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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
戦雲篇
19/65

第一七話「エレブの少女」


 ――時間は少し遡り、キスリムの月(第九月)の下旬。場所はレモリア王国の港町、ゲナ。元の世界で言うならジェノバに相当する町である。

 ゲナの町から西へと向かう街道沿いのその場所で、兵士達が一夜を明かしていた。兵士は皆外套を着込み、寒さに身を震わせている。元の世界なら一月に相当する季節であり、エレブは冬の真っ直中だった。兵士の数は見える範囲だけで数千人。それぞれ身を寄せ合い、体温を分かち合っている。

 その中で、一人の兵士が仲間から外れた場所に座り込んでいた。他の兵士に比べて非常に小柄な体格で、まるで子供のようである。銀色の髪の毛は短く切られており、フードを深々と被って頭部と顔を、翠の瞳を隠していた。


「ディア様、食事です」


 一人の壮年の男がその小柄な兵士に近付き、黒パンを手渡す。ディアと呼ばれた兵士は無言のまま黒パンを受け取り、栗鼠のように少しずつそれを食べた。


「ディア様、今日は冷えます。こちらに来ませんか」


「ここでいい」


 ディアは短く答えるだけだ。精一杯低い声を出しているが、その声を聞けばディアが女であることはすぐに判る。年齢は十代の前半。顔をわざと泥で汚しているが、その幼くも凛々しく美しい容貌は隠し切れてはいなかった。

 配給の黒パンを少しずつ味わい、よく噛んで食べるが、それでも黒パンはすぐになくなる。今日の夕食はそれで終わりだった。


(……ああ、一度でいいからパンと肉を腹一杯食いたい)


 ディアは空腹に痛みすら覚える腹を抱え、身体を丸めた。

 ――ディア達が生まれ故郷の村から離れてすでに一月近くが経過している。ディア達は聖槌軍の一員としてマラカへ向けての行軍の最中だった。ディア達にとっては決して望んでのことではなく、村を支配する領主に命令されてやむを得ずのことだったが。

 ディア達の行軍は苦難苦闘の連続であり、それは日を追うごとに大きくなる一方だった。最大の問題は食糧の補給が滞ることである。


「てめえ、それは俺のパンだろうが!」


「知るか! 名前でも書いてあるのかよ!」


 あるときはディアが村から連れてきた男達が一切れのパンを巡って殴り合いを演じていた。ディアは、


「やめろ!」


 と両者の間に割って入る。一応殴り合いは止まったものの、両者は憎々しげに睨み合っていた。ディアはため息をついて、


「ほら」


 と一方の男に自分のパンを差し出した。


「ディ、ディア様それは」


「これを食べろ。誇り高き一族の戦士が一切れのパンで争いなど……頼むからやめてくれ」


 二人は気まずそうに目を逸らす。一方の男が食いかけのパンをもう一方に握らせ、その場から逃げていく。両者の争いは一応の解決を見、ディアは元の場所へと戻った。そのディアに村人の一人――ヴォルフガングが声をかける。


「しかし、配給がこの調子では揉め事が起こるのも当然です」


「判っている。だが、どうすれば」


 と悩むディアにヴォルフガングが提案した。


「この先の町にもバール人の商館はあるでしょう。そこを襲撃してはどうでしょう」


「しかしそれは」


 とためらうディア。ヴォルフガングは説得を重ねた。


「忍び込んで貯め込んだ食糧を奪ってくるだけです。バール人と言えど無意味に傷付けるような真似はしません。私が指揮を執ります」


 悩むディアだが、それほど長い時間ではなかった。


「判った、頼む」


 ディアの言葉にヴォルフガングが力強く頷く。ヴォルフガングは部下を三人連れ、隊列から離れていった。

 ヴォルフガングと三人の部下は街道を外れ、山中の獣道を全力で走っている。人目をはばかり、聖槌軍の行軍を避け、ディア達より一足も二足も先に次の町に到着する。ヴォルフガング達はバール人の商館を探し、それはすぐに見つかった。


「……これは」


 その商館はすでに襲撃を受け、略奪された後だったのだ。金目のものも食い物も全てが奪われ、家族のうち女性は強姦されて殺されていた。生き残った商館の男は妻の遺骸を抱いて身も世もなく嘆き叫んでいる。


「……どうします」


「……他の場所を当たろう」


 ヴォルフガングは食糧を求めて町中を走り回り、彷徨い歩いた。そうやってやっとの思いで、たった一ヶ所だけ食糧が潤沢に集まっている場所を発見した。


「……しかしここは」


 男達は躊躇いを見せる。そこは聖槌軍の兵糧倉庫だったのだ。一方のヴォルフガングの決意は固かった。


「他に食い物なんかないだろう。やるぞ」


 ヴォルフガング達は夜影に紛れて倉庫に接近。歩哨が離れたことを確認し、部下に周囲を警戒させる。ヴォルフガングは倉庫の壁に拳で触れた。

 ヴォルフガングは深く深呼吸をくり返し、全身の力を拳へと込める。


「――フン!」


 裂帛の気合いと共に拳がゼロ距離の壁に打ち込まれ、壁は攻城用の破壊槌を食らったかのように崩れ、大穴が空いた。さらに蹴りで穴を広げ、人が余裕で通り抜けられるようにする。


「急げ! 持てるだけ持って逃げるぞ!」


 倉庫に侵入したヴォルフガング達は麦の袋や干し肉を両手に抱え、紐で結んで背中に担いだ。音を聞きつけて歩哨がやってくるのを見計らい、脱出する。幸い追いかけてくる兵はおらず無事に逃げ切ることができた。

 何日か後、ディア達がその町にやってきたので合流する。ヴォルフガング達から食糧を受け取ったディアの兵は密かに歓声を上げた。


「よくやってくれた、ヴォルフガング」


「ありがとうございます」


「それで、あの者達にも少し分けてやってくれ」


 とディアが視線で指し示す先には、幼い子供を抱えた母の姿があった。


「あの者達は?」


 ヴォルフガングは少し非難がましく訊ね、ディアは淡々と答えた。


「お前達が抜けている間に領主様の点呼があってな、それをごまかすために頭数が必要だった」


 頭数さえ揃っていれば中身は問われないからな、とディアが説明をまとめる。ヴォルフガングはため息をついてディアの命令に従った。

 その夜、街道沿いで野営をしているディア達の眼前をある一団が通り抜けていく。十数人の裸の男達が兵士に引っ張られて歩いていた。その裸の男達は牛のような鼻輪をしており、それを引っ張られているのだ。そしてその目から黒い涙を流している――いや、血だ。


「な、何だあれは」


「うぐ……」


 男達は全員両目をえぐられていた。その虚ろな眼窩から滂沱の涙のように血を流している。男達の姿は地獄の獄卒に率いられる亡者そのものだった。


「あれは一体」


 と訊ねるヴォルフガング。ディアが固い声で答えた。


「食糧倉庫を襲撃して食糧を奪っていった犯人達だ。普段なら火炙りにするところだろうが、諸侯様にもそんな余裕はないらしい」


 自分達に便乗して食糧を奪おうとして捕まったのだろう、とヴォルフガングは見当を付ける。一歩間違えれば自分達が、村の仲間やディアまでも巻き込んでああなっていたのだ。ヴォルフガングの肌が粟立った。

 ――教皇インノケンティウスが各国に発した動員令は絶対の勅命と化しており、五王国はそれを遵守すべくあらゆる犠牲を払っていた。

 各王室は諸侯に動員兵数を割り当て義務付け、その諸侯もまた配下の部下・小諸侯へと動員兵数を割り当て、罰則を持ってそれだけの兵数を動員することを強制する。さらにその部下達はまた部下へと連鎖していき、末端では五人一組、または十人一組とした班が組織された。班には定員が決められ、欠員は班員全員の連帯責任で埋め合わせる義務がある。行軍中の脱落による欠員すらも認められないのだ。欠員が出た場合はどんなに軽くても鞭打ち、悪くすると処刑の処罰が待っていた。最悪の場合は故郷の村が丸ごと異端認定されることも考えられた。

 このため各班は欠員を埋め合わせるためにどんなことでもやった。奴隷を買うくらいは穏当な方で、人攫いすら当たり前のように行われる。一家の稼ぎ手を攫われ、途方に暮れた女子供が欠員に加えられることも珍しくない。ディア達の班に加わった女性と子供もそのような素性である。


「……もう駄目か。置いていきましょう」


 その子供は過酷な環境に耐えられず生命を落とし、子供の遺骸を抱いた女性にも先に進む力は残っていなかった。女性はかろうじて生命を保っていたものの、その精神はすでに冥府への列に加わっている。瞳はすでに死者のそれだった。

 女性の瞳をのぞき込んでいたディアは多少の未練を残しながらもそれを振り切り、女性を置き去りにして先に進んでいく。木によりかかって座っていた女性の身体がやがて横に倒れ、二度と起き上がることはなかった。


「早く欠員を埋めないと」


「はい、探してきます」


 ディアの言葉にヴォルフガングが部下を連れて隊列を離れる。彼等が戻ってきたのは夕方になってからである。ヴォルフガング達は老人と老婆と幼い子供を連れてきており、ディアは何も言わずに彼等に食糧を分け与えた。

 欠員は大量に発生しているがそれを埋め合わせることはそれほど難しくはなかった。難民が大量に発生しているからである。聖槌軍の兵士達は不足する食糧を略奪によって補っている。略奪され、生命以外の全てを奪われた人々は難民となって聖槌軍の末端に加わるしか生き延びる方法を持っていなかった。


「ああ、教皇様。一体どうしてこんなことに」


「神よ、どうかお救いください」


 老人と老婆は聖杖のペンダントを握りしめて嘆いている。ディアはその様子を白けたように眺めていた。


(聖戦に熱狂していたのはお前達じゃないか。ちょっと考えればこうなることは判っただろうに)


 とは言えディアもここまで悲惨な有様を事前に想像できたわけではなかった。


「もう少し進めばアルルだ。そこまで行けばフランク王国から補給を受けられる」


 ディア達の領主はそう言って配下の兵を鼓舞した。ディアも、他の兵士達にもすでに聖戦のことなど頭にはない。「先に進めば食糧がある」、ただそれだけの思いが彼等の足を進めている。

 そうやって歯を食いしばって行軍を続けて、暦はティベツの月(第一〇月)の上旬。何とかアルルに到着したディアは、


「……ははは。そうか、そりゃそうだ。ちょっと考えればこうなることは判ることだった」


 眼前の光景に虚ろな笑いを上げる。

 そこに広がるのは、見渡す限りの兵、兵、兵。地平線の果てまで、大地を埋め尽くさんばかりの兵の群れだった。フランクだけではない。ブリトンから、ディウティスクから、レモリアから進軍してきた兵がアルルで合流しているのだ。

 ディア達の苦闘はまだまだ続く。聖槌軍の苦難の行軍はまだ始まったばかりだった。








 ティベツの月も後半に入る頃、スキラ。


「一体エレブで何が起こっているんだ」


 最近のスキラではその言葉が挨拶代わりに交わされるようになっている。フランクを始めとするエレブの五王国は自国を破綻させながらも百万の兵を動員し、自国の社会を崩壊させながらもその兵に進軍を続けさせていた。


「信じられない。奴等は本気で百万を動員している」


 エレブのバール人からは悲鳴そのものの、あるいは悲嘆に暮れた報告が続々と送られてくる。地獄と化したエレブの有様に、想像を絶する事態に誰もが言葉をなくしていた。


「一体エレブで何が起こっているのですか?」


 竜也は他者に会うたびそう問われた。竜也とて事態の全容を把握しているわけではないが、ネゲヴにおいて一番広く深く事態を把握している人間の一人だった。


「大体のところは判っているでしょう? 聖槌軍が食糧を根こそぎにしながら進軍しているところです」


 場所は「マラルの珈琲店」、ファイルーズは毎日のようにそこを訪れ、竜也やミカ達と会談を持っていた。竜也がテーブルを挟んでファイルーズと向かい合っている。マラルの入れた珈琲はすでに温くなっていた。

 ファイルーズはため息をつきながら首を振った。


「……一体どうしてこんなことに。タツヤ様にはお判りになりますか? 何故このようなことが可能となったのか」


「多分、いろんな理由が積み重なって様々な条件が整い、初めて起こり得ることなのだと思います。簡単に説明できることではありません。一つ言えるのは」


 竜也は自分の手を、爪をファイルーズへと向けた。


「前に本で読んだことですが――人間が素手で人間を殺そうと思っても簡単にはできることじゃない。ちょっと想像してみてください。自分と同じだけの体格と体力を持つ人間と向かい合って、その人をどうやったら素手で殺せるかを」


 そう言いつつ竜也自身も想像する。竜也には格闘技の心得がない。確実に相手を殺したいのなら、狙うべきは首だ。どうにかして相手の首を絞めようとするが、相手だって必死に抵抗する。竜也も無傷ではいられないだろう。下手をすれば――いや、下手をしなくても返り討ちになる可能性が高かった。

 多分似たような想像をファイルーズもしたのだろう。ファイルーズは首を振った。


「……逆に相手に殺されてしまいましたわ」


 努力はしたのですけれど、と残念そうに言うファイルーズ。竜也は笑わずにはいられなかった。


「素手ではウサギ一匹狩るのも難しいそうです。弓や棍棒といった道具を使うことで狩りをするのも楽になる。人を殺すのも簡単になる」


 サフィールが「猪くらいなら素手で狩れますが」と言っているのは無視である。


「手軽に人を殺せる分、人を殺すことの意味も重みも軽くなっていくんでしょう。剣を使えば人を殺すのはさらに簡単になります。火縄銃を使えば指一本で事足りる。そして人を使う立場になればもっと簡単に、大量に人を殺せます。アミール・ダールやヴェルマンドワ伯といった将軍は腕の一振りで何千何万の人を殺せるんです」


「確かにその通りですわ。だからこそ、人の上に立つ者は下にいる者の生命の重みを理解しなければならないのです」


 ええ、と竜也が頷いた。


「多分、教皇インノケンティウスは自分の下にいる人々の生命の重みを知らないんでしょう。『百万を動員せよ』――インノケンティウスにとっては一言発し、それで終わりです。インノケンティウスにとって百万はただの数字なんでしょう。でも、下の人間にとってはそうじゃない。百万は一つ一つの生命なんだ。今この瞬間に死んでいる生命にだって人生があったんだ。家族や友人が、愛する人達がいたんだ。それを……」


 しゃべっているうちに腹の底から憤りが沸き上がってくる。竜也は深呼吸をしてそれを鎮めた。


「失礼しました」


「いえ、お気になさらず」


 とファイルーズは華やかに笑う。竜也はわずかに赤面して顔を逸らした。


「『百万を動員せよ』って命じたところで普通なら『不可能です』とか『寝言は寝て言え』って言われて終わりです。だけど、不運なことに教皇庁は普通の組織じゃなかった。教皇インノケンティウスは普通の指導者じゃなく、枢機卿アンリ・ボケも普通の部下じゃなかった。正気の沙汰じゃない命令を本当に本気で実行してしまう、膨大な犠牲を生み出しながらもそれを無視して実現してしまう。いろんな理由でその条件が整ってしまっていた……そういうことだと思います」


 地獄と化したエレブの様子がスキラに伝わり、スキラ会議での論調にも変化が生じている。竜也やベラ=ラフマの予想通り風向きは変わっていた。


「女子供だけでも先に町を脱出させる。東の町に受け入れを要請したい」


「町の外に難民の居留地を設置する、その準備をするよう指示を出した」


「食糧の移送も必要だ。動員できる船の数は」


 西ネゲヴの降伏論はすっかり下火になっており、正面から戦うこともすでに検討から外されている。残ったのは一蹴されたはずの焦土作戦案だけだ。西ネゲヴの民が南と東に逃げることが真剣に検討され、部分的にはすでに実行に移されている。アミール・ダールやマグド達は焦土作戦を前提とした作戦を立案検討していた。


「避難する市民を守るための殿軍部隊が必要だ。聖槌軍の先鋒の前に立ちはだかり、避難民が逃げるまで時間を稼ぐ。避難民が全員逃げたら聖槌軍に食糧を渡さないよう全て焼き払う」


「遊撃部隊を作って聖槌軍の後背に送り込む。目的はまず、聖槌軍の進軍を少しでも遅らせるための嫌がらせの攻撃。焦土作戦の一環の、聖槌軍の食糧や補給を標的とした攻撃。聖槌軍とエレブ本国との連絡の遮断。エレブ本国からもし補給があった場合それも阻止する」


 各部隊の指揮官や配属する戦士の人選も進められていた。遊撃部隊には赤虎族の指揮官が、殿軍部隊には金獅子族の指揮官が配属されることがすでに決まっている。

 また、物資の補給、避難民の移動、避難先の振り分け等、事態の進展につれて発生する事務作業もまた膨大となった。ラティーフ達はスキラ会議の下の事務局を拡充し、山積する事務作業に当たっている。官僚として集められたのは主に各町の商会連盟に属するバール人、他には各町の長老会議に属する役人達だ。


「今まで議論が堂々巡りするだけで何も進んでいなかったけど、物事がようやく進み出したような気がする」


 と竜也は少しだけ安心したような様子である。ベラ=ラフマもそれに同意した。


「その堂々巡りの議論も決して無意味ではなかったのでしょう」


 正面から戦っても敗北は必至。降伏しても破滅は免れないのなら、逃げるしかない――それがスキラ会議の総意コンセンサスとなろうとしていた。散々議論をくり返し、反論は全て潰され、結局残ったのがその道しかなかった、と言うこともできる。


「ナハル川を要塞と成し、敵をここで食い止める」


「独裁官を選出して政治軍事の全権限を委任する」


 その二点もすでに総意コンセンサスとなっており、積極的に反対する者はほとんどいない。だが問題は「誰を独裁官とするか」である。いや、それすらすでに問題ではないのだ。ギーラは自分が独裁官となることをくり返し提案し、その度に却下されている。残った候補は一人しかいない。


「クロイ・タツヤ、あなたにお願いがあります」


 その日、「マラルの珈琲店」を訪れたのはミルヤム・ナーフィアだった。竜也の横にはカフラやミカが同席している。


「はい。何でしょうか」


「あなたにとっても決して損な話ではありませんよ」


 とミルヤムは微笑み、説明する。


「あなたからゴリアテ号をお借りしていることは覚えているでしょう? その事業の内容も」


「はい、もちろん。西ネゲヴの人達から美術品や貴金属を預かって回る事業ですね」


「あなたにその事業の責任者になっていただきたいのです」


 竜也は言葉を失った。


「ナーフィア商会だけでなく、ジャリール商会・ワーリス商会、その他の商会も、あなたに責任者になってもらうことを望んでいます。もちろん、いくつかの点を除いて名目だけの責任者ですが」


「……説明してもらえませんか?」


 竜也の言葉にミルヤムは「ええ、もちろん」と頷いた。ミルヤムは視線をミカへと移し、


「ミカさん、あなたならご存じでしょう? わたし達のこの事業がどんな評判を受けているかを」


「はい。言葉を飾らず言ってしまえば『墓穴から副葬品を盗掘するがごとき、金の亡者の所行だ』と」


 竜也はぽかんとして、


「え、どうしてそんな話に。聖槌軍に貴重品を奪われないための事業だろう? 保管料だって特別高額でもなかったし」


「聖槌軍が侵入して戦乱が広がれば大量の死者が出ます。その場合、預けた金品はどうなると思いますか?」


 あ、と竜也はようやく理解した。


「それはもちろん預かった商会のものに」


「はい。わたし達はそれを見込んでこの事業を始めました」


 ミルヤムは悪びれもせずに説明する。


「……ですが、事態はわたし達の予想を絶していました。聖槌軍の規模は百万に達するかもしれず、戦乱は空前のものと、死者は未曾有のものとなるでしょう。預けられる金品はすでに予測を大幅に越えています。得られる利益も莫大なものとなりそうです」


 ミルヤムはそこでため息をついた。


「……バール人でない人達からの反発も」


 ああ、と竜也達は納得の声を上げた。


「それでタツヤを名目上の責任者にして非難を避けようと」


「はい。預かった金品の保管管理は各商会が責任を持ちます。生き延びた人達への返却も。問題となるのは持ち主が死んでしまった金品です。クロイ・タツヤ、あなたならそれをどうしますか?」


「困窮している西ネゲヴの人達の支援に使います」


 竜也の即答にミルヤムは「そういうことです」と満足げな笑みを見せた。だが竜也は困惑しつつ、


「ですけど、別に俺である必要はないんじゃ? その金をもっとうまく遣ってくれる人が他に」


「その場合はあなたからその人に手渡せば済むことです。あなたの実務能力が大したものではないことは承知していますから。わたし達が利用したいのはあなたの世評です」


 竜也が「世評?」と首を傾げ、カフラが呆れながら説明する。


「巨万の富を築きながらそれを全て聖槌軍との戦いに費やし、自分は未だカフェの屋根裏に住んでいる――タツヤさんが清廉で無欲だって評判はネゲヴ中に広まっていると思いますよ?」


 竜也はそれをただの誇張だと思い半分くらい聞き流した。


「……持ち主不明の預かり品について、処分を俺に一任する。そのための名目上の責任者なわけですね?」


「はい。その通りです」


 竜也は少し考え、決断を下した。


「判りました、引き受けます」


「ありがとうございます」


 竜也とミルヤムは握手を交わし、契約は成立する。竜也が金品預かり事業の責任者となったという話題はその日のうちにスキラ会議の参加者の間に広まった。それを耳にしたギーラが、


「どうして俺を責任者にしないんだ!」


 と吠えて悔しがった、という噂も流れた。それを耳にしたカフラが嘲笑する。


「そんなの当然でしょう。素性もよく判らない半端者のバール人を、真っ当なバール人であるわたし達が信用するとでも思っているんですか?」


 世間一般ではギーラが東ネゲヴのバール人を代表しているように思っているが、バール人として内側から見ればそれが事実ではないことはすぐに判る。ギーラはどうしていいか判らない東ネゲヴの人達を強引に引っ張っているだけで、彼等と苦楽や生死を共にしているわけでは決してないのだから。


「同じバール人を責任者にしたところで世間の非難は躱せないでしょうに。そんなことも判らないのですか」


 と呆れるのはミカである。ギーラ、あるいは別のバール人を責任者にしても世間には「バール人同士で利益を分け合っているに違いない」と思われるだけだ。ギーラに特別強欲だという評判があったわけではないが、竜也のように「清廉で無欲だ」という評判も持っていなかった。

 竜也は先物取引で得た資金に次ぐ新たな資金源を得た形となった。バール人の有力商会の支持を得ている事実も改めて示し、また一歩独裁官の地位に近付いた、と言えるだろう。だが、


「どうしてタツヤは独裁官になろうとしないのでしょう」


 ミカはため息混じりの愚痴をこぼしていた。場所は「マラルの珈琲店」。竜也はスキラ会議に参加中で、店内ではファイルーズ・ミカ・カフラ・サフィールがお茶を楽しんでいるところである。カウンターではラズワルドとマラルがいつもの仏頂面で皿を磨いていた。


「今のままではあまりに不便だから早く独裁官を選んでほしいと、父上も言っています。タツヤを説得するよう父上に言われているのですが」


「確かに、タツヤさんさえその気になれば話は簡単です。ギーラさんなんて問題にもなりません」


 とカフラは自分のことのように胸を張った。


「聖槌軍と戦う方法も事実上一つに絞られているし、それに向けて父上も将軍マグドも西ネゲヴの各町も動いている。もう問題は何もないはずなのに」


「……その、戦う方法が問題なのではないでしょうか」


 とファイルーズが口を挟む。ミカが「どういうことでしょう」と問うた。


「今はまだ準備段階ですが、実際に避難が始まれば大混乱となるのは目に見えています。膨大な犠牲も避け得ないでしょう。独裁官はそうなると判っていても勝利のために避難の命令を下さなければなりません。タツヤ様はそれをためらっているのだと思います」


「軟弱な」


 と批判するミカだが、そのミカにカフラが、


「ギーラさんなら混乱にも犠牲にも怯まずに避難命令を出すでしょうけど、ギーラさんの方がタツヤさんより独裁官に相応しいと思いますか?」


 ミカは反論できずに沈黙した。


「何百万人という人の生命に関わることなんです。タツヤさんがためらうのは当然のことだと思います」


「ギーラさんにとっては西ネゲヴの三百万人という人達はただの数字なのでしょう。ですがタツヤ様にとってはそうではないのです」


 ですが、とミカが反論する。


「勝利のために一部の犠牲を乗り越えるのは将の務め、国の未来のために民に一時の犠牲を強いるのは王の務めではないのですか?」


「タツヤさんは庶民ですよ」


 とカフラが苦笑した。


「ミカさんの言うことは間違いではありません。ですが、兵をただの駒と思う将、民をただの数字と見なす王には誰もついていきはしません。真の王者とは兵や民一人一人の生命を思い、その上で必要な犠牲をためらわない者です」


 ファイルーズの言葉にミカが頷く。カフラは、


「そんな人いるんですか?」


 と首を傾げた。


「いないわけではありませんが、王家の生まれでも一部の者だけでしょう」


「タツヤ様がそんな『真の王者』となれるのかどうかは判りません。ですが、そうなっていただかなければネゲヴの勝利はおぼつかないでしょう」


 もちろん竜也にも自分の立場は判っている。自分の役目を、なすべきことを理解している。自分の決断にネゲヴの存亡が懸かっていることも。


「くそっ、どうして俺なんだ……」


 西ネゲヴ三百万の生命が、東ネゲヴ五百万の生活が、竜也の双肩に懸かっている。竜也はその重圧に押し潰されそうになっていた。

 そして月はついにシャバツの月(第一一月)となる。聖槌軍がマラカに集結するまであと一月足らずである。


「西ネゲヴに派遣する遊撃部隊・殿軍部隊の編成が完了した。遊撃部隊は赤虎族のダーラクを、殿軍部隊は金獅子族のサドマを指揮官とする。西ネゲヴへの移送は提督ガイル=ラベクに依頼している」


 スキラ会議でアミール・ダールがそう報告。ガイル=ラベクが補足した。


「船はうちの船団から出す。出発は今月一〇日、来月初めにはルサディルに到着の予定だ。我々はそのままマラカの聖槌軍の動向を偵察する。連絡用に高速船を用意しているので、可能な限り逐次状況を報告するつもりだ」


 両者の報告は全員に承認され、二部隊および偵察船団の派遣が決定された。そこに、


「一ついいだろうか」


 と竜也が発言する。


「俺も、この会議を代表して偵察船団に参加したい。本当の聖槌軍をこの目で確かめたいんだ。それと、可能ならルサディルの人達に東に逃げるよう伝えたい」


 複雑な波紋が議場に広がった。竜也の支持者は渋い顔や苦い顔を突き合わせる。ギーラはまず歓喜を、次いで嘲笑を顔に浮かべ、そしてそれをしかつめらしい表情で隠そうとした。


「非常に殊勝なことだ! もちろん我々はそれを認めよう!」


 と何故か上から目線のギーラ。竜也はそれを無視し、ファイルーズと向き合った。真剣な竜也と微笑むファイルーズが見つめ合う。互いの瞳には互いしか映っていなかった。


「迷惑かけてすまない。でも、行きたいんだ」


「お気になさらず。こちらのことはお任せください」


 ファイルーズは優しく笑った。


「行ってらっしゃい。どうかご無事で、お気を付けて」


「ありがとう」


 安堵した竜也は久々に屈託のない笑みを見せた。

 ファイルーズの承認を受け、竜也の偵察船団参加が確定となった。竜也の支持者もファイルーズには逆らえない。


「どうして認めちゃうんですか? タツヤさんがいなくなったらわたし達がどれだけ困るかお判りでしょう?」


 逆らえはしないが愚痴は言えるのだった。カフラの愚痴にミカもまた同意を示す。ファイルーズは「あらあら」と困ったように笑った。


「あの男、逃げたのではないのでしょうね」


「そういうわけではないと思いますわ」


 ミカの憶測をファイルーズは即座に否定する。


「逃げるのに敵の直中の方を選ぶ者はいませんわ。むしろ、タツヤ様は逃げられないところに自分を追い込みに行ったのではないかと思います」


 とファイルーズは顔を曇らせる。そのやりとりをラズワルドは黙って聞いていた。








 そしてシャバツの月一〇日。スキラ湾には五隻の船と、数百人の偵察船団参加メンバーが勢揃いしている。その中には竜也の護衛としてバルゼル率いる牙犬族の剣士が幾人か含まれていた。また、


「……あの、何であの子達がここに」


 バルゼルの横にサフィールが、さらにその後ろにラズワルドが並んでいるのを見出し、竜也は頭を抱えた。訊ねられたガイル=ラベクは、


「お前がちゃんと手綱を取らないからだろうが!」


 と八つ当たり気味に竜也をどつく。


「ナーフィア商会だけでなくワーリス商会、アミール・ダールやマグドからも要請があったんだ。とても断れん」


 一体どうやってそれだけの手を回したんだ、と竜也は唖然とするしかない。ラズワルドの懇願を受けて八方手を尽くしたのはベラ=ラフマなのだが、そんなことまでは竜也には判らなかった。


「あの子はアニード商会と懇意とのことだから、ルサディルでやってもらうことももしかしたらあるかもしれん。皆にはそう説明している」


 ガイル=ラベクは苦虫を噛み潰したような表情でそう言う。竜也は「判りました」と受け入れる他なかった。

 五隻の帆船が帆に風を受け、スキラの港を出港する。竜也達を乗せた偵察船団は西へと向けて出発した。






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