第6話 踏み込む
更地となった大地の静寂は、ユレィシアの心を締め付けるには十分すぎるほどだった。ロイは、自分が引き起こした惨状をただ見つめていた。彼の表情はいつも以上に無機質で、そこに感情の揺らぎを見出すことはできなかった。
だが、ユレィシアは気づいていた。
ロイは、この力を望んではいない。
それが分かったのは、先ほどのほんの一瞬のことだった。圧倒的な力を解放した彼の瞳には、驚きと困惑が混ざっていた。まるで、自分が何者か分からなくなるような、そんな感覚に囚われていたかのように——。
(……ロイ、あんたは何者なの?)
ユレィシアの心には、疑問が渦巻いていた。ロイのマナは、尋常ではない。暴走したとはいえ、あの一瞬で周囲を一掃するほどの魔力を持つ者など、彼女の知る限り存在しなかった。
彼の秘密を知ることで、何かが分かるかもしれない。
いや──知るべきなのだ。
ユレィシアは、ロイに近づこうとした。
しかし、その瞬間。
「……帰る」
ロイはそう呟くと、ひるがえるように踵を返し、瓦礫すら消え去った空間を静かに歩き出した。
「あっ……!」
ユレィシアが言葉を発する間もなく、ロイの背中はすぐに遠ざかっていく。
(待ちなさいよ……!)
だが、今は無理だ。体力も限界だし、何よりも混乱している。彼の秘密を暴くには、もっと慎重に行動するべきだった。
〇
翌日。
ユレィシアの視線が建物を見上げる。
二度目に訪れる写本工房〈スミス〉は、初めて来たときよりも奇妙な存在感を放っていた。古びた石造りの外壁は時間の流れを刻むように苔むし、窓枠には細やかな装飾が施されている。だが、どこか歪で、厳めしい図書館のような堅苦しさと、生活の匂いが入り混じった奇妙な空気を纏っていた。
入口には、経年でかすれた木製の看板が揺れている。〈スミス〉筆記体で彫られた文字は、一見するとただの看板に過ぎないが、じっと見つめるとまるでその名前が意思を持っているかのように感じられた。
扉の隙間から、微かにインクと羊皮紙の香りが漏れてくる。前回は勢いで飛び込んだが、今回は少しだけ足がすくむ。
──この扉の向こうに、ロイがいる。
ユレィシアは深く息を吸い込み、ためらいを振り払うように扉へと手を伸ばした。
(いや、直接会うのは、まだ)
ユレィシアはそっと建物の脇へ回り込んだ。
写本工房〈スミス〉の窓は小さく、古びた木枠に囲まれている。内側から洩れる灯りが、ぼんやりと夜気を照らしていた。彼女は慎重に身を屈め、指先で窓枠をなぞる。ひんやりとした感触が、少しだけ緊張を和らげた。
──ロイは、ここにいるの?
そっと目を凝らす。室内には無造作に積み上げられた書物、古びた机、そしてインクの染みついた羊皮紙。だが、彼の姿は見当たらない。
不意に、扉の向こうから足音が響いた。ユレィシアは息を飲み、咄嗟に窓の下へ身を伏せる。
それでも、彼女の心はざわめいていた。この場所には、ロイの知らない一面が眠っている。彼の秘密を知るためには、一歩踏み込まなければならない──そんな衝動が、胸の奥でくすぶり続けていた。
「ロイ、そこにある羊皮紙、こっちに持ってきてほしいのじゃ」
「ああ……」
淡々とした返事。ロイは必要最低限の会話しかしない。そんな彼が、この工房に身を寄せているのは何か理由があるに違いない。
ユレィシアは、工房の窓の外から彼の様子をうかがいながら、ゆっくりと考えを巡らせた。
(ロイの秘密……暴走したマナ……あの耳飾り……)
どうやら、彼の力を封じていたのは、あの聖遺物のようだった。しかし、なぜそんなものが必要なのか。
そして、なぜ彼は秘密を隠そうとするのか。
(……あんたのこと、もっと知る必要があるわね)
ユレィシアは決意を固めた。
そして、彼女の追跡は、ここから本格的に始まるのだった。
〇
「写本工房……スミス?」
ロイが出入りしていることは初めから知っていたが、詳しく調べたことはなかった。そこは古くからある工房で、貴族や学者の間では名の知れた場所だ。魔道書の写本や、希少な文献の修復を手がける職人たちの集う場所。
ユレィシアは建物の前で立ち止まり、深呼吸した。慎重に様子を伺いながら、扉の隙間から中を覗き込む。ロイはどうやら不在のようだ。
すると、赤髪をツインテールにした女性が帳簿を睨みながら何やらぼやいていた。
「もう少し儲けにならんかのう……。学府の仕事ばかりじゃなく、もっと大口の依頼を……ん?」
その瞬間、視線が合った。
「……ほう? 何をしておる、小娘?」
「えっ」
ユレィシアは咄嗟に身を引いた。
(しまった、見つかった!)
「うちに何か用かの? まさか、商談に来たわけではあるまい?」
彼女の目が鋭く光る。俗人的でお金に目がない──その噂は少なくとも発言から本当のようだった。
ユレィシアは内心焦りながらも、ここで引くわけにはいかないと思い直し、堂々と名乗ることにした。
「私はユレィシア・ナッソー。ここにいるはずのロイ・アランソンに用があるの」
マリアンは、扉の向こうに立つ少女を見た瞬間、息をのんだ。
一瞬、時が巻き戻ったのかと思った。
長い銀の髪が陽の光を受けて淡く光る。整った眉と鋭い青の瞳、凛とした表情には誇り高さが滲んでいた。だが、それだけではない。彼女の立ち姿、歩く仕草、そしてどこか不器用なほど真っ直ぐな視線──すべてが、過去に置き去りにしたあの人を思い起こさせた。
(……馬鹿な)
胸の奥がざわつくのを、マリアンは押さえ込む。目の前にいるのは、あの人ではない。ただの他人だ。ただの──ロイを追いかけてここに来た、小娘。
「……ほう? 何をしておる、小娘?」
そう言いながらも、心のどこかでは期待していた。もしこの少女が、彼の助けになれば──と。
「ロイの知り合い……? ふむ、面白いのう」
ニヤリと笑うと、彼女は招くように扉を開けた。
「なら、入るがよい。ロイのことを知りたいならば、色々と話してやってもいいぞ?」
ユレィシアは一瞬だけ迷ったが、意を決して工房の中へと足を踏み入れた。
ロイの秘密に、また一歩近づくために——。
写本工房〈スミス〉の扉をくぐると、まず鼻をつくのはインクと古い紙の匂いだった。革装丁の書物が積み重なり、棚の隙間にも羊皮紙の束が詰め込まれている。机の上には開きっぱなしの帳簿や書きかけの写本が雑然と並び、床には細かな羊皮紙の切れ端や、乾燥したインクの染みが点々と残っていた。
窓辺にはいくつもの蝋燭立てが置かれ、そのほとんどが溶けかけた蝋の山になっている。壁際の椅子には脱ぎ捨てられた上着が無造作にかけられ、片隅には何に使うのか分からない巻物や道具類が放置されていた。
それでも、工房全体が埃にまみれていないのは、ロイが日々掃除をしているからだろう。床には磨かれた跡があり、本棚も最低限の整頓はされている。だが、ロイの手が届かない場所──マリアンの机周りや、工房の奥にある保管庫は例外だった。そこは、まるで時間が止まったかのように雑然とし、古い紙束が山を成している。
「さて、何から話すかのう……」
マリアンは帳簿を片付けながら、ゆっくりと話し始めた。
「ロイがここに住み着いたのは……もう何年も前のことじゃ。わしがこの工房を継いだ頃、奴はふらりと現れてのう」
「それって、いつ……?」
「正確な時期は覚えておらんが、学府に通い始める前じゃったな。最初はただの厄介者かと思うたが……あやつ、意外と役に立つのじゃよ」
ユレィシアは驚いた。ロイはただの居候ではなく、写本工房の一員として働いていたのだ。
「……ロイがここで何をしているのか、知りたいのじゃろう?」
ユレィシアは頷いた。
「じゃが、それを知るには代価が必要じゃな」
マリアンは悪戯っぽく笑いながら、金貨の鳴る音を立てた。
ユレィシアはため息をつきつつも、財布の中を確認した。
ロイの秘密のためならば、手段はもう。
ユレィシアは、ロイの秘密にさらに踏み込んでいくのだった——。