第2話 誘い
静寂に包まれた室内、微かな蝋燭の灯が揺らめく。
事務机に座るユレィシアの視線は、手元の報告書を通り越し、どこか遠くを彷徨っていた。書類に落ちる影はわずかに震え、時計の針の音だけが淡々と時を刻む。
ペンを握る指は力なく、置かれたインク壺の黒が、まるで沈みかけた月のように静かに佇んでいる。
机に積まれた書類の山は変わらずそこにあるのに、彼女の心はすでにここにはない。まるで夜の風に吹かれ、会ったばかりの少年に心を動かされているようだった。
昨夜の聖遺物の押収任務——その時、唐突に表れた少年。
「……ロイ・アランソン」
彼女は小さく呟く。
助けられた、という事実が彼女のプライドを傷つけていた。
「別に……助けなんか、求めてないのに……! 私一人でもあんな連中!」
デスクに拳を置くと、その衝撃でペン立てが揺れた。
(いや、それよりも!)
「ナッソー隊士?」
声に気づき、ユレィシアは即座に表情を引き締めた。部屋に入ってきたのは、同じ警邏隊の隊士で昔からの付き人の女性。
「なんでもないわ。どうかした?」
「昨夜の聖遺物の流通ルート、さらに調査を進めたのですが……妙な点があるんです」
女性が報告書をユレィシアの前に置いた。
「……何?」
「昨夜押収したものとは別のルートで、さらに高位の聖遺物が密輸されている可能性があると判明しました。しかも、その情報を事前に察知していた者がいます」
ユレィシアは眉をひそめた。
「それって……?」
「ロイ・アランソンという名を聞いたことはありますか? 捜査線上に名前が挙がりました」
彼女はピクリと肩を震わせた。
「……ええ、少しだけ」
「どうやら彼は、かなりの魔導学の知識を持つ人物のようです。昨夜の事件の前から、違法な聖遺物の流通に何らかの形で関わっていた可能性があります」
「……あいつが?」
(いや、あいつは自分の口でそれを否定していたはず)
ユレィシアは報告書を手に取った。そこには、ロイ・アランソンの名前が記されていた。
「それで、彼の居場所は?」
「……それが、まだ特定できていません」
ユレィシアは軽く舌打ちした。
「見つけるしかないわね……!」
彼女は立ち上がり、報告書を手にして部屋を出ていった。
〇
数日後、ユレィシアは新たな任務として再び聖遺物の取り締まりに出動していた。今度の作戦はより慎重に進められ、街の裏通りに潜む密売人のアジトを急襲する予定だった。
しかし、作戦中に突如として混乱が起こった。
「くそっ……!」
不意に襲いかかる敵の奇襲。ユレィシアは咄嗟に剣を構えたが、数人の魔術師が詠唱を始めているのを目にした。
「これじゃ、囲まれる……!」
その時だった。
「……チッ」
静かに響く舌打ちと共に、ユレィシアの視界に黒いローブの男が飛び込んできた。ロイ・アランソンだった。
彼は何の迷いもなく、魔術師たちの間をすり抜け、手刀を叩き込んだ。
「なっ……!?」
魔術師たちは驚き、詠唱が途切れる。その隙にユレィシアは剣を振るい、敵を制圧した。
「……なぜお前がここに?」
「それはこっちのセリフ!」
「……じゃあな」
「ちょっと待ちなさい!」
ロイはユレィシアの問いに答えず、軽く肩をすくめるだけだった。
彼は踵を返し、暗がりへと姿を消した。
ユレィシアは動揺しつつも、すぐに状況を立て直し、密売人の逮捕に成功した。しかし、彼女の脳裏にはロイの姿が焼き付いていた。
「……追うしかないわね。」
〇
彼女は密かにロイの足取りを追った。
尾行の末、たどり着いたのは写本工房〈スミス〉。
王都の一角に佇む写本工房〈スミス〉は、古びた石造りの建物だった。長い年月を経た灰色の壁には、蔦が絡まり、ところどころに修復の跡が残る。入口の木製の扉は使い込まれた風合いを帯びており、細やかな装飾が彫り込まれているが、今ではその輪郭もやや摩耗していた。
扉の上には小さな看板が掲げられ、手書きの筆記体で〈スミス〉と記されている。派手さはなく、目立つわけでもないが、静かな知性を感じさた佇まいだ。窓は格子付きのガラスがはめ込まれており、暖かな灯りが漏れている。かすかにインクと古紙の香りが漂い、通りを行き交う者たちに、この場所がただの店ではなく、知の拠点であることを静かに伝えていた。
ロイ・アランソンは、建物の奥へと消えていった。
「……ここが、あいつの居場所?」
ユレィシアは建物を見上げ、決意を固めた。
「面白いじゃない……」
こうして、ユレィシアはロイ・アランソンの秘密へと一歩踏み込むことになる──。
〇
次の休みの日、ユレィシアは写本工房〈スミス〉の前に立っていた。
「……こんな地味な場所にいるなんてね」
古びた扉を見上げ、少しだけためらう。しかし、彼女の性格上、こういう場面で引くわけにはいかない。
「よし、行くわよ。」
写本工房の扉を開けると、ふわりとインクと羊皮紙の香りが鼻をくすぐる。店内は決して広くはないが、天井まで届く書棚がぎっしりと並び、まるで小さな図書館のようだった。古書と新しい写本が無造作に積まれた机、その上には金属製のペーパーナイフや製本用の道具が転がっている。
中央には大きな作業台が置かれ、そこには半ば仕上がった写本や乾燥中のインク壺が並ぶ。その周囲には、読書用の椅子と小さな机がいくつか配置されており、顧客が手に取った書物を静かに読むことができる空間が確保されていた。
壁際にはランプが取り付けられ、柔らかな灯りが揺れている。その光が革張りの背表紙や羊皮紙の縁を照らし、まるで時が止まったかのような静謐な雰囲気を醸し出していた。奥の一角にはカウンターがあり、その奥には工房の主であるマリアン・レッドフォードの個人的な作業スペースが広がっている。そこは、彼女が日々、貴重な書物を修復し、新たな写本を生み出す場所だった。
外から見れば目立たない小さな店。しかし、この静かな空間の中には、数えきれないほどの言葉と知識が息づいていた。
ロイが静かに写本を整理していた。彼はちらりとユレィシアを見たが、特に驚く様子もない。
「……何の用だ?」
その淡々とした態度に、ユレィシアは無意識に拳を握った。
「アンタの正体、確かめに来たのよ!」
「興味ない。帰れ」
「帰れない理由があるの!」
剣呑な雰囲気。その時、店の奥から別の声が響いた。
「おやおや、可愛いお客さんじゃのぅ。ロイに用事かの?」
振り返ると、カウンターの向こうには赤髪の女性——マリアン・レッドフォードが立っていた。
マリアン・レッドフォードは、炎を宿したような赤髪の女だった。肩口で緩やかに波打つ髪は、無造作に結ばれることが多いが、時折、作業の邪魔にならないように後ろでまとめられることもある。その髪に似合わぬ白い肌は、薄暗い工房の灯りを受けて柔らかく輝いていた。
瞳は琥珀色。光を反射すると金色にも見え、気まぐれな表情の中にも鋭い知性が垣間見える。長いまつ毛がそれを覆い隠すように瞬くたび、彼女がどこまで本気で話しているのか、あるいはどこまでが冗談なのか、判然としなくなる。
身なりにはあまり頓着しないようで、いつも墨の染みがついたシンプルな作業着を纏っている。袖を肘までまくり上げた姿は、どこか職人気質を感じさせるものの、動きのたびに揺れる華奢な指先が、彼女の細やかな手仕事を物語っていた。
一見すると気楽な風情を漂わせるが、その立ち居振る舞いには妙な色気がある。ふとした仕草や小さな笑みの端々に、年齢を感じさせない少女のような無邪気さと、狡猾な大人の余裕が同居していた。
金貨を数えながら、じろりとユレィシアを見つめた。
「ここは写本工房〈スミス〉じゃ。買う気がないなら帰るのじゃ。……って、まさかロイ目当てか? 若いのう。うらやましいのじゃ。」
「はぁ!? ち、違うわよ!!」
「ふむ、わしも若いころはな……いや、今も若いがの。まあ、独身じゃがの……。しくしく」
「なんなのこの人……」