第18話 終幕
戦場には、もはや勝敗が決したかのような静けさが漂っていた。
フィオナ・シュヴァルツは悠然と立ち、圧倒的な魔力を解き放っている。彼女に挑んだロイ、ユレィシア、マリアン──その誰もが地に伏し、立ち上がる力を失っていた。
「やっぱり、お兄様は私のものよ」
フィオナの足元には、ボロボロになったロイの姿があった。彼は薄れゆく意識の中で、何かを決断しようとしていた。
(……このままでは……終わる)
ロイは自らの力を解放するべきか、最後の決断を迫られていた。彼の中には、計り知れない魔力が眠っている。しかし、それを解放すれば──
(いや、それでも……)
フィオナの紅い瞳が彼を見下ろす。
「私を止めるんじゃなかったの?」
ロイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、耳飾りが砕ける音が響いた。
封じられていた魔力が解放され、戦場全体を包み込むほどの強烈な波動が広がる。
フィオナの表情が初めて僅かに歪む。
「……お兄様?」
ロイが静かに立ち上がる。
「そうだ。……ここで終わる」
彼の周囲に魔力の嵐が巻き起こる。
「ここで終わらせる……!」
地面が震え、解放された魔力が空を引き裂くように迸る。その気配に、フィオナの微笑が少しずつ薄れていった。
「ふふ……本当に、あなたって……」
彼女は自嘲気味に笑いながら、黒い魔力をさらに増幅させる。周囲の大気が歪み、魔力の奔流が渦を巻くように膨れ上がる。
「なら、最後まで楽しませてちょうだい、お兄様!」
フィオナの声が響き、黒い触手の魔力がロイに向かって一斉に襲い掛かる。
ロイは瞬時に地を蹴り、旋回するように身を翻す。彼の手には二振りのジャンビーヤが光を反射していた。
魔力の触手が次々と彼に絡みつこうとする。しかしロイは冷静に身を低くし、刃を回転させながら切断する。刃が闇を裂くたびに黒い魔力が飛び散り、爆ぜる音が響いた。
「速いわね……でも、それだけじゃ足りない!」
フィオナの手が軽く動いた瞬間、無数の闇の矢が宙に現れる。そして、それが一斉にロイへと放たれる。
ロイは空を蹴り、瞬時に跳躍すると、矢を見極めながら最小限の動きでかわし、さらに前へと踏み込む。
「……甘い」
彼は無言で刃を突き出し、フィオナの間合いに入り込む。しかし、その瞬間──
闇の波動が弾けるように広がり、ロイの体が押し戻された。
「ふふ、簡単には刺させてあげないわ」
フィオナの周囲に黒い結界が浮かび上がる。そこから無数の触手が現れ、ロイを捕えようと襲い掛かる。
「くっ……!」
ロイは素早く地面を蹴り、一瞬で間合いを取り直す。しかし、次の瞬間にはまた別の触手が彼を狙っていた。
「やっぱり、魔術だけで戦う相手は苦手だな……」
ロイは呟くと、両手の刃を交差させ、一気に魔力を込めた。刃の表面が淡く輝き、次の瞬間、彼は疾風のように駆け抜けた。
触手が絡みつく前に、一閃。
フィオナの黒い結界が砕け、彼女の肩口に鋭い傷が走る。
「……っ!」
フィオナの表情が僅かに歪んだ。
「やるわね……でも、それだけじゃ終わらない……!」
彼女の全身から、今まで以上の圧倒的な魔力が溢れ出す。
ロイは刃を構えながら、僅かに息を整えた。
「なら、決めよう……この一撃で」
二人の間に、僅かな静寂が訪れる。
次の瞬間──
ロイとフィオナは同時に駆け出した。
彼女は黒い魔力を纏いながら、ロイへと攻撃を仕掛ける。
だが、その刹那──
ユレィシアとマリアンが立ち上がり、フィオナの動きを制する。
「そう簡単に、やらせると思って?」
「邪魔!」
ユレィシアの氷剣がフィオナの足元を凍らせる。同時にマリアンの幻影魔術がフィオナの視界を攪乱する。
フィオナの魔力が暴れ狂い、地面をえぐるような衝撃波が周囲に広がる。
「足掻くわね……でも、それも無駄よ!」
フィオナが指を鳴らすと、闇の刃が一斉にユレィシアとマリアンに襲いかかった。
ユレィシアは咄嗟に氷の障壁を張るが、その壁は瞬く間に砕かれ、彼女は吹き飛ばされる。
「ぐっ……!」
マリアンもまた、幻影で攻撃をかわそうとするが、フィオナの魔力は幻影ごと貫通し、彼女の動きを封じた。
「やっぱり、私に敵うはずがない……」
フィオナは静かに笑う。
しかし──
「いや、お前が見ているのは幻だ」
その声とともに、ロイの姿がフィオナの背後に現れた。
「……なっ!?」
フィオナが驚愕した瞬間、ロイの魔力が閃き、彼の刃がフィオナの核心を貫く。
強烈な魔力の奔流が戦場を貫き、フィオナの体が弾かれる。
「……お兄様……?」
フィオナはゆっくりと膝をつき、力を失いながらロイを見上げた。
フィオナの瞳から光が消え、彼女は静かに崩れ落ちた。
戦いは、終わった。
ロイはその手を握りしめ、ただ静かに、空を見上げていた。
(……これで、よかったのか?)
ユレィシアとマリアンがゆっくりと立ち上がり、ロイの元へと歩み寄る。
「……ロイ」
静寂の中、戦場に残された者たちは、それぞれの思いを胸に抱えながら、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
──しんと張り詰めていた空気が消え失せ、まるで重荷から解き放たれた大地が静かに呼吸を取り戻す。耳を塞いでいた喧噪も、目を眩ませていた閃光も、今はただ思い出の残響だけを残している。
あれほど荒れ狂っていた力の波動は、まるで最初から存在しなかったかのように、静寂の中へと溶け込んでいく。
砕けた瓦礫や散らばる足跡すら、新しい物語が芽吹くための種となるように佇んでいる。
ほんのかすかな風が、戦いを刻んだ地を撫で、頬を冷たく撫でた。
それは、長い嵐の後に訪れる、限りなく純粋な――そして、きわめて儚い「安堵」の瞬間。
まだ答えは見えない。
だが、今ここにある静寂が、必死に抗った者たちの証だ。
生き残った者たちは、あらゆる感情を抱えながらも、次の一歩を踏み出せる。
この静けさこそが、未来への序章だった。