表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄金の帝国  作者: 亜蒼行
逆襲篇
47/65

第四〇話「敵の味方は敵」

 お待たせしました、更新再開です。


 全六篇のうち第五篇「逆襲篇」がようやく完成しましたので投稿します。逆襲篇は四〇話から四九話の全一〇話。毎週火・木・土の21時更新予定です。


 最後の第六篇はこれから加筆・改稿にとりかかるところです。どうか気長にお待ちください。



 イムホテプが部下のツネリをケムトへと送り出したのはニサヌの月(第一月)の中旬のことである。


「そして今日がタシュリツの月(第七月)の六日か。ちょっとのんびり構えすぎていたな」


 竜也はそう独りごちる。サフィナ=クロイからケムトまでは海路で一月の旅程だ。往復で二月以上使い、さらに杖の偽物を作るのに仮に一月使ったとしても、本来ならとっくに戻っていなければならなかったのだ。


「ファイルーズ様からご命令をいただいておきながらこのような不始末となったこと、まことにお詫びの言葉もございません」


 場所はサフィナ=クロイの中心地にある臨時総司令部、その竜也の執務室。竜也達の前で平伏し、ひたすら恐縮しているのはツネリである。竜也は辛抱強く彼をなだめた。


「謝罪は後で気が済むまでやってくれ。でも今は、ケムトで何があったのか、事実だけを話してほしい」


「は、はい」


 ツネリは迷子の子狐のように怯えながらも、竜也の命令に従って報告を始めた。

 ……ときは海暦三〇一六年タシュリツの月の六日、長雨の戦いから六日が経っている。聖槌軍がスキラに到着し、戦端が開いてからは約三ヶ月。ソロモン盟約が締結され、竜也がヌビアの指導者となってからは約半年。教皇インノケンティウスが聖戦を発動してからは約一年半。竜也がこの世界にやってきてからは三年と二ヶ月が経過していた。

 長雨の戦いにより聖槌軍は二〇万の犠牲を出したが、その一方ヌビア軍もまた全軍の半数が死傷している。


「今、敵の攻撃があったら確実に負ける」


 竜也やアミール・ダールが敵の影に怯える中、三〇隻の軍船を引き連れてケムトから舞い戻ってきたのがギーラである。ギーラはケムト艦隊の戦力と「モーゼの杖」を材料とし、ヴェルマンドワ伯ユーグと七日間の休戦協定を結んだのだ。今のヌビアにとってそれは、天国から垂らされた蜘蛛の糸に等しかった――ギーラがヌビアを二つに割って西側をユーグに譲り渡すつもりでさえいなければ、の話だが。

 もし可能なら竜也は千の理を説いてギーラにそれを撤回させようとしただろう。だがギーラは言いたいことだけを言って一方的に竜也との会談を打ち切ってしまった。臨時総司令部に戻ってきた竜也達はギーラの策動に対処しようとしているところである。


「私がケムトに、メン=ネフェルに到着したのはジブの月の下旬です。私は聖モーゼ教会の教主、大司教ムァミーンに状況を説明して協力を求め、彼はそれを快諾しました」


 聖杖教と言えば自ら以外の信仰を一切認めず、多神教を邪教呼ばわりし、異教徒を殺戮することを功徳とする、その残虐性や傲慢性を最大の特徴としているわけだが、聖モーゼ教会に限ってはその例外に当たる。聖モーゼ教会が建っているのは太陽神殿信仰の聖地にして中心地、メン=ネフェルだ。この地で彼等聖杖教徒がその傲慢さのままに存分に振る舞ったなら、その日のうちに彼等はメン=ネフェルから追放され、聖モーゼ教会は更地になっているだろう。


「私達は太陽神殿の信仰を貶めるつもりも妨げるつもりも、その信徒に危害を加えるつもりも毛頭ありません。ですからどうか私達の信仰を黙認してください」


 歴代の聖モーゼ教会の司教達はそうやって太陽神殿の前に平伏し、そのお目こぼしに預かってどうにか存続してきたのだ。だがその姿勢はテ=デウムの教皇庁から厳しい指弾を受けた。


「預言者フランシスを始めとし、かつての多くの信徒が棄教か殉教かの選択を迫られたが、それでも彼等は信仰を曲げずに殉教を選んだ。聖モーゼ教会は異教徒の脅迫に屈して信仰を歪めている、それは許されることではない」


 それまでの聖杖教の教義の範囲ではこの非難に対抗することは困難だったが、彼等は反論として聖典のある一節を持ち出した。


「預言者フランシスの説いた、よきサマリア人の段を思い出してほしい。神の愛は無制限であり、それが奉ずる神や信仰の垣根に囚われるはずもない。異教徒にも神の愛を知らしめるのが我等の使命であり、そのためには異教徒とも手を携える必要があるのだ」


 こうした理論武装と自己正当化により、聖モーゼ教会はそれまでの「正統な」聖杖教の教義から外れ、分派として成立することとなった。教皇庁と聖モーゼ教会は互いに破門し合って絶縁。以来両者の間に交流はなく、それぞれ独自の歴史を歩んできた。聖モーゼ教会は「少しおかしな神様を信じる人達」としてメン=ネフェルの社会でも一定受け入れられていたのである。


「……ですが、聖槌軍のヌビア侵攻によりその空気は変わりました。ルサディルの惨劇を始めとする聖槌軍の暴虐はケムトでも知られています。聖杖教徒は野蛮で残虐な狂信者、という見方が広まり、聖モーゼ教会の立場も危うくなったのです」


 ツネリの説明に竜也は「そうなるだろうな」と相槌を打った。


「司教ムァミーンは教皇インノケンティウスを口を極めて罵り、エレブの聖杖教徒と同一視されるのを必死に払拭しようとしていました。その中で私がケムトに到着し、モーゼの杖を引き渡すよう彼等に要求したわけです」


 教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ・ボケがモーゼの杖を欲していることはケムトでも知る人ぞ知る話だった。


「杖一本渡せば聖槌軍が帰ってくれるのならそうするべきだ」


 という声が司教ムァミーンの耳にも届いていた。だがムァミーン達にとってそれは信仰の支柱であり信者の拠り所であり、決して簡単に譲れるものではない――が、偽物で構わないというのなら話は別である。


「ファイルーズ様のご配慮に司教ムァミーンは涙を流して喜んでおりました」


 とツネリ。偽物を渡すことで本物を失う危険を大幅に減らせるのなら、悪化するばかりのメン=ネフェルでの立場を少しでも改善できるのなら、ムァミーンにそれを断る理由などどこにもありはしないだろう。


「元々聖モーゼ教会にはモーゼの杖の複製が何本か用意されておりました。本物の杖は教会の地下で厳重に保管されているそうで、司教ムァミーンも目にしたことは二回しかないとか。普段の礼拝や信徒の参拝には杖の複製を使い、それを見せているのです」


 そして特別の礼拝や特別の儀式に際してはそれ用の、特製の複製があるわけで。さらにムァミーンが手ずから加工を施し、本物と寸分変わらない複製が完成。ムァミーンがしぶしぶ嫌々を装いつつ引き渡し、ツネリが無理矢理強引を演じつつ受け取ったのがそれである。


「……あのバール人が現れたのは私がサフィナ=クロイに向けて出港しようとしていた、まさにそのときです」


 ツネリの口調が一変した。その声音に口惜しさと忌々しさがにじんでいる。


「私がモーゼの杖を手に入れたことをどこかで耳にし、杖の引き渡しを求めてきたのです。もちろん私は拒絶したのですが、あのバール人は宰相プタハヘテプの特命を有していました。杖は取り上げられ、私はずっと船室に軟禁されることとなったのです」


 杖を手にしたギーラはセンムトに艦隊の編成をさせたりエジオン=ゲベルに赴いたりと精力的に活動。万全の準備を整え、ケムトを出立したのはエルルの月(第六月)の月初である。


「……あのバール人が私を解放したのはつい先ほど、ファイルーズ様との会談が終わった直後です。私はその足で総司令部に戻りました」


 竜也は顎に手を当てて少しの間考え込んだ。


「……ギーラは杖が偽物だってことは知っているのか?」


 ツネリは即座に「いえ」と首を横に振った。


「あのバール人は杖が本物だと疑っておりませんでした。メン=ネフェルでもあれが偽物だと知っているのは司教ムァミーンただ一人です」


「ケムト艦隊提督のセンムトとギーラは上手くいっているのか?」


 ベラ=ラフマの問いに対する答えも「いえ」という否定だった。


「ギーラは宰相プタハヘテプの特命と特使という立場を振りかざして提督センムトを顎で使っており、提督センムトはギーラを嫌っております。ですが、提督センムトは職務に忠実な方です。『特使に協力せよ』という宰相の命令には逆らえず、やむを得ずギーラの言いなりになっているのです」


 ベラ=ラフマは「ふむ」と何かを考え込んだ。


「ギーラさんがどうしてエジオン=ゲベルに赴いたのか、ご存じですか?」


「いえ、申し訳ありませんが……エジオン=ゲベル王に何らかの助力を求め、それが得られた、ということくらいしか判りません」


 その他、不明な点を何点か確認して竜也はツネリの報告を聞き終える。ツネリを退出させ、竜也の執務室にはファイルーズ、イムホテプ、そしてベラ=ラフマだけが残された。


「しばらく名前を聞かないと思っていたら、まさかこんなことになるなんて。甘く見すぎていたな」


 竜也がいつになく苦々しい顔で舌打ちをする。ベラ=ラフマもまたまれに見る恐縮ぶりだった。


「面目次第もありません。私も油断しておりました」


「終わったことはもういい。でも、ギーラがこの町にいる限りあなたの監視の目からは逃れられない、それは期待していいか?」


 竜也の確認にベラ=ラフマは十全の自信を持って「お任せください」と頷いた。


「ギーラは自分への支持を、ヴェルマンドワ伯との和平協定への支持を集めようとするだろうな」


「おそらく元老院の議員――スキラ会議の参加者への働きかけをし、自らの派閥に取り込もうとするでしょう」


 竜也とベラ=ラフマはそう確認し合う。そこにイムホテプがためらいがちに口を挟んだ。


「東ヌビアの議員を始めとしてギーラの支持に回る者も多いでしょう。我々の置かれた状況を考えるなら、最悪の敗北を避けるためなら、西ヌビアの割譲もやむを得ないことと……」


「それは違う」


 吐き捨てるような竜也の剣幕にイムホテプは口を閉ざす。竜也は一呼吸置いて気持ちを落ち着かせようとした。


「西ヌビアを割譲して和平を結んだところで、そんなの長く持っても数年だ。いずれそのうち、奴等は万全の準備を整えてナハル川を渡ろうとする。和平を結んでも問題は先送りになるだけで何も解決しないんだ」


 竜也の信念には一片の揺るぎもなく、ファイルーズもまたそれを是とした。今検討するべきはギーラの策動にどう対抗するか、和平を求める声にどう対処するか、だ。だが良案が簡単に出るはずもなく、「各自の宿題」という形でその夜の検討は終わってしまう。その間にギーラは一手も二手も先手を打っていた。

 翌日の朝、仮の公邸になっている船から臨時総司令部に登庁した竜也はその光景に唖然とする。


「軍は先の戦いの痛手から回復していない。ここは和平を結んで時間を稼ぐべきだ」


「痛手を受けたのは敵だって同じことだ! 和平など馬鹿げている!」


「西を取り戻さなくてもいいというのか!」


「東まで聖槌軍に占領されてしまったら元も子もないだろうが!」


 総司令部に大勢の元老院議員が集まり、ギーラの和平案をめぐって言い争いをしていたのだ。


「皇帝! 皇帝クロイはどうするつもりなのですか?」


 議員の一人が竜也に気が付き、竜也に詰め寄る。それにその場の議員の大半が続き、竜也は彼等に包囲された。


「まさか敵に西を割譲するなどと」


「今の状態で敵と戦うなど、暴挙です!」


 彼等は口々にそれぞれの主張を叫んでいる。近衛の牙犬族剣士が議員を押し戻している間に竜也はこの場で言うべきことをまとめようとした。近衛に抑えられてとりあえず口をつぐんだ議員達。竜也は彼等との間に一メートルほどの距離を置き、一同に向けて宣言した。


「――その議論ならソロモン盟約の締結前に散々くり返したはずだ。焦土作戦を完遂して敵を全滅させる、ヌビア軍のその方針に何ら変わりはない」


 竜也は簡潔にそれだけを述べ、執務室へと姿を消す。その場に残されたのは意を強くした議員の半分、そして失望した議員の半分である。

 逃げ込むように自分の執務室に入った竜也だが、そこも安息の地とはならなかった。元老院議員の中でも特に有力な者達がひっきりなしに竜也を訪ねてやってくるからだ。


「やはりここはより広い視野を持って、長期的展望に立って、ヴェルマンドワ伯との和平を結ぶことを考えるべきではないのか?」


 と言ってくるのは東ヌビアの商会連盟の代表だ。その一方、


「ヌビアの全土をあの狂信者どもから取り返す、西ヌビアの全ての民がその願いを、その望みをお主に託しているのだ。それを忘れたわけではあるまい?」


 と言ってくるのは恩寵の民の長老だ。竜也は前者に対しては自説を主張し、説得しようとし、後者に対しては大いに同意し、また暴発しないようなだめた。

 ……一日の半分をそうやって有力者との会談に費やし、時刻はとっくに正午を過ぎている。


「つ、つかれた……」


 有力者の一人をなだめて退出させ、執務室に残った竜也は机に突っ伏した。


「皇帝、次はレプティス=マグナの長老が面会を求めています」


「判った、でも少しだけ休ませてくれ」


 竜也は自分で胃痛に効く薬湯を煎じ、それをがぶ飲みする。そこに、


「――申し上げます!」


 ノックもなしに近衛の一人が執務室へと飛び込んできた。


「港からの急報です、敵が渡河作戦の準備を進めていると――」


 竜也の手から薬湯の急須が滑り、陶器のそれは床に落ちて粉々に砕けた。








 一方同時刻、ナハル川北岸のスキラ。ナハル川を望むその場所では何万ものエレブ兵が集まり、何百という列を作って整然と並んでいた。だが、


「本当に渡河をするわけじゃない! 敵に勘違いさせるのが目的だ!」


「しばらくそこで立っていればそれでいい!」


 百人隊長が兵士にそう言い回っている。兵士達は列を作り並びながらも気を緩ませ、隣の兵士とおしゃべりを楽しんでいた。


「ようやくこの戦争も終わりか、長かったな」


「この大陸の半分も征服して、聖杖だって奪い返せたんだ。戦果としては文句なしだろう。俺達は充分に戦ったさ」


「さすがは王弟殿下だ。どこかの坊主が余計な口を挟まなきゃ俺達はもっと早く勝ててたんじゃないのか?」


「『肉屋にパンを焼かせるな』って言うだろう? やっぱりパンを焼くのはパン屋でないとな」


「一時はどうなるかと思ったけど、これでやっと生きて帰れるんだ」


 語りあい、笑いあう兵士達の姿にユーグもまた笑顔を見せていた。その背後にはタンクレードが佇んでいる。そこに近衛の騎士の一人が接近してきた。


「殿下、枢機卿猊下の使者が来ています。早急に会談を持ちたいと」


「会うつもりはない、帰らせろ」


 近衛の騎士は一礼し、戻っていく。それを見送ってからタンクレードが、


「これはあの男の焦りの表れと見ていいでしょう」


 その解説にユーグは「そうだな」と頷いた。


「首尾はどうだ?」


「取引のことは噂として全軍に広まっております。


『ヌビアと取引をして七日間の休戦協定を結んだ』


『西ヌビアとモーゼの杖の譲渡を条件に恒久的な和平協定を結ぶ』


 と。我が軍だけでなく枢機卿派の将兵においても肯定的な反応が大半です」


 その報告に「よし」と頷くユーグ。


「だが、もう一手ほしいな」


 その言葉を予想していたようにタンクレードが告げる。


「はい、引き続きこのような噂を流しております。


『和平協定が成立したなら全軍のうち半数は帰国させる』


『残った半数で西ヌビアを統治し、食糧を充分に蓄えた上で進軍を再開する』――」


 その報告にユーグは「それはいいな」と破顔した。


「うまいぞ、あの男に対する反論としても充分使える。実際にそうしてもいい」


「はい。これなら帰国を求める者もさらなる進軍を求める者も、双方とも納得することでしょう。それでもなお和平に反対するのは、おそらくあの男ただ一人です」


 ユーグは「構いはしない」と不敵な笑みを見せた。


「僕に剣を向けるというのなら望むところだ、返り討ちにしてやるさ」


 ユーグはギーラとの取引について公式発表を一切せずに沈黙を守っている。その代わりに取引の詳細を噂という形で全軍に広めていた。


「聖戦の完遂こそが神の望み、教皇聖下のご意志。ヌビアと取引をして敵と和平を結ぶのは敵に与することに他ならない。教義に対する裏切りであり、異端以外の何物でもない」


 もしアンリ・ボケがそう言ってユーグを告発したとしても、ユーグは、


「ヌビアとの取引など事実無根だ。枢機卿は不確かな噂だけを元に異端告発を行った」


 と堂々と反論し、公然と剣を持って反撃することができるのだ。


「むしろここであの男が暴発してくれるのなら大いに助かるのですが」


「確かにそうだが、さすがにあの男もそこまで愚かではないだろう。全ては杖を手に入れてからだ、そうすればもうあの男だって怖くはない」


 神と直接契約を結び、聖杖教を成立させた伝説上の創始者、契約者モーゼ。そのモーゼ本人が使っていたとされる契約者の聖杖――モーゼの杖。


「そんなもの、本物なわけがないだろう」


 ユーグはそう言いたくて仕方なかった。ユーグやタンクレードから見ればそれは四〇〇年前にでっち上げられた偽物に過ぎない。だが、本物かどうかはこの際問題ではない。アンリ・ボケや将兵のほとんどがそれを本物だと、契約者の聖杖だと信じて疑っていない。それをユーグが手にしたなら、ユーグは契約者モーゼの威光を背負うことになるのだ。


「杖さえあれば権威の面であの男と対等になれる。枢機卿派の聖職者を引き抜いてこちら側に取り込んでいけば、数の上でも優位に立てる。あの男を処断し、処刑することも決して不可能じゃない。そこまでいかなくても適当な理由を付けて帰国させるくらいは難しくないだろう」


 ユーグの言葉にタンクレードが「はい」と頷く。


「まず杖を手に入れることが最優先、そのためには特使ギーラに対する援護が必要です」


「ああ。連中が、ヌビアの皇帝が和平に同意するまで毎日でもこうしてやる」


 和平を結ばないのなら戦争だ――ユーグは竜也に対してそれを示威しているのだ。

 ユーグは不敵な笑みを浮かべてナハル川の向こう岸を見つめた。ユーグはその視線の先に存在する南岸の要塞を、サフィナ=クロイの町並みを、皇帝の黄金の宮殿を、その玉座に座る皇帝クロイの姿を脳裏に思い描いた。


「さあ、早く決断するがいい。僕とお前は手を取り合える、そうだろう?」


 ユーグは竜也に対して共感や友情すら抱いていた。この和平が竜也やヌビア市民にとっても最善だと、疑いもしていない。だが、それはユーグの頭の中のある、想像上の「ヌビアの皇帝」に対するものでしかなかった。ユーグは竜也やヌビア市民の真の姿を、進んで知ろうとはしなかったのである。








 一方のサフィナ=クロイ。聖槌軍の行動がただの示威だと、この時点で見抜いた者は一人もいなかった。


「アンリ・ボケ、あの狂信者が来るのか……!」


 和平が進められているこの時点で渡河作戦を強行しようとする者などアンリ・ボケしかいない――それが竜也の判断だった。


「ど、どうする。敵がやってくるだと」


「どうもこうもあるか! 戦って撃退するだけだ!」


「だが、勝てるのか? ここはまず市民を南に逃すべきでは」


 臨時総司令部に集まっている元老院議員も不測の事態に慌てふためき、右顧左眄するばかりだ。そこに竜也が現れ、


「落ち着け!」


 とまず一喝した。その場の全員が口を閉ざす中、竜也は一同を見渡し、


「逃げたい奴は逃げればいい。だが、市民から委託された義務を果たそうという者は俺に続け。敵の上陸を阻止するぞ」


 竜也の宣言に恩寵の部族を始めとする抗戦派は高揚し、「おお!」と鬨の声を上げた。一方の和平派は戸惑うばかりである。


「しかし皇帝、戦うと言っても私は剣も弓も持ったことも」


「儂はこんな年寄りで到底戦いの役には……」


「強制はしない。だが」


 竜也は真っ直ぐに彼等を見つめる。


「敵兵だって元はエレブの農民ばかりだ、素人だって戦えないことはない。剣がなければ棍棒を持てばいい。石を投げればいい。湯や油を沸かして敵にぶっかけてやればいい。今のあなた達にもできることはあるはずだ」


 竜也の真摯の瞳が彼等を見据える。彼等のうち半分は竜也を見つめ返し、もう半分は気まずそうに目を逸らした。

 竜也はそれ以上は何も言わず、黒い外套を翻して外へと向かって歩いていく。その場の元老院議員の約七割が竜也の後に続き、川岸の最前線へと向かった。

 ……数刻後、ナハル川方面軍の野戦本部。竜也はその場所でアミール・ダールと額を寄せ合っている。彼等の眼下にはナハル川の地図が広げられていた。


「敵の動きは?」


「情報が錯綜しております。ケルシュに偵察させ、敵兵がこの地点に集まって渡河の準備を進めていることが判っております。数は四万から五万」


 アミール・ダールが指揮棒で指し示すのはナハル川北岸のうち海に近い場所だ。竜也は怪訝な思いを顔に浮かべた。


(王弟派の勢力範囲内じゃないか。それじゃ渡河をしようとしているのはヴェルマンドワ伯? そんな馬鹿な……)


 竜也は無言のまま推理を進め、「ユーグの行動はギーラに対する政治的な援護射撃」という可能性に思い当たった。だが確実にそうだとは到底断言できない。


「……ともかく、将軍はこのまま迎撃の準備を。俺は周りの様子を見てくる」


 竜也は野戦本部を出、近衛の護衛を引き連れて歩き出した。兵士や百人隊長が慌ただしく走り回る現場をゆっくりと歩き、状況を見て回っていく。


「もう駄目だ、逃げるべきじゃ」


「何言ってるんだ、母ちゃんがこの町にいるんだぞ!」


「武器は、何か武器はないのか! 何でもいい、大鷲族のギベアハ様が来てやってるんだぞ!」


「こんなに矢玉があるんじゃないか。これはこっちでもらうぞ」


「待ってください! これは第九軍団への補給で」


 兵士の一部がこっそり逃げようとする一方で手弁当の義勇兵がやってきている。だが彼等の配属場所が決まらず、せっかく来たのに手持ち無沙汰の様子だった。大半の場所で補給が滞る一方で補給物資が積み上げられている場所がある。勝手に物資を持っていこうとする百人隊長と補給担当の官僚が言い争っている。状況はどうしようもない混沌であり、混乱は時間を経るにつれて収まるよりもむしろ拡大していた。


「敵の攻撃がない今はまだいい。でも、もし攻撃があったならどうなる? この有様でまともに戦えるのか?」


 竜也は暗澹たる思いを抱いて陣地内を一周し、小一時間ほどで野戦本部へと戻ってきた。竜也はその一角に陣取り、椅子に腰掛け、無言のまま軍団長や百人隊長が延々と右往左往する様を見つめ続けている。


「……敵が今日渡河作戦を決行するとは考えなくてもいいでしょう」


 アミール・ダールがそう結論を出した頃には日は完全に沈んでいた。竜也は「そうか」と答えるだけだが、その頃には竜也の心の半分以上が絶望に浸食されていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ