第5話 爆心地
(ロイ……!)
安全な場所に横たえられていたユレィシアは、ゆっくりと目を開けた。まだ体に力は入らないが、何かが胸の奥でざわめく。
ロイが、あの場に戻った。
敵と戦うために。
彼のことを思い出す。冷めた目をして、まるで何もかもを遠ざけるような態度。しかし、それでも彼は、私を助けてくれた。
「……っ!」
ユレィシアは震える腕を動かし、なんとか地面に手をつく。そして、痛む体を無理に押し上げた。
「ロイ……どこ……っ!」
足がふらつく。体はまだ鉛のように重い。しかし、それでも彼を放っておくわけにはいかない。
もたつく足を無理やり前に進めながら、ユレィシアは戦場の方へ向かう。
そして、目にした光景に息をのんだ。
ユレィシアの視界がぐにゃりと歪んだ。
瓦礫の上に崩れ落ちるロイ。その手から、無情にもジャンビーヤが転がり落ちる。
「……嘘、でしょ……」
足がすくんだ。喉が張りついて声が出ない。
あのロイが、負けるはずがない。そんなはずはない、勝手に思っていた。
だが、目の前の現実は冷酷だった。
黒い触手がロイの身体を絡め取り、まるで壊れた人形のように吊り上げる。血が滲む指先、かすかに震える唇。普段の余裕も、意志の強さも、すべてが剥ぎ取られたような無防備な姿。
「……っ!」
ユレィシアの胸が引き裂かれるように痛んだ。
駆け出そうとする足がもつれる。力が入らない。指先が震えて剣の柄を掴めない。
目の前で、大切な人が、打ち倒されようとしているのに——。
「なんで……動けないのよ……!」
喉の奥から絞り出した声すら、風にかき消される。
触手使いの不気味な笑みが、ただ、彼女の絶望を嘲るように揺れていた。
「——ロイ!」
叫ぶ声が、静寂を切り裂いた。
〇
ロイの身体を覆う漆黒の触手は、じわじわと彼の力を奪っていた。
「……っ!」
動けない。普段ならば冷静な彼の瞳が、わずかに揺れる。だが、次の瞬間——。
「ほう……?」
触手使いのがロイの耳元に手を伸ばした。
「これは珍しいな。聖遺物か?」
ロイが身に着ける耳飾りは、小さな銀細工の輪に、淡く輝く蒼玉がはめ込まれたものだった。
装飾は控えめで、遠目にはただの銀のピアスにも見える。だが、よく目を凝らせば、細やかな彫刻が施されているのがわかる。曲線が絡み合い、まるで流れる水を象ったような紋様。それが蒼玉を取り囲むように繊細に刻まれていた。
蒼玉は光を受けるたびに深海のような青を宿し、角度によって淡い霧がかかったように見える。冷たく透き通るその輝きは、不思議な静寂をたたえていた。
耳にかける部分には古い文字が刻まれていた。
男の声は、含み笑いを帯びていた。興味深げに細工をなぞる指先は、まるで獲物を品定めする捕食者のように迷いなく動く。
「やめろ……」
男はにやりと笑い、ロイの耳飾りを乱暴に引きちぎった。
──だが、何も起こらなかった。
ロイは息を乱しながらも、すぐに変化がないことに気づく。触手の束縛は続いたままだった。
「なあんだ。ただの飾りか?」
男はつまらなそうに耳飾りを放り投げた。ロイは冷めた目でそれを見つめながら、わずかに眉をひそめる。喉の奥が熱くなるような感覚がした。
──違う。
闇の底に沈むようだった。
意識は深い水の奥へと引きずり込まれ、冷たく淀んだ波が思考を蝕んでいく。身体は重く、何かに縛られたまま動かない。けれど、それでもどこかで熱が燻っていた。
──違う。
確かに感じる。心臓の奥に、押し殺されていた何かがある。
外界の音は遠のき、ただ自分の内側にある鼓動だけが響く。やがて、それは次第に速くなり、次第に熱を帯びる。黒い膜を突き破るように、軋むような痛みとともに内から何かが溢れ出す。
──もう抑えきれない。
次の瞬間、奔流が堰を切った。
眩い光が視界を塗り潰し、あらゆる感覚が解き放たれる。時間の感覚が崩れ、現実すら歪む。ただ、圧倒的な力が溢れ出し、世界を震わせた。
「……っ!」
突然、ロイの呼吸が乱れた。身体の内側から熱が沸き上がり、心臓が異常なほどに鼓動を速める。
「……ぐ……あっ……」
まるで決壊する堤防のように、圧倒的な魔力が流れ出した。瞬間、空気が震え、触手が弾け飛ぶ。
「なんだ、これは……!?」
不気味な男が目を見開く。周囲の黒い触手がロイの身体を絡め取ったまま、次々と焼き切れるように消失していく。
しかし、それだけでは終わらなかった。
──暴走する。
ロイの体を中心に、空間そのものが歪み始める。大気が振動し、辺りに魔力の嵐が巻き起こる。
「……止まらない……」
ロイは片膝をつきながら、両手で頭を抱えた。これほどの魔法を制御する手段を彼は持たない。抑制が効かなくなった力は暴走し、周囲を吹き飛ばしかねないほどに膨れ上がる。
世界が軋む音がした。
空気が張り詰め、爆心地に立つロイの周囲で、見えざる波紋が空間を歪ませていく。
身体の内側から弾けるように湧き上がる奔流。血管を焦がすほどの熱量が、理性の輪郭を融かし、砕き、暴れ狂う。制御を失ったマナは嵐となり、周囲の大気すら巻き込んで震わせた。
──開く。
静寂が爆ぜる。瞬間、奔流は炸裂し、光となった。
爆心地に立つ彼の姿は、混沌の中でなお、ただひとつの確かな存在として浮かび上がる。
「このままじゃ……!」
ユレィシアは震える足を奮い立たせながら、ロイへと駆け寄った。暴風のようなマナの奔流の中で、彼女の目には明確な危機が映っていた——ロイが、このままではすべてを吹き飛ばしてしまう。
「……っ! なんとかしないと……!」
だが、その瞬間──閃光。
轟音とともに世界が白に染まった。
閃光が爆ぜ、衝撃が世界を呑み込んだ刹那──ユレィシアの本能が叫んだ。
「──《聖盾展開》!」
ほとんど反射的に紡がれた魔術が、彼女の周囲に輝く防御の円陣を描く。次の瞬間、全てを吹き飛ばす奔流が押し寄せた。凄まじい圧力が降りかかり、足元の地面が削り取られていく。それでも、黄金の魔力障壁は砕けることなく、最後の一片まで彼女を守り抜いた。
──そして、静寂。
気づけば、ユレィシアは瓦礫一つ残らぬ更地に、ただひとり立っていた。周囲を見回すが、かつてそこにあった街の面影は微塵もない。ただ、揺らめく魔力の余韻だけが、あの激震の名残を刻んでいた。
彼女は肩で息をしながら、震える手をゆっくりと胸元に添えた。
たった今まで存在していたすべてが、一瞬で消え去った──だが、彼女だけは生きていた。
「……嘘、でしょ……?」
彼女の指が震えた。
世界が、沈黙した。
すべてをのみ込んだ爆心地の中心に、ただひとつの影が佇む。周囲にあったはずのものは、形を持つことを許されず、概念すらも吹き飛ばされたかのように消え去っていた。
大地は、ただ平らに均されている。崩れた壁も、砕けた石も、燃え残る瓦礫すらない。まるで最初から何もなかったかのように、世界は無音の中で凪いでいた。
空気すらも震えることを忘れたその場所で、ただ一人、彼だけが存在していた。
「こんなの……私、何も……」
ユレィシアは力なく膝をついた。彼女の手が握りしめたままのレイピアが、ガランと虚しく地面に落ちる。
絶望が、彼女を飲み込んだ。
──そして十数秒後。
「……」
ロイがゆっくりと顔を上げた。荒れ果てた大地の中、彼はまるで夢から覚めたようにぼんやりと辺りを見渡した。
「……すまない」
彼の呟きは、誰にも届かないほどに小さかった。
足元に広がるのは、ただの無。かつて街だったはずの大地は、焦げた大理石のように冷たく、ひび割れた傷痕を晒している。
ユレィシアは膝をついたまま、息をすることすら忘れていた。手を伸ばせば、何かを掴める気がした。けれど、指先は虚空をなぞるだけで、何一つ残されてはいなかった。
風すら吹かない。聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
──私には、何もできなかった。
その事実だけが、静寂の中で重く響く。
少女は爆心地にただ独り残される。