シューリの不可抗力
思わぬ展開になって私も驚いています。
ヴィクトアとトレノアのことを数行書き足しました。
聖堂の中にいるカップルの中で相思相愛の人は何人いるのだろう?
そんなことを考えるのは、私と夫になるヴィクトアは相思相愛ではないからだろうか?
私の隣に立つヴィクトアは私ではなく、斜め前方に立つ女性。他の誰かの妻になるトレノアを目を細めて愛おしそうに見ている。
男性が愛を紡ぐ順になり、聖堂にいる男性全員が妻になる女性を見つめて愛を捧げる。その中でヴィクトアは私の名を口にはしていたけれど、その視線はやはりトレノアを見ている。きっと心の中ではトレノアの名を呼んでいるのだと想像できてしまう。
私、本当にヴィクトアと結婚してもいいのかな?
絶対に幸せになれないよね?
ヴィクトアとだけは絶対結婚しちゃ駄目だよね?!
女性が愛を紡ぐ番になり、大勢の女性が夫に愛の言葉を捧げる中、私は愛の言葉とヴィクトアの名前を口を閉ざしたまま口にしなかった。けれどヴィクトアはそれにも気がつかず、トレノアを見てうっとりとしていた。
一年に二度しかない結婚の儀の日は聖堂はたくさんのカップルで溢れる。
春の4月1日と秋の11月1日は結婚式は無料・・・と言っても書類手続きのための料金は支払わなければならない。
けれど他に費用は必要なく結婚できる日で、平民の殆どはこの年に二度の日のどちらかに結婚する。
裕福な商家やお貴族様は潤沢な資金で自分たちの都合の良い日に結婚する。
平民だってそれ相応のお金を用意できるのなら自分たちの都合の良い日に特別な結婚式をすることはできる。
私とヴィクトアは特別裕福でも貧乏でもない普通の平民。
結婚式にお金をかけるのならその分子育てに回す方が良い。
ましてやヴィクトアと私の間には愛もない。お金をかけて結婚するなんてありえなかった。
なので春の4月1日を選んで結婚することを双方の親が話し合って決めた。
ヴィクトアがトレノアを好きなことを知っていたので、両親には結婚したくないと何度も漏らしてはいた。
両親は私の気持ちをヴィクトアの両親に告げたのか、告げてくれなかったのか。
結婚の話はヴィクトアの両親に押し切られるようにして決まってしまった。
私のヴィクトアとは結婚したくない気持ちはなかったことにされて、ヴィクトアからなのか、ヴィクトアの両親からなのか、冬の終わりに白いワンピースをプレゼントされてしまっていた。
私はワンピースをプレゼントされていることを知らなかった。
白いワンピースを贈られるというのはプロポーズの最後の行為で「次の結婚の儀の日に結婚をしましょう」と言われ、受け取ると「喜んで」という返事になってしまう。
もう一度言おう。私はワンピースをプレゼントされていたことも知らなかったし、両親が受け取っていたことも知らなかった。
プレゼントされ、受け取ってしまった以上、結婚の話は私とヴィクトアの意思は関係なく進んでいくことになってしまった。
たくさんの新郎新婦がいて神官たちにとっては単なる流れ作業で、私達が婚姻届にサインする順番になった。
婚姻届が目の前に差し出されヴィクトアがサインする。
ヴィクトアが私に場所を譲ってペンを差し出してくる。
私はそのペンが受け取れない。
私の隣の列でトレノアが夫となる人と見つめ合って頬を染めて、トレノアがサインしているところだった。
ヴィクトアはやはりトレノアを見ている。
「ねぇ、やっぱり結婚はやめましょう」
「馬鹿なことを言うな。早くサインしろよっ!!」
私は目の前の婚姻届を手に取りヴィクトアに見せつけるようにして破いた。
「他の人を愛している人と結婚はできないわ。それに私もヴィクトアを愛していないもの!!」
ヴィクトアは一瞬で真っ赤になり、私を平手で殴った。
周りの視線に気がついてまずいことをしてしまったという顔をしたヴィクトアが、トレノアに視線を向けるので私も釣られてトレノアを見た。その表情には軽蔑の色があってヴィクトアはショックを受けているようだった。
青ざめた顔をして私に背を向けて逃げるように聖堂から一人で出ていった。
奥から女性神官が現れて私の肩を抱いて奥へと連れて行く。
殴られた頬に冷えたタオルを当ててくれる。
女性神官が何も言わず私の横に座って背を撫でてくれる。
ヴィクトアのことを愛してはいなかったけれど、惨めだとか情けないとか、よくわからない感情が湧いてきて涙が一筋流れた。
「ありがとうございました。もう落ち着きました」
「そう?ゆっくりしていってくれていいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
タオルを返してもう一度「ありがとうございました」と伝えて両親がいる自宅へと向かった。
それからはもう大騒ぎだった。両親たちが。
ヴィクトアは私が悪いと言い、私はいくら見合い相手だとしても、私を見ようともしない相手とは結婚できないと罵り合って話は平行線。
私は白いワンピースをヴィクトアの両親に返した。
両家の両親は私たちの結婚を諦めて、私とヴィクトアの結婚は白紙に戻った。
その途端、ヴィクトアがトレノアに告白したと噂で聞いた。
ヴィクトアは遠くからトレノアをただ見ていただけの人で、トレノアに認識されてもいなかったらしい。
ちょっと笑ってしまったのはヴィクトアは、トレノアの旦那さんにボコにされたとか。
シューリはその話を聞いて、どこの誰とは知らないトレノアの旦那さんに『ありがとう』と心の中で呟いた。
そこでふと思い出した。あの結婚の儀の日、私もトレノアばかりを見ていたことを。
結婚の話が白紙に戻った途端、両親は腫れ物に触るかのように私に接してくる。
暫くは仕方ないかと諦めて私は日常を取り戻す努力をすることにした。
元々結婚しても子供ができるまで仕事を続けるつもりだったので、結婚のためにいただいていた翌日の休み中にも関わらず通常通りに出勤した。
驚く上司や職場の人たちに実は・・・と結婚が取りやめになったことを説明した。
「休暇を取り消して業務に戻ります」とお願いした。
そのまま仕事に復帰することができて私の日常は戻ってきた。
職場でも腫れ物に触るように扱われるかと思ったけれど、仕事とプライベートは分けられる人たちで仕事にはなんの不都合もなかった。
終業のチャイムが鳴って、その日にこなすべき仕事を終えた私は机の周りを片付けて皆に「また明日」と告げ部署を後にした。
廊下の先で、学生の頃から親友のアニタが立っていて私に手を振っていた。
「シューリ!!」
「アニタ!」
「聞いたわよ。結婚取りやめにしたんだって?」
「人の不幸な話は流れるのが早いね〜」
「違うよ」
「ん?」
「ヴィクトアが彼方此方でシューリの悪口を言い回ってる。それを聞いたの」
「ヴィクトア・・・本当に最低な男!!」
「で、実際はどういうことなの?」
「とりあえずどこかに行かない?ここで話すのはちょっと嫌」
二人して行きつけの酒場へと繰り出すことにした。
「でさぁ、運がいいのか悪いのか、私の斜め前にトレノアがいたのよ。そうしたらヴィクトアは何を話しかけても空返事で、トレノアから目が離せないみたいで、式の間ずっとトレノアを見続けていたの。流石に嫌になっちゃって」
「それはそうよね。式が終わって二人になったら初夜だもんね。自分を見てくれもしない相手とって考えたらゾッとするわね」
「でしょう?!で、結婚をやめようって言ったら頬を殴られたの」
「うわっ・・・ヴィクトア、最低ね。まだ頬が腫れてるよ」
アニタは私以上にヴィクトアに嫌悪感を感じたようで、少しお酒の力もあってヴィクトアの悪口でその日の夜は更けていった。
私はアニタと職場の人以外にヴィクトアのことを話したことはない。
なのに日が経つごとにヴィクトアが漏らした私の悪口と同じように、私側から見た話も噂として出回っていた。
ヴィクトアとのことをアニタに話していた酒場にヴィクトアを知る人が偶々いたらしくて、その人とアニタが全く別の場所で私側からの経緯を漏らした。もしかしたら同じ部署の人も誰かに話したかもしれない。
アニタは私の悪口を消すように、私視点からの話を漏らしたのだと謝ってきた。
あまりにも大きくなった噂にため息を吐いていると、アニタが「本当にごめん」と謝るので「気にしないで」と言いつつもつい愚痴がこぼれた。
「どっちの噂が流れても結局私の方がダメージ大きいんだけれどね」
「そうだよね・・・ほんと、ごめんなさい・・・配慮が足りなかった」
アニタに本当に悪意はなかったのか?そう疑う自分がいて、今までの私ならそんなふうに考えたりしなかったんじゃないかと思うと、結婚を取りやめて少し人間不信になっているんだと気がついた。
私がヴィクトアとの結婚を嫌がっていることを知りつつ、ワンピースを勝手に受け取った両親のことも信じられなくなっていた。
自分で思っている以上に傷ついていたのね・・・。
結婚を取りやめてから半年もすると私とヴィクトアの噂は誰も口にすることはなくなっていた。
平気なふりをしていても本当に平気だったわけではないので、噂が耳に入らなくなってやっと呼吸が楽になった気がした。
いつも一緒だったアニタと少し距離ができた。親友だったのに今はもう顔見知り程度になっている。
噂を流したことにアニタに悪意はなかったと、私が信じきれなかったから。
アニタに偶然会えば挨拶もするし「次遊びに行こう」と約束はするけど、実際には遊びに行かない。そんな関係になっていた。
職場と家の往復だけの毎日の中、両親の腫れ物に触るような態度も日が経つ毎に薄れていって、今はもう前と変わらない態度になっていた。
もしかすると私だけが半年前に囚われているのかもしれなかった。
そんなある日、父に「見合いの話がきているがどうする?」と聞かれた。
相手の釣り書を見せてもらって姿絵を見る。
正直姿絵は当てにならないのだけれど、私はこの人を知っていた。
ウエイツ・ミントス。私より3つ年上で、高身長、高学歴、高収入で引く手数多な人。
仕事関係で姿形を知っている程度だけれど、ミントスが私の職場に来ると、同じ部署の女性はうっとりと見惚れている。
まぁ、私も見惚れていたりする。
そんな人がなんで結婚に傷のある私のところに見合い話を持ってくるのかが不思議で仕方なかった。
「シューリが嫌じゃなかったら取り敢えず一度会いたいとのことだ」
「会うのは嫌じゃないけど・・・」
「なら、今週の土曜日の14時に迎えの馬車を寄越してくれるそうだ」
「急な話ね・・・」
ミントスの見合いの相手がなんで私なんだろうと思いながら翌日仕事をしていると、ミントスが私の部署に顔を出した。
応接間に案内してお茶をお出しする。
「見合いの話を受けてくれてありがとう」
ミントスにそう言われて一瞬戸惑う。こういう時はなんて返事すればいいんだろう?
なんで私なんですか?ってここで聞いてもいいんだろうか?
私は愛想笑いのようなほほ笑みを浮かべて「土曜日にお話ししましょう」と答えた。
すぐに上司がやってきたので上司のお茶を出してから、退室した。
少し浮かれた気分でお気に入りのワンピースに着替えて時計を見る。
そろそろ迎えの馬車がやって来る時間だ。
落ち着かない気分で玄関の扉の外で馬車が来るのを待った。
私の家は貧乏ではないけれど、馬車を日常使いできるほどの余裕はない。
家の前に馬車が来るなんて生まれて初めての経験である。
馬車に乗ったのも片手ほどしかない。
ミントスとの見合いに浮かれているのか、馬車に乗れることに浮かれているのか解らないまま馬車はやってきて、御者の人が馬車のドアを開けてくれた。
ウキウキした気分で馬車に乗り込んで車窓から見える景色は、歩いているときとは全く違うもののような気がした。
私が普段買い物をする市場を通り過ぎて、裕福な家庭が買い物をする商店通りの外れにあるカフェの前にミントスが立って私が来るのを待っていてくれた。
御者がドアを開けるとミントスに手を差し伸べられる。
その手の意味がわからなくて首を傾げていると、ミントスはクスリと笑って「手を」と言った。
たったそれだけで私は真っ赤になってミントスに手を差し出したものの、ミントスを見る余裕さえ失っていた。
きっと耳まで真っ赤だわ・・・。
カフェの中に案内され、値段が記載されていないメニューを渡されて私が本当にここにいていいのか心配になった。
きっと私が支払えるような値段じゃないんだわ・・・。
「飲み物はどんなものが好きかな?寒くなってきたから温かい飲み物がいいかな?」
「あっ、はい・・・」
「温かい飲み物なら珈琲か紅茶かな。変わり種でスープもあるみたいだけど、何がいい?」
「・・・珈琲でお願いします」
珈琲が置かれる前に注文していない色とりどりの見たこともないお菓子がテーブルに並べられた。
「全部食べるといいよ。残ったらお土産として持たせてくれるから残しても大丈夫だよ」
珈琲が目の前に置かれ一口飲む。ほろ苦い味がほんの少し私の心を落ち着かせた。
恥ずかしくて目を合わせられなかったミントスに視線を向ける。
「やっと私を見てくれた」
また俯きそうになったけれど必死で我慢した。ミントスが本当に嬉しそうだったから。
「お見合い経験がないからどんなふうに話を進めればいいのか解らないんだけど、私はシューリ・ヴァウガストさんのことをずっといいなと思っていました。結婚をされるとのことで一度諦めたのですが、私にとって幸運なことにヴァウガストさんの結婚が取りやめになりました」
信じられない気持ちでミントスが話す言葉を聞く。
「もし私のことが嫌いでないのなら私とお付き合いしてもらえませんか?」
私はふわふわと浮かれた心持ちで耳まで赤くして「はい」と答えていた。
ぎこちない会話が少しスムーズになって、いつの間にか次会う約束をして、ほとんど手を付けなかったお菓子をお土産に持たされて、気がついたら自室のベッドに倒れ込んでいた。
あまりにも幸せでジッとしていられなくて、ベッドの上で足をバタバタさせた。
ミントスと会うと、まるで雲に乗っているようにふわふわした気持ちになる。
今まで経験したことのないことをミントスは経験させてくれる。
生活している階級が同じ平民でも全く違うのだと解る。
ミントスと付き合っているのが本当に私でいいのか時に不安になりながら二人の関係は進展していった。
どうして私と?聞いたのは二度目のデートだった。少し人間不信になっていること、ミントスのような格好いい人に思われるような人間ではないことをミントスに伝えた。
ミントスは真摯に向き合ってくれ私が納得するまで話し合ってくれた。
ミントスのことをウエイツと呼ぶようになって手を繋いだのは三度目のデートだった。
初めて口づけたのは五度目のデート。ヴィクトアと口づけていなくてよかったと、心から思った。
十度目のデートでは結婚を考えて欲しいと言われた。
二人で住むならどんな家にしようかと話して、不動産屋を冷やかしに行ったのは十三度目のデートで、本当に部屋を決めたのは十八度目のデートだった。
十九度目のデートで白いワンピースをプレゼントされ、4月1日がやってきて、婚姻届に二人でサインした。
シューリ・ミントスになり身も心もウエイツに捧げた。
結婚当初、今までの生活と違う贅沢な生活は戸惑うことが少なからずあったけれど、それに馴染んだ頃には妊娠していた。
子供を産む頃には贅沢な生活は当たり前になっていてウエイツに愛されていることも、愛していることも当たり前になった。
陣痛が来たとき、ウエイツは隣で眠っていた。
初産は時間がかかると聞いていたので、朝が来るまでリビングのソファーで横になったり座ったりしながら陣痛をやり過ごした。
寝室で目覚ましの音が鳴ってウエイツが起きてくる。
ちょうど陣痛の合間だったけれど、呑気に「おはよう」と言われてちょっとムッとした。起こさないように気遣ったのは私だ。文句は言えない。
私は陣痛が来たことを伝えて病院に行く手はずをしてもらう。
陣痛の波が来てそれを見た途端にウエイツはオロオロしだした。
できる男でもこんな時はオロオロするんだと知って可愛いと思ったけど、それより事前に決めていた事をこなして欲しかった。
馬車がアパートメントの前につき、二人で乗り込む。
病院についた時は陣痛の真っ最中でとてもじゃないけど歩けなかった。
ウエイツと看護師に抱えられてベッドに寝かされ、診察を受けた。
「まだちょっと時間かかるね」
そう言われてこの痛みとまだ付き合わなければならないのかと肩を落とした。
ウエイツは役に立っているようで役に立たないので、職場に休む連絡を入れたほうがいいと伝えると、やるべきことがはっきりするとウエイツはいつものできる男になったように見えた。
長い長い陣痛の後、私はウエイツの髪色で顔はウエイツにそっくりな男の子を産んだ。
目の前で湯で綺麗にされていく我が子を見て、愛おしくて仕方なかった。
初乳を飲ませると我が子と引き離されることになった。
部屋の前にいるウエイツの喜ぶ声が聞こえる。
精も根も尽き果てた私は扉越しにウエイツが喜ぶ声を子守唄にして眠りについた。
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ウエイツはシューリが苦しむ声が聞こえる最中何もできない自分に苛立ちながら部屋の前を行ったり来たりしながら、早く生まれろ、元気な子でありますようにと祈っていた。
長い長い時間だったと思う。
赤ん坊の泣き声がして生まれたと思ったらそれは隣の部屋で、シューリはまだ苦しんでいた。
それから暫く経つとまた赤ん坊の泣き声がして看護師が「お父さんによく似た元気な男の子ですよ」と教えてくれてまた部屋の中へと戻っていった。
部屋の横においてある長椅子に腰を落として長い息を吐いた。
少しずつ喜びが湧き上がってくる。
そしてふと、隣の部屋の前には誰もいないんだな、となんとなく思った。
父親は仕事でもしていて間に合わなかったのだろうか?とチラッと考えたが、部屋から我が子が出てきたのですべてを忘れて感動していた。
看護師に抱いてあげてくださいと言われておっかなびっくりで抱いた。
その軽さに驚いて、その重みに身が震えた。
自分と同じ髪色で私によく似ている気がした。
我が子を看護師に返すとどこかに連れて行かれた。
部屋からベッドで眠っているシューリが運び出されてきて、シューリの頭を撫でながら「ありがとう」と言った。
別の部屋へ連れて行かれたシューリに少し遅れて赤ん坊が連れられてきた。
赤ん坊の顔を覗き込んで「あれ?」と思った。
シューリが目覚めたのか「ウエイツ・・・」と呼んだのでシューリの方に振り返り、シューリを撫でて「お疲れ様。元気で可愛い子を産んでくれてありがとう」と伝えた。
「名前決まった?」
「アシュライはどうかな?」
「アシュライ・・・素敵な名前。私達のアシュライ・・・」
「お義父さんたちに連絡を入れてくるよ」
「うん。お願い。もう少し眠るね」
「おやすみ」
目を瞑ったシューリと赤ん坊を残してシューリの両親と自分の両親に子供が生まれた連絡をいれる手はずを整えた。
シューリの両親が先に着いて、元気な男の子が生まれたと伝えていると、私の両親も取るものも取りあえずといった風でやってきた。
四人に寝てるかもしれないので静かにと伝え、病室に入る。
五人で赤ん坊を覗き込んでまた「あれ?」と思った。
人の気配が煩かったのか、それとも腹が空いたのか、赤ん坊が泣き出した。
義母が抱き上げても泣き止まず、シューリの目が覚ました。
シューリは一瞬人の多さに驚いて、満面の笑顔を浮かべた。
両親と義父母が口々に労ってシューリに赤ん坊を渡した。
赤ん坊を受け取ったシューリは「えっ?」と声を上げて「違う!!私の子じゃないっ!!」と叫んだ。
シューリはパニックを起こして「違う!!私の子はどこにいるの?!」と叫び声を上げ、その騒ぎを聞きつけて看護師が三人やってきた。
シューリは看護師にすがりついて「この子は私の子じゃないわ!!私の子はどこにいるの?!」と叫ぶ。
看護師に「落ち着いて」となだめられるがシューリはますますパニックを強めていく。
息が浅くなりヒューヒューと喉が鳴っている。
「私の子を返してっ!!」
一人の看護師に両親と義父母、私が部屋から出され、何があったか聞かれるが、赤ん坊を抱いて顔を見た瞬間に私の子じゃないと言い出したとしか言えなかった。
そして私自身もここにいる赤ん坊が我が子ではない気がすると伝えた。
生まれてきてすぐに見た我が子は私と同じ髪色をしていた。顔もよく似ていた。
だが今部屋にいる赤ん坊は私の髪とは全く違う色をしていた。
「奥さんに釣られて我が子じゃないって言っているだけなんじゃないですか?」
「赤ん坊の顔を見るたび、あれ?っと思っていたんです。出産の部屋から出てきた我が子と顔も髪色も違います」
看護師が顔を青くする。
「そういえば出産時に隣の部屋でも赤ん坊が生まれてましたよね?」
そう私が言うと看護師は私に背を向けてどこかへ走っていった。
どこかへ行った看護師がすぐに赤ん坊を抱いて戻ってきて、その子を私に見せる。
両親も義父母も赤ん坊を覗き込む。
「ああ、間違いなくこの子がウエイツの子だ」
そう全員が納得した。
私がアシュライを抱いてシューリの元へ行く。
シューリは暴れたせいか看護師に押さえつけられていた。
私は声を荒げて看護師にシューリを離すように言う。
看護師に「落ち着いて」と言われる度にシューリが興奮を大きくしていく。
アシュライを連れてきた看護師が他の看護師に耳打ちする。
シューリの拘束が解けてシューリの視線が私が抱くアシュライに向く。
シューリがベッドから降りようとして痛みに呻くのを聞いて慌てて私がシューリの下へ行き、アシュライを見せた。
アシュライの顔を見て「この子が私の子よ!!」と言ってアシュライを抱きしめた。
もう二度と離さないというように。
この部屋にいた赤ん坊は看護師に連れられて部屋から出ていった。母親の下に戻されるのだろう。
ホッと息を吐く。
シューリとアシュライを一緒に抱きしめる。
まだ興奮が冷めないのか、シューリが肩で息をしている。
なだめるように背を何度も撫でて「大丈夫。アシュライはシューリが抱いているよ」と言い続けた。
病院から謝罪があった。
同時刻に生まれた子がいて身体測定をしているどこかで入れ違ってしまったのだと。
そんな間違いがあっていいはずはなく、裁判を起こすと両親が息巻いた。
シューリは暫くアシュライを手放せなくなっていた。
病院では同じベッドで眠り、シューリと引き離すことを何があっても許さなかった。
家に帰ってからも何度もアシュライを探して顔を見ては安心することを繰り返した。
眠りも浅く、いつも目の下に隈を作っている。
「もう大丈夫だよ」と慰めても時間が経つと不安になり、アシュライの顔を覗く。
それでも病院にいた頃に比べたらまだマシになった。
時間が経つ毎に落ち着くと信じてたい。
シューリがアシュライに付きっきりなので家のことをしてくれる人を雇った。
シューリは私以外がアシュライに触れるのを極端に嫌がった。
両親にも義父母ですら嫌な顔をした。
シューリが落ち着くまでに一年かかった。
私達は子供を取り違えられたもう片方の親と一緒に裁判を起こすつもりだった。
だがその母親は子供を入れ違えられたことを歓迎していたのだと口にした。
その母親は赤ん坊の父親に捨てられて、一人で育てることは無理だと思っていたらしかった。
苦しみの中で産んだ可愛い我が子の未来は先行きが暗い。
なのに同じ病院、同じ日の同じ時間帯に生まれたもう一人の赤ん坊は裕福そうな家庭の子で、我が子と入れ替えられたらいいのにと思ったらしい。
そして本当に入れ替えられた裕福な家の子が自分の手元にやってきた。
神の采配かと打ち震えた。
裕福な家の赤ん坊は退院したらどこかに捨てればいいと思っていたと話したそうだ。
母親は入れ違えられたことを黙っていただけなので罪には問われなかった。
病院から慰謝料をもらったのかどうかも私達は知らない。
私達には病院からはそれ相応の金額の慰謝料が支払われた。
二度と入れ違いが起こらないように体制も整えていくということで示談した。
アシュライは今日も私によく似ている。
シューリは二人目を身ごもった。
アシュライを産んだ病院は絶対嫌だと言って、自宅出産すると言っている。
それでシューリが安心するならそれでいいと思っている。