第12話 反目
鉄製の鎖が冷たく軋んだ。
ユレィシアは、石造りの暗い部屋の中で壁に繋がれたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。腕に巻き付く鎖は重く、少し動くだけで冷たい金属の感触が肌に食い込む。
「気分はどうだ?」
低く響く声とともに、部屋の入り口に影が落ちた。ヴィクター・シュトラールが、腕を組んでユレィシアを見下ろしている。
「……あんたの趣味が悪いことはよく分かったわ」
ユレィシアは自嘲気味に笑いながら、わずかに鎖を鳴らした。しかし、ヴィクターは動じることなく近づき、床に腰を下ろした。
「お前に話してやろう。銀翼──セレナ・ヴァイスが何をしたのかをな」
ユレィシアの指が、かすかに震えた。
「……聞くまでもないわ。私は──」
「聞いておけ。お前は、知らなければならない」
ヴィクターは静かに言葉を続けた。
「数年前、王国の最奥で進められていた極秘実験があった。『連合計画』──知っているか?」
「……知らない」
「だろうな。これは王国の最重要機密だからな」
ヴィクターはわずかに目を細め、静かに語り始めた。
「王国は、最強の魔術師を作り出すため、人工的に生み出された子供たち──デザイナーズベイビーを利用して、魔術の同期による強大な術式の発動を目論んでいた。その計画の中心にいたのが……お前が憧れる銀翼、セレナ・ヴァイスだ」
「……っ!?」
ユレィシアの瞳が大きく揺らいだ。
「銀翼は、この計画の全貌を知り、それを阻止するために反乱を起こした。彼女は実験施設を襲撃し、多くの研究員と兵士を殺した。……その結果、王国は計画を放棄し、封印された施設を破棄した」
ヴィクターの声は冷静だったが、どこかに痛みが滲んでいた。
「彼女は英雄などではない。彼女は反逆者であり、大罪人だ」
「……嘘よ……そんなこと……!」
ユレィシアは必死に否定しようとした。だが、ヴィクターの言葉には確かな真実が宿っていた。
「信じられないなら、お前自身で確かめるんだな」
ヴィクターは立ち上がると、扉の前で振り返った。
「だが、知ったからには、もう引き返せないぞ。お前の憧れた銀翼は、王国にとっての『悪』そのものだった」
ユレィシアは、鎖の重みを感じながら、静かに唇を噛み締めた。
銀翼は、本当に大罪人なのか?
それとも、彼女が見ていたものこそが、真実なのか?
ユレィシアの心は、これまでになく揺れ動いていた。
ヴィクターは静かに部屋を出ると、廊下に佇んだ。
彼の脳裏には、あの日の記憶が鮮明によみがえっていた。
王国の研究施設、白く無機質な壁が続く薄暗い廊下。その静寂を破ったのは、警報と血の匂いだった。
「セレナ・ヴァイスが、侵入した……!」
兵士たちの報告が響く。扉が破られ、蒼い魔力の閃光が飛び交う。
ヴィクターが駆けつけた時、すでに施設は地獄と化していた。研究員たちは倒れ、無残な屍と化していた。壁には焼け焦げた跡が残り、血に塗れた兵士たちが呻いていた。
その中心に立っていたのが──銀翼、セレナ・ヴァイス。
彼女の銀髪が、炎の赤に染まっていた。
「セレナ! 何をしている……!」
ヴィクターの叫びにも、彼女は振り向かない。
「この子たちは、自由を得る……!」
銀翼の足元には、震える子供たちがいた。デザイナーズベイビー──王国が生み出した魔術兵器たち。
彼女は剣を構え、最後の障壁であるヴィクターと対峙する。
「俺は……お前が間違っているとは思いたくない」
しかし、彼女の瞳には迷いがなかった。
そして、剣が交わされた。
激しい戦いの果てに、ヴィクターは傷を負い、倒れた。
銀翼は、何も言わず、子供たちを連れて消えた。
そして──王国は彼女を大罪人とした。
ヴィクターは拳を握りしめる。
「セレナ……お前は、正しかったのか……?」
彼の問いに答える者は、もはやいない。
〇
かつて、ヴィクター・シュトラールは正義に生きる軍人だった。
セレナ・ヴァイス、そしてマリアン・レッドフォード。
彼らは共に、王国の名の下で剣を振るい、闇を断つ存在であると信じていた。
それが、決定的に違う道を歩むことになるとは、誰も予想しなかった。
ヴィクターが彼女たちと出会ったのは十数年前のこと。
若き士官だった彼は、王国軍の特務部隊へと配属された。その部隊の中で、最も輝いていたのが、銀翼と呼ばれる女剣士──セレナ・ヴァイスだった。
彼女の剣は、躍動し、舞い、雷光のごとき鋭さで敵を屠る。その戦い方は、強さと自由を象徴するものだった。
「お前の剣はいつも迷いがないな」
訓練の最中、ヴィクターは肩で息をしながら言った。
セレナは微笑を浮かべ、剣を鞘に納める。
「迷う暇があったら、前に進む。単純な話さ」
「だが、無謀と紙一重だぞ」
「それでも、やらなきゃならないことがあるなら、立ち止まってなんかいられない」
その言葉に、ヴィクターは何も言えなくなった。
それを隣で聞いていたのが、もう一人の仲間、マリアン・レッドフォードだった。
彼女は武人ではなかったが、戦場に必要な知識を備え、策略に長け、何よりも聡明だった。
「ヴィクター、セレナの言うことを真に受けちゃダメよ。彼女は勢いだけで戦うところがあるんだから」
「おいおい、マリアン。私のことをそんな風に言うなよ」
「本当のことでしょ?」
彼女たちは違う資質を持ちながらも、戦場を共に駆け抜けた。
王国を守るために──。
しかし、ある日を境に、彼らの理想は決定的に交わらなくなった。
王国の裏で進められていた極秘計画。
『連合計画』
その真相を知ったとき、セレナは王国への忠誠を捨てた。
「こんなこと……許されていいわけがない!」
彼女は憤り、剣を握りしめた。
しかし、ヴィクターは王国の秩序を守ることが自らの正義だと信じていた。
「セレナ、冷静になれ。確かに、王国のやり方には問題があるかもしれないが、だからといって反乱を起こせば、すべてが崩れるぞ」
「ならば、崩せばいい! こんな腐った体制を、このまま許すつもり?」
「それが、どれだけの血を生むか分かっているのか……!」
セレナは、迷いなく答えた。
「分かっている。けど、それでも、ここで止まるわけにはいかないんだよ」
マリアンは二人の間に立ち、目を伏せた。
「……私には、どちらが正しいのか分からない」
それが、三人の別れの瞬間だった。
セレナは王国を捨てた。
ヴィクターは、王国に残り、彼女を追う立場になった。
だが──
すべてを知り、なおも王国が変わることを拒んだ時、ヴィクターは決断した。
「俺は……お前の剣になる」
そう告げたヴィクターの背後には、震える一人の少女がいた。
フィオナ・シュヴァルツ。
王国の実験施設で生まれ、利用される運命にあった少女を、ヴィクターはセレナと共に連れ出した。
「これで、お前の目的は果たせるのか?」
ヴィクターの問いに、セレナは剣を握りしめ、静かに頷いた。
こうして、彼らの反逆は始まった。
マリアンは──その場を去った。
それぞれの理想が交錯し、そして、決定的に反目することになったのだ。