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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
戦雲篇
14/65

第一二話「エルルの月の嵐・後」

「ナーフィア商会からのお呼びです。どうぞお乗りください」


 アブの月(第五月)の中旬のその日。竜也の元に、「マラルの珈琲店」にやってきたのはナーフィア商会が使わした馬車である。馬車の御者には武装した傭兵、さらには二頭の馬と騎乗した傭兵が二人付いている。

 傭兵達の態度は比較的丁重だったが、もし断ったなら無理矢理にでも連れていくつもりなのは明白だった。


「いかがしますか」


 とサフィールは今にも剣を抜きそうな体勢だ。竜也はサフィールを手で制した。


「判った、乗ろう」


 タツヤ殿、と文句を言いたげに名を呼ぶサフィール。竜也は、


「すぐ戻る。待っていてくれ」


 そう言い残し、馬車に乗り込む。竜也を乗せた馬車はすぐに走り出した。

 少しの時間を経て、スキラ市街の中心地。竜也を乗せた馬車がその建物へと到着する。石造りの四階建ての巨大なその建物はナーフィア商会の本館だった。竜也は傭兵に連行されるように建物の中へと連れていかれる。そして建物の最深部、おそろしく豪華な会議室か、無闇に大きな応接室か判断に迷うその部屋へと放り込まれる竜也。


「タツヤさん!」


 名を呼ばれて竜也は顔を上げた。


「カフラ――」


 竜也はそこで言葉を詰まらせた。カフラがそこに立っている、カフラは溢れんばかりに目に涙を溜め、首には鉄製の頑丈な首輪を付けていた。かつて奴隷だった竜也にはすぐに判った、その首輪が奴隷用の物だということが。


「あなたがクロイ・タツヤですね」


 女性の冷たい声が竜也の名を呼ぶ。カフラの横には一人の女性が席に着いて座っている。年齢は五〇代のふくよかな、上品そうな女性である。微笑めば聖母みたいに見えるだろうその女性は、今は凍て付くくらいに冷たい怒気を放射していた。


「はい、そうです。あなたはもしかしてナーフィア商会の当主の」


「ミルヤム・ナーフィアと言います。今日来てもらったのはこの愚か者のことです」


 ミルヤムは視線でカフラを射貫く。カフラは針で刺されたように身を縮めた。


「先物取引の件ですよね。何か問題でも」


 竜也のとぼけた物言いにミルヤムが歯を軋ませる。ミルヤムは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせ、話を始めた。


「『絶対に値上がりするから』とあなたがこの者をそそのかして先物取引をやらせた、それに間違いは?」


「ありません」


 竜也はその問いにそう断言する。カフラは、


「お母様! タツヤさんに責任は――」


「お黙りなさい」


 ミルヤムの静かな一言でカフラは言葉を途切れさせた。


「そんなことは判っています。いくら全ての取引がクロイ・タツヤの名前で行われていようと、それにナーフィア商会の名前を使って保証を与えたのはカフラマーン、あなたです。私がクロイ・タツヤをこの場に呼んだのは確認のためだけ。全ての責任があなたにあることは言うまでもないことです」


「はい……」


 カフラは俯いて涙をこぼした。


「あの、説明してもらえませんか。カフラが俺の依頼で先物取引をやった、そこまでは知ってます。それから何が起こったんですか?」


「この愚か者がいくらの取引を契約したかご存じですか?」


 竜也は首を傾げつつ、


「ええっと、以前聞いたときにはたしか三百タラント」


「今日までの時点で二千タラント、二千万アンフォラを越えています」


 竜也はいくつかの驚きを一度に味わった。


「ええっ? そんな額の取引をどうやって。それに価格が全然上がってない?」


「現時点の取引価格は一アンフォラ〇・五四ドラクマです」


 竜也は当惑するしかない。


(この期に及んで何で下がる? エレブの動きに誰も気付かないのか?)


「この愚か者はレプティス=マグナの人間にはめられたのです。『証拠金の差入はいつでも構わない』という取引相手のハーゲス商会の口車に乗せられ、事実上無制限の取引を実行してしまったのです。ハーゲス商会から証拠金の請求が届き、わたしは初めてこの事実を知りました」


 竜也はその説明をゆっくりと咀嚼する。


「……ということは証拠金の差し入れさえしなければ取引は成立しないんじゃ?」


「ナーフィア商会の名で交わされた契約を反故にしろと? 違約金がいくらになるのか判りますか? わたしが彼等とどれだけ不利な取引をしなければならないか判りますか?」


 ミルヤムは冷たい視線で竜也を薙いだ。そしてため息をついて、


「……ですが、実際そうするしかないでしょう。違約金を払うことになっても、どれだけ不利な取引することになっても、このまま契約を実行するよりは損害は小さくなります」


(何で損をすることが前提なんだ?)


 竜也の中の違和感は大きくなる一方だ。


「『この契約を交わしたのはナーフィア商会の人間ではい』――その証拠としてカフラマーンをナーフィア商会の籍から抜いて奴隷として売り払う。そんな言い訳が通用する相手ではありませんが、やらないよりはマシです。それでもおそらく、わたしは東ネゲヴに有している権益のいくつかを彼等に譲ることになるでしょうが」


「……もしかして、ハーゲス商会は最初からそれを狙って?」


 ミルヤムは苛立ちに満ちた目をカフラに向けて、


「ハーゲス商会は海千山千の相場師を相手にしつつレプティス=マグナの先物取引市場を主導し続けています。採算無視の道楽商売しか経験のないこの愚か者など、彼等からすれば赤子同然、手玉に取るなど容易いことです」


(――そこまで利に敏い連中が、何でエレブの動きに気付かない? 戦争の気配を無視している?)


 竜也の中の違和感は頂点に達していた。


「ですが、エレブ人の大軍勢が西ネゲヴに侵攻すれば穀物価格が上がらないわけがありません。わざわざ損な取引をする必要は」


「エレブ情勢を調べているのは自分だけだとでも思っているのですか」


 ミルヤムは呆れと侮蔑、半々の目で竜也を見る。


「わたしの手の者が独自に調査しています。今エレブには厭戦気分が広がっています。聖槌軍も数万程度の小規模な軍勢をネゲヴに送ってお茶を濁し、教皇の面子を立てるのがせいぜいです」


(どこの世界の話なんだそれは)


 今度は竜也が呆れる番だった。


(その「手の者」って奴はちゃんと仕事をしているのか――)


 その瞬間、竜也の中の違和感が全て消失した。足りなかった最後のピースが揃ってパズルが完成したような気分である。パズルには見事な絵が描かれていた。絵の題名は「ハーゲス商会の陰謀」だ。


「……何がおかしいのですか?」


 不審とわずかな苛立ちを込めてミルヤムが問う。竜也は知らずに作っていた笑いを抑え「失礼しました」と謝った。


「ミルヤムさん、俺と賭をしませんか?」


「賭け事が好きなのですね、あなたは」


 ミルヤムは馬鹿を見る目で竜也の提案を迎える。だがその程度では竜也は怯まない。


「俺は勝てる賭しかしませんよ」


 と不敵に笑う竜也。ずっと俯いていたカフラが顔を上げ、その大きな瞳で竜也を見つめる。


「俺が負けたなら、俺もカフラと一緒に奴隷に売ってください。その代わりもし俺が買ったなら、証拠金を差し入れて二千タラントの取引を実行してほしいんです」


「話になりませんね」


 言下に否定するミルヤムだが竜也はそれを無視し、賭の内容を告げた。ミルヤムはカフラと同じような驚きの表情で目を見開いている。








 ……場所はスキラ市外の一角、そこに建っているのは一見したなら普通の商館のように思える建物だ。時刻はすでに深夜近いのにその建物は不夜城のように明かりが煌々と灯っている。そこは一種の高級娼館なのだ。主要な客層は庶民の中の比較的高所得な層、それにバール人商人の中堅以下の層である。

 その商館を一人の男が訪れていた。年齢は五〇代。かつては端麗な容姿だったのだろうが、加齢以上の何かがその容貌を負の方向へと歪めていた。


「お待ちしておりました、インケファード様。どうぞこちらへ」


 インケファードと呼ばれた男は店員に案内され、館内の一室へと案内される。その娼館の中でも最上級の部屋で待っていたのは、高級娼婦ではなく中年男だった。禿げ頭をすだれ髪で隠しているのが特徴くらいの、どこにでもいそうな男である。


「ミルヤム・ナーフィアは契約を反故にしようと動いている」


 インケファードは前置きもなしにそう告げた。


「『娘が勝手にやったことだ』と主張している。娘を除籍し、奴隷として売り飛ばすつもりだ」


「そうですか。予定通りですね」


 と頷く中年男。


「しかし、よろしいのですか? カフラマーンと言えばあなたの」


「言うな。もう決めたことだ」


 インケファードは自分の感情を切り捨てるようにして命じる。中年男はしばし口をつぐんだ。


「それより、契約は守ってくれるんだろうな」


「はい、もちろん。ナーフィア商会から海運路線のいくつかを譲らせ、それをあなたに任せる。あなたもこれで念願の独立商人ですよ?」


「そうか。長かったが、それもあと少しだ」


 そうですな、と頷いて中年男は立ち上がった。


「それでは私はこれで。最後まで油断なきよう」


「判っている」


 中年男はそう言い残して出て行った。一息ついたインケファードは手酌で葡萄酒を飲もうとする。そこにドアがノックされた。


「誰だ? 空いているぞ」


 ドアが開いて何人かの人間が入ってくる。インケファードは葡萄酒の入ったコップを手から滑らせた。葡萄酒が血のように絨毯に広がる。


「み、ミルヤム……何故、どうして」


「あなたが知る必要もないことです」


 ミルヤムの横にはカフラが立っている。インケファードはさらに動揺した。カフラはすでに奴隷用の首輪を外しているがその事実はインケファードにとって何の慰めにもならなかった。


「か、カフラ……」


「お父様……」


 カフラの涙のたまった瞳を向けられ、インケファードは思わず目を逸らす。ミルヤムは重苦しいため息をついた。


「……今すぐスキラを去りなさい。二度とわたし達に関わりを持とうとは思わないことです。そうすれば天寿を全うするくらいはできるでしょう」


「お前が!!」


 その一声には十年分の恨み辛みが、劣等感が、憎悪が、あらゆる負の感情がこもっていた。インケファードは怨嗟の声を続ける。


「お前が、そうやって俺を馬鹿にして、俺に何もするなと……! もう少しだったのに! もう少しでそのすまし顔に吠え面をかかせてやったのに……!」


「他に言いたいことは?」


 だがミルヤムの反応は氷壁よりも冷淡だった。インケファードは血が出るほどに歯ぎしりをした。


「最後の機会です。言いたいことがあるのなら全て聞きますよ?」


「……くそっ、くそっ!」


 インケファードはその部屋を飛び出し、逃げていく。今生の別れと思いそれを見送るカフラとミルヤムだが、その背中はすぐに見えなくなった。

 それからしばしの時間を経て。カフラとミルヤムは娼館の一室へと戻ってきた。


「カフラ、ミルヤムさん。どうなりましたか?」


 とカフラ達を出迎えたのは竜也である。その部屋では竜也の他、ラズワルドとサフィールが二人を待っていた。待ち疲れたラズワルドはソファに丸まって眠っている。


「全て終わりました」


 ミルヤムが端的に説明する。ミルヤムはそれ以上何も言うつもりはないようだ。説明を求めるようにカフラを見る竜也。だがカフラから返ってきたのは悲しみに満ち、涙に溢れた瞳だ。


「……その、カフラにはミルヤムさんもいるし、俺達だってついている。あまり気を落とさないでくれ」


「タツヤさん……」


 カフラが竜也の胸に飛び込む。竜也は一方の腕をカフラの背中に回し、もう一方の手でカフラの頭を撫でた。カフラは夢心地で酔うようにその温かさに身も心も任せる。が、突然頭を撫でていた手が失われた。

 見ると、竜也の右腕にラズワルドがぶら下がっている。ラズワルドは威嚇するような敵意に満ちた目をカフラへと向けた。対抗するようにカフラは自分の身体を竜也の胸へとすり寄せた。


「――これからの話をしましょう。カフラ」


「あ、はい」


 母親の声に、カフラは名残惜しそうに竜也の腕の中から抜け出る。竜也達はそれぞれソファに座った。着飾った一人の老婆がミルヤム達にかいがいしく給仕をしているが、ミルヤムはそれを空気のように扱っていた。その老婆はほんの半日前までこの娼館の主人だった人物である。ミルヤムはインケファードと対決するためだけに金貨を積み上げてこの娼館を丸ごと買い取ったのだ。

 竜也の両側にはラズワルドとカフラが座り、竜也に身体を預けてくる。竜也はカフラの身体の重みと柔らかさ、その体温に動揺しながらもそれを隠しつつ、


「それで結局、インケファードさんがナーフィア商会を裏切ってハーゲス商会に通じていた。それは間違いなかったわけですね?」


「はい。あの男の裏切りをこの目で確認しました」


 竜也の確認にミルヤムが頷く。


「あなたとその子の言う通り、あの男だけでなく他の多くの店員が与していることも間違いないのでしょう」


 ナーフィア商会の中に、それもミルヤムに近い立場の人間の中に、ハーゲス商会の意を受けて動いている者がいる――それが竜也の賭の内容だったのだ。普通なら簡単に勝ち負けが判明する賭ではないが、竜也の元には反則技の固まりみたいな少女がいる。ラズワルドの調査の結果、裏切り者の名が芋づる式に挙がってきたのだ。


「でもまさかお父様がハーゲス商会に通じていたなんて」


「まったくです。わたしも油断していました」


 裏切り者の筆頭はミルヤムの夫・カフラの父親のインケファードだ。慣例を無視して商会の経営権を握り続けているミルヤムに対して、商会の店員全員が信服しているわけではない。密かに反発している人間も数多く、インケファードはそんな人間を口説き落として自分の配下に組み込んでいったのだ。そしてそれをハーゲス商会が全面的に支援する。

 十年前に先物取引で大失敗をした後、インケファードはハーゲス商会と手を切るのではなくより深く手を結ぶことを選んだのだ。それまでは先物取引を介した関係でしかなかったのだが、それ以降は同じ陰謀を企てる盟友となる。十年という時間とハーゲス商会の全面支援、ナーフィア商会に組織的裏切りという病巣を広げるには充分であろう。そしてカフラが先物取引に手を出したのをきっかけに収穫へと動き出す。先物取引と言えばハーゲス商会の独壇場だ、ナーフィア商会を罠に填める絶好の機会だと判断したのは当然である。


「それでも『まさかあの者達までが』と思わないではいられませんが」


 裏切り者の中にはナーフィア商会の情報部門を統括する人間も含まれていた。このためミルヤムも誤ったエレブ情勢を信じ込んでしまい、圧倒的に不利な取引をしてしまう寸前だったのだ。

 「エレブで厭戦気分が広がっている」という噂を流したのもハーゲス商会ではないかと竜也は考えている。最終的に小麦価格がどう動こうと、ハーゲス商会にとってはどちらでも良かったのだ。今しばらくの間ミルヤムに「小麦価格が下落する、このまま取引をしてしまったら大損だ」と思わせられたなら。インケファードとハーゲス商会の陰謀は九分九厘成功を見ており、ミルヤムは権益を譲ってでも取引を中止する寸前だった。

 彼等の誤算はただ一つ、ラズワルドがナーフィア商会のためにその恩寵を使ったこと、ただそれだけである。


「賭は俺の勝ちです。『大規模な戦争は起こらない』と、ハーゲス商会がナーフィア商会に信じ込ませようとしたことが明らかになったと思います」


「そうですね」


 すでにそれを認めているからこそミルヤムはカフラから奴隷用の首輪を外している。カフラの処分は保留という扱いである。


「じゃあ、事実はどうなのか? だからと言って『大規模な戦争が起きる』とは断言できない、そう言いたいんじゃないかと思います」


 竜也はそう言いつつミルヤムに「ネゲヴの夜明け」やエレブ情勢速報、その基となった資料をまとめて渡した。ミルヤムがそれを読んでいく。


「……確かに、あなたが聖槌軍に危惧を抱くのもよく判ります」


 長い時間をかけて全ての資料に目を通し、ミルヤムはそう結論づけた。そして、決断を下す。


「判りました。百タラントの証拠金、差し入れましょう。小麦の買い占めを成立させましょう」


「本当ですか?!」


 竜也は思わず立ち上がった。ミルヤムは頷く。


「ええ、もし裏が出て小麦価格が半額になったとしても損失は千タラント。その程度でナーフィア商会は潰れはしません。もし表が出たなら、そのときこそきっと見物というものです」


 ミルヤムは悪辣な笑みを見せる。


「表が出ますよ。俺は勝てる賭しかやらないんです」


 竜也もまた不敵に笑う。竜也とミルヤムはしばし笑みを交わし合った。

 ――アブの月の月末、ナーフィア商会の使者がレプティス=マグナを訪れ、百タラントの証拠金を差し入れる。これにより二千万アンフォラに及ぶ小麦の売買取引が正式に成立した。小麦価格が暴騰を始めたのはその瞬間からである。








「にゅっふふふ……」


 レプティス=マグナから伝書鳩で届けられた小麦の価格表を握りしめ、カフラは堪え切れない笑いを漏らしていた。


「にゅっふふふ……にゅるっふふふ……にゃっははは……」


 カフラの笑いは徐々に大きくなっていき、


「にゃっはっはっはー! にゃーっはっはっはっはー!!」


 最後には哄笑、大哄笑に至っていた。目も口も緩み切って、口からは少しよだれが垂れている。


「カフラ、少し落ち着こう」


 竜也は腰が引けた状態になりながらもそう呼びかける。カフラは赤面し、


「失礼しました」


 とよだれをぬぐった。

 さて、月はすでにエルルの月(第六月)に入り、その初旬。場所はナーフィア商会本館である。賽の目が出たという知らせを受け、竜也はそこにやってきたのだ。竜也にはラズワルドとサフィールが付いてきている。


「タツヤさん、見てくださいこれ!」


 カフラが突きつける価格表を受け取り、それに目を通す竜也。


「一アンフォラ二・二ドラクマ。随分急騰しているな」


 竜也の態度はまるで他人事のようであり、カフラにはそれが物足りない。


「二千万アンフォラで七千タラント以上になります。五千タラント以上の儲けなんですよ! しかも高騰はまだまだ続いているんです!」


 そうは言われても、と言いたげに竜也はサフィールに視線を送った。サフィールもまた事態を飲み込んでいないようで、小首を傾げている。


「金額が大きすぎて理解が及ばないんですが。五千タラントってどれくらいですか?」


「一タラントが六千ドラクマ。一ドラクマが労働者の平均的な日当、だったっけ」


(一ドラクマが三三六レプタ、一日分のパンの代金が四二レプタ……)


 竜也は脳内で様々な数字を組み合わせて計算した。実際の購買力から見れば一ドラクマは一二〇〇円から一三〇〇円だが、生活実感から見れば一ドラクマは五、六千円くらいにはなるだろうか。


(一ドラクマを五千円とするなら、五千タラントは一五〇〇億円か)


「おー、そりゃすごいな」


 ようやく竜也が笑顔を見せる。だがその淡泊な反応にカフラは脱力した。


「何でそんなに他人事みたいな反応なんですか。これ全部タツヤさんのお金なんですよ?」


「え、何で?」


「何でって、そういう契約になっているからです」


 契約を結んだ本人であるカフラが白々しくそう答えた。


「タツヤさんがナーフィア商会から借金をして保証金を用意し、タツヤさんの名前で結んだ契約なんです。タツヤさんはナーフィア商会には借金返済の義務しかありませんから、利子を付けて返したって丸々五千タラント残りますよ」


「そんなお金俺には管理できないからカフラとナーフィア商会に任せるよ。それよりも」


 竜也は真顔になってカフラとミルヤムを見つめた。


「俺が必要としているのは穀物なんだ。聖槌軍の侵攻で西ネゲヴの人達が危機に陥ったときに支援をする、それができるだけの穀物を用意したい。契約書や為替、借金の証文をいくら積み上げたって、それで腹は膨れはしないだろう?」


「要するに、実物の穀物を積み上げる必要があると言うのですね」


 ミルヤムの確認に竜也は頷く。


「どこにですか? 倉庫はどうします? 輸送船の手配は? 保管はどうするのですか? 集めるのは小麦だけですか?」


 ミルヤムが畳みかけるように問うが、竜也は照れたように頭をかいて、


「その辺は全部ナーフィア商会にお願いしたいと思ってるんです。だからこそ五千タラントの管理をお願いして、必要経費はそこから出してもらって」


「そうですね。それが妥当でしょう」


 とミルヤムも頷いた。竜也は続けて、


「これだけ小麦価格が急騰しているとレプティス=マグナがひどいことになるんじゃないかと思うんですが」


「なるでしょうね。五千タラントの支払いを強要したならいくつの商会が倒産するか、何人の商人が首を吊るか」


「だから、あまりひどいことにならないようにしてほしいんですよ。貸しを作って小麦じゃなくても、大麦とか燕麦とか米とか蕎麦とかトウモロコシとか芋とか、長期保存の利く食糧を用意してもらうとかして」


 ふむ、とミルヤムは再度頷く。


「わたしとしても、不必要に恨みを買うことを望むわけではありませんが――ハーゲス商会は別として」


「それは俺も同じです。これからエレブ人と戦わなきゃいけないんだから、ネゲヴ人同士でいがみ合う理由はできるだけ減らしたいんです」


「いいでしょう」


 ミルヤムは竜也に対して手を差し出した。


「あくまでネゲヴを守らんとするあなたの志、決して無為にしないことを約束しましょう」


「よろしくお願いします」


 竜也はミルヤムの手を固く握る。これ以降、ミルヤムは竜也にとっての最大の支援者となる。








 ――エルルの月から始まった小麦価格の暴騰はレプティス=マグナを中心として東ネゲヴのバール人達を大混乱に陥れた。ミルヤムが気を回す時間もないうちにいくつもの商会が倒産し、何人もの商人があるいは首を吊り、あるいは夜逃げをする。なお最大の損害を被ったハーゲス商会では当主一家が追放され、ナーフィア商会の完全な傘下に入ることで形上だけは存続した。

 ナーフィア商会を訪れたレプティス=マグナの商人達に対し、ミルヤムが支払い猶予を宣言してようやく混乱は終息。その代わり、レプティス=マグナの経済界はナーフィア商会に支配されたも同然となった。

 この一連の騒動はバール人商人達によって「エルルの月の嵐」と呼ばれるようになる。そしてこの嵐の記憶と共に「クロイ・タツヤ」の名もまたバール人達の胸に刻み込まれたのだ。








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