第7話 過去
写本工房「スミス」の薄暗い室内に、わずかな灯りが揺れていた。マリアンは帳簿を片手にユレィシアの前に腰を下ろす。ロイの行動を探るため、ユレィシアは再びここを訪れていた。
「それで、ロイのことを知りたいと言ったかの?」
マリアンが椅子の背にもたれながら、赤い髪を指先で弄ぶ。
ユレィシアは腕を組み、少し苛立ったように頷く。
「ええ。彼の力を見た以上、無視することなんてできないわ。何者なの?」
マリアンは片眉を上げると、ため息交じりに笑った。
「何者か、のぉ……それは本人に聞くのが筋じゃろう?」
「本人が話さないから、あなたに聞いてるのよ」
ユレィシアは食い下がった。
しばし沈黙が流れた。マリアンは手元の帳簿を閉じると、ゆっくりとした口調で語り出す。
「ロイはの……十年前、ある女性が連れてきた子じゃ。その女性は、わしの古い友人での。それだけの花話じゃ」
「どうして?」
ユレィシアは眉をひそめた。
マリアンは意味深に微笑む。
「話せば、余計な疑問と、そうじゃな、そして混乱を生むだけじゃよ。だが、ひとつ言えるのは……ロイには大きな目的がある。そして、それを邪魔するつもりなら、おぬしもただでは済まんかもしれんの」
ユレィシアは言葉を失った。マリアンの言葉の裏に、何か隠された重大な意味があるのは明白だった。しかし、今の彼女にそれを暴く術はない。
「……つまり、あんたは彼を守るつもりなのね?」
「守る……のとは少し違うかのぉ。ただ、ロイの目的を邪魔するわけにはいかんのじゃ。……それ以上は、詮索せんことじゃな。それがロイと、あ奴との約束じゃ」
マリアンの声音が少し冷たくなる。
ユレィシアは唇を噛みしめた。ロイの正体、目的、彼を預けたという女性のこと。知りたいことは山ほどあった。しかし、マリアンという壁はそう簡単には崩れそうになかった。
「……わかったわ。でも、私は諦めない。ロイが何をしようとしているのか、いつか突き止めてみせる」
マリアンは微笑むが、その瞳にはどこか影が差していた。
「好きにするがよい……ただし、深入りはせんことじゃな」
マリアンは帳簿を閉じ、じろりとユレィシアを見上げた。
「さて、小娘。そなた、ここへ何の用で来た?」
赤い瞳が鋭く光る。その声音には探るような色が滲んでいた。
机の上で指先をとんとんと打ち鳴らしながら、マリアンはユレィシアを試すような笑みを浮かべた。
「まさか、ただの冷やかしではあるまい。ロイの名を出しておったが……さて、そやつに何の用じゃ?」
「それはさっき前にも話したけど! 彼の協力が必要なの……」
「ふむ」
ユレィシアは腕を組み、少し考え込んだ後、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと答えた。
「……魔術犯罪が増えているのは知ってるでしょ?」
視線を逸らしながら、さらに続ける。
「その対処には、優れた魔導士が必要で……私一人じゃ手が足りない」
一拍置き、僅かに声の調子を落とした。
「だから……彼の力がいるの」
そこまで言って、ふと口をつぐむ。まるで、一番肝心な理由を隠すかのように。
マリアンはユレィシアの言葉を最後まで聞いたあと、ふっと口角を上げた。
「ふむ……それだけかの?」
帳簿を弄ぶように指先で弾きながら、じろりとユレィシアを見据える。その眼差しは、まるですべてを見透かしているかのように深く冷ややかだった。
「魔術犯罪の対処? 優れた魔導士が必要? なるほど、もっともらしいのう」
軽く鼻を鳴らし、ゆったりと椅子に凭れかかる。
「じゃがな──そんなもん、お主の本当の望みじゃなかろう?」
ユレィシアの表情が一瞬だけ揺らぐ。それを見逃さず、マリアンはさらに言葉を続けた。
「……お主が欲しがっておるのは"証明"じゃろう?」
まるで心の奥底に手を突っ込まれたような錯覚。ユレィシアは思わず拳を握り締めた。
「ただの正義ごっこなら、そこらの魔導士でもできる。けれど、アンタは違う。アンタが求めとるのは"自らの力がどこまで通用するか"──違うかの?」
静寂が落ちる。ユレィシアの喉が小さく動いたが、何も言い返さない。
マリアンの指先が帳簿の表紙をなぞる。
目の前の少女の瞳には、かつて見たことのある炎が灯っていた。強く、揺らぎなく、ただひたすらに前を見据える光。
──ああ、やれやれ。
一瞬、懐かしさに浸りかけた自分をマリアンは内心で苦々しく嗤う。
「正義」に生きたあの友と、この娘を重ねるなんて、愚かしいにもほどがある。
あの人は清廉で、純粋で、ただまっすぐに信念を貫こうとした。だが、目の前の少女は──違う。彼女の瞳には、もっと別の色がある。信念と共に、己を証明せんとする野心が滾っている。
だからこそ──危うい。
マリアンはふっとため息をつき、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「ま、ええ。別に責めはせんよ。そういうガキは嫌いじゃないでな」
自分に言い聞かせるように、軽口を叩く。
ユレィシアの顔を、もう二度と見られぬ友のものと重ねてしまったことに、気付かぬふりをしながら。
マリアンは腕を組み、目を細めながらユレィシアを見つめた。軽く唇の端を上げると、まるで何か面白いものでも見つけたかのように、にやりと笑う。
「それでもロイの過去を知りたいのじゃろう?」
「はい」
ユレィシアは表情を崩さず、ただ静かに頷いた。マリアンの性格はすでに把握している。言葉の端々にちりばめられる軽口や冗談は、話を真剣に聞き出す妨げになりかねない。彼女は無駄なやり取りを避け、核心に迫るため、慎重に言葉を選んだ。
「もしお主が、ロイの生涯の伴侶になるつもりなら……あるいは、真実を教えてやらんこともないかもしれんのう?」
マリアンはくすくすと笑いながら言った。冗談めかした声音であったが、その眼差しにはどこか探るような光が宿っていた。ユレィシアはその意図を読み取りながらも、あからさまな反応は示さない。
「それは絶対にないです」
淡々とした返答。しかし、その一言に込められた断固たる意志は明確だった。ユレィシアにとって、ロイはあくまで任務の対象であり、追うべき謎の中心にいる存在だ。私情を挟む余地はない。マリアンの冗談に乗る必要も、動揺する理由もなかった。
「つれないのう。こういう話をすれば、少しは可愛げを見せるかと思ったのじゃが」
「それ以上は言えない、ということですか?」
「察しがいいのう」
マリアンは微笑むが、その笑みの奥には複雑なものが見え隠れしていた。ユレィシアはその沈黙が何を意味するのかを考えながら、再び冷静な声で問いかける。
「ならば、ロイ自身に聞けばいいだけの話です。」
「ふむ、そうじゃな。だが、ロイは簡単に話してくれると思うか?」
マリアンの問いかけに、ユレィシアは何も答えなかった。彼女もまた、ロイが決して簡単に心を開く人物ではないことを理解していたからだ。
〇
昼下がりの大通りは、人と声と熱気に満ちていた。
陽の光が石畳を照らし、行き交う人々の影を長く伸ばす。商人たちの威勢のいい掛け声が飛び交い、露店の布が風に揺れるたび、香辛料や焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
馬車の車輪が軋む音、子供たちのはしゃぐ笑い声、遠くで鳴る鐘の音──すべてが入り混じり、大通りはひとつの生き物のようにざわめいていた。
旅人が足を止めて土産物を眺め、職人たちが品定めをする。貴族らしき男女が絹の手袋をはめた指先で品を選び、横を通る荷運びの男たちが力強い掛け声を上げる。
活気に満ちた昼下がり。そこには、止まることのない都市の鼓動があった。
ユレィシアは唇を噛んだ。
──私は、ただ戦いたいわけじゃない。
任務をこなし、魔術を振るい、正しきことを成す。それは当然のこと。だが、それだけでは足りない。自分がどれほどの力を持ち、どれほど役立つ存在なのか──周囲の大人たちに、はっきりと示さなければならない。
彼らはいつだって口先だけで持ち上げながら、本当に必要な場面では信用しない。手柄を立てても、結局は「まだ若いから」で片付けられる。背中を預けられる存在として、対等に認められることはない。
だからこそ──証明する。
自分が何者なのか。どれほどの力を持ち、どれほど価値があるのか。
そのためには、ロイの力が要る。あの男の力があれば、どんな強敵にも打ち勝ち、誰にも文句を言わせない結果を叩きつけられる。
彼は、協力さえすれば最強の切り札になる。
だから──
「私は、アンタが必要なの」
絞り出すように呟いたその言葉に、どれほどの真実が含まれているのか──彼女自身、確かめるのが怖かった。
言葉は、喧騒に飲み込まれて搔き消えてゆく。