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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
死闘篇
41/65

第三四話「水面下の戦い・後」



「トルケマダの行方、タンクレードやディウティスクの動き、アンリ・ボケの動き。そういったことに重点を置いて情報を集めてくれ」


 竜也直々の指示にディアは張り切って情報収集に当たった。そしてアブの月も中旬に入った頃。

 公邸へと戻り食堂にやってきた竜也は、


「おお、遅かったな。早くご飯にしよう」


 ファイルーズ達と並んで席に着いているディアの姿を見出した。ラズワルド達はディアのことを邪魔者・異物と見なし、メイドや女官もそれに習ってディアの前には茶や料理を用意していない。が、ディアはその仕打ちを平然と受け流していた。

 竜也がディアにも食事を出すよう指示し、メイドが食事を持ってくる。こうして若干の気まずい空気を含みながら、その日の夕食が開始された。


「スキラは今どうなっている?」


「将軍タンクレードがスキラに到着した。あと、トルケマダの行方が判った。アンリ・ボケの元に逃げ込んだらしい」


 竜也は驚きに目を見開いた。


「本当か? それは」


「やけに具体的な噂だったぞ。どこかの誰かが意図的に流したんじゃないかと思う」


「ディウティスク軍はどう動いている?」


「ヴェルマンドワ伯が到着したなら協力を仰いで、力尽くでもトルケマダを引きずり出すべきだ――そんな話になっている」


 そうか、と呟いた竜也はそのまま沈思黙考した。


「やるな、タンクレード」


 竜也はまず感心する。タンクレードはトルケマダの身柄を確保しておきながらそれをわざと逃がし、アンリ・ボケの元へと逃げ込ませたのだ。アンリ・ボケを攻撃するための足がかりとするために。


「フランクとディウティスクが手を組めばアンリ・ボケに対して互角以上になれる。両派の対立が武力衝突まで発展する可能性は充分にある」


 竜也は期待に胸を膨らませた。

 ……そして夕食後。食い過ぎで動けなくなるまで食事を堪能したディアはテーブルに突っ伏して食休み中である。竜也達はまったりと食後のお茶を楽しんでいるところだったが、


「ところで皇帝」


「ん、なんだ」


「その五人がお前の女なのか?」


 ディアの投げ込んだ爆弾が無音のまま炸裂した。何とも言い難い緊張感がその場を満たす。


「……あー、正式な皇妃は今のところファイルーズだけだけど、サフィールにもそのうち皇妃になってもらう」


 竜也のその説明に、


「わたしもそのうち皇妃にしてもらいます。第四です」


 とカフラが付け加える。さらには、


「わたしが第二皇妃」


 と偉そうなラズワルドが、


「わたしは第三皇妃です……」


 と恥ずかしげなミカが続いた。竜也のあずかり知らないところで、序列についてはそのように決着したらしい。

 ふーん、と何やら感心するディアに対し、竜也は頭を抱えている。


「ラズワルドとカフラはともかく、ミカまで……どうしてこうなった」


「わたしに何か不満でも?」


 ミカは気恥ずかしさを怒った素振りで隠した。


「わたしが皇妃となることでタツヤは父上と確固たるつながりを持てます。それはタツヤにとっても父上にとっても大きな利益です。ならば、タツヤが私を皇妃として迎えるのは当然というものでしょう」


「その理屈は判らなくもない。けど、そんな理由で好きでもない相手と結婚するのは間違っている」


 竜也の静かな、だが確固たる宣言にミカはしばし言葉を失った。


「……タツヤ、あなたはもう一庶民ではないのですよ? あなたは皇帝、あなたはヌビアの国主なのでしょう。個人の好悪の感情で振る舞っていいわけがありません」


「俺はそうしているつもりだ」


 と竜也は反発した。


「娘が誰だろうと皇妃が誰だろうと、仕事ができて信頼できる人間には要職を任せるし、そうでない人間にはそれなりの仕事しか任せない。俺はアミール・ダールの能力と人格を信頼して将軍を任せている。ミカがいようといまいとそれは全く関係ない話だ」


「それとこれとは話が違います!」


 ミカは立ち上がって竜也に食ってかかった。


「タツヤは婚姻というつながりの重要性を全く理解していない! アミール・ダールの懐柔なしにどうやって軍を統制するつもりなのです!」


「そんなつながりはナンセンスだ!」


 ミカの指弾に竜也も反撃し、二人は強くにらみ合った。


「とにかく! 俺は俺のことを好きでもない子を無理に嫁がせるような真似は絶対にしない!」


 竜也は口論を打ち切るつもりで断言する。ミカが何をどう反論しようと無視するつもりだったのだが、


「そ、それなら……」


「え?」


 ミカの様子が豹変していた。怒りで元から赤かった顔がさらに赤く、トマトのようになり、目は酔っぱらいみたいにぐるぐると回っている。


「それなら、わたしが、わたしが……」


 ミカがちゃんと言葉を続けるのを竜也は辛抱強く待った。だが、


「――何でもありません! タツヤは馬鹿です!」


 ミカはそう言い捨てて食堂から逃げていく。残された竜也は「何なんだ」と憮然とした。そして、


「あれ、どうした?」


 ファイルーズ達がずっこけたようにテーブルに突っ伏しているのを見て首を傾げた。


「……いえ、何でもありませんわ」


 そう言って起き上がるファイルーズだが、その目はどこか冷たかった。


「何なんだよ」


「いえ、何でもないですよー。ただ、ミカさんの言うとおりだなーって思っただけです」


 と笑顔ながらもどこか目の冷たいカフラ。それはラズワルドやサフィール、ディアにしても同様である。


「……」


 竜也は彼女達に何か言い訳したい衝動に駆られたが、何をどう言い訳すべきかも判らない。竜也にできるのは逃げるように食堂を後にすることだけだった。

 残された面々は、


「ミカさんも意気地がありませんけど、タツヤさんも鈍いですよね。あんな鈍い人だったかな」


 とカフラは首を傾げ、ファイルーズはそんなカフラに苦笑した。ミカの竜也に対する想いは非常に露骨であり誰の目にも明らかなのだが、もし竜也が以前よりも自分に対する好意に鈍感になっているとするなら、その原因は間違いなくカフラとラズワルドの二人だった。


「カフラさんとラズワルドさんの、あんな臆面もないアプローチを延々受け続けていたなら、ミカさんの想いに気付けなくなってしまっても仕方ないかもしれませんね」


 そして、ただの一言で場を好きなだけ引っかき回したディアだが、


「……」


 一連のやりとりを、竜也の振る舞いを注意深く観察し続けていた。今、その瞳にはある決意が輝いている。






 その日以降、ディアは今まで以上に公邸の船に入り浸るようになった。


「ついにヴェルマンドワ伯がスキラに到着した。アンリ・ボケの到着は五日遅れくらいになるようだ」


 ちゃんと情報を持ってくることも多いのだが、それとは無関係に船の食堂に居座って何か食べていることが大半である。ファイルーズ達と並んで夕食を取る姿も当たり前のようになった。


「タツヤ様、あの者をどうするおつもりですか? けじめは付けませんと」


 ファイルーズに尻を叩かれ、竜也もようやく重い腰を上げることとした。恒例のようにディアも含めたいつものメンバーで夕食を取って、その後、


「ディア、話がある。ディアの生活全般については牙犬族に一任しているし、情報収集についてはベラ=ラフマさんに報告してもらえばいい。だから――」


 ディアは竜也の言葉を遮るように「判っている」と頷いた。


「ここに来るより先にちゃんとあの白兎族に報告している。その点については心配するな」


「そ、そうか。それでディアの住むところだけど――」


 が、ディアは竜也の言葉を無視して荷物から何かを取り出し、一同にそれを示して見せた。


「ふふん、これが何か判るか?」


「……首輪?」


 それは鉄製の首輪だった。犬等の動物をつなぐためのものではない。人間用の、奴隷用の首輪である。首輪には十数センチメートルの半端な長さの鉄製の鎖がぶら下がっていた。

 金属同士が連結する音がやけに大きく響いた。ディアが自分の首にその首輪を填め、誇らしげに胸を張る。


「これでわたしは皇帝の奴隷、お前の所有物だ。お前のものなのだから当然わたしもここに住む」


「いやちょっと待て」


 ファイルーズ達の視線が痛みを覚えるくらいに肌へと突き刺さってくる。焦った竜也が、


「俺はディアを奴隷扱いするつもりは」


「まあ待て。これはわたしと一族の安全を確保するために必要なことなのだ」


 意表を突かれた竜也が言葉を途切れさせる。ディアが説明を続けた。


「わたしがこの町に住み、お前達ヌビアの人間と普通に関わっている姿を万が一エレブの人間に見られたなら、わたしは彼等にどう見られる? わたしの一族の者はどうなると思う?」


「……ディアは裏切り者と見なされ、銀狼族の皆は処断されるかもしれないな」


「そういうことだ。だが」


 とディアは首輪と鎖を提示する。


「これがあれば、わたしはここで捕虜となり奴隷となっていると思われるだろう。『敵に捕まってネゲヴの皇帝の慰み者となっている哀れな娘』としか見られないのだ。これなら一族の者に危害が及ぶ心配はいらない」


 竜也はディアの説明の正しさを理解するが、それを受け入れるかどうかは別の話である。竜也は苦り切った顔をした。


「だからってディアを奴隷扱いするなんて悪趣味な真似……何か他に方法が」


「あの白兎族に相談して『これが最善だ』と考え出してもらった案なのだぞ? 他の方法なんかないだろう」


「あの男、余計な真似を……」


 ラズワルドの呟きが竜也の耳にも届いたが本音は竜也もあまり変わらない。竜也は何とかディアを説得しようとした。


「例え形だけでもディアを奴隷扱いするなんて俺は嫌だし、ディアだって嫌だろう?」


「わたしは構わんぞ?」


 ディアが即座にそう答え、竜也は言葉に詰まった。


「それでほんの少しでも一族の者の危険を減らせるのなら、奴隷扱いされることくらい何だと言うのだ? いっそ本当に慰み者にしてくれてもいっこうに構わんのだが」


「そんなことはやらない」


 竜也は若干不快そうにし、ディアはちょっと悔しそうな顔をする。


「確かにまだ背は低いしやせっぽちだが、それは食い物が悪かったからだ。背はこれから伸びるし胸だってあの女くらいには育つと思うぞ?」


 とディアは視線でファイルーズを指し示した。竜也は頭痛を堪えるかのような顔をする。


「だからそんなことはやらないって」


「むしろ望むところなのだが」


「だから……」


「もちろん間違いなく処女だぞ」


「その……」


「ああ、村の女達から男の喜ばせ方についてもちゃんと学んでいる。初めてだが責任を持って満足させてやる」


「……」


「それでは早速今夜からでも」


 竜也が「何の話だ?!」と大声を出し、ディアは驚きに目を丸くした。


「無論夜伽の話だが」


「だから俺はディアにそんなことをやらせるつもりはない!」


 竜也は一旦深呼吸をし、頭を冷やした。冷静になった竜也は別方向からのアプローチを試みる。


「あー、ディア。もしこの戦争がなかったとしたら、ヌビアでもエレブでも平和な時代が続いて、ディアが徴兵されることがなかったとしたら。ディアはどんな男と結婚していた?」


 その問いにディアは少しの間沈黙し、遠い目をした。


「……そうだな。きっとわたしは領主のところに奉公に入っていただろう。奉公とは名ばかりの、領主の慰み者となるためにあちこちの村から集められた娘達と一緒に。わたしは媚態を尽くし、他の村娘を蹴落とし、あらゆる手段を使って領主の歓心を得ようとしただろう――村の皆を守るために」


 過酷なディアの境遇に竜也は言葉をなくしてしまった。ディアは竜也へと笑いかける。


「生娘を食い散らすのが趣味のあの糞領主と比べれば、お前の振る舞いには大いに好感が持てる。持っている権力は比べものにもならん。戦争が始まってお前とこうして知り合えたのは、わたしにとってはまさしく僥倖だったのだ。後はわたし自身の努力でお前の情けを得て、一族の安全を図るだけだ」


 ディアの覚悟に圧倒されそうになる竜也だが、それでも一つ断らずにはいられないことがあった。


「……それは要するに、俺をディアの、寵妃の骨抜きにして銀狼族のために皇帝の権力を私物化させようってことだろう? 俺がそんなことをやるような、いい加減な人間に見えるのか? もし銀狼族がヌビアに不利益をもたらすなら、俺はディアがいようがいまいが銀狼族を滅ぼすぞ?」


「だが、お前は絶対にそれをためらう」


 ディアの指摘に竜也は沈黙する。ディアは不敵な笑みを見せながら続けた。


「『銀狼族がヌビアに不利益をもたらした、滅ぼさなければならない』――誰かがそんな言い出したとしても、わたしがいれば、わたしを通じて銀狼族のことを多少なりとも知っていれば、お前は絶対にそれを避けようとする。


『何かの間違いかもしれない』『本当かどうか確認が必要だ』『滅ぼす以外の方法が何かあるはずだ』……お前は最悪の事態を避けるためにあらゆる手段を取るだろう」


 ディアの指摘はまさに正鵠を射ており、竜也は反論を思い浮かばない。ディアは今度は柔らかに微笑んだ。


「せめて、ヌビアの恩寵の部族と同じくらいには銀狼族のことを気にかけて、親しみを持ってほしい――わたしがお前に望んでいるのはその程度のことなのだ。寵愛を得て国政を壟断するつもりなど毛頭ないから安心しろ」


「ディアとはこうして知り合いになったんだし、銀狼族の皆はよく働いてくれている。その程度は言われるまでもないことだ」


 竜也は何とか反撃の糸口を掴み、ディアに告げる。


「だからディアに夜伽をさせたりはしないし、皇妃だってこれ以上増やすつもりはない」


「今の時点では、だろう?」


 ディアは胸を張って堂々と竜也へと宣言した。


「覚えておけ。狼は狙った獲物は逃さないのだ」


 ……このような経緯を経て、ディアはなし崩し的に公邸に居候し続けることなる。


「今のわたしは皇帝の奴隷だ、物置の片隅で構わんぞ」


 と言っていたディアだがそんな扱いは竜也が認めず、小さいながらも船の一室がディアへと割り当てられた。






 アブの月も下旬となる頃、スキラについにアンリ・ボケが到着した。これで聖槌軍のほぼ全軍がスキラに入城したことになる。


「我が軍の将兵は今どのくらいの数なのだ?」


「は、はい」


 アンリ・ボケの問いにヨアキムという書記官がしゃちほこばって答えた。


「先鋒のトルケマダ隊から始まり、殿軍のこの隊まで、全部で二十箇所で兵数の聞き取り調査をしております。先鋒と殿軍では脱落者の数も大分違うのですが、それでも平均すれば全体の脱落者の割合を算出できるものと考えまして。あとは明らかに異常値を示した隊については計算から除外しまして」


「結論を述べよ」


 アンリ・ボケはあくまで静かに命じるが、ヨアキムはまるで雷に打たれたかのように硬直した。


「ぜぜ、全体の三分の一が脱落して三分の二がこの町に到着したものと……あくまで概算ですが」


 アンリ・ボケは「うむ」とだけ頷いてヨアキムを下がらせた。


「全体の三分の一……確かにそのくらいになるだろう」


 その推定はアンリ・ボケの実感と大きくは変わらない。アンリ・ボケの側近は首をすくめていた。損害のあまりの大きさにアンリ・ボケが怒りを見せるものと思ったからだ。しかし、


「脱落がその程度ですんだことは望外の喜びだ。我が軍の将兵は過酷な征旅によく耐えてくれた」


 アンリ・ボケの言葉に側近はひとまずの安堵を抱いた。だがそれと同時に気まずい思いも抱えている。アンリ・ボケには報告されていなかったが、末端では食人行為が蔓延していること、それを抜きにしては百万の三分の二も生き残れはしなかったことを彼等はよく知っていたからだ。

 似たような会話はユーグとタンクレードとの間でも交わされた。


「三分の二か……何でそんなに生き残っているんだ」


 ユーグの口調には明らかに不満げな響きがあった。一瞬意表を突かれたタンクレードだが、すぐにユーグの思いを理解する。


「確かに、まだ多いですね。食糧はもう残っていないのに」


「ああ。せめて四〇万くらいなら全体の指揮もしやすいんだが」


 先にスキラに到着していたユーグはアンリ・ボケ到着の報告を聞き、アンリ・ボケの元へと向かった。ユーグに同行するのはタンクレードの他、何人ものディウティスクの将軍、それに屈強な近衛の騎士団である。


「場合によってはその場で殺し合いになるかもしれない。あるいは聖槌軍同士での戦いに発展することも」


 それを覚悟したユーグの表情は硬かった。だがたとえ同士討ちになろうとも、アンリ・ボケに対して一歩も引き下がるつもりはない。


「今日こそお前達の最期だ。トルケマダ、そしてアンリ・ボケ」


 一方のタンクレードは聖槌軍を二つに割って戦うことをむしろ願っていた。

 アンリ・ボケの元へ先触れで送っていた騎士が戻ってきて報告をする。タンクレードは戸惑いの表情を浮かべた。


「殿下、枢機卿は中央の広場に向かったそうです」


 報告を受けたユーグも不審そうな顔をする。


「兵士を集めて演説でも打つつもりか? ともかく、我々もそこへ行こう」


 時刻はすでに夕方に近い。ユーグ達が中央広場に到着すると、そこには大勢の兵士が集まっていた。


「道を開けよ! ここにおられるはフランク王国王弟殿下である!」


 近衛の騎士の大音声に兵士が一斉に左右に分かれ、道を作る。兵士の注目を一身に集めながら、ユーグはその道をゆっくりと進んでいった。


「これはこれは王弟殿下、ご機嫌麗しく」


「久しいような気がするな、枢機卿猊下」


 そしてユーグはアンリ・ボケと対峙する。軽く挨拶をしただけなのに冷や汗がにじんできていた。ユーグはその舌鋒をアンリ・ボケへと向けた。


「猊下の元にトルケマダがいるはずだ。あの男を我々に引き渡してもらおう」


「確かにおりますが……少々のお待ちを。間もなく準備が整います」


 アンリ・ボケはユーグに背を向け、広場の中央を見つめた。ユーグがその視線を追うと、


「処刑台か?」


 そこに用意されているのは火刑台だ。二十人分ほどの杭が立ち、薪が山と積まれている。これからそこで行われるのが焚刑であることは問うまでもなかった。


「誰の処刑をするつもりだ?」


 ユーグの問いにアンリ・ボケは答えない。いや、答えるまでもなかったのだ。死刑囚はもうこの場に到着したのだから。


「猊下、お慈悲を、どうかお慈悲を。わたしは猊下のためにずっと力を尽くして」


 処刑執行人に引きずられて現れたのはトルケマダその人だ。トルケマダはひたすら泣き言を、命乞いをくり返している。


「……どういうことだ」


「いえ、この者は殿下の命令を無視して抜け駆けをし、さらには抜け駆けに味方を巻き込んでフリードリッヒ陛下までも戦死させてしまったとのこと。挙げ句にエレブへの逃亡を図って捕らえられたのです。私も長らくこの者と行動を共にしてきました。私の手でこの者を処分するのが慈悲であり、筋というものでしょう」


 アンリ・ボケの説明にタンクレードは唇を噛み締めている。


「これほど簡単にトルケマダを切り捨てるとは。さすがだ、アンリ・ボケ」


 トルケマダを自ら処分することでディウティスクに対する落とし前を付け、ユーグがアンリ・ボケを排除するための大義を奪ってしまったのだ。絶好の機会は失われてしまったが、今の時点ではタンクレードにはどうすることもできない。


「お前達は私の部下だろう! 命令だ、私を助けろ!」


 トルケマダの言葉を無視し、執行人はトルケマダを杭へと縛り付けていく。執行人の一人がトルケマダの耳元でささやくように告げた。


「閣下の処刑が終わったなら次は我々全員が処刑されることが決まっております」


「ならば――」


「できるだけ長引かせますので、閣下も耐えてください」


 それだけを言い残して執行人は離れていく。トルケマダの顔が絶望に塗り潰された。


「助けて助けて助けて」


 トルケマダにできるのは無様に泣きわめくことだけだが、それは何物も動かしはしなかった。ユーグやタンクレードは侮蔑を浮かべるだけだし、見物の兵士達は嘲笑するだけだ。

 執行人が薪の山に火を点す。トルケマダは一際大きく悲鳴を上げ、明るく輝く炎に兵士達は歓声を上げた。

 トルケマダの焼かれる炎を、その熱をアンリ・ボケは頬に受けている。アンリ・ボケの立場としてはこの処刑に対して様々な感情があるのは間違いないはずだ。あるいは侮蔑、あるいは怒り、あるいは安堵なのかもしれない。だが、その顔に浮かんでいるのはいつもの柔和な微笑みだけだ。その顔を凝視し続けるタンクレードだが、その表情からどんな思考も感情も読み取ることができなかった。


「神の兵士達よ、聞くがいい!」


 アンリ・ボケは見物の兵士達に向き直って告げる。兵士達は慌てて姿勢を正した。ユーグやタンクレードも無意識のうちに背筋を伸ばしている。


「エレブに逃げ帰ろうとした愚か者はこの通り地獄へと堕ちた! 我々の後ろに道はない、我々の前にこそ道はあるのだ! 後退は地獄への道、前進は神の国への道と知れ!」


 アンリ・ボケの言葉に兵士達は粛然とし、ユーグとタンクレードは慄然とした。


「我が軍は前進を再開する! あの川の向こう岸に巣くう異教徒の群れを浄化の炎で焼き払う! 異教徒の巨魁、ネゲヴの皇帝の首級を獲るのだ! 兵士達よ、神の国は今やお前達の目の前にある!」


 戦意を煽られ、高揚させた兵士達が一斉に鬨の声を上げた。アンリ・ボケはその声に満足そうに頷いている。その高揚を共有していないのはユーグとタンクレードの二人だけかもしれなかった。ユーグ達二人は真冬よりも寒々しい思いを抱きながらアンリ・ボケの顔を見つめ続けている。焚刑の炎を背負い、血よりも赤い光に染まったアンリ・ボケの姿は、誰がどう見ても天の使いではなく地獄の使者と呼ぶのが相応しかった。





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