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「家政など侍女の真似事」——救荒備蓄を支えた令嬢が去って一月、領内の三十村に飢えが回った件

作者: 歩人
掲載日:2026/05/31

 辺境ハイデルベルクの夜、月が雪雲のあいだから細く覗いていた。

 凍てた街道に、馬の蹄が四度、五度、と規則正しく鳴った。

 騎士団長アレクサンドル・ハイデルベルクは、鞍の上で背を伸ばしたまま、左胸の内側に右手を置いた。革の袋越しに、十年抱えてきた紙の重さを確かめる癖だった。袋の中の紙は、十年経っても、まだ硬さを失っていなかった。むしろ、年ごとに重くなる感じがあった。


 三日前、王都の知人から手紙が届いた。

 カランドール公爵家にて、長女クラリス嬢が婚約を破棄され、屋敷を出た——その短い報せの上に、辺境の冬が雪を積もらせる前にと、彼は馬を駆けさせた。

 辺境の領都から王都の南へ、三日三晩。馬を二度替え、自分は替えなかった。

 鞍の革に、太腿の内側の皮が擦れて、にぶい熱を持っていた。痛みは、彼にとって、十年前の死の床の声を呼び戻す合図だった。


 ——我が娘クラリスを、いつか守ってくれ。


 先代カランドール公爵の、最後の声だった。

 熱に浮かされた兄の手が、書斎の机の上で、革袋を弟の方へ滑らせた瞬間を、アレクサンドルは今も覚えている。袋の中には、未届けの遺言書一通と、書斎金庫のもう一つの鍵。

 「お前にしか、託せん」

 兄はそれだけ言って、目を閉じた。三日後、兄は逝った。

 葬列の最後尾で、アレクサンドルは喪服の襟を立てた。喪主の席には現公爵セバスチャン——兄の嫡子——が座り、その隣に、亜麻色の髪を低く編んだ娘が立っていた。十六歳の、まだ顔の輪郭に幼さの残る娘だった。

 彼は娘の方を見なかった。

 見れば、十年の遺命が、その場で形を持ってしまう気がした。


 以来十年。

 アレクサンドルは辺境で剣を振り、村の畝を耕し、雪の夜に若い騎士たちに剣の素振りを教えてきた。革袋は左胸の内側に下げ続けた。十年、紙の重さを忘れた朝は、一日もなかった。

 一度だけ、五年前、王都の本邸の食堂の窓越しに、配給帳を読み上げる若い娘の横顔を遠目に見たことがある。亜麻色の髪を低く編んだ娘だった。窓の桟の影が、彼女の頬に細く落ちていた。声は届かなかったが、唇が「三百匁」と動いた瞬間を、彼は読み取ってしまった。配給高の単位だった。家督相続翌年の春に救荒備蓄の管理を任されたばかりだと、辺境の風の便りに聞いていた。

 彼はその場で踵を返し、辺境へ戻った。会わずに帰ることが、遺命の解釈だと、自分に言い聞かせた。

 今日まで五年、その一度の横顔を、夜ごと胸の奥で反芻してきた。

 横顔の輪郭だけは、覚えていた。声は、覚えていなかった。覚えていないことが、五年、彼の戒めだった。


 馬が王都南の麦畑に入った。晩秋の麦畑は、刈り取られたあとの株だけが残り、霜が薄く降りていた。霜の白が、月の光を受けて、淡く反射した。

 遠くに、カランドール本邸の灯が見えた。三階の角部屋——先代の書斎——だけが、夜更けにも明かりを落とさずに残っていた。誰かが寝ずに、何かを書き続けているのだろう。

 アレクサンドルは馬を歩かせ、左胸に手を置いた。

 「先代様」

 彼は雪雲の月へ呟いた。

 「私は、十年遅れて、御遺命を果たしに参りました。

 ——あの方を、お守りいたします」


 馬の歩みが、本邸の門前で、ようやく止まった。




 時を、ひと月遡る。


 カランドール公爵家本邸、大広間。

 晩秋の宴の灯が、銀燭台に揺れていた。

 長卓の中央に座した兄嫁ヴィヴィアンは、紅茶色の髪を高く結い上げ、指輪を五つ嵌めた手で、葡萄酒の杯を傾けていた。彼女の右に夫セバスチャン、左に継母リネット。

 卓の下座に、クラリスは静かに座っていた。亜麻色の髪を低く一本に編み、深い緋色のドレスを纏っていた。社交の場のためのドレスではなく、屋外の備蓄巡回でも汚れの目立たない、実用の色だった。

 宴が始まる前、二階の私室の前を継母リネットの部屋の戸が、わずかに開いていた。クラリスが廊下を通り過ぎたとき、リネットとヴィヴィアンの低い話し声が、絨毯の上を、薄く流れた。クラリスは振り向かず、階段を下りた。


 「皆様、お聞きくださいませ」

 ヴィヴィアンの声が、よく通る高さで、卓全体に届いた。

 「本日、わたくしどもより、嬉しいご報告がございます」

 列席の貴族たちの視線が、卓の上座へ集まった。

 クラリスは指先で、卓布の縁を一度押さえた。麻と絹の混紡。月初の備蓄巡回で麦の粉が衣の袖口に付き、洗濯した跡が薄く残っていた。


 「クラリス様の婚約を、本日、解消いたします」

 ヴィヴィアンの口元に、勝ち誇った微笑が浮かんだ。

 「お相手のミラベル伯爵家より、先方の都合により、と。

 まあ、無理もないことでしてよ。ねえ、お義姉様」

 彼女はクラリスの方を向いた。視線は、相手の目ではなく、相手の襟元の辺りに当てられていた。


 「家政など下女の真似事。本物の貴族のすることではないわ」

 笑い含みの声だった。

 「日に焼けた手、粉の付いた袖。婿入りの方も、お困りになりますわね」

 卓の周りに、小さな笑い声がいくつか起こった。

 クラリスは顔を上げず、卓布の縁を、もう一度指の腹で確かめた。確かめながら、頭の中では別の数字が動いていた。北西の村々の麦の収穫量、三百二十石の備蓄不足、配給高の調整、——明日の朝、巡回せねばならない倉庫の番号。

 彼女は卓布から指を離し、葡萄酒の杯を、わずかに口元へ運んだ。飲まなかった。香りだけを確かめ、卓に戻した。


 宴が終わり、貴族たちが退出した後、クラリスは三階の備蓄台帳室へ昇った。

 革表紙の台帳が、棚にずらりと並んでいた。月次の薄い帳簿が五年分、六十冊。最も古いものは五年前の春、彼女が二十一歳のときに、兄から「救荒備蓄の管理を頼む」と命じられた日のもの。最新の一冊は、昨日の月末締めの分。

 彼女はランプの灯を細くし、棚の前に立った。

 指で、台帳の背を一冊ずつ、確かめた。

 革の擦れ、月末ごとの封蝋の凹凸、彼女自身の指の硬い節が、五年の時間を確かめた。


 ——三十村の冬を、わたくしは五年で覚えました。


 心の中で、彼女は呟いた。

 五年前の春、兄に呼ばれて、書斎の樫の机の前に立った。当時の兄は、家督相続の翌年で、まだ妻を娶っていなかった。

 「クラリス、救荒備蓄の管理を、お前に頼む。

 父上の遺言の一条にあった」

 兄は遺言書の表紙だけを掌で押さえて、本文を読まなかった。書斎の金庫の鍵は、彼の手元にあった。もう一つの鍵が、どこにあるかを、彼は知らなかった。

 「分かりました、お兄様」

 クラリスは頷いた。父の遺言だと聞けば、断る理由はなかった。


 その春から、彼女は領内の巡回を始めた。

 三十の村を、四ヶ月で一巡。一村につき三日。

 最初の一巡で、彼女が記録した項目は、こうだった——人口、労働人口、子・老人・病人の数、井戸の水質、田畑の面積、過去十年の収穫量、湿気率の年間推移、虫害の発生月、村長の信頼度。

 二巡目で、彼女は備蓄倉庫の候補地を選んだ。

 「一箇所に集めると、火災で全てを失います」

 彼女は領内の地形図を広げ、川と街道の交点に、八つの拠点倉庫を配した。

 「湿気の少ない丘陵に、麦と乾燥肉を。風通しの良い谷の南斜面に、塩を。井戸水の硬い村に、穀物を、軟らかい村に、種籾を」

 三巡目で、彼女は備蓄量の積み上げを始めた。

 法定備蓄量、六万石。

 慣習的に、その一・五倍。

 彼女は二倍を目指した。

 十万石。

 五年で、彼女はそれを達成した。


 棚の前で、クラリスはランプの灯をさらに細くした。

 五年分の台帳の重さを、目で測った。

 最後の月末締めの一冊を取り、卓に置いた。革表紙の縁が、彼女の右手の親指の硬い節に触れた。


 彼女は卓に座り、ペンを取り、台帳の表紙の見返しに、短い文を書いた。


 ——救荒備蓄に関する全記録は、本台帳に集約されております。倉庫の鍵は、家令クロード氏に預けました。八拠点の倉庫と鍵の対応表は、本年次総括の二〇九頁にございます。凶作判定の手順は、二三七頁、配給高算定の表は、二五一頁。


 署名。封蝋。

 彼女は台帳室に並ぶ五年分・六十冊から、年次総括十二冊を抜き、書斎へ降りた。月次の薄い帳簿は、台帳室の棚に残した。

 書斎の樫の机の上に、十二冊の年次総括を、五冊と七冊に分けて積んだ。

 台帳の上に、家令クロード宛の手紙を一通、置いた。手紙には、「三十村の冬を、よろしくお願いいたします」と、それだけ書いた。


 夜明け前、クラリスは旅装に着替えた。

 小さな布鞄を一つ、肩にかけた。中には、衣服の替えと、母の形見の銀の髪留め一つ、それだけ。

 屋敷の勝手口を出るとき、彼女は振り返らなかった。

 勝手口の脇には、家令クロードが、頭を下げて立っていた。

 「クラリス様」

 クロードは、声を抑えて言った。

 「王都南の修道院まで、私の名で先触れを出しております。

 辻馬車を、一台、街道筋に手配いたしました」

 「ありがとう、クロード」

 彼女は、ほんの一瞬だけ、家令の目を見た。


 北西の街道に出る前、彼女は一度だけ、三十村の方角を見た。

 霜の降り始めた田畑が、月の光を受けて、灰色に沈んでいた。

 「冬を、お越しください」

 彼女は誰にともなく、低い声で言った。

 声は、晩秋の霧の中に、すぐ吸い込まれた。


 一月が経った。


 早朝、霜の降りた北西の村から、本邸の家令クロードのもとへ、息を切らした使いが駆け込んだ。

 「ご家令様、備蓄倉庫の蓋が開きません。

 鍵の在処と、八拠点の対応表を、教えてください」

 クロードは台帳室の棚を見回した。月次帳簿は棚に残っていたが、対応表を綴じた年次総括十二冊が——書斎の机の上から——消えていた。

 彼が、ヴィヴィアン夫人に「あの年次総括をどうされましたか」と問うた日の夜、夫人は紅茶の杯越しに、こう答えた。

 「ああ、あれね。先月、執事に焼いておきなさい、と命じましたわ。下女の真似事の覚え書きなど、屋敷に残してはいけませんもの」

 ——だが、執事は屋根裏に密かに移しただけで、焼却は実行していなかった。それを、夫人は知らなかった。

 クロードは、その夜、自分の私室で、初めて声を出して泣いた。




 カランドール本邸、表玄関。

 早朝の霧が、敷石の上に薄く垂れ込めていた。

 門前の馬から降りたアレクサンドルは、左胸に手を置き、外套の襟の雪を払った。三日三晩の街道の疲れが、肩に重く乗っていた。

 家令クロードが、息を整えながら玄関へ出てきた。

 「アレクサンドル様」

 クロードの声は、震えていた。

 「お久しゅうございます。十年前の、ご葬儀以来でございます」

 「家令殿、御変わりなく」

 アレクサンドルは短く頷いた。

 「先代様の御遺命により参った。クラリス嬢に、お会いしたい」

 クロードの顔が、わずかに歪んだ。

 「クラリス様は、一月前に、屋敷を出られました。

 今は——王都南の修道院に、身を寄せておられます」

 「修道院」

 アレクサンドルは、その単語を、唇の中で一度繰り返した。

 「お元気か」

 「ご健康でいらっしゃいます。

 ただ、領内の方が——」

 クロードは言葉を切り、目を伏せた。

 「三十村で、凶作の報が回り始めております。

 クラリス様の積まれた備蓄倉庫の——八拠点の対応表が、不明でして」


 アレクサンドルは、革袋の上から、左胸を一度押さえた。

 遺命の重みが、その朝、十年で最も鮮やかに、彼の指の腹に伝わった。

 「家令殿」

 彼は低い声で言った。

 「先代様の御書斎へ、案内いただきたい。

 金庫を、開けねばならぬ」


 三階の角部屋。

 先代公爵の書斎は、十年、家具一つ動かされずに残されていた。

 樫の机に、革張りの椅子。壁一面の書架。窓の下の床に、埋め込み式の金庫。

 クロードが、現公爵セバスチャンを呼びに行った。寝起きの公爵が、寝衣の上に外套を引っかけて、書斎に上がってきた。

 「叔父上」

 セバスチャンの声は、緊張で甲高かった。

 「何の御用ですか」

 「金庫を、開けさせていただく」

 アレクサンドルは、左胸の革袋から、小さな鍵を取り出した。古い鉄の鍵だった。鍵山の溝に、わずかに錆が浮いていた。

 セバスチャンが、机の引き出しから、もう一つの鍵を取り出した。彼の鍵は、銀の細工が施された、磨かれた鍵だった。家督相続から十年、彼は一度もこの金庫を開けていなかった。


 二つの鍵が、金庫の二つの鍵穴に差し込まれた。

 同時に、左へ回された。

 金庫の蓋が、ゆっくりと開いた。

 中には、革表紙の書類束が二つ。

 一束は、王家に届け出済みの遺言書の写し。もう一束は、未届けの——「もう一通の遺言書」だった。


 アレクサンドルは、未届けの方を、両手で取り出した。

 表紙に、先代公爵の筆跡で「我が娘クラリスへ」とあった。

 セバスチャンの顔から、血の気が引いた。

 「父上が——もう一通——」

 「現公爵閣下」

 アレクサンドルは、声を抑えた。

 「これは、クラリス嬢ご本人にお渡しせねばならぬ。

 修道院へ、馬車を手配されたい」


 王都南の修道院は、本邸から馬車で半日の距離にあった。

 石造の門の前で、アレクサンドルは外套の雪を払い、左胸の革袋を、改めて指で確かめた。

 修道女が、客間へ取り次いだ。

 客間の暖炉の前に、亜麻色の髪を低く編んだ娘が、立っていた。深い緋色の旅装。彼が五年前に窓越しに見た、あの横顔。


 「クラリス・カランドールでございます」

 彼女は、頭をわずかに下げた。声は、落ち着いた低さだった。

 アレクサンドルは、五年前に届かなかった声を、初めて、生身で聞いた。

 「アレクサンドル・ハイデルベルクと申します」

 彼は、一拍置いてから、続けた。

 「辺境騎士団長を務めております。

 本日は——先代カランドール公爵様の、御遺命により、参りました」

 クラリスは、その単語の上で、わずかに目を上げた。

 「騎士団長殿は、父の——」

 「はい」

 アレクサンドルは、革袋から、表紙に「我が娘クラリスへ」と書かれた遺言書を取り出し、両手で差し出した。

 「十年前、御父上様より、お託りしたものでございます。

 本日まで、お渡しする機を、得ませんでした」


 クラリスは、両手で遺言書を受け取った。

 表紙の父の筆跡を、指先で、ゆっくりと辿った。

 彼女が父の筆跡を間近に見るのは、五年前に兄が遺言書の表紙を掌で押さえた瞬間以来だった。父が逝ったのは十年前、彼女が十六歳のとき。父の私物は、すべてリネットが片付けた。父の筆跡は、彼女の手元には、一通も残っていなかった。

 「読んでも、よろしいでしょうか」

 「どうぞ」


 クラリスは封を切った。

 遺言書は、三枚に分かれていた。

 一枚目には、後見人指定。アレクサンドル・ハイデルベルクを、クラリスの法的後見人と定める。万一クラリスが本家から追放されることあらば、彼の名において保護を与え、生涯の安寧を保障する。

 二枚目には、彼女の出生についての記録。

 ——我が娘クラリスは、亡き妻シャルロットの嫡出子と届け出ているが、これは方便である。実母は、我が愛人であったマリア・フォン・エルレンマイヤー。マリアは産後すぐの流行病で逝去した。私は娘を、嫡出子として育てたかった。届け出の手続きは、王家承認の上で完了している。法的にクラリスは嫡出長女であるが、血の真実は、いずれ娘自身が知るべきと考え、ここに記す。——

 二枚目の末尾に、父の筆跡で、一行の注記があった。

 ——なお、後見人と被後見人の身柄に関する付帯条項は、別葉に記す。娘が成年後、必要と判ずる事態が生じた折に開く。

 三枚目の表紙には、封蝋が押されていた。クラリスは、その封を、今は切らなかった。


 クラリスは、二枚目を、一度膝の上に置いた。

 暖炉の火が、紙の縁に映って、橙の色が揺れた。

 彼女は長い間、何も言わなかった。

 沈黙が、客間の天井の高さを、ゆっくりと満たした。


 「お母様」

 彼女は呟いた。

 「シャルロット様ではなく、マリア様であった、と——」

 「左様にございます」

 アレクサンドルは、頭を下げた。

 「マリア様は、私の——兄上のお側におられた方でいらっしゃいました。

 私の養家ハイデルベルク辺境伯家とも、遠縁にあたります」

 クラリスが、初めて、まっすぐに彼の顔を見た。

 「遠縁、と申されますと」

 「私は、先代カランドール公爵閣下の——異母弟でございます。

 つまり、あなた様の——叔父にあたります」


 暖炉の薪が、一つ、はぜた。

 クラリスの瞳の中に、橙の火が一度映って、消えた。

 「叔父——」

 彼女は、その単語を、唇の中で繰り返した。

 「あなた様が、わたくしの叔父」

 「仰せの通りでございます」

 「父の異母弟、ということは——」

 「祖父君の、辺境への庶子でございます。

 私は十六で辺境ハイデルベルク家に養子に入り、以後、辺境で生きて参りました」


 クラリスは、遺言書を、暖炉の灯にかざした。

 父の筆跡が、紙の上で、揺れた。

 「叔父様は」

 彼女は、目を伏せたまま言った。

 「十年、これを、お持ちになって——」

 「左様にございます」

 「お会いに、ならなかったのですね」

 「お会いすることが、御遺命の解釈ではないと、判断いたしました」

 アレクサンドルは、暖炉の火を見たまま、続けた。

 「ですが、五年前、一度だけ——」

 「一度」

 「本邸の食堂の窓越しに、配給帳を読み上げる、あなた様のお姿を、遠目に拝見いたしました。

 『三百匁』と、唇が動かれた瞬間を、私は——読み取ってしまいました」

 彼は、頭を下げた。

 「以来五年、その横顔を、夜ごとに反芻して参りました」


 クラリスは、長い間、暖炉の火を見ていた。

 「叔父様」

 彼女は静かに言った。

 「わたくしは、五年前から、領内三十村の救荒備蓄を、管理して参りました。

 十万石を積み上げました。

 ——その鍵を、わたくしは、一月前に、家令クロードに預けて、屋敷を出ました」

 「存じております」

 「ですが、年次総括が、焼かれたと——」

 「焼かれたのは、夫人がそう命じたという話のみ、と家令殿が申しております。

 実際には、執事が屋根裏に移しただけで、原本は、御父上の書斎の床下に、御父上ご自身の手で指定された保管所がございました。

 家令殿が、夫人の命令を察し、机の上の十二冊を、ご自身の判断で、その床下へ移しておられたのです。

 本日、私が金庫を開けた折、その保管所の所在も、二通目の遺言書に記されておりました」


 クラリスは、初めて、笑った。

 低い、安堵を含んだ笑いだった。

 「父は、十年前に、すでに家政の備えを残してくれていたのですね」

 「先代様は、家政こそ、家の柱であるとお考えでした」

 アレクサンドルは、頭を下げたまま続けた。

 「だからこそ、御遺命を、私に託されたのでしょう。

 『我が娘クラリスを、いつか守ってくれ』と」

 クラリスは、遺言書を、ゆっくりと封筒に戻した。封蝋の押された三枚目は、開けずに、二枚と重ねて、封筒の中へ。

 「叔父様」

 「はい」

 「三十村の、冬を——」

 「お任せください」

 彼は、頭を上げた。

 「辺境の備蓄倉庫から、麦と乾燥肉を、運び出しに参りました。

 カランドール領の三十村まで、私の手の者で、配給網を再構築いたします」


 三日後、クラリスとアレクサンドルは、辺境への馬車に乗った。

 ただし、晩秋の街道は、辺境の峠の手前で、雪に閉ざされた。

 二人は、王都北の宿場町で、冬を一度越した。クラリスは宿場の二階の窓辺で、辺境の備蓄網と三十村の対応表を、頭の中で繰り返し読み合わせた。アレクサンドルは、毎朝、宿場の井戸端で剣を素振りした。

 雪解けの兆しを待って、彼らは再び馬車を出した。

 クラリスは、修道院の門前で、最後に振り返り、王都の方角を見た。

 カランドール本邸の灯は、もう、見えなかった。

 「叔父様」

 「はい」

 「叔父様、と呼ぶのは、なんだか、不思議な響きでございます」

 「私も、十年、その呼ばれ方を、想像したことがございませんでした」

 アレクサンドルは、馬車の窓の外を見ながら言った。

 「もし、お差し支えなくば——」

 「はい」

 「アレクサンドル、と。

 名で、お呼びください」

 クラリスは、馬車の小窓の外、雪解けの始まった田畑を見ていた。

 「アレクサンドル様」

 彼女は、初めて、その名を、口の中で確かめるように言った。

 「では、わたくしのことも、クラリス、と——」


 辺境への峠を、馬車が越えた。

 雪雲が、空の半分を覆っていた。

 クラリスは、膝の上に置いた遺言書の封筒を、両手で、そっと包んだ。


 辺境ハイデルベルクの領都に着いたのは、馬車の旅の四日目の朝だった。

 石造の小さな町。

 領都の北端、丘の上の備蓄倉庫の前に、クラリスが立った日、まだ早春の雪が、倉庫の屋根に残っていた。

 「クラリス様」

 アレクサンドルが、倉庫の扉を開けながら、振り返った。

 「辺境の備蓄は、十年かけて、私が整えて参りました。

 カランドール領の三十村の冬は、もう、お任せいただいて結構です」

 クラリスは、倉庫の中に入った。

 木材と麦の匂いが、混じり合った冷たい空気が、彼女の頬に触れた。

 棚に、辺境十五村分の月次台帳が並んでいた。革表紙、月末締めの封蝋。

 彼女は、棚の前に立ち、ランプの灯を細くした。

 「アレクサンドル様」

 彼女は、振り向かずに言った。

 「わたくしの五年と、あなた様の十年が、ここに並んでおります」

 「左様にございます」

 「並べて、お読みしても、よろしいでしょうか」

 「どうぞ」


 早春から初夏にかけて、二人は、辺境の備蓄網と、カランドール領の三十村の配給網を、一つに繋いだ。

 クラリスは、辺境の台帳を一冊ずつ手に取り、湿気率と虫害発生月を、彼女の頭の中の三十村の台帳と、突き合わせた。

 アレクサンドルは、カランドール領まで配給の隊を派遣し、家令クロードと連携した。原本の備蓄台帳は、本邸の書斎の床下から、無事に発見された。

 三十村の冬の飢えは、二月の半ばまでに、収束した。


 ある夜、辺境の備蓄倉庫の二階、共用の執務室で、二人はランプの灯を挟んで台帳を読んでいた。

 ペンの音が、二つ、規則正しく重なっていた。

 「アレクサンドル様」

 クラリスが、顔を上げずに言った。

 「叔父様、と呼ぶのは、もう、止めてしまいました」

 「私も、姪御様、と呼んだことが、一度もございません」

 彼は、ペンを置き、暖炉の方を見た。

 「クラリス様」

 「はい」

 「私は、十年、御遺命を、お守りすると、自分に言い聞かせて参りました」

 彼の声が、平らだった。平らに保つために、わずかに力が要っていた。

 「辺境への峠を越えた朝、私は気づきました。

 毎晩、あなた様の横顔を思い出していたのは、遺命のためだと、自分に言い聞かせていただけで——

 本当は、私自身の意思として、あなた様を、お守りしたかったのだと」

 クラリスは、ペンを置いた。

 指先が、台帳の縁を、一度押さえた。

 「アレクサンドル様」

 「御意」

 「血の縁が、わたくしどものあいだに、ございます」

 「左様にございます」

 「叔父と、姪の縁が」

 「仰せの通り」

 クラリスは、暖炉の火を見た。

 「ですが、叔父様は」

 彼女は、低い声で続けた。

 「養子に出られて、辺境のハイデルベルク家のお方になられました。

 そして、わたくしの母は、先代公爵閣下の正妻ではなく、愛人でありました」

 「左様にございます」

 「血の縁の——壁の高さを、わたくしは、まだ、測りかねております」

 「私も、十年、測りかねて参りました」

 二人は、暖炉の火を、しばらく見続けた。

 ペンの音は、その夜、もう聞こえなかった。




 早春の半ば、王都にて、王家気象観測局の公式報告が発布された。

 「中部王国、カランドール領北西部にて、凶作年と認定」

 報告を受け、王家監察団が即時編成された。

 「領主の備蓄義務、未履行の疑いあり。即時、現地査察に入る」


 本邸の食堂、晩餐の卓。

 セバスチャンは、葡萄酒の杯を握ったまま、手を動かせなかった。

 「査察」

 彼は、繰り返した。

 「父上の代から、四十年、当家に査察が入ったことは、ないはずだ」

 ヴィヴィアンは、卓の向かいで、紅茶の杯を口元へ運ぼうとした手を、途中で止めた。

 「あの、クロード家令から、何度も、台帳のことを問われましたが——」

 彼女は、声を細くした。

 「執事に、焼かせたわけではないのです。

 屋敷の体面を保つために、屋根裏に移させただけで——」

 ——焼けと命じたのは事実だが、執事が密かに屋根裏へ移し替えていたことに、夫人は今になって縋った。彼女が「焼かせた」と言い「移させた」と言う、その二枚舌は、保身の上に積まれた嘘の壁だった。

 「ヴィヴィアン」

 セバスチャンの声が、震えた。

 「お前、それを、私に、なぜ言わなかったのだ」

 「あなた様は」

 彼女の声が、初めて、上ずった。

 「下女の真似事の覚え書きに、興味を、お示しにならなかったでしょう」

 セバスチャンは、葡萄酒の杯を、卓に置いた。

 陶器が、硬い音を立てた。

 彼は立ち上がり、寝室ではなく、三階の父の書斎へ向かった。

 樫の机の引き出しを、十年ぶりに開けた。引き出しの奥に、銀の鍵入れの台が一つ。蓋を開けると、もう一つの鍵——先代が辺境のアレクサンドルに託したもう一本——の収まるはずの窪みが、空のまま、十年、彼を待っていた。


 三日後、王家監察団の馬車が、本邸の門前に止まった。

 監察官団長の名前は、ウィルベルト・フォン・アシュフェルト。三十代半ばの、亜麻色の短い髪の男。

 彼は、書斎の床下から原本の備蓄台帳を発見し、内容を確認し、報告書を作成した。

 「カランドール公爵家、救荒備蓄の現物は、辺境ハイデルベルク家の手によって、三十村に配給済み。

 原本台帳は無事。だが、領主家による備蓄管理の放棄は、明らか。

 よって本件、当主セバスチャン・カランドールに対し、爵位降格と領地一部没収の処分を、王家へ上申する」


 降格処分は、二週間後に発布された。

 カランドール公爵家は、伯爵家に降格。

 領地の三分の一は、王家直轄領となり、残る三分の二の管理は、辺境ハイデルベルク家へ「監察委任」された。

 クラリス嬢の救荒備蓄の功績は、王家公報にて、初めて領民に告知された。


 社交界では、ヴィヴィアンが、領主夫人としての座を失った。

 舞踏会の招待状は、ある日を境に、一通も届かなくなった。

 彼女は本邸の二階の私室で、紅茶の杯を握り、終日窓の外を見るようになった。彼女が握る指輪は、いつの間にか、三つに減っていた。

 紅茶を飲み干したあと、彼女は最後の一滴を、ソーサーの上に小さく垂らした。——それは継母リネットの、二十年前からの癖だった。屋敷の中で、夫人がいつ、誰から、その癖を覚えたかは、もう誰も問わなかった。


 継母リネットは、自ら隠居を申し出た。

 王都南の小さな邸宅に移り、息子セバスチャンとも、ほとんど顔を合わせなくなった。

 彼女が屋敷を出る前夜、家令クロードが、二階の彼女の私室に呼ばれた。

 「クロード」

 リネットは、紅茶の杯を握ったまま言った。喪服の黒は、十年同じものを着続けていた。

 「あの娘の母——マリア・フォン・エルレンマイヤーの墓所を、王家公報で公表する手配を、お願いしたい」

 クロードは、頭を下げた。

 「畏まりました、奥様」

 「あの娘に、ようやく、母の墓を教えてやれる」

 リネットは、初めて、クロードの前で、目尻を細めた。一度視線を逸らし、もう一度クロードの方へ視線を戻してから、彼女は続けた。

 「十年、わたくしは、あの真実を、隠してきました。

 息子を守るためでもあり、自分を守るためでもありました。

 義娘のヴィヴィアンに、あの娘を『下女』と呼ばせ続けたのも、わたくしの差配でございました。

 けれど、王家が公表する前に、わたくしから渡したかった」

 クロードは、もう一度、深く頭を下げた。


 元婚約者のミラベル伯爵家は、領地の三分の一を失った隣家との縁を、自ら切った。

 「下女の真似事の令嬢」と呼んで婚約破棄を主導した家門は、王家公報の発布から二月後、領地の境界紛争で隣家からも縁を切られ、王都の社交界における立場を、ほぼ完全に失った。


 本邸の食堂、伯爵家に降格された卓に、セバスチャンは一人で座っていた。

 卓の上に、ヴィヴィアンの紅茶の杯はなかった。彼女は今、二階の私室で、自分の指輪を磨き続けている。

 セバスチャンは、葡萄酒の杯を、ゆっくりと傾けた。

 「父上」

 彼は呟いた。

 「妹を、私は、何も知らずに、扱っていました」

 卓の窓の外に、霜の降りた田畑が、灰色に沈んでいた。

 卓の隅に、家令クロードが置いた一通の手紙があった。

 差出人欄に、辺境ハイデルベルクの印。

 クラリスの筆跡で、短く書かれていた。

 ——お兄様、辺境にて、息災にしております。三十村の冬は、無事に越えました。父上の遺言書、二通目を、わたくし、受け取りました。

 署名の下に、一行だけ、追記があった。

 ——わたくしの母の墓所が分かりましたら、いつか、お参りいただければ嬉しゅうございます。

 セバスチャンは、その一行を、長い間見ていた。

 彼の右手の指が、卓の縁を、何度も滑った。




 初夏の朝、辺境ハイデルベルク。

 領都の北端、丘の上の備蓄倉庫の前。

 クラリスは、亜麻色の髪を低く編み、淡い榛色のドレスを着ていた。事務帽はかぶっていない。日差しが、彼女の頬に、まっすぐ落ちていた。衣の袖口に、もう麦の粉は付いていなかった。

 アレクサンドルが、外套を脱ぎ、白い襟の麻服一枚で、彼女の隣に立っていた。剣だけを腰に下げていた。

 倉庫の扉の前に、二人で並んだ。

 春の雪は、もう溶けきっていた。倉庫の屋根の縁から、夜来の雨の名残の雫が、一つ、また一つと、敷石の上に落ちていた。


 「クラリス様」

 アレクサンドルが、低い声で言った。

 「本日、お渡し申し上げたいものが、ございます」

 クラリスは、彼女自身の胸元の革袋——馬車の旅の途中、辺境の宿場で彼女自身が縫い直し、首から下げてきた小さな革袋——から、先代公爵の遺言書を取り出した。後見人指定の一枚と、出生記録の一枚、そして封蝋の押された付帯条項の一枚。三枚を、両手で、二人の間に置いた。

 「アレクサンドル様」

 彼女は、振り向かずに言った。

 「父の遺言書には、もう一枚、封の押された付帯条項がございます。

 わたくしは、まだ、これを開けてはおりません」

 彼女は、封蝋の上に、指の腹を一度乗せた。

 「叔父様にも、立ち会っていただいて——本日、開けたく存じます」


 アレクサンドルは、頭を下げた。

 「左様で」

 彼は、剣の柄の上に、右の親指を、軽く乗せた。

 「立ち会わせていただきます」


 クラリスは、封蝋を、ゆっくりと割った。

 三枚目には、父の筆跡で、短く一条が書かれていた。

 ——付帯条項。万一、後見人と被後見人とが、互いを伴侶として求めるならば、当人らの判断と、王家の特例承認のもとに、それを認める。父として、娘の選択を、信ずる。


 「父が、ここまで」

 クラリスは、付帯条項を、両手で持ったまま、長い間、黙っていた。

 「先代様は、二十年前から、すべてを、お考えだったのではございません」

 アレクサンドルは、低く言った。

 「死の床で、私に革袋を託される前夜、ご自身の運命を、初めて受け入れられたのだと拝察いたします。

 万一、と書かれた一行は、二十年前ではなく、十年前の、最後の夜の筆跡でございます」

 クラリスは、付帯条項の紙の縁を、指の腹で確かめた。

 「父の——筆の運びが、わずかに弱くなっておりますね」

 「左様で」


 彼女は、付帯条項を、二枚と並べて、革袋に戻した。

 革袋を、自分の鎖骨のあたりに、もう一度下げた。

 「アレクサンドル様」

 「はい」

 「血の縁の、壁の高さを——」

 「測りかねております」

 「私もです」

 アレクサンドルは、倉庫の扉の方を見た。

 「ですが、辺境の冬を共に越えた者として、申し上げたいことが、ございます」

 彼は、剣の柄の上に、もう一度、右の親指を乗せた。

 「私の名で、あなた様をお迎えしても、よろしいでしょうか」

 クラリスは、革袋の上に、自分の左手を、軽く置いた。

 革袋の縁が、彼女の鎖骨のあたりに、わずかに当たった。

 「アレクサンドル様」

 「はい」

 「血の縁は、王家の届け出で、書き換えられるものでしょうか」

 「書き換えられます。

 父君の付帯条項を根拠に、王家へ届け出をいたします。

 先代様は、付帯条項を残されたことで、王家の特例承認の道を、私どもに開いてくださいました」

 「父が、最後の夜に」

 「左様で」


 クラリスは、長い間、倉庫の屋根の雫を見ていた。

 雫は、規則正しく、敷石の上に落ちていた。

 彼女の指が、革袋の縁を、もう一度押さえた。

 「アレクサンドル様」

 彼女は、振り向いた。

 彼の青灰色の瞳が、彼女の顔を、まっすぐに見ていた。五年前、窓越しに見えなかった距離が、ようやく、彼女のすぐ前にあった。彼の右の頬骨の下、うっすらと一筋の古い剣傷が、初夏の光の中で、初めて彼女の目に映った。

 「アレックス」

 彼女は、初めて、その名を、短く呼んだ。

 彼の眉が、わずかに上がった。

 「お受けいたします」

 彼女の声に、もう力みはなかった。澄んで、低く、自分の声に戻っていた。

 「あなた様の名で、お迎えいただきとうございます」


 アレクサンドルは、頭を下げた。

 下げる動作の半ばで、彼の右手が、剣の柄から離れ、彼女の手を、そっと受けた。

 彼の掌は、剣の柄ダコと、馬の手綱ダコで、硬かった。

 彼女の掌は、計量竿の硬い節とペンだこで、硬かった。

 二つの硬い掌が、初夏の朝の倉庫の前で、ゆっくりと重なった。


 屋根の雫が、もう一つ、敷石の上に落ちた。


 秋になった。

 辺境の備蓄倉庫の前で、麦束が、黄金色に積み上がっていた。

 早朝の光が、麦の穂の先端を、一本ずつ、照らしていた。

 クラリスは、倉庫の階段に座り、革表紙の台帳を膝に置いていた。亜麻色の髪を低く編んでいたが、その編み目は、もう屋敷の侍女が結んだ硬い編み方ではなく、彼女自身の手で結んだ、わずかに緩い編み方だった。深い緑のドレス。指輪は、銀の細い一つだけ。

 隣に、アレクサンドルが座っていた。麻の白い襟の上に、紺の外套を引っかけていた。剣は、階段の脇に立てかけてあった。彼は、食事の前に、低く短い祈りを唱えた。辺境の風習だった。


 「アレックス」

 クラリスが、台帳を読みながら、隣に言った。

 「北西の村の収穫量、昨年比で一割の増。

 西の谷の塩、湿気率がやや高くなっておりますので、来月、入れ替えを行います」

 「了解した」

 アレクサンドルは、彼女の手元の台帳を覗き込んだ。

 「東の森の乾燥肉は、いかがか」

 「良好です。先月、虫害の発生はゼロ」

 「素晴らしい」

 彼は、彼女の肩を、軽く撫でた。

 「クラリスの台帳は、辺境の十五村と、カランドール領の三十村を、合わせて読めるのだな」

 「五年と、十年が、合わさって、十五年分の備えが、できました」

 彼女は、台帳の頁を捲った。捲る前に、必ず一呼吸置く癖は、変わっていなかった。


 倉庫の前に、村の年配の女性が一人、麦束を背負って通りかかった。

 「団長様、奥様、おはようございます」

 女性は、深く頭を下げた。

 「おはよう」

 アレクサンドルが、頷いた。

 「奥様、今年の麦は、過去十年で最良でございます。

 クラリス様が、いらしてくださったおかげと、村の者は皆、申しております」

 クラリスは、軽く、頭を下げた。

 「皆様の畝のおかげでございます」

 女性は、もう一度頭を下げて、丘を下って行った。


 クラリスは、台帳を膝の上で閉じた。

 閉じる前に、一呼吸置いた。

 「アレックス」

 「うん」

 「父の遺言書は、これからも、わたくしの手で持っていて、よろしいでしょうか」

 「もちろん」

 アレクサンドルは、彼女の左手を、自分の手の中に包んだ。

 「先代様は、十年前、私に託されました。

 私は、十年、左胸に下げて参りました。

 本日からは、クラリスの手の中で、もう一つの十年を、過ごせばよろしい」


 クラリスは、左手で台帳を抱え、右手で、革袋の中の遺言書を、外套の左胸の内側に下げ直した。

 彼女の鎖骨のあたりに、紙の縁が、わずかに触れた。

 十年、別の人の左胸にあった重さが、彼女の左胸に、ゆっくりと馴染んだ。


 秋の朝の光が、倉庫の麦束の上で、揺れていた。

 雀が一羽、麦束の先端に止まり、すぐに飛び立った。

 クラリスは、台帳の頁を、もう一頁、捲った。

 三十村の収穫量、十五村の備蓄量、来月の入れ替え予定、来年の凶作判定の見込み——彼女が、五年と、これから始まる十五年を、合わせて読むための、最初の頁だった。

 隣で、アレクサンドルが、彼女の肩を、もう一度撫でた。

 彼の手の硬さが、彼女の肩の薄さに、ゆっくりと伝わった。


 彼女は、初めて、自分の名前を、自分の家のためではなく、自分自身のために、書く準備ができていた。

 台帳の見返しに、彼女はペンを取り、署名した。

 ——クラリス・ハイデルベルク。

 インクが、紙の上で乾くのを、彼女は静かに待った。

 乾く頃、辺境の朝が、本格的に明るくなった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回のお話は、五年間、領内三十村の救荒備蓄を一手に支えてきた令嬢と、十年間、先代公爵の遺命を抱えて辺境で剣を振り続けた騎士団長の物語でした。執筆していて何度も考えたのは、「血統よりも、誰があなたを見続けたか」というテーマです。クラリスは、自分が誰の娘であったかを、二十六歳まで知りませんでした。アレクサンドルは、彼女が誰の娘であるかを、十年前から知っていました。けれど彼が彼女を守りたいと願ったのは、血の縁の名簿に書かれた関係ゆえではなく、五年前に窓越しに見た「三百匁」と動いた唇の記憶——彼女自身の姿——のためでした。血の縁は、出生のときに決まりますが、誰かを見続けるかどうかは、その後の十年で決まるのだと、書きながら思いました。


 救荒備蓄、配給高、分散管理、湿気率、虫害発生月。こうした「家政の固有名詞」を物語に持ち込むのは、書く側にとってもいくらかの覚悟が要りました。読者の皆様が、退屈に感じずに読んでくださっていたら、嬉しく思います。けれど私は、こうした地味な仕事こそ、領地を、領民の冬を、十五年単位で支えているのだと、書きながら改めて感じました。三十の村の名前を、頭の中で順番に暗誦できる若い令嬢。彼女の親指の腹の硬い節。台帳を閉じる前の一呼吸。そうした細部が、十万石の備蓄になり、三十村の冬を越す配給になりました。家政、領地経営、補給管理。あるいは介護、看護、保育、それから日々の家事。世の中の「目立たない仕事」をしている方々への、私からのささやかな敬意として、この物語を書きました。


 血の縁の壁を超える、というテーマは、書きながら何度も筆が止まりました。叔父と姪、後見人と被後見人——その関係から、互いを伴侶として求めることへ進むためには、王家の特例承認という装置が必要でした。けれど、装置よりも先に、辺境への峠を越えた朝に、アレクサンドルが気づいた一言——「遺命としてではなく、私自身の意思として」——が、二人にとっての本当の壁の越え方だったように思います。誰かを守りたいと願う動機が、義務から自分自身の意思へと変わる瞬間。十年抱えてきた紙の重さが、辺境の朝の空気の中で、ようやく自分のものとして見えてきた瞬間。そうした静かな転換を、書ければと願いました。


 最後の朝、二人が並んで台帳を読む場面を書きながら、私は、家政も、剣も、結局のところは「誰かの冬を越させる」ための仕事なのだと、改めて気づきました。三十村の冬を、十五年で覚えること。誰かの横顔を、十年見続けること。地味な習慣の積み重ねが、最後の朝の、麦束の黄金色に、繋がっていきます。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


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・「父の遺した古道具屋を、婚約破棄された令嬢が継いだ件」

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