアを放置して竜也達は検討を進めている。


「おおざっぱに言って、今ナハル川を挟んで対峙している勢力は四つある。聖槌軍の王弟派、枢機卿派、ギーラとケムト艦隊、そして俺達ヌビア軍だ。この四つの中でヴェルマンドワ伯とギーラが手を結んだのなら、残った俺達とアンリ・ボケが手を結ぶことも特別不思議なことじゃない」


「はい、今このときだけは利害が一致しています。しかし問題は、そもそもそんなことが可能なのかどうかです」


 ディアとしては「どう考えても不可能だ、絵空事だろう」と言いたくて仕方なかった。だが竜也は誰に何を言われようとそれを実現するつもりでいる。


「アンリ・ボケ宛の親書を用意する。それを渡して会談を持って、取引をする。……どれもこれも無理無謀の連続だ。でもまずは、アンリ・ボケに親書を渡せないことには話が始まらない」


 ディアは激烈に嫌な予感を覚えるが、それはすぐに現実のものとなった。


「銀狼族のみんなにアンリ・ボケの周囲を探ってもらいたい。投げ文でも矢文でも構わない、アンリ・ボケに確実に親書を届ける方法を見つけてほしいんだ」


 とびっきりの難題にディアは抵抗しようとするが、早々にそれを諦めるしかなかった。アンリ・ボケと手を結ぶこと、それがヌビアを救う唯一の筋道であり、他の方法などどこにもない――少なくても竜也とベラ=ラフマはそう確信しているのだから。


「私の方でも、聖槌軍と取引のあるバール人商会を通じて親書を送れないか当たります」


 ベラ=ラフマはそう言っていたがそれがどれだけ困難かはディアでも判る。時間さえ充分ならベラ=ラフマの方がより確実に親書を届けられるだろうが、猶予はあと四日しかないのだ。ディアはその日の夕方にはスキラに潜入、一族の戦士達と合流した。








 スキラ市内の中心地には石造りの建物が並んでいる。開戦前に大半の建物が解体されて南岸へと移設されたが、残っている建物も少なくはない。その中で一際巨大な建物が目を引いた。城と言ってもいいくらいの規模があり、巨大すぎて移設が不可能だったため未だほぼ原形をここに留めている。

 それはスキラ商会連盟の別館であり、その通称をソロモン館と言った。かつてのゲラ同盟が事務局を置いたこともあり、先年はスキラ会議が開催され、ソロモン盟約が締結された会場でもある。そして現在ではアンリ・ボケが拠点を置いている。何らかの形で歴史の舞台となることを約束されたような館であった。

 ときはタシュリツの月の一〇日の昼過ぎ。何人かのエレブ兵がそのソロモン館の周囲をうろうろと歩いている。ある者は館の後方を、ある者は門前を。ある者は門から出てきた商人の後を付け、ある者は歩哨の衛兵に見とがめられて慌てて逃げ出していた。

 逃げ出したエレブ兵は追跡者がいないことを確認し、それでも大きく遠回りをし、ソロモン館の近くへと戻ってくる。数スタディア先のソロモン館の威容を眺望できる、とある廃屋。そこが彼等のアジトだった。


「駄目だった、警戒が厳重すぎる」


 そのエレブ兵――銀狼族の戦士の一人がディアへと報告する。


「そうか。ご苦労だった」


 ディアはその戦士をねぎらい、途方に暮れたような視線を隣の男へと送る。そこにいるのは牙犬族の剣士ツァイドだ。ツァイドはいつもの飄然とした態度のままに、地面に広げられた地図を見つめ、また窓の外のソロモン館へと視線を向けていた。


「……どうするのだ、今日ももう半日を過ぎてしまった」


「愚痴っていても始まらん。今できることをやるしかあるまい」


 それはそうだが……というディアの呟きをツァイドは無視する。とは言え、銀狼族の偵察はツァイドにとって無意味ではなかった。ツァイドの脳内には侵入経路に関する情報が蓄積されている。


(今日中に打開策が見つからなければ、俺がソロモン館に侵入する。アンリ・ボケの枕元まで入ってやる)


 ツァイドの力ならあるいはそれが可能かもしれないが、生還は到底望めないだろう。それでもツァイドは笑っていた。


(面白いじゃないか、皇帝とあのアンリ・ボケの手を結ばせるとは。この生命を懸ける価値はある)


 ベラ=ラフマの謀略を完成するための捨て駒となる、ツァイドはその覚悟をとっくに決めていた。一方のディアには誰かを捨て駒にするという発想はなく、それ故に焦りを深めている。そんな中、


「ディア様、ヴォルフガングさんが戻りましたが……」


 見張りをしていた戦士が戸惑ったようにディアに報告する。


「どうした?」


「同行者がいます」


 ディアが廃屋の壁の隙間から外をうかがう。確かにディア達の方へと向かいヴォルフガングが歩いており、その隣には一人の男が並んでいた。身長と体格はヴォルフガングより一回り以上、体重はディアの倍を優に超えるだろう。髭に埋もれたような顔といい巨体といい、まるで熊のような大男だった。

 ヴォルフガングが連れている以上敵ではないだろうが、それでもツァイドやディア達は念のために剣を手にする。やがてヴォルフガングが到着、廃屋の前に大男を残し、一人その中へと入った。


「ただいま戻りました」


「ご苦労。それで、あの大男は?」


「私の古い馴染みです。ディア様に紹介したいのですが」


 よかろう、とディアが頷き、大男が廃屋へと招き入れられた。廃屋の中心に大男があぐらをかいて座り、その前にディアが立っている。ディアの横にはヴォルフガングが、そして大男を包囲するように銀狼族の戦士達が佇み、ツァイドは念のために身を隠した。


「お前さんがあのアドルフの娘か。言われてみれば目元が似ている気がするな」


 相好を崩す大男にディアはやや調子を外されたようだった。


「父上を知っているのか?」


「アドルフとも古い馴染みだ。俺は灰熊族の族長ミハイル、お前さん等と同じ『悪魔の民』だ」


 ディアは驚きに瞠目する。エレブ人で自分達以外の恩寵の民と出会うのはこれが初めてだった。


「あなた達もこの出征に……何人の灰熊族が加わっているのだ?」


「村を出たときは三〇人いたが、今は俺も含めて一二人だ」


 しばらく、沈痛な無言が続いた。痛みに耐えるような口調でディアが言う。


「わたし達は四〇人で出征し、今は二六人だ」


「そうか、だが俺達に比べれば大分マシだろう。俺の一族はうすらでかい大食らいばかりだし、それに何より南の連中から支援があったわけでもない」


 銀狼族のまとう空気が変質する。ディアの手が腰の剣にかかるのを見、ミハイルは慌てて手を振った。


「勘違いするな、それを責めるつもりも教会にばらすつもりも毛頭ない。むしろ逆だ、俺達にもかませろ」


「あなた達を?」


 ディアが眉をひそめ、ミハイルは「ああ」と大きく頷いた。


「お前さん達は南の連中から何らかの仕事を請け負い、食い物をもらっているんだろう? 俺の一族にも仕事と食い物を回してほしい、それを頼みにきたんだ」


 ミハイルはヴォルフガングや銀狼族が軍内で奇妙な動きをしていることに気付き、しばらく観察しているうちにヌビアとのつながりを発見したと言う。


「それは構わんが……だが、いいのか? 教会を敵に回すということなんだぞ」


 ディアの懸念をミハイルは鼻で嗤った。


「神様に祈ってりゃ飯が食えるのか? 腹を減らして泣きながら死んでいく一族の若いのを見なくてすむようになるってのか? ええ?」


 ミハイルの剣幕にディアはひるみ、ディアを庇うようにヴォルフガングがその前に立つ。それを見てミハイルの頭も冷えたようだった。


「すまんな」


「いや、別にいい」


 少しの間、やや気まずい沈黙がその場を満たす。そこに、ツァイドがいきなり姿を現した。


「俺は牙犬族のツァイドだ。ヌビアの皇帝の命令を受けてここに来ている」


「ほう。じゃあお前さんの仕事を手伝えば飯が食えるってことだな」


 ミハイルがツァイドの言葉に食いついた。半分は場の雰囲気を変えるためだが、半分以上は素のままだ。ツァイドは「好きなだけ食わせてやる」と大きく頷いた。


「俺達は皇帝の親書をアンリ・ボケに届けようとしている。伝手があれば一番なんだがそんなものはないから、何とかあそこに忍び込めないかと探っているんだが」


 ツァイドの言葉にミハイルは真剣な顔で考え込んだ。全員が沈黙する中、ミハイルの沈思黙考が続いている。最初に焦れたのはディアである。


「……何か心当たりでもあるのか」


「伝手と言えるほどのもんじゃないが」


 そう断った上でミハイルはツァイド達に説明した。


「うちの領主様が教皇庁のある役人に挨拶に行って、それに護衛で同行したことがある。その役人は枢機卿の書記官の一人で、父親から息子に代替わりしたんだが、その息子の方がこの遠征に加わっている。まだ若いから仕事は雑用ばかりで信任も得られていないだろうが、枢機卿に会うことだけならそいつにとっては難しい話じゃないはずだ」


 ディアとツァイドの目が剣のように鋭く光る。


「そいつはまだ生きているんだな」


 ディアの確認にミハイルが「もちろんだ」と頷き、ディアがツァイドへと顔を向けた。二人が真剣な眼差しを向かい合わせにする。


「アンリ・ボケ本人に接触するよりはずっと簡単だろうな」


「もう時間もない、その男に賭けるぞ」


 ヴォルフガングや他の銀狼族、それにミハイルも無言のまま頷く。銀狼族とツァイド、ミハイルは一縷の望みを掴むため、それぞれの行動を開始した。








 タシュリツの月の一一日、時刻はすでに逢魔が時となっている。

 スキラの町が赤い闇に包まれる中、一人の若い男が歩いていた。ソロモン館を出、宿舎へと向かって歩いているのはヨアキムという名の若い書記官である。聖職者の中でも高官はアンリ・ボケとともにソロモン館を宿舎としているのだが、ヨアキムの宿舎はソロモン館の外だった。ヨアキムの身分や職分ならソロモン館を宿舎としてもぎりぎりおかしくはないのだが、本人は格落ちの宿舎を使うことをむしろ喜んでいた。


「ただでさえ近くにいるだけで息が詰まるのに、ここ何日かは特に不機嫌だからな」


 君子危うきに近寄らず、と独りごちながらヨアキムは歩いていく。ヨアキムが細い路地に差しかかったとき――不意にその姿が消えた。もし誰かがそれを目撃していたとしても、ヨアキムが神隠しにあったようにしか見えなかっただろう。だがその瞬間を目撃した者はどこにもいない。

 一方突然路地裏に引きずり込まれたヨアキムは何者かに拘束され、そのまま路地裏の奥へ奥へと連行されていたところである。ヨアキムを掴んでいるのは、それなりに背の高いヨアキムよりさらに大きく、横幅は倍くらいありそうな大男だ。大男はヨアキムを軽々と担ぎ、悠々と歩いている。成人男子のヨアキムがまるで幼児のような扱いだった。

 路地裏の一番奥、袋小路の壁際でヨアキムはようやく地面に下ろされた。大男の他、二人の男がその場にいる。三人とも覆面をしているが、練度の高い戦士であることはその雰囲気が雄弁に物語っている。元々文官で戦闘の経験は全くないヨアキムだ、戦ってこの場を脱することなど最初から考えもしなかった。


「わ、私は書記官の中でも末端だ。それに部署も違うから食糧を回すような権限は持ってない」


 男達はヨアキムの言葉に何の反応も示さない。三人のうち一人が前に進み出、二人が若干後方に下がった。ヨアキムの前に出た男が覆面を取って素顔をさらし、ヨアキムが目を見張る。夕闇の中で人相は判然としないが、その男がエレブ人ではないことだけは確かだった。


「俺達は川の向こうから来た、ヌビアの皇帝の使いだ。枢機卿アンリ・ボケに用がある」


 ヨアキムは何も言わない、何も言うことができない。男は少し間を置き、続けた。


「ここに皇帝の親書がある、これを枢機卿アンリ・ボケに渡せ。貴様が開封するのは構わんが、他の者には見せるな。枢機卿一人に確実に渡せ」


 そう言ってヌビア人の男はヨアキムの腕にその親書を押し付けるようにして渡す。男は二歩、三歩と後ろに退った。三人の男が横に並んでいる。


「もし渡さなければ……」


 ヌビア人の男はそこで言葉を途切れさせた。突然、


「――フンッ!」


 覆面の男が路地の煉瓦の壁を素手で、全力で殴りつける。普通なら拳から手首までの骨全てが粉々に砕けているはずだが、粉々になったのは煉瓦の方だった。さらには壁に大穴が空いている。壁の中の柱も殴り砕いたのか、壁が崩れてきた。両手を広げたほどの幅の壁が崩れ、三人の男へと倒れかかってくる。壁を殴った男はその場から待避。残った二人のうち大男は、降り注ぐ煉瓦を頭や肩で受けていた。常人なら頭蓋骨が割れるであろう煉瓦の雨を、大男は普通の雨のように受け止め、笑みすら浮かべている。

 残ったもう一人、ヌビア人の男の方には大きな石の柱が倒れかかってきている。男は剣を抜き、人の胴ほどもある石の柱を剣で斬り――そのまま上下二つに斬り分けた。石の柱が地面に叩き付けられ、地響きが起きる。

 理解を絶した、悪夢のような光景にヨアキムは呆然とするだけだ。剣を使った男が、


「――判ったな?」


 と念押しをし、ヨアキムは壊れた玩具のように首を前後させた。

 三人の男が悠然と立ち去っていく。ヨアキムの思考回路は衝撃のあまり焼き切れており、その目はガラス玉のように三人の背中をただ写すだけだった。








 その夜、ソロモン館。アンリ・ボケがいるのは自分の執務室だ。余人を交えず、一人で考えているのはヴェルマンドワ伯ユーグのことだった。


「あの背教者を許してはおけん。だが異端として告発するだけの名目もない。だがこのままではこの聖戦が貶められてしまう。だが……」


 どれだけ考えてもユーグに対処する上手い方法は見つからず、思考は堂々巡りをし、苛立ちばかりが募っていく。そこに、


「猊下猊下猊下ー!」


 ノックもせずに突然何者かが執務室に飛び込んできた。アンリ・ボケは巨体に見合わぬ素早い動作で愛用の鋼鉄製の聖杖をつかみ、その何者かへと突きつける。その男は急停止して床に身を投げ出し、「へへー!」とひたすら平伏した。そこでようやくその男が自分の書記官の一人であることに気付く。


「一体何事か」


 不機嫌さを隠しきれない口調でアンリ・ボケが問い、書記官のヨアキムは自分の身に起こったことをありのままに、包み隠さず報告した。


「……なるほど、それがヌビアの皇帝の親書ということか」


「は、はい」


 今、執務室の机の上にはその親書が安置されている。上質の皮で装丁された台紙、その中に親書が封じされているのだろう。ふむ、とアンリ・ボケはこれが本物かどうかを検討した。まず最初に疑ったのは、


「ヴェルマンドワ伯の罠ではないのか?」


 ということだ。親書自体はバール人商会の協力があればでっち上げるのは難しくはない。だがヨアキムの体験を考えるとこれが本物の親書である可能性は充分に高いものと考えられた。


「それを開封せよ」


 その命令を受けたヨアキムは思わず問い返した。


「あの……私がでしょうか」


 アンリ・ボケは視線を向けただけだが、それで充分以上の回答となった。ヨアキムは半泣きになりながらそれを開封し、中に入っている羊皮紙を取り出す。幸いにして毒刃や毒針などのトラップは仕込まれていなかった。


「文面を見ずにそれを卓上に広げよ」


 その命令のままに、ヨアキムは最大限顔を背けて書面を広げ、卓上に安置する。


「そのまま立ち去れ。このことは一切口外無用だ」


「は、はい」


 ヨアキムはきびすを返し、執務室から逃げ出していく。自分の宿舎に戻ったヨアキムはベッドに飛び込んで覚えている限りの聖句をそらんじつつ眠りに就くのだが、そんなことはアンリ・ボケにとってはどうでもいいことだった。

 アンリ・ボケの人相が一変していた。普段は糸のようなその目が大きく見開かれている。まぶたが限界まで開口し、常人の倍くらいの大きさの眼球がこぼれ落ちそうになっている。今、アンリ・ボケの目にはその親書しか映っていない。アンリ・ボケの頭にはその親書の文面しか入っていなかった。






『ヌビアの皇帝クロイ・タツヤが聖槌軍の枢機卿アンリ・ボケに取引を申し出る。


 フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯ユーグの首級をよこせ。ひきかえにモーゼの杖をくれてやる――』





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ