第13話 ロイ・アランソン
マリアン・レッドフォードは、写本工房のカウンターに座り、帳簿をめくっていた。
かつて王国を捨てた彼女は、商人として生きる道を選び、戦いとは無縁の生活を送るつもりだった。
それなのに──
扉を叩く音が響いた。
こんな夜更けに客が来るはずはない。慎重に扉を開けると、そこに立っていたのはかつての友──セレナ・ヴァイスだった。
彼女の肩には深い傷があり、息は荒い。そしてその隣には、虚ろな目をした幼い少年が立っていた。
黒髪の少年。その瞳に宿る影を見た瞬間、マリアンはすべてを察した。
「……まさか、お前……」
「頼む、マリアン」
セレナは弱々しく微笑んだ。
「この子を預かってくれないか」
マリアンの視線が少年に向けられる。その奥には、決して消えない何かが宿っていた。
ロイ・アランソン。
少年は痩せていたが、異様なほど静かだった。彼の黒髪は乱れ、泥や血の跡がこびりついていた。衣服は薄汚れ、元は王国の施設で支給されていたと思しき簡素なローブがほつれている。だが、それ以上に彼の目が異質だった。
まるで、感情がそこに存在しないかのように、虚無そのものが広がる瞳。外見は幼くとも、その瞳だけは老成し、何かを見てきた者のような冷たさを帯びていた。
足元は不安定で、まるで自分の体がどこにあるのか分からないかのような歩き方だった。しかし、それでも彼は倒れることなく、黙ってセレナの背中に隠れるように立ち続けていた。
「……この子は……」
マリアンがそう呟いたとき、ロイの視線がゆっくりと彼女に向けられた。
無言のまま。
ただ静かに、こちらを見ている。
彼の中にあるものが何なのか、マリアンには分からなかった。
セレナがそっとロイの肩を押し、前に出させた。
「ロイ、自己紹介を」
しかし、少年は何も言わない。
しばらく沈黙が続いた後、小さな声がようやく漏れた。
「……ロイ……アランソン……」
掠れた声だった。
まるで、言葉を発することが苦痛であるかのような声音。
「……なるほどね」
マリアンは目を細め、ロイを見つめた。
「それで、この子の事情は?」
「……ロイも、連合計画の産物だ」
セレナの言葉に、マリアンの表情が険しくなる。
「……まさか、こいつも?」
「そうだ。そして、私はロイを王国の手に渡すわけにはいかない」
マリアンの表情が強張った。
「……ああ、もう。本当にお前ってやつは……」
ロイは、ただ黙って彼女のやりとりを聞いていた。
彼の中で、何かが動く様子はなかった。
マリアンは大きく息を吐き、額を押さえた。
「わかったよ。ただ、お前も傷だらけじゃないか。ここにいる間は、自分の体を休めな」
「いや……私は長くはいられない」
セレナは視線を逸らしながら呟いた。
「やらなきゃいけないことがある」
「……そういうと思ったよ」
マリアンは少しだけ寂しげに微笑み、ロイを見下ろした。
「いいか、坊主。お前の人生がどうなるかはわからない。でも、ここにいる間は、せいぜい真面目に働きな」
ロイは少しだけ戸惑ったようにマリアンを見上げる。
「……働く?」
「そうさ。ここは写本工房だ。お前にも仕事を手伝ってもらうからね」
少年の無表情な顔が、ほんのわずかに動いた。
「……分かった」
セレナがその様子を見て、小さく笑う。
「マリアン、ありがとう」
「礼なんかいらないさ。ただ……お前がまた無茶をして、この子を危険に巻き込んだら、その時は……」
マリアンの目が、少しだけ険しくなる。
「本気で怒るからな」
セレナはその言葉に目を細め、懐かしそうに微笑んだ。
「……分かってる」
それから数日が経った。
ロイは写本工房での生活を静かに受け入れていた。朝になれば工房の掃除をし、書物の整理を手伝い、マリアンの書き写しの手伝いをする。特に文句を言うこともなく、淡々と仕事をこなしていた。
「……お前、意外とやるじゃないか」
マリアンが驚いたように呟いた。ロイは黙ってペンを走らせる。
「まぁ、真面目なのはいいことだ」
そう言って、彼女はロイの頭を軽く叩く。
「だけどな……楽しいか?」
ロイはその言葉に手を止め、マリアンを見上げた。
「……楽しい?」
「そうだよ。お前の生き方ってやつさ」
ロイは少し考えた後、小さく呟いた。
「……まだわからない」
マリアンはその答えに納得したように頷く。
「まぁ、それならそれでいいさ。ここで生きていくうちに、わかることもあるだろうよ」
ロイは無言のまま、小さく頷いた。
彼の人生は、まだ始まったばかりだった。
〇
静かな夜の王都。その片隅で、ロイ・アランソンは立ち止まり、虚空を見つめていた。
風に乗って流れてくる、微かな魔力の痕跡。
(……いた)
探し求めていた敵の魔力残滓が、はっきりと感知できる。
彼は静かに目を閉じると、深く息を吸い込んだ。
「決着をつけるか……」
その背後から、静かに足音が近づいてくる。
「まったく……何も言わずに行こうとするつもりか?」
ロイが振り向くと、そこには長い間、戦場から遠ざかっていたはずのマリアン・レッドフォードが立っていた。
彼女の手には、長らく触れてこなかった魔術杖が握られている。
「マリアン……」
「どうせお前は、止めても行くんだろう?」
ロイはわずかに眉を動かしたが、すぐに小さく頷く。
「なら、私も付き合ってやる」
マリアンは杖を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「どうせただじゃ済まない相手だろうしな」
ロイは少し考えた後、短く答えた。
「……勝手にしろ」
二人の間に言葉は多くなかった。
だが、その静かな決意が、これからの戦いの厳しさを物語っていた。
夜の闇を切り裂くように、彼らは並んで歩き出す。
決着の時は、もうすぐだった。
〇
ユレィシアの視界がぼやける。
身体の自由が奪われ、膝をつく。
目の前には、ヴィクター・シュトラール。そして、その傍らには、冷淡な微笑を浮かべたフィオナ・シュヴァルツ。
「諦めたか?」
ヴィクターが淡々と問いかける。
ユレィシアは歯を食いしばりながら、剣を支えに立ち上がろうとする。
「……誰が……こんなところで……」
「無駄だよ、ユレィシア」
フィオナの声が響く。その冷たい響きに、ユレィシアは怒りを抑えられなかった。
「お前がこの戦いで何を望もうと、結果は決まっている」
ヴィクターが剣を抜き、静かに構える。
「まだ戦うつもりか? その目はまだ諦めていないようだな」
「当然でしょ……!」
ユレィシアは呼吸を整え、震える腕で剣を構え直した。
「私は……ここで終わるつもりはない!」
フィオナは、くすりと笑う。
「いい目をしてるね。でも……その決意、どこまで保つかな?」
魔力が空気を震わせる。
次の瞬間、戦場が再び動き出した。
轟音と共に、夜の闇を裂く風が吹き抜けた。
突如として降り注いだ煙幕が視界を遮る。
「……!」
ユレィシアは反射的に身を低くする。
「ずいぶんと派手にやってるな」
低く、淡々とした声が響いた。
煙が晴れた先に、ロイ・アランソンが立っていた。
その姿はまるで、暗闇の中から現れた影のようだった。
黒衣の裾が風に靡き、彼の瞳は冷たく研ぎ澄まされている。
片手には鈍く輝くジャンビーヤが握られ、もう一方の手には、書き込まれた呪印が浮かぶ短冊が挟まれていた。
その目は冷静で、無駄な感情を排した氷のような視線。
「ロイ……!」
ユレィシアは驚きの声を上げる。
ヴィクターが目を細め、フィオナは興味深そうに口元を歪めた。
「おやおや……久しぶりだね、お兄様」
ロイはフィオナを無表情で見据えた。
「……久しぶりだな、フィオナ」
静かな言葉の裏には、決意と覚悟が滲んでいた。
彼はただ戦いに来たのではない。
終止符を打ちに来たのだ。
ロイはゆっくりとジャンビーヤを構え、無駄のない動作で前に出る。
闇の中で、その刃が淡く輝いた。
「さあ──始めようか」
戦場に、緊張が張り詰める。
フィオナが静かに微笑み、ヴィクターが構えを取る。
決戦の幕は、今まさに開かれようとしている。