記憶の引き出し
セピアがかった屋敷の中で、帰ってくる貴方を迎える。着物の上着を受け取り顔を上げると、もう姿はここにはない貴方。玄関でその上着を受け取りながら、その奥に見た低く結んだ腰ひもは、何かを思い出させるような微かな圧を私の脳に産んだ。
少し慌てて、私も屋敷の奥へと向かう。いつの間にか思い出していた。思い出すというより目が覚めるという感覚で、取り戻していた記憶。それは起床後にしばらく経つと蘇る記憶、今の立ち位置を知り我に返る感覚と同じものだ。ここはとある神社の関係者の屋敷。神社の敷地と敷地の間にある古い屋敷は、屋敷というより小さくて、民家というには重みがある。
出迎えた貴方の表情と肩の動きは、静かに疲れを滲ませていた。随分若い貴方だけれど、重鎮として折衝に当たる日々の業務は重いのだと、ゆっくりと言葉をこぼしながら酒を飲む。
瑞々しい若さと、重責のなかで帯びた貫禄とを併せ持つ、そのバランスはなぜか儚くて、あぁこのお方は若くして・・・と気付いたと同時に目が覚めた。
白昼夢。幻覚。妄想。どう呼んでもらってもいい。それは、古い過去の記憶を思い出し追憶するのと同様の種類のもので、私にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。記憶の引き出しは、生まれ変わるときに綺麗になるのだと思っていた。だけどきっと、綺麗にしても取れないこびりついた苦さは取ろうとしても取れなくて、残しておきたいと願う一世一代の思い出は引き出しの奥に隠したままで。再び綺麗に磨かれた引き出しを開けたとき、ふとした瞬間に剥がれ落ちる苦さや、飛び出してくる奥底に仕舞いこんだ喜びは、人に今世のものでない記憶の欠片を投げかける。感情に直接触れて揺さぶるように、強い衝動を解放しながら記憶は飛び出してくる。
この日私に現れた記憶はセピア色の淡々としたもので、短い。衝撃的な喜びや悲しみがあったわけではない。ただ、どうしようもできなかった無力感と切なさを感じさせながら、進むストーリーのひと欠片を見せてきた。
そこに、どういう意味があるのかはわからない。意味などないのかもしれない。ただ、日常の数十分を追憶により疑似体験しただけにしては、重く苦く甘い感覚が蘇るものであり、私は今もその景色を映像記憶として視覚的に思い出すことができる。まるで私が今世体験した記憶の一種のように、今は併存して眠る。
記憶というのは、死してもなお引き継がれるのかと、驚かされる。ただ、決めつけては良くない。別の可能性も考えられる。過去の他人の記憶と感情の波動が共有されている可能性。もしくは、過去にこの世を生きた人間の霊魂が持つ感情や記憶に共鳴しアクセスしてしまっていることだって考えられる。
まぁ、どれだっていいのだ。解明しようがない。今も簡単に目に浮かぶあの時の「貴方」の顔姿は、誰のいつの時代の記憶か。正確にわかる術はない。
記憶の引き出しは来世生まれ変わったときも、まっさらな新品ではなくクリーニング済みの代々伝え続ける「お古」であるかもしれない。そう気付くと、今の人生で選ぶ経験もより大事にせざるを得ない。また、仮に他人にまで共有されてしまう仕組みなのであれば・・・プライバシーの欠片もない。もしそうだったなら、その時は受け入れ諦めるしかない。秘密主義の私には辛いものとなるだろう。
きっと「貴方」を狂おしいほど愛したのであろう、あの世界の私よ。もしくは誰かよ。もし生まれ変わってこの世を生きているのであれば、どうかお幸せになっておくれ。そして幸せな記憶と感情を、生きている間も大切に愛でて、優しく引き出しにしまっておいてほしい。今回の生で体験した辛い記憶も出来たら優しく溶かして解いてクリーニングしやすくしておいてね。それが、来世の私への今できる贈り物。周りの人にも共有されるのなら、なおさらだ。
懐かしい屋敷のなかで貴方が微笑む姿が、脳裏をかすめた気がした。




