最終話 ロイズ・レコード
戦いが終わり、街は再び活気を取り戻しつつあった。王都の喧騒も、日常を取り戻すように響いているが、かつての激戦を知る者たちの胸には、今もその余韻が深く刻まれていた。
ロイ・アランソンは、写本工房〈スミス〉の机でペンを走らせている。
彼の手元にあるのは、魔術書──もともとはフィオナの魔術痕を自身に刻むための手段だったもの。だが、今やその目的は変化しつつあった。
ロイは、世界のあらゆる魔術を記録する。それが、フィオナとの戦いを経て得た新たな決意だった。彼女を食らい、生き残った以上、ただ生き延びるだけではなく、世界中の魔術を知り、書き残そうと考えていた。
彼が綴る文字には、かつてのような冷たさだけではない。フィオナと向き合った時間、ユレィシアやマリアンと共に戦った思い出。その一つひとつが、インクのしずくとともに紙へと落ちていく。
「……結局、お前はまた書き続けるのじゃな」
マリアン・レッドフォードがカウンター越しにロイを見やり、苦笑する。
「なにも変わってないように見えるのう、だが……の?」
ロイは顔を上げずに答える。
「変わったさ。少なくとも、俺はもう“自分”だけのために書いてはいない」
マリアンは一瞬だけ目を細めた。かつてはフィオナの痕を得るためだけに存在したはずの魔術書。それを握る彼の姿には、以前にはなかった温かい意志が宿っている。
「……なるほどのう」
マリアンは視線を窓の外に移す。
「ところで、ロイ。来たぞ。お主の追っかけがの」
ロイがペンを止め、振り返る。そこにいたのは、ユレィシア・ナッソーだった。かつての警邏服を脱ぎ捨て、今は動きやすい軽装を身に纏い、肩の力の抜けた微笑を浮かべている。
「こんなところで何してるの? いつもみたいに記録?」
ユレィシアはカウンターに肘をつき、ロイを見つめる。その目には、以前にはなかった落ち着きと決意が同居していた。
「警邏隊を、やめたんだってな」
ロイはあえてそっけなく言う。ユレィシアは少しだけ苦笑する。
「ええ。正義をかざすだけじゃ、あなたに本気で手を貸すことはできないと思ったの。王国のやり方だけじゃ、限界があるのよ」
ロイは静かに息を吐き、彼女から視線を外さずに答えた。
「好きにしろ。俺はもう、自分の進む道を決めた。誰かに止められる気はない」
その言葉に、ユレィシアの口元がかすかにほころぶ。
「……相変わらず、冷たいわね。でも、そういうところがあんたらしいや」
「まったく、面倒な奴らじゃのう。まあ、そのほうが物語は盛り上がるかもしれんが」
マリアンが帳簿を閉じ、ロイとユレィシアを見渡す。かつて写本工房を訪れた日は遠い過去のようにも思えるが、実際はそう昔のことではない。
ロイは再びペンを走らせる。紙の上には、様々な魔術の知識や戦いの記録が刻まれていく。そこにはフィオナとの戦いの痕跡も、彼女が信じたものと、ロイが引き継いだものも含まれる。
「ロイズ・レコード……もともとは俺が短命の運命を逃れるため、フィオナの魔術痕を刻むためのものだった。でも、今は違う。もっと大きな意味を持っている」
彼の呟きに、ユレィシアが小さく頷いた。
「世界中の魔術を記す。それが、あなたの新しい夢なのね」
「夢かどうかは知らない。ただ、俺はそうすると決めただけだ」
ペンが止まり、インクがわずかに光を帯びる。ロイは紙から視線を上げ、ユレィシアのほうを見た。
「手を貸してくれるのか? 本気で」
「ええ」
ユレィシアは言葉をはっきりと口にし、笑みを浮かべる。
「私も、自分なりに戦うわ。あなたが何を背負おうとしているか、しっかり見届けたいしね」
マリアンは小さくため息をつきながら、そのやりとりを見守る。そして、彼女もまた、心の中で小さく頷いた。
かつての戦いで散った者たちや、失ったものを思い出しながらも、彼らは前へ進む。
「じゃあ、まずはどうする? 世界中の魔術を記すって言っても、どこから手をつけるつもり?」
ユレィシアの問いに、ロイはペンを握ったまま、微かに笑う。
「そうだな……まずは王都近辺の魔術師連中から情報を集める。学府もそうだし、闇市にも珍しい魔術書が流れているかもしれない。行くべき場所は多い」
ユレィシアが真剣な目を向ける。
「じゃあ、私も色々聞いてみるわ。あなたが知らない話を掘り出してきてあげる」
ロイは小さく頷き、再び紙へと視線を落とした。
「そうか。……これから先、どんな魔術があるか、どんな戦いが待っているか分からないけどな」
マリアンはカウンターの奥から声を掛ける。
「二人とも、あんまり無茶はするでないぞ。わしの工房が壊れたら困るからのう」
そう言いながらも、彼女の表情にはどこか期待が滲んでいる。
ロイ、ユレィシア、そしてマリアン。
彼らはそれぞれの未来を思い描きながらも、こうして同じ空間に集い、新たな物語を紡ぎ始めようとしていたのだった。
この物語は、ロイやユレィシアそれぞれが背負う運命の重さと、それを乗り越えるための決意を描いたものです。もともとは、フィオナの魔術痕を刻むためだけのものだった《ロイズ・レコード》が、いつしか「世界中の魔術を記録する」という大きな夢へと変化していく様は、登場人物たちの成長そのものを象徴しているかもしれません。
読んでいただき、ありがとうございました。
彼らの旅は続きます──。