第15話 期待
マリアン・レッドフォードは、着実に策を練りながらヴィクター・シュトラールとの戦いを続けていた。
搦め手こそが彼女の真骨頂。戦場に散らした魔法陣はすでに複数の発動準備を終えており、すべてが同時に連動すれば、一撃でヴィクターを拘束し、仕留めることができる。
(あと少し……)
彼女は気取られぬよう慎重に詠唱を続けながら、ヴィクターの動きを誘導していく。彼が次の一歩を踏み込めば、そこが決着の場となる。
だが──
「見え透いているぞ、マリアン」
ヴィクターの冷静な声が響いた瞬間、マリアンの動きが止まる。
次の瞬間、彼女の周囲に仕掛けられた魔術陣が、一つ、また一つと消失していった。
「……っ!」
マリアンの目が驚愕に見開かれる。
まるで彼女の意図をすべて見抜いていたかのように、ヴィクターは彼女が仕掛けた魔術陣の弱点を突き、的確に破壊していた。
「まさか……」
「お前の手口はよく知っている。俺たちは共に戦った仲間だったんだ。どんな手を使ってくるか、読めるさ」
ヴィクターの剣が振るわれる。
マリアンは急いで魔術障壁を展開するも、すでに守りを固める余裕はなかった。
振り下ろされた剣の斬撃が、障壁を砕き、彼女の身体を深々と裂く。
「ぐっ……!」
マリアンの身体が地面に叩きつけられ、口元から血が滴る。
苦痛に顔を歪めながらも、彼女は杖を支えにして、なお立ち上がろうとする。
「まだ……終わってない……」
「やめておけ」
ヴィクターは剣を振り払うと、一歩、また一歩と彼女に歩み寄る。
「お前は詰んだ」
マリアンは呼吸を整えながら、ヴィクターの冷たい瞳を見上げた。
策を読まれた。仕掛けは潰された。
そして何より──戦場を離れていた年月が、確実に彼女の勘を鈍らせていた。
かつてならば、この程度の見破りには対抗策があったはず。それが、今の彼女にはない。
(……戦いの感覚が鈍ってる……?)
その事実に、マリアンは内心舌打ちする。
だが、それすらも──マリアンの策の一つだ。
彼女の目が、かすかに鋭さを取り戻す。
「……それで、詰み? そう思うのは、まだ早いんじゃない?」
ヴィクターがわずかに眉をひそめた、その瞬間。
遠くで、かすかな気配が変わった。
マリアンの口元に、僅かな微笑が浮かぶ。
「私は、ただこの戦いに勝つためにここにいるんじゃない」
血を吐きながらも、彼女はゆっくりと立ち上がる。
「私はね、ユレィシアが立ち上がると確信しているんだ。『銀翼』の意志を継いでね」
ヴィクターが目を細める。
「……何?」
「だから、私はただの繋ぎさ」
マリアンの声は、確信に満ちていた。
その時、戦場の片隅で、静かだったユレィシアの気配が──変わった。
ヴィクターは微かに目を細め、冷静に状況を見極める。
「……本当に、そう思っているのか?」
マリアンは、血を拭いながら小さく笑う。
「ええ、確信してるわ」
「なら、証明してみせろ」
ヴィクターが踏み込み、剣を振り下ろす。その一撃をマリアンは紙一重で避け、杖を振るう。大地に散らした魔術陣の残滓が最後の光を放ち、彼女の詠唱に応じて輝きを増す。
だが──
「甘い」
ヴィクターの剣が空を裂き、マリアンの左肩を貫く。
「ぐっ……!!」
再び血が噴き出す。
それでもマリアンは倒れなかった。
「私は……まだ……」
体中に痛みを感じながらも、彼女はかすかに微笑む。
この痛みすら、彼女にとっては予定通りの一手だった。
「……詰みだなんて言葉、まだ早いわよ」
魔術陣の一つが、地面を走り、ヴィクターの足元に到達する。
「……!」
気付いたときにはすでに遅かった。
爆ぜるように魔力が弾け、ヴィクターの体を拘束する呪縛の鎖が絡みつく。
「お前……」
「私だって、簡単に負けるつもりはないわ」
マリアンは、息を切らしながらも高らかに宣言する。
その背後で──
ユレィシアの目が開かれた。
その瞳には、かつての『銀翼』と同じ炎が灯っていた。
〇
冷たい夜風が戦場を吹き抜ける中、ユレィシア・ナッソーの気配が変わった。
崩れた瓦礫の間で膝をついていた彼女が、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、かつての迷いも焦燥もなかった。ただ純粋な、鋭く研ぎ澄まされた決意だけが宿っている。
「……やっぱりな」
マリアンは倒れたまま、小さく笑った。
ヴィクターがユレィシアへと視線を移す。
「ほう……」
ユレィシアは深く息を吸い、剣を構える。
しかし、その剣はもう、彼女が使い慣れた金属のそれではなかった。
ユレィシアの手には、氷の魔力で形成された二振りの長剣が握られていた。
まるで彼女の内に眠る何かが覚醒し、力を形にしたかのような、凍てつく魔剣。
「お前が『銀翼』を汚すような真似をするなら……私はお前を止める」
その言葉に、ヴィクターの表情が僅かに変わる。
「『銀翼』を貴様が語るのか。ならば見せてもらおうか、お前の覚悟を」
ヴィクターが剣を振りかざす。
ユレィシアは、鋭く踏み込んだ。
氷の刃が夜の闇を裂く。
二人の戦いが、始まった。
鋼と氷が交錯し、夜の戦場に火花と凍気が弾ける。
ユレィシアの二振りの剣が舞い、ヴィクターの一撃を寸でのところで弾き返す。ヴィクターもまた、その剣さばきに一切の迷いはなく、絶え間ない攻撃を仕掛けていた。
ユレィシアが氷の剣を振るうたび、地面に霜が広がり、冷気が空気を凍らせる。
だが、ヴィクターの剣もまた、その場に熱を生む。鋭い踏み込みと圧倒的な剣圧が、ユレィシアの氷刃を砕かんとする。
「……遅い」
ヴィクターが横へと身をかわし、ユレィシアの剣閃をすれすれで避ける。そして即座に反撃へと転じた。
ユレィシアは二刀を交差させて防ぐが、その一撃は予想以上に重かった。衝撃が腕に響く。
(強い……!)
しかし、ユレィシアも退かない。氷の剣の一本を回転させるように振るい、ヴィクターの剣を絡め取る。
「っ……!」
ヴィクターが剣を引く。そのわずかな隙を突き、ユレィシアが氷の刃を鋭く突き出した。
しかし──
「見切った」
ヴィクターが剣を大きく振り払うと、ユレィシアの攻撃は弾かれる。彼は即座に踏み込み、斬撃を叩き込もうとする。
ユレィシアは瞬時に魔力を集中させ、氷の刃を強く握る。
次の瞬間、氷剣が砕け散り、無数の氷片が飛び散った。
「!」
ヴィクターの視界が一瞬乱れる。その隙を突いて、ユレィシアが残る剣を振るう。
しかし──ヴィクターは即座に身を翻し、ユレィシアの攻撃を躱した。
「なかなかやるな」
互いに間合いを取る。
呼吸が乱れながらも、二人の眼差しには未だ闘志が宿っていた。
どちらが優勢とも言えない。
圧倒的な剣技と魔術が交錯する、互角の戦いが続いていた。
ユレィシアが再び地を蹴り、猛然と斬りかかる。
氷の剣がヴィクターの剣と激しくぶつかり合い、空間を切り裂くような衝撃が巻き起こる。
ヴィクターは重心を低く構え、ユレィシアの勢いを正面から受け止める。そのまま剣を押し返し、彼女を後退させようとするが、ユレィシアは膝を折るようにして地面に滑り込み、すれ違いざまに氷の刃を振るった。
ヴィクターの肩口をかすめた。
白い霜が彼の肩を覆い、瞬時に凍りつかせる。
「……!」
ヴィクターはすぐさま魔力を込め、凍結した部位を熱で弾き飛ばす。
「なるほど……ただの力押しではなく、確実に仕留めるための動きになったな」
ユレィシアは静かに息を整え、冷静に次の一手を見据えた。
「お前がどれほど強くても……私は止まらない」
「ほう……その意気はいい。ならば──」
ヴィクターが剣を振り上げる。
「次で決めるぞ!」
ユレィシアも氷剣を構え直す。
空気が張り詰め、時間が止まったかのような緊張が走る。
二人の最終攻撃が、ぶつかり合う瞬間が近づいていた。