吼える犬は人を噛めない
死者1感染者109。流れる水の音は息を吐き出せば近づき止めれば遠くなる
死者1感染者109。涙は止め処なく流れ汗と唾液に混ざって便器に落ちた
死者1感染者109。身体を支える手は指先まで力がこもり、冷えている
死者1感染者109。吐き戻しているのはウイスキーとビールの両方
死者1感染者109。俯けば頭に血は上るが、原因は一つでない
死者1感染者109。酸欠のせいか閉じた目の中で星が飛ぶ
死者1感染者109。便器に反響する泣き声の主を知った
死者1感染者109。わざとカバーに頭をぶつけて喚く
死者1感染者109。そろそろ胃液が鼻に逆流する
死者1感染者109。背中を摩る手が何か語る
死者1感染者109。今も無視し続けていた
死者1感染者109。一瞬吐気が収まる
死者1感染者109。襟首を掴まれる
死者1感染者109。降り注ぐ冷水
「いい加減胃が飛び出してくるぞ」
いっそ心地よい水と共に、リンの声が落ちてくる。冷静なようにも、面白がっているようにも聞こえた。少なくとも深刻さは窺えない。救われる。
「飲みすぎだ」
ポロシャツが濡れて張り付く感触は、熱を帯びて麻痺しかかった肩の皮膚でも十分不快さを覚えさせた。けれど今は、バスタブの淵を握り締めているだけで精一杯。吐き戻していたとのそれほど変わらぬ姿勢は、また吐き気を催させるが、疲れきった胃と喉の筋肉がもう白旗を揚げていた。前髪が水流に押されて視界の端にちらつくのを見たのが最後で、フレディは再び目を閉じ、顔を伝う冷たさに集中した。
本当はそれほどアルコールに強いわけではない。大学生時代に指摘されたときは、見栄を張り、むきになって否定した。弱い、だなんて言葉は聞くのも嫌だった。今はもう、それほど青臭い年頃でもないのから、自分の弱さは知っていた。認識したつもりだった。従うかどうかは別として。
膝が水垢のついた湯船に当たり、痛い。突っ張っていた爪先を緩める。靴下の中は汗まみれだった。無様さにまた涙が零れたが、それも全てシャワーが洗い流してくれる。リンに見られていかも知れないと気付き悔しくて涙。でも恐らく彼のことだから、見ないふりをしているのだと分かっていたから腹を立ててまた涙。春の雨のような慈悲深さから逃れたらバレてしまう、そうなれば全ては台無しになると分かっているのに、フレディは水流から逃れようと身を前に乗り出した。伸ばした腕がタイルを叩く。
「ポーリーンは」
汚物だらけの咥内をすすぐように言葉を発したのは、シャワーの栓を捻る直前だったので、聞きとがめられずに済んだ。
そのまま蹲っていたら背中にタオルが投げつけられる。ボクシングでいうところのギブアップ。止めると言うよりは促されている。視界は黒のすだれから白のカーテンに変わる。睨みつけていたタイルを隠され、脱力するしかなくなる。柔軟剤を入れ忘れ、酷く固い感触の布越しに、シャワーヘッドが元の位置に収まる音を聞いたのが、遮断の合図だった。
「風邪引く」
フレディは手を伸ばし、タオルで顔を押さえつけた。反対側の掌も動員すれば、胸を分厚いアクリルで思い切り打ち付けた。息が止まりそう、いっそ止まってしまえばいい。けれど、身体を助けようと両足はもがき続け、結局彼は元いた場所に肘をつき、泣いた。女々しい泣き声を出す代わりに歯を食いしばり、獣のように唸った。
「泣くなよ」
フレディが恐れていた深刻さに口調を切り替え、リンは背中に視線を投げつける。吐き戻したはずのアルコールはまだ脳の中を循環しているようで、まともに頭は動かない。彼の声をそのまま受け止め、フレディは鼻をすすった。
「やめろ。うるさい。もう泣くな」
そう、声は深刻な上、妙に優しいのだ。怒りは膨らむばかりだった。
幾ら泣いても喚いても懇願して祈ってもどう考えても状態は改善しない。何のために親は自分を大学に行かせたんだ。今更嘆いたところで遅い事は知っている。けれど、心は勝手に暴走し、寂しがった。
ふやけた瞼から腕を離す。さっきまでなら排水溝に流す機会はあったのだ。今、涙はタオルに染み込んで、手の中にあった。現実を突きつけていた。
噛み締めた奥歯を緩める。同時に肩の力が抜け、上半身にまとわりつく布をはっきりと知覚した。
「すまない」
「気にするな」
「すまない」
「いいって」
水滴をたっぷりと乗せた睫毛が邪魔をして、見上げたリンの表情ははっきりと分からなかった。熱を持つ瞼で何度か瞬きしたあと、左手に握り締めたままだったタオルを落とした。今度は分かる。蒼い眼と、薄く開いたままになっている唇。消した感情の裏に悪意がないと知る。恥じ入って、フレディは眼を伏せた。
新しいシャツを着てソファに身を横たえる。クッションの感覚に慣れた頃、リンはすでに足をテーブルへ乗り上げ、残りの酒を煽っていた。
「ジャッキー、目、覚ましたかな」
「大丈夫だ」
ドアの方角へ首を捻ったリンに希望を述べる。息子の眠りの浅さには、昔から辟易させられていた。だが、その性格からして、大人の騒ぎには出来るだけ首を突っ込まず、ベッドの中から出てこようとしないことも、重々承知している。
「悪い」
「それ以上言うと、もう一回頭から浴槽に突き落とすぞ」
わざと怖い口調で叱るリンに笑う気力もなく、フレディは腕かけに乗せた足に視線を移した。そういえば、スリッパは風呂場に連行された時に脱げたのだろうか。先ほどおぼつかない足で部屋に戻るときは、どこにも落ちていなかったように思える。まだ熱を残したままの頭だから、見逃しただけかもしれないが。ポーリーンのものと色違いのそれさえあれば、せめてこの濡れてまだらになった靴下を見ないで済むのかもしれないのに。全て自業自得で、一つ一つが情けない。
「眠くなった」
結局少し毛玉のついた布地に頬をこすりつけながら、寝返りを打つ。空っぽになったバドワイザーの缶を弄んでいたリンが、静まった目を向けた。
「ガキみたいだな。眠くなるんだろ、確か」
「ストレスが溜まったら」
幼いときからの癖で、手を口元に当てながら、フレディは頷いた。
「児童心理学の講義でやったよ、確か」
アルミのへこむ音にくわえ、つけっぱなしだったテレビの討論が再び流れ込んでくる。
死者1感染者109。唾を飛ばしあう医療関係者とニュースキャスターに挟まれたパネルの文字は、先ほどと同じ位置に収まり、テレビカメラを見据えていた。記号と化した数字には何の感慨も沸かない。冷静になった今ならば、そう思える。なのに、吐き気を催した瞬間は違った。ポーリーンが去ったという言葉を、彼女の声が聞こえない部屋の広さに連結させたイマジネーションが、ただの数字で1つの死体袋と109の消毒薬臭いベッドを脳内に構築する事など、造作もないことだった。見たことも聞いたこともない人間に同情することは流石に不可能だったが、爆発した想像力の勢いそのものは、酒で脆くなった彼の精神を根底から揺さぶった。そこから先は容易い。立ち上がり、テーブルで躓きかける。リンの呼びかけに返答せず、押し殺した息で浴室へ。既に涙ぐんでいた。なんて情緒不安定。これはアルコールのせいだと言い訳する自分は、結局のところ自らを強いと思い込みたいのだ。反吐が出る。いや、ここで吐いてはまずい。慌てて扉に体当たりした。
1時間以上話し続けているにも関わらず、インフルエンザの対策は見つかりそうに無かった。今まで新聞に載っていたのと同じような話ばかり。
「くだらん」
リモコンを探すリンをぼんやり見ていた。腰の辺りにある硬い違和感。重い仕草で手を伸ばし、引っ張り出す。
「たかだかインフルエンザで、そんな大騒ぎする必要もないだろうよ」
「うちの州は、感染者が多いらしいな」
さようなら、計110人の不幸な病人。電源を消した後の余韻は、部屋に下りた沈黙という形で現れる。テーブルの上に放り出され、突然の静けさに戸惑うリモコンを、同じような表情でグラスに口を付けるリンが眼で追った。
「空港と港とハイウェイを閉鎖して、患者が出るたびに隔離しても、メキシコからはどんどんきやがるんだ。今更、仕方ないことだろうさ」
「ワクチンが開発されてないんだ。下手したら、死ぬぞ」
「インフルエンザで?」
薄い琥珀色の液体に向かって鼻を鳴らす。
「前に掛かったが、2日も寝たら治ったよ」
「おまえ、あの時」
眠気で感情は素直に現れ、腹のあたりから沸く擽ったさに近い笑いをそのまま唇に乗せる。
「ジャッキーから貰ったんだったな。僕もポーリーンもうつらなかったのに」
「そうだっけ?」
同じく笑いを込めて、眼をそらす。
「ああ。ちょうど一週間遅れて、注射しに行ってたじゃないか」
「つまらないことばっかり覚えてやがる」
踵でテーブルの天板を揺らし、リンは苦笑を深くした。
「でも、すぐ治った」
「薬があったから」
「そんなに怖いなら、おまえが研究すりゃいいじゃないか」
床に転がる四角い瓶には、まだホワイトラムが残っていた。呑み残しのバーボンが残るグラスに注ぎ、一気に飲み干す。薄い唇についた雫を舌先で舐めとってから、リンは尊大な目つきでフレディを見た。
「何だよ」
「別に」
「いいじゃないか」
左手に抱えたボトルの底で、あと少しだけ液体が波打っている。
「あるだろ、ラムとバーボンのカクテル」
「さぁ」
苦い唾液を締め出すように小さく喉を震わせ、フレディは眼を細めた。
「どうでもいい。そういえば、飲酒運転だぞ」
「自転車でも飲酒運転になるのか」
「自転車?」
沈静しきった頭をソファから離す。真っ盛りの春、部屋には強すぎる西日の熱がまだ残っている。風を通すため開け放した窓の向こう、揺れるカーテンの先に、いつもあるはずのポンティアックは見当たらなかった。目を細めれば、花壇の傍に立ちはだかる壁面へ張り付いたマウンテンバイクを発見できる。玄関の照明へ引っ掛かった部分だけでも、そのどぎつい青色は目に痛い。
「この前臨時収入が入るって言っててさ。その金で、今年こそメレディスのコートを買うことにしてたんだ。ミンクだったか、シルバーフォックスだったか」
「今の季節に毛皮?」
再び頭を戻しながら、フレディは首をかしげる。
「だろ」
意を得たりと言わんばかりに、リンは上半身を乗り出した。
「そんなの、秋になってからで十分じゃないか。そりゃ、あいつの楽しみって言ったら服くらいだから……分からんでもないが、こんなときに毛皮だなんて」
「ああ」
掠れた声で、肘まくらの体勢に。そんな事を考えれば、常に量販店で服を探していたポーリーンの慎ましさは、いじらしいほどだった。訪れた落胆を静かに噛み締めながら、フレディは続きを待ち構えた。
「お前も思うだろ? 秋で十分だって」
「そうだな。暑いし、流行遅れになるかも」
「そこが、あいつには分からないんだよなぁ」
頭を掻いたリンの表情が、くしゃくしゃに潰れる。
「そりゃ先に言わなかった俺も悪いよ。確かに」
「金はどうした」
「トレヴァーとベガスに行く用があって」
引っかいていた指先が、濃い髪の中に半分埋まって止まる。
「リヴィエラ・ホテルで落っことしちまった」
「僕には良く分からないよ」
ため息をつき、フレディは目を閉じた。
「サイコロなんか、面白いか?」
「世の中は、お前みたいに何でも理屈尽くめで考える奴ばっかりじゃないってことさ」
気まずげに唇を曲げ、グラスの中身を含む。
「まぁ、なんにせよ、説明する前に使ったのならお前が悪い。幾ら内容が理不尽でも」
「でも毛皮だぜ、4月に」
テーブルの上で不満げに足が揺れる。
「それに、だからって車のキーをトイレに流さなくても良いじゃないか」
「やるなあ」
ひくつかせればまだ痛い腹筋でフレディが笑えば、リンは子供のように拗ねた表情を浮かべた。
「笑い事じゃないぞ。ここまでマウンテンバイクだと30分だ」
「いい運動になる」
「お前こそ痩せろ、腹がスモウ・レスラー一歩手前じゃないか。ああっ、くそっ。修理屋を呼ぶのだけでまた金が掛かる」
乱暴に背凭れへ腕を引っ掛け、ふんぞり返る。どう考えても反省の色など窺えない態度に、笑うしかない。
「今日はもう泊まる。お前がそこから立ち退けば、十分寝られるよ」
「毛布、あったかな」
「なくてもいいさ。こんな陽気だ」
「まだ明け方は冷えるから、風邪を引くぞ」
「適当でいい」
ピエロが玉の上で踊る壁掛け時計を見上げたリンは、少しの間口をつぐむ。
「12時過ぎ、か」
瞳は文字盤から垂直に降りて、まだ血色の悪いフレディの頬で止まる。上目で視線を合わせ、回復をアピールするが無駄だったらしい。偵察する蒼い目の上で曇った眉は、結論をはじき出す。体調不良。
明らかに鑑定ミスだ。 自分の体の事なら、自分が一番良く知っている。同情は、ごめんだった。
「流石にもう、酒は飲まないけれど」
友人をベッドに押し込むため腰を浮かしかけたリンに、フレディは先制攻撃を仕掛けた。
「エヴィアン。取ってきてくれ」
中腰のままの逡巡。歯切れ悪く、リンは言った。
「眠たいって言ってたじゃないか」
「もう目が覚めた」
最後通牒を拒絶し、フレディはもう一度手を突き出した。
「エヴィアン」
本当の事を言えば、身体は隅から隅まで疲労に占領されていた。けれど、このままベッドに行けば、眠るまでの時間でまた泣いてしまう。次に目覚めて正気になったとき、自己嫌悪で死んでしまう。
「持って来いってば」
赤くなった目のままで懇願すれば、リンは処置なしといった顔で立ち上がった。
「知らないぞ、ほんと」
光センサーつきの時計は、1時のメロディを律儀に鳴らす。片方をパンヤ綿のクッションでふさいだ耳は、普段よりも強く音を鼓膜で反響する。一気に半分ほど水を飲み込めば、口の中だけは少し落ち着いた。リンが勝手に探し出してきたポップコーンのバターは、匂いだけで十分胃をざわめかせたが、夜半に変わった風向きで消える。
「面白い話」
記憶を探るよう上を向き、リンはポップコーンとバーボンを交互に口へ運んでいる。
「一つあるんだが、小噺にもならない」
早速汗を掻いているガラス瓶を頬に当てながら、フレディは笑った。
「飲むのも食べるのもトウモロコシばかりの男の話」
自らの手元を見下ろしたリンが、渋い顔をする。
「面白くもなんともない」
突き出された、まだ湯気を出すアルミパウチを断り、フレディは膝を折って正面からリンに向き合った。
「『once upon a time』ってテーマなんだ。短編で、締め切りは来週」
「むかしむかし、か」
指を、白い骨の塊のような菓子の中で蠢かしながら、リンは言葉を繰りかえす。
「おとぎばなしでも書けって?」
「掲載するのは『トピック・トピック』っていう雑誌で」
「聞いたことないな」
「専門誌さ、いろいろなものの品評をしてる」
疲労を蓄積させる痛みを堪えるため、目を閉じる。
「その、エスコート・サービスの」
「ああ」
見なくとも、リンの曖昧な口調は分かる。
「ノスタルジックで、ノワールで、刺激的な話がいいんだ」
「ああ、分かる。ああいうの、だろ」
指にたっぷり掛かったバターと塩を舐めながら、リンはもう一度天を仰いだ。首を元の位置に戻したとき、彼の瞳には、小さいが確かな輝きが宿っていた。
「そうだな。こんな話はどうだ」
ジェムの……そんな顔するなよ、もう過ぎた話だ。それに、あいつの話じゃない。ジェムの弟トマの嫁。ティフィーって名前の、眼鏡をかけて、いかにも知的ですって言いたげな顔をした女だった。北部の大学に4年間通って、まぁ、実際に頭は良かったよ。気取ってたし、奥様連合の中じゃちょっと浮いてたけどな。
トマは洗濯屋を幾つか経営してて、夫婦で毎日金勘定してる。ここから一番近い場所は、ラグナ通りに一軒ある。あの店を仕切ってるのは中国人だが、上の方でな。洗濯屋って、ほら、ああいう連中にとっちゃ便利な仕事なんだ。棚の上には、普通に劇薬が置いてある。ちょっと失礼、お借りしますよ、って訳で。トマ自身は、言っちゃなんだが、気の弱い陰気な奴だったから、そんなもの使ったこともないんだろうけどな。
まぁ、いちいち気遣いしなくていいってなれば気が楽で、俺は奴とわりあい仲が良いんだ。ちょくちょく家に出入りしてる。子供はもう独立して、どこかの建設会社に就職したとかで、後は自分を尻に敷く嫁さんと二人っきりだろ。若い奴に飯を食わせるのを、楽しむ手合いだ。特にメレディスと結婚する前はしょっちゅうタダ飯を食いにいってたな。ティフィーの方も、あんまり良い顔はしなかったけど、行く度にミートボール・スパゲッティを山盛り作ってた。
そう、そのティフィーの話だ。ミステリーが好きだった。ハンフリー・ボガートが出てきそうな、銃をバンバン撃つタイプの話じゃない。シャーロック・ホームズとか、アガサ・クリスティだとか、そういうお上品な本が本棚いっぱいに詰めてあって。男たちが居間で喋ってる間、キッチンでずっと本を読んでた。思えば愛想は良くなかったんだが、不細工って訳じゃない。少々縦に長すぎたのが難点だが、それ以外は平均以上だ。
いつだったか、俺がたまたまキッチンを覗いたときも、背中を丸めて本を読んでた。タイトルは、覚えてる。その頃テレビで再放送してたんだよ。有名な奴らしいな。牧師だか枢機卿だか……
それだ、ブラウン神父。知らない? 昼頃にいつもやってた、地味なドラマで……まぁいいや。とにかく俺はそのとき知ってたから、うっかり声を掛けたんだ。知ったかぶりして。それ、面白い話だった、なんてな。
そのときの、俺を見上げるティフィーの目の輝きって言ったら。いつもサメみたいな剣呑な目つきでこっちを睨んだりしやがるくせに、掌を返して世界一のソウルメイトみたいな扱いさ。
『あなたも好きなの?』って変に生き生きした声で聞きやがったから、俺も気おされて頷いちまった。本当のところ、小説どころか、ドラマも昼寝しながら観てたようなもんだから、ろくに内容も覚えてなかったけどさ。
『そう。私もよ』なんて、何度も頷きながら、終いには持ってた本を押し付けてきた。その手つきが妙になれなれしくて、ちょっとひいたな。あれには。頭がいい奴って、みんなあんな感じなのか? いや、別にお前のことを言ってるんじゃないよ。お前、もっと……どうしようもないじゃないか。
俺が黙っててもティフィーはお構い無しだ。いろいろ講釈をこね回して、『チェスタートンの小説は、名言で溢れているわ。私は、これが好き』って、コーヒーテーブルの上に積んであった本を開いて、わざわざページを探してくれた。
うろ覚えだけど、つまり、木の葉を隠すなら森の中、森がないなら自分で作れってことだ。無茶苦茶な話だよな。そんな面倒くさい事するくらいなら、隠すのをやめて捨てちまうよ。森を作れ? 木の葉一枚のために? これだから神父の説教ってのは嫌いなんだ。非現実にも程がある。
それからしばらく、妙な色目使われて……言っておくが、俺の好みじゃなかったし、指一本触れてない。触れてないぞ。もうちょっと太ってりゃな……いや、それでも50前だぞ、やっぱりキツい。
本当だ、何もしてないって。嘘だと思うなら、他の連中にも聞いてみろ。
それでだ。ここから先が本題。さっき、ベガスへ飛んだって言っただろう。最初は大した用事じゃなかった。イニス・ティシュコフって、知らないだろうなぁ。高校の近くに薬屋があって……何で知ってるんだ。小さい店だぞ。リチウム? ああ、わざわざあんなところまで、処方箋貰いに行ってたのか。律儀な奴。
そのティシュコフ、爺さんの息子だよ。何番目かは忘れたけど。とにかく6年前にベガスへ行ったんだ。詳しい経緯は知らないが、何でも知り合いに誘われたとかで、酒についての商売をしてた。しっかりした会社さ。一流じゃないが、ホテルにビールを配送してるってことになってるよ。表向きは。実際、殆どそれが収入源だったんだけどな。
けれど、裏でちょっと、ワルとも言えないようなこともやってて……パナカって町、知ってるか? あそこ、ネバダでただ一つのドライ・カウンティ(禁酒の町)なんだよ。モルモン教ばっかりだから、そりゃ仕方ない。
地味だが小綺麗な町で、保養なんかにゃもってこい。いいところだよ。けど、酒の販売購入禁止、飲酒禁止、人間ってあんまり禁止ばっかりされると、逆に破りたくなってくるもんじゃないか。それに、当たり前だが全員がモルモン教じゃない。隣町で飲んでくりゃ、そりゃあいいだろうけど、やっぱり家でステーキを食べるとき、赤ワインがないと味気ないもんな。
ティシュコフはそんなひねくれものに目をつけた。チンピラたちのコートや鞄の底にワインなりウイスキーなりを忍ばせて、何食わぬ顔で罪深い行いをやらせるのさ。ちょっと色をつけても、売れるぞ。金持ちはな。ああいう連中程欲求は強いし、第一たくさん買う。常連客は結構いた。
俺もトレヴァーも、前からよく顔を出してた。気晴らしみたいなもんさ。ベガスへ着けばティシュコフに電話一本、「調子はいかが」ってな。それでちょっと手伝いさ。あいつ、あんまりベガスのチンピラを信用してないんだ。一緒に経営してる奴が使ってたガキが、一度ヘマをやらかしとかで。飛行機代? ああ、平気平気。サントリアが、チケットを……いや、やっぱりノーコメント。とにかく金は掛からない。中南部にも支店を作って、同じことやろうかなんて話もしてたな、この前。ドライ・カウンティの本場って言えば、やっぱりテキサスとかカンサスとか、あっちだからな。
あいつは気前がいいから、一回の仕事で200ドルくらい平気で出す。鞄に酒をつめて、車で運ぶだけだぜ。それを有り金に足して、カジノへ一直線さ。200ドルあれば、まあ、チップくらいにはなる。
時にはその逆もあった。そろそろ財布の中がヤバくなってきたときに店へ駆け込んで、仕事を貰う。一度なんか真夏の昼過ぎ出発で、夕飯に間に合うようにだなんて無茶言いやがって、砂漠の道をぶっ飛ばしたんだが、もう、熱いの何の。しまいに商品のワイルドターキーを一本空けちまうし。
あの時は、そう、トラックの荷物を失敬する仕事が終わった2日後か3日後だったな。わりとまとまった金が入って、気が大きくなってた。たまには休暇も必要さ。暇してたトレヴァーを誘って、空港に向かった。メレディスは何も言わなかったな。止めもしなかった。慣れっこになってるから。「あんまりお金、使わないでよ」とか言って、気分よく見送ってくれた。それが帰ってきたら……分かってるよ、俺が悪いんだ。で、毎度のご機嫌うかがいさ。
仕事はそんなに大げさなもんじゃなかったな。ビールが3箱、あとドライジンとスコッチと、そこらへんを2、3本。ボロいマーキュリーのトランクが改造してあって、シートの下に凄い量の荷物が入るようになってた。そこに突っ込んで、あとは行くだけだからな。気楽に構えてたら、ティシュコフも同じくらいのんきな顔をして言いやがった。「もしかしたら、相手から何か話を聞かされるかもしれないが、お前らに任せるよ」。そこで気付いとくべきだったんだよ。いや、普通気付くよな。やっぱり砂漠の埃と熱波で、頭がどうにかしてたんだ。
他にも嫌な予兆はあったって言えばあった。その日に限ってトレヴァーはハイだし、一杯引っ掛けていこうって思った店は休み。風砂がすごくて、視界も悪かった。昼過ぎに出て、町に着いたのは4時前だったかな。配達先は一軒だけ、デレク・ジャレットって弁護士のうちだ。町全体、って言っても、小さな町だけど、ぐるっと見渡せるいい場所にある家で、外装もレンガのタイルなんか張ってある感じでさ。あるだろ、町のインテリ、みたいな。
白いマーキュリー・セーブルは旧型のポンコツ、しかも一面砂埃だらけで、あんな家の前に停めるのはちょっと気が引けたな。というか、物凄く目立った。
チャイムを押して出てきたのは本人だった。もう何度か配達してて、顔は知ってる。背の高い男だ。馬面で、目がやたらと据わった、弁護士って言うよか、もっと胡散臭い……どっちかって言うと、悪徳なんとか、って肩書きを持ってそうな。ま、実際酒の密輸なんかやってるんだから、清廉潔白なお方って訳じゃあないんだけど。年は50くらいかな。とにかく、けっこうインパクトのある顔だ。目だな。目がちょっとヤバい感じだ。
地下の倉庫にビールを押し込んだら、さすが金持ち、気前よく一杯飲んでくれなんて言ってさ。最初から、喉が渇いたし、ちょっと位たかってやれ、なんて思ってたことは認める。こっちは暑い中を三時間近くも飛ばしてきたんだからな。けど、先に勧めたのは向こうだ。
ビールを飲んで、世間話をした。何を話したかな。そんなことまで、小説に書く必要あるのか? 適当に作っといてくれよ。作家だろ。想像しろ。横のトレヴァーは膝をガクガクいわせながら、汗みずくになってビールを飲んでた。禁断症状さ。ベガスを出る前に何かやってたはずなんだが、もう駄目だ。紙みたいに白くなった顔が汗でヌメヌメ光って、あんな奴平気な顔して家に招きいれるなんて、やっぱり奴さん、肝が据わってる。
トレヴァーの代わりに俺が喋ってたんだが、なんだかな。やっぱりおっさんの目が気に食わない。お前の文学的表現で言うと、何になるんだろうな。ギラギラじゃない、もっと底光りがしてて、不気味な目つきだ。値踏みされてるような……
……炯々? ははぁん、なるほど。いや、俺は知らないけど、そんな感じなんだろうな。任せるよ。とにかく、嫌な目で見てやがる。
嫌な感じって言えば、デレク・ジャレット本人が玄関に出てきたっていうところもそうなんだよ。普段なら、嫁さんが出てくる。そういうしきたりに五月蝿そうな家だ。インテリっていうのは、ヘンなところで堅苦しい。嫁さんがいない。留守かとも思ったんだが、時計を見たらもう5時を回ってた。飯を作るには、遅すぎる。俺たちは台所に上がってたんだが(こういうところが嫌だってんだ、お上品な連中の礼儀がな)一向に、顔を見せない。お前なら、その……分かるだろう。独特の静かさなんだ。ぽっかり、はさみで切り取ったような、物足りない違和感。
そんな事を考え出したら、ビールも美味くない。俺が空になりかけた缶を両手で抱えてたら、デレクは変に愛想のいい声でもう少しどうだ、とか言って壁際に向かう。向かうって言うのは、フリーザーがウォークイン式なんだな。田舎だから土地代も安いんだろうが、それにしてもデカい家だった。家じゃない、ありゃ屋敷って言うのか。そういう、部分部分、よく分からないところで凝ってるんだよ。
ビールのお次はウォッカだった。これは美味かった。凍らせたウォッカなんて、聞いた感じじゃぞっとしないが、意外と美味いぞ。どろどろしてるんだ。そろそろ汗も引いてきて落ち着いてきたところのシメには持って来いだ。美味かったんで、家に帰ってから、知り合いに貰ったポートワインを家の冷凍庫に突っ込んでおいたんだが、凍っちまって悲惨な事になった。
そんな話はどうでもいいんだ。なかなか美味いウォッカ、これもきっと誰かが運んできたんだろうなんて、のんきな事を考えてたのが悪かった。やっぱり酒って怖いな。すっかり警戒心も第六感も麻痺しちまう。気付けば話のタネがなくなってたのにも忘れて、ウォッカのことばっかり考えてたら、その隙に弁護士先生はしたり顔で近づいてくるわけさ。
「イニスが言ってた通りだな」
ひとまず笑顔でジャブ。いや、その笑顔の胡散臭い事って言ったら。でも俺は、適当に相槌を打って、聞く態度を相手に見せちまった。
「イニスが?」
「ああ、頭の回転が速いとな」
言われたときも、悪い気がしなかったもんだから、つい涼しい顔をしたみせた。ああ、畜生、それがいけなかったんだよ。どんどん泥沼にはまってるっていうのに、何で気付かなかったかな。トレヴァーは横で瞼をぴくぴくさせてるだけだし、落ち着かない広い家の、静まり返った気配も気にくわねぇ。最初から、分かってたはずなのにな。弁護士なんて、信用するもんじゃない。
「酒の運び屋なんてさせとくには、もったいない」
「これは副業なんでね」
「そうか」
意味ありげに眉を吊り上げて見下ろしてきやがる。流石にそろそろ、俺も何かあるって分かった。しかも、ちょっとややこしい感じの何かがな。頭の中でダメだ、ダメだって言ってるのに、ここでも俺は無視した。
「ラスベガスの滞在は? 長いのかね」
「まぁ、そこそこかな」
弁護士って、絶対に目をそらさない喋り方をするんだ。何年か前、うっかりドジを踏んで検事に睨まれた時とおんなじ。へっ、もっとも法廷で怖い顔してたのは、凄いブロンドの美女だったけどな。
「この仕事が終わったら、ちょっと遊んで帰るよ」
「そりゃいい」
またウォッカを勧めてきたが、今回は断った。デレクは自分のグラスについでから、またじーっとこっちを見てやがる。隣で鼻唄でも歌いそうにしてるトレヴァーをぶっ殺してやりたくなったのは、あの時が初めてだったよ。
「なるほど、イネスの言う通りだ」
イネスとデレクがそんなに仲が良かったなんて、後から知った話さ。そのときは、そろそろここを出ようか、どうやって出ようか、って、時計とウォークインのフリーザーばっかり見てて、推測することもしなかった。
「今からベガスに」
「ああ」
「数日滞在」
「たぶん」
「そうか」
1人で頷いて、またそれが様になってるんだが、俺の方はそんな落ち着いてもいられない。何でって、それは上手く説明できないけど。かなり遠い位置にあるはずの時計で、秒針の音がはっきり聞こえた。一つ針が進むたびに、焦るんだ。まずい、まずい。このままじゃ、何か面倒くさい事になるぞ、ってな。けれど、あの目は怖いな。俺が何か訴訟を起こすなら、奴を弁護人にするよ。相手がカタギなら、猫に睨まれたネズミみたいに震え上がるだろう。何にもしてない時でさえ、こんな恐ろしい目をしてやがるんだから。
デレクはおもむろに食器棚――これも馬鹿でかいんだ――を開いて、取り出した封筒をテーブルに放り投げた。
「2500ドル入ってる」
分厚さから考えて、言葉が嘘じゃないって分かった。トレヴァーの奴、さっきまであれだけポルカでも踊りだしそうな勢いで跳ねてたのに、聞いた途端、すぐに目を見張って封筒に釘付けさ。現金な奴だ。まさしくな。
「仕事が成功したら、おなじだけ払おう」
いや、けったいな男だよ。チンピラ相手に薄暗い話をしようとしてるってのに、全然態度が変わらない。むしろ、尊大にすらなってるんだ。卑屈の裏返しって訳でもない。恐れちゃいない。まるで、俺たちがそうせざるを得ないって神から聞いたみたいな顔してやがるんだよ。あそこまで、全てを知り尽くしたって表情で見下ろされたら、オバマだってきっと頭を下げるぜ。胡散臭いんだよ。けれど……自分のやりたいことをやってきた男なんだ、きっと。そして、そうすることが当たり前だと思ってる。
「仕事って」
ムカつかなかったって言えば嘘になるが、金が要るかって聞かれてNOって答えるのはもっと大きな嘘だ。この家に来てから殆ど口を開かなかったトレヴァーが、飛び出しそうな目玉でデレクを見つめてた。情けないったらありゃしなかったが、デレクは体よく無視したまんまだ。
「暴力沙汰や、法に触れることじゃない」
「あんたが言うのなら確実だな」
嫌味を言っても、肩を竦めることすらしない。敵うわけないよ。相手は理屈を捏ねることの専門家なんだから。
「ドンペリを1箱持ってこいとか」
「いや、人を探して欲しい」
今にも封筒を鷲掴みそうなトレヴァーの脛を蹴飛ばしてから、俺はしっかり話を頭に叩き込んだ。
話は単純さ。町でも指折りのインテリ、デレク・ジャレットにはキースっていう1人息子がいる。親に入れてもらった大学を卒業して、お袋さんの実家が経営してる建築業者に今年の春潜り込んだばかり。それが、仕事を始めて1ヶ月の2週間前、いきなり消えちまった。仕事って言っても、大したことはやってない。親戚だから散々甘やかされてるしな。親父さんの方も、帰ってきたらこってり搾る程度に、最初は考えてたらしい。うん、まぁ、成人したガキを今更殴り飛ばすのも、大人気ないけどな、確かに。それにしても、息子が息子なら、親も親ってわけか? なんにせよ、結構なご身分さ。
ところがだ。消えて3日してから、お袋さん宛てに手紙が来たらしい。何でもその息子、職場の女と一緒に逃げたらしいんだ。女の名前はなんだったか、ジェニーだったかな。事務所で働いてたその女と、手に手を取って自由への逃走さ。これで親父さん、完全に頭へ来た。相手の親に怒鳴り込まれでもしたら、こんな小さな町だ。それこそ死活問題だし、第一いつの時代でも身分違いの恋は行く手を阻まれるものだからな。
つまり弁護士先生、2500ドルで息子の将来、残りの2500ドルで自分の分を買ったんだ。
「手荒な真似をしてもいい。ちょっとは懲りるだろう」
平気な顔をして、奴は言った。
「出来るだけ早く連れ戻して欲しい。女は任せる」
うん、お前、ジャッキーがもしそこらのとんでもない女と駆け落ちしたら、どうするよ。普通、チンピラに依頼するか?
「妻がショックで寝込んでしまってな」
確かに、神経質そうな女だったから、納得できる。それにしてもなぁ……普通は頼まないと思うぞ。なぁ。
手紙の消印はドンピシャでラスベガス。観光ついでに仕事も、ってか。公私混同だよ。そんな無茶苦茶にも程がある。
でも、あぁ、断れなかったんだよ。どうせ意思なんか弱い、知ってる。なにせ25000ドルだ。人探しってのは厄介だが、ベガスには幾つかコネもあるし、何とかなるだろうって甘く考えてた。もうちょっと考えれば分かってただろうよ。あんな歓楽街で駆け落ちしたカップルを探すのがどれだけ大変か。それがこんな……絶対、酒のせいだ。後から聞いたんだが、凍らせた酒って言うのは、腹の中で溶けるから、ちょっと時間が経ってからアルコールが回るらしいんだな。くそっ、あのおっさん、とんだ策士だよ。
結局俺は、トレヴァーがほくほく顔で封筒をひったくったのを止めようとしなかった。畜生。
ホテルに戻ったのは夜だった。そのままカジノへ飛び込んでも良かったんだが、なんだか疲れて結局寝ちまった。それにしても、何で気付かなかったんだ、俺は。帰りの車の中で、イニスが言ってたこともようやく思い出した。「もしかしたら、相手から何か話を聞かされるかもしれない」。わざと俺たちに押し付けやがったんだよ、まったく。デレクはイニスの上得意だし、一度イニスがパクられたとき、デレクが弁護したらしいんだ。後から聞かされた話で、そのときの俺は漠然とムシャクシャしてただけなんだが。大体、地元の奴に頼めばいいのに、何で大陸の反対側から呼び寄せなくちゃいけないんだ。ああ、ああ、これも後で聞いたよ。ベガスには、お前みたいに中途半端に荒っぽくて、中途半端にツメの甘い奴はいないとさ。言ってくれるぜ、まったく。よっぽど信用してないんだな、この街のこと。確かに間違っちゃいないんだろうけどさ。
帰り際に、息子と女の写真を渡された。子は親父とよく似た、けれどもう少し軽薄そうな丸い顔の男だ。女の方はド田舎の派手な娘、って感じの、そこそこの美人だった。まだ18くらいだったんじゃないか。
安ホテルだから、隣のお盛んな声が聞こえてな。それが、どっちも男なんだよ。最悪だった。よっぽどコールガールでも呼んでやろうかと思ったんだが、疲れてた。本当に疲れてた。
イニスの店からちょろまかしてきたポケットウイスキーを――ぬるいままの奴だ――を飲みながら、ベッドで考えてたんだ。22と18。まだガキだ。ああ。お前とポーリーンのことを思い出してた。お前らのほうが、もっと若かったな。
そんな小便臭いガキが駆け落ちなんて、上手い事行くわけないわな。2500ドルを受け取ったときそう思ってたんだ。けど、俺はポーリーンのウェディングドレスを見たとき、こいつは幸せになるって確信してたんだよ。今でも、その考えは変わっちゃいない。本当だ。おかしな話だよな。ま、俺はそのドラ息子の事を何一つ知らないから、本当はなんとも言えないんだが。もしかしたら、意外とまともな奴なのかもしれない。
そう、結婚だ。思い当たって、おやじさんが必死になって探しまわす理由がやっと分かった。
ラスベガスは結婚のメッカ。ドライブスルーで式を挙げられる町なんて、そうありゃしない。ハンバーガーを頼むのと、人生の伴侶を決めるのがまったく同じレベルで存在するなんて。ダスティン・ホフマンも映画の後、ベガスへ来たんじゃないか? 違う? どうでもいいさ。とにかく、そこまで考えて焦ったね。もう手遅れかもしれない。推測すればするほど、最悪のパターンは増えてきて、底がどんどん深くなるんだ。こういう考え方は、お前のほうが得意かもしれないな。おまけに壁一枚隔てた場所から聞こえてくる、野太い声で喚くオルガスムスの断末魔はでかくなるばっかりだし。テレビのボリュームを上げても、ベッドが壁際にあるんだもんな。二、三回壁をぶん殴ってやったが、壁に掛かってた下手糞な絵が落っこちてきただけで、一向に収まらない。暑いのに頭から毛布を被って寝たよ。ああ。
トレヴァーを午前中に叩き起こすのと、1人で駆け落ちカップルを探すのと、どっちが大変か、俺には判断できなかった。結局昼前に飯を食ってから、昔『シーザーズ・パレス』でカクテルを運んでたステイシーって女のところに行った。4年前、彼女に頼んで、ホテルで掛かってたセリーヌ・ディオンのコンサートにこっそり入れてもらったよ。そういう、寛容な女でね。スロット・マシンの細工をする男たちを笑顔で見逃して、分け前を貰ってたのがバレて、クビになっちまったけどな。可哀相に。
今は小さなホテルのレストランでウェイトレスをやってるって言うのは、前にも聞いてた。住んでる場所も変わってなかったし、俺が朝ベッドの中から電話したら、いつでも来てくれって、変わらず愛想がいいのさ。いい女だ。香水の趣味が悪いのと、髪をブリーチし過ぎなのが玉に瑕だけどな。
ホテルのあるワシントン・アベニューからベガスの中心へ向かうんだが、一流ホテルばっかりのストリップには入らない。そのちょっと手前、サハラ・アベニューに彼女のアパートがある。ダウンタウンのあたりは小さなホテルとカジノが密集してる、どこも似たような場所ばっかりで、デジャヴなのか見間違いなのか、とりあえず記憶がごちゃごちゃになって目がまわる。慣れてる俺でも、ここはさっき歩いた通りなのか、それとも違うのかはっきりしなくなることがしょっちゅうだ。朝だからまだ人通りは少なかったが、暑かったからな。せっかく起き抜けにシャワーを浴びてきたのに、すぐ汗だくになった。
一度入る路地を間違いかけたが、何とかアパートを見つけた。相変わらず髪は傷んでたし、凄い趣味のトワレをつけてたが、彼女は元気そうだったよ。
夕方から仕事だって言うんで、飯を食ったのは4時過ぎだったな。いろいろと話を……それまで何してただと? 野暮なこと言うなよ。俺がメレディスに刺されたらどうする。まぁ、書かないって誓うなら話してやってもいいぞ。おまえの耳には毒だと思うがな。
馬鹿。だから、こう書いとけばいいんだよ。「久しぶりの再会に、彼らは親交を温めた」。
ベガスにはカップルが紛れ込む場所なんて山ほどある。けど、持ち逃げした金の額から考えて、一流所にそう何日も泊まり込めるような余裕は無いはずだ。隠れてるとしたら、このあたり。もしくは、とっくの昔に逃げたかだな。
「分かったわ」
サラダを突きながらステイシーは頷いた。さっきシャワーを浴びて、香水を振り掛けたばかりだったから、そんなことしたらこっちにまで匂いが飛んできて、硬い肉がますます不味くなった。
「二人組を探せばいいのね」
「聞いてみてくれないか」
汚いレストランだった。ステイシーの勤め先なんだが、本当に汚かった。駅の近くだったから、電車が通るたびにガタガタ、テーブルの上の砂糖が揺れるんだ。
「店とか、アパートの周り」
「でも、女連れなんでしょ」
店の制服は、彼女に似合ってたけど。デカい胸が、紺色の布の中で、こっちは電車と関わりなく揺すられてた。
「彼女達のところには来ないと思うけれど」
ああ、いい忘れてたが、ステイシーのアパートに住んでたのは女ばっかりだった。コールガールなんて言えば聞こえはいいけどな。要するにお手軽な女ばっかり。
「分からないぞ、そりゃ」
肉を飲み込むのに苦労しながら、俺は彼女と別れた後どうしようかって考えてた。さっさとここから出たかったんだ。いい女が、楽しい女とは限らない。
「3人でやるのが好きな奴らもいる」
「下品ねぇ」
店の奥から呼ばれて、ステイシーが立ち上がったのは幸運だった。
「どこに連絡すればいいの」
「ホテル・リツキ。ワシントン・アベニューの」
何とか全部食い終わって、女に倣って愛想よく笑ってやれば、すぐに頬へ向かって唇をすぼめてくる。支配人が睨んでやがったけど、無視した。そんなツラしなくても、こんな店、二度と来るもんか。
帰りの道で気付いたのは、昨日の2500ドルのことだ。トレヴァーの奴に金を預けるなんて、犬に肉を見せてマテをさせるのと同じくらい無茶な話だ。早い夕暮れで、通りは店が影を作ってまだら。日差しもオレンジになった分、気温は地道に上がってたのに、頭の中は氷でも突っ込まれたみたいに冷たくなった。
案の定、ホテルにトレヴァーはいなかった。あいつも、見栄っ張りだからな。デカい金が入ったら、デカいカジノへ行きたがる。奴が贔屓にしてるホテルは知ってた。『フーターズ』、そう、あっちこっちでチェーン店になってる。何年か前まで『サン・レモ』なんて名前で、日本人が経営してたカジノだ。トレヴァーの奴、店のウリにもなってる白いカットソーとオレンジのホットパンツが好きで、カードをやりに着てるのか女を見に来てるのか分かりゃしない。
それに、ストリップにあるホテルのカジノは広いだろう。別にいかさまをやろうって気は更々ないんだが、それでもギャンブルはやっぱり、人がごったがえしてるところの方がいい。なんだか、安心するんだ。
もちろん、そのままタクシーで飛んでいったさ。壁一杯に椰子の木を描いた白い建物が見えて来るまで、あいつを外に連れ出してぶん殴ることしか考えてなかった。夜のストリップは電飾だらけで本当に綺麗だけど、見る気にもなれない。だって2500ドルだぜ。臨時収入にしちゃそれなりだが、カジノなら一晩であっさりなくしちまう額だ。
建物の中は人でごった返してた。今の時代、大手のカジノっていっても別にそんな高級な奴ばかりが来てるわけじゃない。終末だから数こそ凄かったが、質は大したことねぇよ。前、ジェムが嘆いてたな。フランク・シナトラが死んだ時点で、ベガスだけじゃない、アメリカの全てが家族向けになっちまった。クールな時代に生まれられなかったのが、凄く残念だ、とさ。いつの時代でもいるもんだね、昔を懐かしむ奴は。
建物自体は鬱陶しいくらい混んでたが、その客はみんな、カジノで楽しむ前に腹ごしらえをしようとしてる連中ばっかりだったんだな。ホテルの中のレストランや、ガイドブック片手に評判の店を探しに行くのさ。その証拠に、ロビーの奥へ行けば行くほど人は少なくなって、カジノの分厚いドアの向こうを覗いたら、案外人は少なかった。
ブラックジャックのテーブルの前をうろうろしてるトレヴァーを見たときは、手遅れだったかと焦ったね。ぼんやりアホ面してる奴の肩を捕まえて、その場で引っ叩いてやりたくなったけど、そんなことしたら当たり前だがベガス中のカジノでブラックリストに載っちまう。何せ健全第一っていうのが売りだからな。
「トレヴ、トレヴァー」
声を掛けても、奴は振り向きもしない。騒がしさのせいで聞こえないのかと思って、数歩のところまで近づいてもう一度叫んでも無視だろう。本当にムカついてきて、ちょっと乱暴に背中を叩いたら、奴は持っていたジム・ビームを半分くらい零して間抜けな声を出した。
「このロクデナシ野郎、金はどうした?」
俺が、周りが振り向かないギリギリの声で怒鳴っても、トレヴァーは今初めて会ったみたいな顔でまじまじ見つめてくるだけだ。またクスリでもやってるのかと思ったが、それにしちゃ落ち着いてる。
「おい、トレヴァー」
「あぁ、リン」
イライラしたまま俺が何度も名前を呼んだら、やっとのことで奴は口だけ動かした。
「金だって?」
「2500ドル、さっき貰った」
「100万ドルの景色だ」
薄暗い店の中で、お決まりの衣装を着たウェイトレスが行ったり来たり。いつもなら、奴はあのオレンジのショートパンツが近くを通りかかるたびにチラチラ、チラチラ、そのおかげで有り金全部スったりするんだけどさ。けどそのときは、瞳孔が開いたみたいになってて、いつも以上に気持ち悪い顔してやがったよ。薄暗い照明のせいじゃない。フロリダ風を気取ってる雑なホテルの空気にボケてるわけでもない。俺が考えてる間に、またトレヴァーは元の位置に顔を向けて、何か言ってる。
「あの立ち姿、太ももを見てるだけでも、十分100万ドルの価値はある」
ただでも周りはうるさいし、奴の言葉は酷く口ごもってて聞き取りにくいものだった。けれど、俺が台詞を理解したのは、さっきから奴がじっと見てる女の顔のせいだった。こんなこと、フーターズガール相手にブラックジャックでバカ勝ちする以上にありえない話さ。(知ってるか? あのホテル、セクシーな女共相手にゲームをやったら、ダブルダウンは10 か 11だけ、それもスプリットのあとは出来ないし、ソフト17ヒット、サレンダーは無し、BJは1.2倍って……要するに、最終的には尻の毛までむしられる仕組みになってるんだよ)ああ。そうさ。探してる女の方が、カクテルを運んでやがったんだよ。最初は時差ぼけがまだ治ってないんじゃないかって考えたけど、何回見ても間違いなかった。オレンジのパンツを穿いたジェニーだかジェニファーだかが、盆を片手に歩き回ってたんだ。
壁に掛かってる、聞いたこともないような名前のビールの看板の前を通り過ぎていくところだった。写真で見たよりは美人だったし、確かにあの腿はなかなかいい感じだった。歩き方が決まってるから足が長く見える。足首も細い。けど、2500ドルの価値があるようには思えなかったな。
まだよく動く足を凝視してるトレヴァーをその場へ置き去りにて、もう少し近づいてみた。よく見たら、派手な化粧でごまかしてるけど、やっぱり顔立ちが他のウェイトレスと比べてもぐっと幼くて可愛らしい感じでさ。健全なチアリーダーって売り込みのフーターズガールを名乗るにしても、まだ更に背伸びをしてるように見えるくらいだった。
お決まりのパターンってわけさ。結局金は底をついた。男はトレヴァー並みのロクデナシだ。奴のほうがまだマシなくらいだよ。少なくとも甘えちゃいない。自分の稼ぎで女を養ってる。結局女の方が働きに出る羽目になって、ここで元気一杯、チアガールをやってるってな。そんな情けない話もないもんだが、意外といるんだな。ヒモだかジゴロだか。こういう繁華街には、特にウジャウジャ、掃いて捨てるほどだ。
まず、男がいないか探した。そういうロクデナシで、中途半端に大儀を感じてるヒモ初心者に限って、心配だ何だって言いながら女の周りをうろついてるもんだからな。広い室内をぐるっと歩いたけど、見たところじゃいなかったが油断は出来ない。人が少ないって言っても、やっぱり大手だからな。それなりに客はいたから、全部が全部確認できた訳じゃない。
女は相変わらず、尻を振りながら酒を運んでる。スロット・マシンにしがみついてる冴えないおっさんのところに、似合いもしないトロピカルなカクテルを持っていくんだけどさ。マシンの間の狭い空間で飲み物を差し出そうとして身を屈めたとき、ちょっと、胸がたわむのさ。あの重たい動きは、絶対パッドなんか入れてない。フーターズガールの採用基準は、何でも美人で巨乳でフレンドリー、らしいじゃないか。お前みたく変にフェミニストを気取ってる奴が聞いたら怒るだろうがね。ありゃ、誘ってるように見えても仕方ないな。というか、見られてるってことを無意識に自覚してて、だからこそずーっと、ポーズを作ってる。もっとも本人が思い込んでるほど周りは見ちゃいないんだが、そういう女は本当のところブサイクだったとしても、しない女よりはずっといいと思うね、うん。いじらしいや。
さて、こういう場合はどうするべきか。これがそこらのレストランだったら、やぁ、こんちわ。君、可愛いね、で済ませられるわけなんだが。まさか天下のフーターズで、店の目玉の美女をナンパするわけにも行かないだろう。それに、どこに男がいるのかも分からなかったから、うかつな事は出来やしない。
何とか接触する方法を考えながら、それからしばらくはブックメーカーの辺りで酒ばかり飲んでた。ああ、サイコロはしない、あっちをやるとキリがなくなるからな。それくらいは自分でも分かってるよ。女はスロットの周りで主に酒を配ってて、それを目で追いかけてたから、あんまり集中できなかったしな。でっかいモニターがあって、向こうからは見えにくいがこっちからは良く見える。画面では最初、NBAの、どこだったか、ああ、確かデンバー・ナゲッツとオクラホマシティ・サンダーの試合をやってた。ナゲッツが僅差で勝ったけど、大した試合じゃなかったな。それよか後から入ったシカゴ・カブスとピッツバーグ・パイレーツの中継の方が面白かった。あれ、どうなったのかな。結局。カブスが2点リードしてたんだよ、くそっ。去年のカブスは散々だったから、今度こそ勝ってもらわないとな。サミー・ソーサがいなくなってから、カブスはおかしくなっちまったと思わないか。
そりゃあ、勿論考え付いたさ。3時間も立ちんぼしてたんだからな。野球の3回裏、カブスが攻勢で1アウト2ストライク2ボール。ぱっと、急に頭の中で何かがはじけるような、これがインスピレーションって奴なんだろうな。
俺は自分の労働・雇用関係に国家権力が介入してくる事は断固反対だ。だから、オバマの野郎が大統領になってがっかりだよ。そういや、お前は喜んでたな。知ってる知ってる、ゲージュツ家なんて奴らは、どいつもこいつもリベラリストの民主党だって、昔から相場が決まってるんだ。
違う、オバマのことなんかどうでもいいんだ。要するに、女には警察が大好きなあの戦術を使ってやろうと思ったのさ。なんだっけ、そう、「良い警官と悪い警官」って奴だな。
俺としては、一番最初の接触は(というか、二度と会わないんだろうが)男抜きで行きたかった。幾ら女に稼がせてるクソッタレとでも、身に危険が迫ったら、団結しちまうだろ。メロドラマを見る気はサラサラないし、第一それじゃあ依頼された話がポシャっちまう。フーターズガールのシフトは知らなかったが、まだホテルの名前が『サン・レモ』だった時代に、ディーラーの一人と知り合いでさ。チビの日本人だったけど、いい奴だった。フーターズに変わったときクビになっちまって、今はどこにいるのかな……とにかくそいつが、よくホテルの裏口から建物の中に入れてくれたんだ。人気のスシ・レストランがあってさ。平日の夜でもバカみたいに混んでたんだが、そこから入ると厨房から直接客席だから、すぐに座れた。珍しがりやの女を連れてくときは、大概そこで食ってたよ。本当にウラ、って感じの通路なんだが、従業員は全部そこから出入りする。夜勤に入るディーラーや仕事が終わったカクテル・ウェイトレスと、よくすれ違ったよ。
で、その裏口って言うのは、駐車場に直接繋がってる。そこで待ち伏せしようって寸法だな。普通にとっ捕まえて車に押し込んだら手っ取り早いんだけど、男はカジノじゃなくて、駐車場で待ち構えてる可能性もある。もしそうなら、また方法は考えなくちゃいけない。
大体、警備の厳しいこの場所で、あんまりデカい騒ぎを起こすのは、どう考えても無茶だ。そこで出てくるのがさっきの作戦って、わけさ。
決まれば後は、女が出てくるのを待つだけだ。渋るトレヴァーを引っ立てて、駐車場へ連れて行く。そこでまた立ちんぼだが、シフト知らないんだからそりゃ仕方ない。俺が昨日飲み残したウイスキーを飲んでる横で、トレヴァーはブツブツ言いっぱなしだ。あとちょっとで、気が狂うところだった。いや、分かるけどさ。あんまりだよ。そもそも最初に金を手に取ったのは奴なのにさ。
ラリった愚痴と、酒と、ステイシーの香水の匂いで頭が痛かったんだ。普通に考えたら、こんなバカな作戦通用しないって分かりそうなもんだけどな。水鉄砲でティーガー戦車と戦おうって位無茶だよ。
それでも、黄色っぽい明かりがくるくる回ってる駐車場で、それから1時間ばかし待ってたかな。足はむくんでくるし、とことん暇だ。唯一話し相手になるはずの人間は意味の分からない独り言をずっと言ってる。時々店の奴らが出入りするんだけど、こういう場合は堂々としといた方が、反って怪しまれない。痛い視線をなんとも思わないふりで、流すんだ。知るかよ。厚顔だって? バカ、しょうがないだろ。金は受け取っちまったんだから。俺たちみたいにロクなコネも持ってない奴は、せめて仁義だとか何だとかを大切にするんだ。そうしないと、次から信用されないからな。
眠そうだな。目を閉じる代わりに、なんだい、ちょっとは唇を閉じな。すっごい情けない顔つきだぜ。ふん、ポーリーンが言ってた通りだ。何かを顔のところに持ってこないと眠れないって。ついでに指しゃぶりしたら、それでもう、ライナスとおんなじだぜ。
寝るか? ったく……頑固な奴だ。話なら、また明日聞かせてやるよ。もう……2時前だ。大人が布団に入るのを躊躇う時間じゃない。
ん、なんだ、ちょっと熱あるんじゃないか? 酒のせい? それにしちゃ目が赤いぞ、ウサギみたいだ。ああ、あんな冷水浴なんかしたのがマズかったかな。ちょっと待ってろ。
冷えてきたしな。窓、閉めるぞ。ただでもインフルエンザが流行ってるんだ。毛布、これしかなかったけど、いいな?
へぇ、ポーリーンの……
ああ、こら、泣くんじゃない。なんだ、何があった。何でここで泣くんだ。俺は別に、パトラッシュが死んだとは一言も言ってないぞ。毛布? 匂い? イメージ? 何言ってんだ。ちょっと落ち着け。
お前さっきから何飲んでるんだ。おかしいと思ったら……エヴィアンなわけあるもんか。ジンだよ、ジン。よく見ろ、瓶が違うじゃないか。というか、ワザとだろう、なんて野郎だ。エヴィアンはこっちだ。床でコケてる……あーあ、カーペットが水浸しだ。知らないぞ。
ヘミングウェイじゃないんだから、そんな自分から死にに行かなくてもいいじゃないか。泣くなって。ほんと、これだから神経の細い作家先生は困るよ。こっちよこせ。ったく、どれくらい飲んだのかな……何だこれ、甘いな。オールド・トム・ジン? へぇ、どおりで。こんな甘いの飲んでたら、また太るぞ。
舌が回ってないしさ、自分で分かってないだろ。寝ろ。頼むから寝ろ。泣くな。ったく、ジャッキーでもこれだけ駄々捏ねないぞ。
話の続きだとぉ? 無茶言うな。寝る時間だ。おやすみだ、Hush、夢の中に行け、しっしっ。
明日、酷い顔になるぞ、そんなに泣いたら。もう目が腫れてるのに。目だけじゃない。顔も真っ赤じゃないか。なんだって。何がもう大丈夫、だ。そんなわけあるか。ふん縛ってでもベッドへつれてくぞ。
ああもう、話したら寝るんだな。本当にジャッキー以下な奴。泣く子と酔っ払いにゃ勝てないって話か。どっちもだったら、もう最悪だな。世界だって滅ぼせる。
どこまで話した。ああ、駐車場で待ち構えてたところか。来たよ。女は来た。フーターズガールから、ぴっちりしたTシャツと、同じくらいタイトなジーンズを着た年相応の女に変身だ。栗色の髪は、黄色の警告ランプに照らされてブロンドに見えたけど、ヘアースタイルがカジノの中にいたときと同じだったから、すぐ分かった。
一目見たらその重さが分かる、分厚い鉄の扉を押し開けるのにも思い切り腕に力を入れて、真顔になるような非力でさ。ドラ息子の気持ちも分からなくはないよ。目の前で、ああやってドアを開けるのに苦労してたら、ちょっと遊びなれた男なら、近づいてさっとドアノブを引っ張ってやってさ。向こうの策略かもしれないってのには、気付きもしない。策略っていうのはアレか。女は無意識にそれをやってるんだから、始末に終えない。
辺りを見回すことなく、女はまっすぐ駐車場を横切っていった。通りすがりの知り合いにちょっと挨拶したり、その程度だな。そのとき俺は、この場所に男がいないって確信したんだ。なぜかって言われたら困るけど。うーん……凄くしっかりした歩き方で、そのまま駐車場の外に出て行こうとしてたんだけどさ。分かるだろ? 分からない? 何ていうのか……男がいるような態度じゃないんだ。しゃきっとしてて。
俺は隣で唸ってるトレヴァーの肩を小突いた。
「おい、あの女だ、さっきおまえが見てた」
「女」
「ジャレットの息子が連れまわしてる例の」
「あー」
馬鹿みたいに間延びした声を出したまま、しばらくトレヴァーは口を開けてた。飲み込みの悪さ、嫌になるよ。さっき段取りを打ち合わせたっていうのに。そうこうしてるうちに女はどんどん離れていく。
「誘ってこいよ」
「それもいいな」
今のおまえみたく、呂律の回らない声で奴は言った。
「ああいう女は、乱暴にしたほうが喜ぶぜ」
「乱暴に」
それで、トレヴァーはやっと。黄色い眼で俺をまじまじ見つめて、今更不機嫌になる。
「俺が行くのか」
「どう考えても、お前の方が適役だろ」
そろそろ外の照明に照らされて、全身が青白くなってくる女を横目で睨みながら、俺はとにかく焦ってた。
「鏡で自分の顔を見てみろ。見境なく女を襲うジャンキーはどっちだ? 助けられたとき、うっかりよろめいちまう顔は?」
時には厳しくても、事実を言ってやらないとな。結局、ぶつぶつ言いながら奴は女に近づいていった。
予定通りさ。奴は役者だよ。一発ひっぱたかれても、女の腕を離そうとしなかった。二人がもみ合いを始めて、女が悲鳴を上げる寸前に、俺は思いっきり走った。スーツの内ポケットで酒瓶が撥ねてさ。ちょっと零れたけど、全力疾走してたら気にならなかった。息切れさえしてなかったら、最高だったのにな。やっぱり煙草のせいかなぁ、これ。
スーパーマンも真っ赤になるくらいの勢いでさ、へっ、『何をやってるんだ』、なんて。トレヴァーはすぐ退散さ。最後振り返ったとき、物凄い顔で睨みつけてきやがったが、あれは演技じゃなかったな。だから、余計リアルになった。
女は濃い化粧でもごまかせないほど真っ青になって、唇を震わせてた。マスカラで塗り固めた睫毛をひっきりなしに動かしてさ。こう、ぎゅっと手を胸の前に組み合わせて身を縮めたまま、声も出せないんだ。それを見たとき、俺はなんだか、ガックリ来ちまって。
近くで見たら、それなりに美人だった。いや、これからどれだけ良くなるか、発展途上ってところだな。まだほんのねんねぇなのさ。
それまでだって何かやましい事を期待してたわけじゃない。けれど、こんな女がベガスで、アテと言えば同じくらい世間知らずな恋人だけ、迎えに来てもらうこともなく夜に働いてると思ったらさ。切なくなっちまった。
だから俺が「こんな場所で一人、物騒だぞ」って言ったのは、嘘じゃないんだ。女は動く事すら出来やしない。何度も何度も頷いて、肩まであるストレートの髪を揺らしてた。
「何もなくて良かった」
「わたし、その、ここの従業員なんですけど」
蚊の鳴くような声で女は言った。さっきまで、大胆に尻を振って歩いてたのなんか嘘みたいにさ。
「今まで、こんなことなくて」
「君みたいな美人が? よく無事だったな」
そんな歯が根こそぎ浮きそうな台詞で口説くのも、ああ、嫌になる。そんなこと言わなくてもさ、女の目はもう、俺を信用しきってるんだから。自慢じゃないって。ま、この前新聞に載ってたんだけどさ。ティーンエイジャーから有閑マダムまで、それぞれの年齢の女が惚れる要素っていうのは10個ずつあって、俺、そのどれにも7つ以上当てはまってたんだぜ。
今更何事かと思って近づいてきた警備員を追っ払ってさ。しばらく女は、俺の目をじっと見てた。すぐ傍を車が通り抜けようが、出車のサイレンが鳴ろうがお構い無しで。縋るような目つきで、じーっとな。
「送ろうか」
あとはこう言えばいいだけさ。良心の呵責? うるさいな。知ってるよ、それくらい。
女と二人、ネオンだらけの通りをぶらぶら、まだ日も変わってないんだ。週末の夜のトロピカル・アベニューは人でごった返してた。右には『MGMグランド・ホテル』のライオン、左には南国風の『トロピカーナ』、交差点の向こうには夢の国『エクスカリバー』で、その隣が『ニューヨーク・ニューヨーク』、偽の自由の女神の台座には、彫ってあるのかな。貧しく不幸な者たちを我が許へ与えよ、我こそは黄金の扉の前で光を掲げるものなり。へっ、金ぴかの内側に入ったはいいが、次に扉を出るときは身ぐるみはがされて、逆立ちしたって鼻血も出ないスッテンテンさ。
歩道橋を渡ってるとき、彼女は素直に話を始めた。見ず知らずの男が神の使いかスーパーヒーローだと信じてさ。話はそれがまた、ありふれてて、予想していた通り。男は会社で出会った。金回りも良くて、いつも甘い言葉ばっかりかけてくれた。優しかった。駆け落ちしようって提案した。夢ばっかり見て養っちゃくれなかった。金がないから結婚はまだ出来ないって言った。だから女は働きに出た。けどなぁ……分かっちゃいるさ。けど、せっかく目の前でキャメロットの夢の城がライトアップされてるってのに。こんな辛気臭い話、ああ、世知辛いよ。
「そんな男、さっさと別れたほうがいい」
嘘をつくつもりで喋ってたのに、口から出るのは全部本音なんだ。結局、どっちにしても同じ事を言ってるんだ。事実なんだ。本音も、建前も、やらなきゃいけないことも、これから起こることも。
「でも、彼はいい人だから」
ソープオペラの脚本を読んでるみたいだった。男と女が二人っきりでいる場所にしちゃ、十分すぎるくらいロマンチックなのに。ストリップの方角で赤、青、白、黄色、緑、宝石箱をひっくり返したみたいなネオンがひっきりなしに光ってる。下を歩いてるときよりも凄く近くて、綺麗だ。足元の車道じゃびゅんびゅん車が走ってて、だけど歩道橋の上は人通りも少ないし、妙に静かでさ。周りが光ってる分、こっちは薄暗いだろ。風がゴォゴォ言ってて。なぁ、メロドラマなら女にキスの一つや二つしてもいいんじゃないか。けど、よくジャッキーがするみたいに、手をもぞもぞ組み合わせて、ずっと俯いたまんまの女に、そんなことする気にはとてもじゃないけどなれなかった。
「恋人を働かせて、自分はのうのうとしてる奴が?」
「彼、働きかたを知らないんです」
働きかたを知らない? 馬鹿野郎、男なら、道路工事でもケツ売ろうとも何してでも、女を養うのが当たり前じゃないか。ましてや、相手はこんな子供だ。たった18だぞ。
なぁ。お前はポーリーンと結婚しようって思ったとき、ちゃんと養う方法を考えてたか? 幸せにするって、決心をつけてたか?
知ってるよ。お前は精一杯努力した。考え方がトチ狂ってて、最後のツメがちょっと甘かったけどな。少なくとも、努力はしたわな。その事についちゃ、もう、今更だ。俺が言う事じゃないよ。
女はずっと話し続けてた。今まで言えなかったことを、全部吐き出すんだ、ぺらぺらぺらぺら。俺は黙って聞いてた。おんなじような話ばっかりだぜ。聞いてるほうにしちゃ、愚痴にしか聞こえやしない。換気扇のファンがどれだけ回っても、絶対にその場所から動かないのと一緒だよ。
その状況を動かす口上は考えてたし、実際言う事なんて最初から決まってた。高い場所を吹きぬける風は強い。今までちょっと暑いと思ってたサマーウールのジャケットがぴったりだって感じるくらいには。それだけ吹いてるのに消えない女の声は、かなり切羽詰ってて、それを、俺は遮れなかった。聞いたって無駄だし、何も変わりゃしない。それどころか益々悪化する。だって今から俺は、愚痴って文句を言って、それでも愛してるって必死で口にする女が掴んだ唯一の希望の綱を引き上げるんだ。
結局、また暑苦しい下界に戻るまで、俺は何も言えなかった。
「別れろよ。でないと、どうなっても知らないぞ」
言っても、女は俯いてバッグを握り締めたままだ。そのまま視線を下に降ろしたとき、俺は、てっきりサンダルか何かだと思い込んでた女の足元にあるのが、ぼろぼろになったスニーカーだったって気が付いたんだ。パナカから逃げ出してきたとき履いてきたのを、まだ使ってるんだって明らかに分かる、安物の、真っ黒になったスニーカーさ。思わず俺も、言葉を飲み込んじまった。
汚い靴の中で居心地悪そうに足を動かしながら、女は口を閉じてる。俺はもう一度、機会を掴んで喋ろうとして、けたたましいクラクションを鳴らしながら通り過ぎるBMWに妨害される。
「キースの親父さんが、息子を探しまわってる」
別に、女が今までやってきたことに同情してたわけじゃないんだ。けど、目の前にいる、髪を振り乱してツラを上げた女の目。やっぱり可哀想だって思ったな。だからって、逃がしてやるとか、そんなことは考えなかったけれど。
「今、男と別れないと、もっとえげつないのが来るぜ」
警察だとか、探偵だとかな。あいつらは自分たちが公の存在だって思い込んでるから、やることが容赦ない。少なくとも俺みたいに、話を真面目に聞いちゃくれないよ。
「キースの?」
「ああ」
「あなたは、それじゃあ」
後ずさりして、女は唇を噛み締めた。もうここまで来ちゃ、俺も諦めて肩をすくめるしかなかった。
「連れ戻しに来た。息子の方だけ」
「私は言わない」
駄々を捏ねるみたいに首を振りながら、女は足を踏ん張った。
「別れるなんて」
「俺はまだ、ハト派なんだ」
クラックを売ってるバカがラリった声で冷やかすのなんか、無視だ。奴だけじゃない。ストリップを歩いてる奴らは、腫れ物に触るなって言わんばかりに俺たちを避けてる。
「悪い事は言わない。さっさと田舎へ帰るなり、留まるなり、とにかく奴から離れろ。そうしないと」
そうしないと、どうなる? いや、別にどうにもなりゃしないんだ。ハッピーエンド? 流石にそれはない。けれど、時間を短縮するかしないかの違いだけで、結末は一緒さ。
「いや」
首を振るたびに、ムースを使った髪が硬い動きで揺れてる。
「絶対にいや。別れない」
オブセッションって言うのか、うん。なんとなく、ピンと来ちまった。女はずっと嫌だ嫌だ、顔を顰めてる。彼女は別れたくないって思ってるんじゃない。そう思い込もうとしてるんだ。何だかなぁ……女って、そこがよく分からないんだ。そんな暗い顔する位なら、さっさと別れちまえばいい。
ウディ・アレン? そんなの観たって、分かりゃしないよ。映画みたいに、上手く行くわけない。
「じゃ、キースの居場所だけでも」
「言うと思ってるの?」
もう大分後ろへ下がって、それでも目だけはまだ睨みつけてくる。芯の強い女さ。
「私は、愛してる。彼も、私のこと」
泥沼だ。ああ、本当に、もうちょっといい方法がなかったもんかって、未だに思うよ。みっともないとか、そういう問題じゃない。根本的に、方法が間違ってる。けど、他にどうすりゃいい。そう簡単にゃ無理だよ、男と女を引き離すなんて。あのとき、電話が掛かってこなかったら、今頃女はまだフーターズで尻を振ってたはずだ。
電話はステイシーからだった。仕事が終わって早速、アパートの前で客を待ち構えてた女たちに聞いたんだとさ。結果は、お察しの通り、って話。
「見つかったよ」
まだ鼻声で何か言おうとしてたステイシーの声を無視して、俺は目の前の可愛い女に言った。
「奴は見つかった」
「キース?」
目から険を取った後、残ったのは当惑だけだ。そりゃそうだろうな。
「ついさっきまで、サハラ・アベニューにいたそうだ」
「サハラって」
まだ事態を理解できないで、女はきょとんとした子供っぽい顔で、一歩だけこっちに戻ってくる。
「ダウンタウン?」
「そう。通りの連中からは、スコーピオン・コートなんて名前をつけられてるアパートに」
サハラのサソリだなんて、洒落た名前だと思うだろ。けど、これはその日の昼にベッドの中でステイシーから聞いたんだけ、ここにいる女の殆どがクラミジアだとかヘルペスだとか、とにかくとんでもない話だよ。ステイシーは? 本人は笑って、綺麗な体だとか言ってたけどさ。こっちは笑えやしないよ。おっかないから、ホテルに戻る前、ドラッグストアで軟膏を買って来たくらいだ。結局なんともなかったから、セーフだったんだろうな。
「2週間くらい前から、しょっちゅう姿を見せてるらしい。金回りがいいからって、みんなはっきり覚えてた。一部じゃ、すっかり有名人だとさ」
正真正銘の阿呆としてな。
「うそ」
きっと、そりゃ魅力的な顔で、女はこっちを見据えた。
「そんなわけないじゃない」
「なんなら、連れてってもいい」
俺は出来る限り優しい顔で言ってやったんだけど、女は明らかに動揺してた。思い出しても、哀れな格好だったよ。タイトなシャツとジーンズ、ボロい靴でさ。歩道の真ん中で必死に足を踏みしめてるんだ。
「だって、キースは……私が帰るまで、いつも部屋で」
怯える女へゆっくり首を振る自分が、心底最悪のサディストに思えて、いい気分って言っていいのか、悪いのか。なんとも複雑だったね。
「写真を見せたら、間違いなく本人だって。それに、相手は一人じゃない」
そう、奴さん、千人斬りとまでは行かなかったけど、5人くらいの女の間をうろうろ、とっかえひっかえしてたらしいんだな。
「そのうちの一人は、その」
気が引けた。これを言うのは本当に気が引けた。
「梅毒だと」
女がふらついた理由は、なんだったと思う。絶望か、驚愕か、思い込みたい嘘への怒りか。結局、もう一度女はその場でしゃんと立った。大丈夫さ、それだけ気丈なら、これから先も、きっと生きていける。
「病院行ったら、すぐ治るよ」
今考えたら間抜け極まりない慰めの言葉を無視して、女はストリップの中心に向かって歩いていった。一度も振り返らなかった。
地味なシャツが眩しいネオンの中に消えるまで、俺はずっと薄っぺらい後姿を見送ってた。後になって、嫌な汗が脇の下に出てきたよ。向かいに見えてるミニチュアの自由の女神はライトに照らされて自分だけ輝いてるけど、下を歩く哀れな女のことなんか知らんぷりだ。不幸なものよ、ここへ来たれ、じゃないのかい? 薄情なこった。泣けてくる。
ああ、見送っただけだ。後は追いかけなかった。同情……? へっ、残念だけど、俺はそこまでいい奴じゃないよ。これ以上関わるのが、面倒くさかったんだ。どっと疲れちまって。
ホテルに帰ったら、トレヴァーが恨めしそうな目つきで自分の部屋から顔を出した。
「連れてくるんじゃなかったのか」
悪い事は何も言わずに扉を閉めたのは、俺の慈悲だ。みんなの人気者チアリーダーが梅毒なんて、そんなのやりきれない。大体、俺が連れてきたらどうするつもりだったんだ。寝るつもりだったのか。いや、あいつならやりかねないか。あいつはそういう、デリカシーがないからな。
その晩は、ホモ野郎の声も聞こえなかった。時々外を通る車のエンジンが聞こえる以外は、ほんと静かでさ。ベッドの上でごろごろしてても、何だか眠れなくてよ。あんまり寂しかったから、メレディスに電話しようと思ったくらいだ。でも時計を見たら2時過ぎ、向こうは明け方だろ。
ああ、やっぱり気にはなったよ。さっき別れた女。男のところには、帰れないだろうさ。きっとまだ、ネオンの下にいるんだろうな。一人ぼっちで。それに……それに、ポーリーンと被るんだな。怒るなよ、泣くなよ。だって、実際に思っちまったんだ、仕方ないだろ。いや、今あいつがそんな風にどっかをさ迷ってるって意味じゃない。お前と付き合ってた頃のポーリーンだ。当たり前だけど、時々喧嘩してたじゃないか。そんな時、妹はよく俺のところに来てさ。何にも言わずにしくしく泣きやがるんだ。助言とかを求めるのは滅多になかったよ。ただ泣いてるだけだ。それでもう、涙が乾いた頃にはすっきりするのさ。
あのときのポーリーンには俺がいたけど、病気をうつされた女には今、誰もいない。おかしいよな。こんな事。
今のポーリーンも……いや、俺は、そんなこと考えてないんだ。あいつは強いから。うん、そう思ってる。大丈夫だ。
それから数日は、カジノに行ったり、いろいろと。けどさ、やっぱり何か引っかかる事があったら、楽しい事も楽しめないよな。
カジノに入り浸ってる間に、インフルエンザが蔓延した。カブスは1回勝って1回負けた。その負けた試合が始まる直前に意気揚々とブックメーカーのところへ行って、2000ドルつぎ込みやがったんだよ、トレヴァーの奴。残りの殆ども、カードに消えた。さぁ、こうなったらいよいよ、あのクソッタレのガキを捕まえて親父さんに引き渡さないと。
ステイシーからの留守電が入ってたのに気付いたのは、俺の財布もそろそろ心許なくなってきた日の晩だ。あんまり金がないから、映画館に行ってたんだ。くだらないポルノと古い映画を交代で流してるような、きたねぇ……うん、タイロン・パワーが出てた、闘牛士の映画だった。
「ねぇ、また彼が来てたらしいの」
パワーが牛の角に引っ掛けられて空高く跳ね上げられる、一番いいところなのに、あいつは電話の向こうで一人興奮して、まくし立ててくる。終いにはこっちに来てくれ、ってねだるような声でさ。仕方ないから行ったよ。スクリーンにジ・エンドの文字が出てからな。
仕事から帰ってきたばかりだったのか、ステイシーはまだ、ちょっとよれた黒いストッキングを穿いてた。問題は、それ以外に着てるのがブラジャーとパンツだけってことなんだけどな。
「何で引き止めとかなかったんだ」
その格好で顔を出したら、確実にあと1時間はここにいたはずなのに。ステイシーは悪びれもせず、ベッドに腰掛けてカラカラ笑った。脚をちょっと上げて、ストッキングを脱ぐのかと思ったら、折り返しの部分を引っ張るだけなんだ。
「私が帰ってきた頃には、もういなかったんだもの」
そんなことされたら、しょうがないよ。俺もその隣に座るしかない。えげつない香水に、日焼け止めの匂いが混ざってさ、げんなりしちまった。
「まだ来てやがるのか。連れの女は?」
「結局、逃げられちゃったみたいね。ここへ来て、散々していったらしいわよ」
ほらみろ、やっぱり別れて正解さ。ジェニーかジェニファーか、とにかく彼女の幸せを祈るよ。
「それで、彼が言うには」
部屋に入ったときから、電気はついてない。明かりは、最小限に絞ったベッドランプの光と、窓と同じ高さにある信号機の三色だけだ。気が付けば俺の太腿に乗ってたステイシーの手がじりじり上がってきてさ。
「おい」
「あさって、大会に出るんだって」
ジップを親指と人差し指で摘んで、こう……あの手つきで、匂いも何も気にならなくなる。
「大会?」
「そう。ホテルのね」
そこから先、一番大事なことを聞こうと思ったのに、あいつは身を屈めて自分の口をふさいじまった。引き離すのはもったいない。病気? 口だけなら、うつらないだろ? ……いや、口だけじゃなかったけどさ。大丈夫だって、今、なんともなっちゃいないんだから。
馬鹿野郎、恋人がいなくなってよっぽど寂しかったのか、馴染みだったクラミジア持ちの女に喋っちまったらしいんだな。うっかり。
「何の大会だよ」
「知らないけど、凄く張り切ってたって」
知らないって、わざわざ来てやったのにそれはないだろうよ。自分のやりたいことだけ済ませたら、そんなそっけいない台詞だろ。おまけに熱が収まれば収まるほど、擦り寄ってきたときに鼻をつく香水と日焼け止めと、腋臭の匂いがたまらなくなる。結局ベッドから逃げ出して、シャワー浴びながらいろいろ質問攻めにしたけど、結局分かったのは、開催日は2日後、場所はラスベガス・ヒルトンってだけだ。
「ヒルトン?」
「パラダイス・ロードの」
「知ってるよ」
俺は今まで行った事なかったんだけど、外観だけ見たら地味なホテルって印象しかなかった。ストリップから一本通りが外れてるしな。
端から期待しちゃいなかったが、流石のステイシーでもヒルトンの知り合いはいなかった。まぁ、ホテルに潜り込むってのはムシが良すぎるよな、幾ら何でも。結局直接ホテルに押しかけて、見つけ次第捕まえる事にした。正直、早く家に帰りたかった。酷い匂いばっかり嗅がされてたら、なんだかさ。メレディスがいつも付けてる「アン ジャルダン スュール ニル」って香水が、無性に恋しくなっちまった。だからもう、あのアホタレを送り届けて金を受け取ったら、その場でおさらば。メレディスにコートを買ってやろうって、そのときは確かに思ってたんだよ。
トレヴァーがあんまり面倒くさがるんだ。ほんと、何とかして欲しいね。金だけ使って後は知りませんなんて、そうは問屋が卸さねぇ。行くバスの中でもまだグダグダ言ってやがったが、一応9時半くらいにはホテルに到着した。すぐ隣にゴルフ場とLVCCがあってさ、要するに、デカい会議をセンターでやったビジネスマンが、帰りがけにゴルフとカジノで汗と金を落として帰るって、そういうホテルなのさ。あんまり俺には、縁のなさそうな場所だわな。
いや、バスの中も混んでたし、みんなやたらとデカい荷物を持ってたから、それなりの大会なんだろうなとは思ってたんだけど。バス停を降りた途端、めまいがしたね。だって、ホテルの周辺を歩いてる奴みんなが、赤白黄色、ド派手なジャンプスーツと長いもみ上げに、サングラスだもんな。目がチカチカした。
エルヴィス・プレスリーの物まね大会だって。なんのこっちゃない。ラスベガス・ヒルトンって言やぁ、エルヴィスがショーを開いてた場所なんだよ。入り口の前には銅像まで建ってる。大体、ベガスを歩いてたら30分に一回は道端でパフォーマンスしてるダックテイル・ヘアーの野郎を見かけるしさ。こんなに大挙しなくてもいいだろう。受付に並んでるのだけで5、6人。入り口の脇で煙草をすってるエルヴィス、暇そうにうろついてるエルヴィス、リハーサルしてるエルヴィス、談笑してるエルヴィスの集団、どこを見回してもエルヴィス、エルヴィス、エルヴィスだもんよ。
目に入る所にいる奴全員がエルヴィスだって分かった時点で、俺はもう、怖気づいちまった。知ってるよ。彼は人気者だ。歌だって上手いと思うよ。キング・オブ・ロックンロールだもんな。だけど、ああ、30年も前に死んじまった男だぞ。こんなに大勢の連中がそいつの真似事をして喜んでるんだ。
若い奴も爺さんも、デブもノッポも、いろいろな奴がいたけど、共通してるのは、奴らみんな、心の底からエルヴィスになりきって、悦に入ってるってことだ。ノスタルジーなんて生易しいもんじゃなかった。あいつらは全員、エルヴィスを懐かしがって真似をするんじゃない。30年前に死んだ男へ、自分を近づけようとしてるんだ。今ここにいる奴らにとって、エルヴィスはまだ生きててるんだ。
俺は、一瞬分からなくなっちまった。エルヴィスが生きてるのか、それとも、ここにいる奴らが全員亡霊なのか。どっちもでいい。どっちにしたって、もう、ぞーっとしちまった。ジェムは「古きよき時代」なんていうものを懐かしんでたけど、モノクロの映画に色をつけちまったら、味気ないだろう?
自分でもおかしな話だっていうのは分かってるよ。けど、俺は奴らが歌うヘタクソな「監獄ロック」を聞いて、言いようのない恐怖に襲われた。気を抜けば、自分まで60年代に取り込まれそうな気がしたんだ。
なぁ、やっぱり俺、間違ってるのか?
「この前見た映画で言ってたんだけど」
隣で呆けてたトレヴァーがぼそっと言った。
「映画?」
「ああ。プレスリーの物まねをしてた奴って、昔は3人しかいなかったんだとよ。で、今いるそっくりさんは5万人。だから、この調子で増え続けると、2012年にはこの国の4人に1人はプレスリーになるんだとさ」
こっちが真剣に震え上がってるってのに、奴は何も知らずにニヤニヤ笑いながら言いやがるんだ。4人に1人。とんでもない。本気で鳥肌が立っちまった。今でも多過ぎるよ。間引きすりゃいいんだ。
「みんなダックテイル、みんなジャンプスーツ、みんなで骨盤を揺らして、同じ歌を歌うんだ」
そこではたと気が付いた。木の葉を隠すなら森の中。ラスベガスで人を隠すなら、プレスリーの中さ。一体どれだけの間抜けがこんな馬鹿みたいな衣装でうろついてるのかは知らないが、ひよこのオスとメスを分けるんじゃないんだ。考えるだけでげんなりしちまう。
「どうする」
トレヴァーなんか、最初から丸投げだ。何かひらめくのが当たり前だって言わんばかりに、意見を待ち構えてる。どうするかだって。そんなの、こっちが聞きたいよ。
「仕方ないだろ」
目の前を通り過ぎる集団の中にいないか目を光らせる。いるわけない。何もしないうちから、頭が痛くなってきた。
「地道にやるしか」
うん。他に何があるって言うんだ。
それから半日、ずっと椅子に座りっぱなしだったよ。一次選考だけで、3時くらいまで掛かったんだ。信じられるか。
ただでも無茶苦茶に広いホテルの会議室を更に二つ繋げてさ。ずらーっと椅子を並べてあるんだ。舞台はちゃんとあるんだけど、後ろの方じゃ人が立ってても鉛筆くらいの大きさにしか見えやしないよ。うん、後ろしか空いてなかった。だって、前のほうはジャンプスーツ軍団が占領してるんだから。
ファンクラブか何かの会長が仰る開会の辞で既にクラクラした。総参加数378人だと。そこから5人ずつくらい参加者が舞台に昇ってパフォーマンスだろ。休憩を挟んで、延々5時間近くエルヴィス・メドレーを聞かされた俺の身、ちょっとは察してくれ。
鉛筆の大きさしかないエルヴィスたちを見ながらああだこうだ、あいつは似てるとか似てないとか、せめてオペラグラスでも持ってこりゃ良かったってつくづく後悔したよ。だんだん目の奥が痛くなってくるわ、首や肩は凝るわ、もうしばらくライブになんか行かないぞ、俺は。
原色のオンパレードなジャンプスーツとか、ボーダーのシャツとか、みんな同じにしか見えないよ。
ゲシュタルト崩壊。何だそれ。
それにしても、キースは――やっと名前を思い出した――なんでこんなのに出やがったんだろうって、トレヴァーじゃないけど、俺だって愚痴りたくなるよ。
奴も、亡霊なのかな。悲しい亡霊。金も社会身分もあって将来は安泰なのに、逃げて、失って、それで黄金の男エルヴィスに憧れる。
ジェニーは、奴が夢ばっかり見て働かないって言ってた。何を見てたんだ? エルヴィス? おまえ、どう思うよ。
昔の事って、全てが完結してるだろ。その中でウダウダ考えるのって、鬱陶しいったらありゃしないね。それだったらまだ、先のことを考えたほうが百倍マシだと思うんだけど。いや、これは俺の意見だ。
帰りたくてムカムカしてるのに、エルヴィス・メドレーは放しちゃくれない。いい気なもんだ。みんな揃いも揃って腰を振ってやがる。うん、本物がやったらサマになるんだけど、あそこまでデブが真似したら、空気相手にヤってるみたいでえげつない事になるよな。そう思ったら、いっそ滑稽だったけど、やっぱり笑えないよ。だって、あんな真面目な顔してるんだもの。
で、真似事のエルヴィスに拍手してる見物客が、辛うじて冷静で。手を打ち鳴らしたり口笛は吹いてるが、大したことはない。みんな、冷静な目で、楽しんでる。よっぽど似てるんだったらともかく、あんなどこの馬の骨と分からない連中に喝采したら、それこそ冒涜だと思うのは、俺だけかな。
間違いのないようにいっておくが、俺はエルヴィスは凄い奴だと思ってる。好きだって言ってもいい。
いい加減に疲れてきた。クーラーは効いてたけど、それでもスポットライトはガンガン、音楽もガンガンだろう。あれくらいやかましいと、いっそ眠くなるんだな。汗まで掻いて、おれはパイプ椅子に凭れかかったまま、転寝しちまった。15分くらいかな。
トレヴァーが容赦なく肩を揺さぶるから、すぐに眼が覚めたけど。ヤク中毒の癖に、妙に真剣な顔でさ。
「なんだって」
涎を拭きながら俺が言っても、奴の声はデカいBGMに消されて聞こえない。ただずっと、指を差して、口を短く動かしてた。
「なんだよ、だから」
あいつの口調、ただでもかつぜつ悪いんだもんよ。熱気に巻かれてぼーっとしたまんま、指差す方法を見たんだ。
女がいた。ジェニファーが。ジェニーだったかな。そんなのはもう、どうでもいい。
「彼は、次の次に」
相変わらず傷ついた表情を浮かべたおぼこ娘は、それでも、はっきりきっぱり告げた。
「hound dogが十八番なの。でも、衣装は『監獄ロック』よ」
そう言って、もう、どうしようもなく痛々しい顔で笑ったんだ。女を捨てるときでも、あんな顔、されたことないよ。声を掛ける前に、入り口へ飛び出して行っちまった。かけたところで、どうせまた、ろくな事はいえなかったろうさ。自分でも分かってるよ。けれど、何か言ってやるべきだったんだ。慰めか、励ましか、それとも、クソッタレ、でも良かったかもしれない。ああ、でも、トレヴァーじゃないが、フーターズガールに栄えあれ、だ。あそこで酒を運んでる女が裏で何してるか俺は知らないよ。脱いでるかもしれないし、とんでもないビッチかも。けどあの女たち、少なくともホテルやレストランの中じゃ明るく元気なチアリーダーだからな。そうあって欲しいんだ。梅毒のジェニファーにも。我侭? でもさ、本人のためにもいいと思うよ。
エルヴィスは死んじまったけど、チアリーダーは絶対に死なないもんな。
そこから先か。つまらないぞ。
俺たちは、ジーンズに揃いのジャケット、例のボーダーシャツ姿のまま、ショボくれた顔で裏口から出てきたキースをとっ捕まえた。もちろん一次落ちさ。歌いきっただけでも、満足しやがれ、って話だ。それにしても、なぁ。「hound dog」って、奴にぴったりの曲じゃあないか。お前はただのハウンド・ドッグ、いつでもただ吼えてるだけ、って。
うん、思ったよりもあっさり素直になった。大人しくタクシーに放り込まれて、その日の晩飯までには、親父さんにスリッパでおしおきされてたんじゃないのかな。
車の中で、奴が嘆いてたことは、覚えてないよ。俺、寝てたから。大概変な夢だったような気がする。なんだっけな。ステイシーが出てきた。メレディスも、それに……ポーリーンもだ。ああ…………めちゃくちゃいやらしい夢だったような気がするよ。それこそ、高校生のガキが見るような。覚えちゃいないけど。エルヴィスは一度も出てこなかったけど、こんな夢を見たのは、絶対あいつのせいだ。あいつの、亡霊のせいだ。
弁護士先生だからな。義理堅く、無造作に、1セントも多からず少なからず2500ドルさ。この金でメレディスのコートを買ってやれば、そのまま丸く収まったかも。少なくとも、ポンティアックは今でもびゅんびゅん走ってただろうな。
でも、嫌になっちまった。別に、潔癖でご立派な考えからじゃない。ただ、嫌になっちまったんだ。金は、一晩で消えたよ。あれだけスったのは、生まれて初めてだった。
俺はお前みたいにお利口じゃないから、決まったオチなんかつけられやしないよ。そこは、勝手に考えてくれ。ただ付け加えておくと、俺たちがこっちに戻ってから何日か経って、ネヴァダに初のインフルエンザ感染者が出たんだ。コートのこと、いつメレディスに話そうかって考えながら、俺はその患者がエルヴィスだったら良いのにって、ずっと思ってた。残念無念、小さな女の子だったらしいけど。なんにしろ、一人そっくりさんが減ったところで、あと4万9999人は相変わらず腰を振ってるんだから、大して変わりはしないか。
今でも思ってるよ。エルヴィスにだけ感染する病気があればいいんだ。いや、既にビョーキか。どっちにせよ、もう、しばらくベスト盤は聞きたくない。
「オチなんて」
相変わらず口を手で覆いながら、フレディは融けるような声で呟いた。
「そのままでも、ジョイスの小説みたいで、面白いじゃないか。お前が、物書きになればいい」
「馬鹿いえ」
飲み干したジンの瓶を抱えたリンは、即座に首を振った。
「サイテーだよ、こんなの」
「そうでもない」
閉じかけた瞼の淵に沿って、剣呑な輝きが一直線に走る。
「すごく、教訓的だ」
力ない指のせいで見えこそしなかったが欠伸はごまかす事が出来ない。
「嫌味に聞こえるくらい」
「嫌味って」
合点がいかぬと瞬きする蒼眼に、微かな非難が届いてから、ようやくリンは間抜けな声を出した。
「別に、お前のこと言ってるんじゃない」
「どうだか」
「俺は牧師じゃないんだ。そんな回りくどい話、するもんか」
「ブラウン『神父』だよ」
「どうでもいい」
空の瓶に一度口をつけ、中身がないと知り、床に放り出す。四角い瓶は鈍い動作で転がり、止まる。
「俺が言いたかったのは、だ」
立ち上がり、既に就寝体勢へ入ったフレディの肩をそっと掴む。
「分かるだろ?」
猫のように丸くなったフレディは、頷く代わりにクッションへ頭を押し付けた。
「言わなくていい」
遠慮なしに毛布へ進入し、引き剥がそうと目論む手から逃れようと、軽く身を捩る。
「僕も、よくあるから」
顎まで毛布で隠れても笑っているようにしか見えなくて、リンは思わず手を離した。さっきまで神を求めて泣き喚いていたのに、いつのまにか迷える子羊の愚痴を聞く聖者のような表情を作る。作家は、プレスリーにもチアガールにもならない。自分が何者にもなる必要がないことを、知っている。その余裕が、死ぬほど嫌いだった。プレスリーの骨盤よりはマシだったが。
腹立ちさえ覚え、肩に拳骨を押し付ける。今だって、空想を飼いならした男は、外からの悪意など気にもかけない。子供らしく唇を動かしながら、一人眠りの深みに落ちていく。
夏の影がドアの隙間から覗いている。夜明けが、嘘のように早い。ほんの少し白み始めた窓の景色と、寝息を立て始めた友人を交互に睨みながら、リンは再びソファへ腰を落とし、流れたキーがまだ配水管に留まっているという、最後の希望に望みを馳せた。