36話 力無き理想は戯言、故に汝は力を求む
ーー気づいた時には、ラインは突き飛ばされ、その代わりにリダが死龍のブレスに呑まれていた。
肉が千切れ、裂け、それに伴う小さな苦痛の声が漏れるが、それらも全て破壊の音に掻き消される。
何が起きていたかは分からない。落馬してしばらくしてからの記憶が無いのだ。意識が戻った時には、ラインの喉は血が滲むほどに枯れ果て、声を出そうとしても濁声しか出なかった。目も赤く腫れ、ショボショボする。
だがそんなことはどうでもいい。大事なのは、リダが死龍のブレスを受けたということ、それだけだ。
「……リダさん!!」
瞬間、ブレスの通った地面が爆散。その衝撃で肉が千切れるような音と共に、リダの上半身が投げ出された。それは汚濁した血を撒き散らし、軽やかに飛んでいく。ーー軽やかに吹き飛べる程、軽くなっているのだ。
すかさずスキルで肉体を強化し、その脚力で全力疾走することで、放物線を描いて飛んでいくリダの体を何とか滑り込みでキャッチする。
地面に叩きつけられる寸前でのキャッチに内心安堵していたラインだったが、腕の中で苦悶の表情を浮かべるリダの体の有り様を見ると、そのような余裕も無くなってしまった。
ーー余りにも、惨たらしすぎたのだ。
細身な体の至る所に裂傷が刻まれ、体を覆っていたハズの鎧は粉々に砕け、胸部辺りのものに至ってはその破片が突き刺さり、鮮血が垂れ落ちている。
右腕はあり得ない方向へとひしゃげ、左腕は関節が外れたようで垂れ下がったまま動かない。砕けた鎧の隙間から覗く腹には土塊による打撲痕が多数あり、それは曲がり砕けた左右の腕にも共通する。
そして何より、両脚が千切れ、そこから夥しい量の鮮血が噴き出し、リダの命を断とうと血を吐き出し続けている。
更にはその身を呪いと腐食、ウイルスが冒すことでその体を赤黒く染め、リダの体に触れているだけのラインにすら凄まじい勢いで侵食する。
身を焼くような激痛に歯噛みしながら、ラインは辺りを見渡すが、死龍の姿はまたもや見えない。
死龍を探すことに躍起になっていたラインだったが、腕の中で苦痛の声を上げるリダへと目を向けて、今すぐ処置しなければリダは死ぬことを察する。
「あ、ああ……。そ、そうだ、回復させなきゃ……」
自分が正気を失ったからこそ、リダはそれを庇い被弾した。魂を蝕むような罪悪感を頭を振るうことで何とか振り払い、回復させようとしてーー気づく。
死龍が、今度はラインとリダを丸呑みしようと大顎を開き、地面を抉り返しながら迫っていたことに。敢えて少し距離を離して急襲することで、ラインが反応し切れない距離からの顎撃をお見舞いしに来たのだ。
距離にして数メートルしか無い状況で、回避行動になど移れる訳がない。
「ーーぁ」
「させるかよ!!」
「どこ見てんじゃクソ邪龍がぁ!!」
ーーーが、ライン達が死ぬことは無かった。
死龍の横っ面を弾丸の如くぶち抜くのは、長身の女ーーサクラ。そしてその顎を剣で叩き割るのは、禿頭の老人ーーリーヴだった。
2人は音すら置き去りにすると錯覚する程の豪速で死龍に一撃をお見舞いし、頭蓋骨へと甚大なダメージが入った死龍は今までの余裕有り気な態度から一変、絶叫を上げてその場をのたうち回り始めた。
「サクラ!リーヴ!!」
「ライン君、無事でよかった……!だけど、その呪いと腐食は、今すぐ治さないと……」
「ライン!リダ様はーーっ」
その身を呪いと腐食とウイルス、そして死龍の返り血で赤黒く染めながらも、ラインの心配を優先しようとするサクラ。同じくリーヴも己の体よりリダへと目を回すが、地面へと横たえられたリダの惨状を目の当たりにし、続いて紡ごうとした言葉が喉で詰まる。
当たり前だ。主君の脚が抉れ飛んでいるのだから。
「ーーし、りゅうぅぅぅぅーーーッ!!」
瞬間、普段からは想像もつかない激情を爆発させたリーヴは暴れ回る死龍へと一閃。尾を断ち、肋骨を砕き、ツノを折る。それだけ切り刻んでも尚、死龍は惨めにも暴れ狂う。
そしてリーヴの猛攻に耐えかねたのか、死龍はその骨だけの翼を広げ、唯一の逃げ場所とも言える天空へと逃亡を図る。それをみすみす見逃す筈もなく、リーヴに続けてサクラもその翼を斬り落としに飛びかかる。
がーーー、
『ーーーーー』
「はァ!?」
「ーーちょっと、予想外だったかも」
骨が外れるような鈍い音が鳴った刹那、甲高い金属音が響き渡り、リーヴの裏返った驚愕の声と、悔しさで歯噛みするようなサクラの怨嗟が聞こえて来る。
死龍はその前足を関節を外すことで可動範囲を広げて、その状態で自身の翼を落としにかかる2人の愚か者の一撃をガード……否、「受け流した」のだ。
レンがいれば、この技を『パリィ』だと気づいたであろう技。人間としても大して習得自体は難しくなく、ある程度の実力者ならデフォルトで備えている。剣技の指導者であるリーヴならば、直ぐに気づく。
ーーだが、それを知性無き死龍が本能でやり遂げたことに大して、リーヴとサクラは心から驚愕した。
それを好機と捉え、死龍は翼を広げ、空へと飛び立とうとする。
ーーが、それを見逃す程リーヴ達は間抜けでは無い。すぐさま刀と剣を死龍の骨に突き刺し、その痛みを無視して飛び立とうとする死龍の背にしがみつく。
「ーーリーヴ!サクラ!……死龍の弱点は、多分脳みそと胸のコアの両方だと思う!!そしてそれを1分以内での同時破壊が、死龍のギミックなんだ!!」
死龍の背に乗って空へと連れていかれる2人に対して、リダに回復スキルを全開で回しながら告げる。
2人は一瞬考え込むが、死龍が地面から離れた揺れと激しく動く死龍の体の揺れによって思考から引き戻され、2人が最後に言ったのはーー、
「ーー分かった。あとライン君、私達のことは気にしないで!危なくなったら離脱するから!」
「ラインよ!リダ様を……ノア様をどうか頼んだ!!」
相も変わらず、他人を憂う言葉だった。
サクラはラインを、リーヴはリダーーノアを。2人が命を賭けてでも死守すると決意した者の為に、ウイルスに侵されるその肉体に鞭打ち、死龍へと刃を振るう。
飛び上がる死龍はその痛みをさらに無視し、落ちれば落下死は免れない高さへと辿り着いた。雲の上という酸素も薄く気温も低い状況は、死龍の背に乗るサクラとリーヴの体力をこれでもかと奪い尽くしていく。
だがーーー、
「あぁぁぁぁッ!!」
「るぁぁぁぁッ!!」
二振りの刃が死龍の体を断ち、斬り、刻み、砕き、その身をウイルスに侵されながらも死力を振り絞って死龍の背を駆け巡り、死龍の骨に致命的な一撃を何度も叩き込んでいく。
だが、リーヴとサクラの肉体が限界を迎えるまでに、殆ど時間が無いことが問題である。保魔珠は既に使い切り、後は完全に個々人のレジスト力と抗体の強さに左右されることになった。
ーーリーヴとサクラの口から汚濁した血が漏れ出るまで、死龍が飛び上がってから30秒も経たなかった。
空へと飛び上がった死龍の背に乗ったサクラとリーヴを見送り、すぐさまラインもリダを再度抱き上げて走り出す。呪いとウイルスでもげ落ちそうと錯覚するほどの激痛に心身共に蝕まれながらも、決してその足を止めることはしない。
リダの千切れ飛んだ脚から吐き出され続ける鮮血が尽きた時、ラインの腕の中で呻く少女は息絶える。その事実が、ラインのSAN値をこれでもかと削っていく。
何より、自分が隙を晒したことでリダが死にかけているという罪悪感が、ラインの足を動かす活力となる。
「……い、っづぁ"……っ!」
だが、そんな柔い覚悟は全身を駆け巡る激痛によってあっさりと打ち消された。
魂を抉る痛みでリダの体を地へと落としそうになるも、それを堪えて再度走り出す。弱々しいながらも妄執のような理想ーー『皆で生き残る』などという戯言を内心吐きながらも、ラインの足は止まらない。
もつれ、転びかける足を踏ん張り、駆ける。
踏ん張りが間に合わず倒れようと、立ち上がる。
しかし腕の中のリダだけは地面に触れさせない。
魂を抉る痛みを唇を食いしばり、堪える。
とにかく走る。先程頭の回路が焼き切れた原因でもあるスキルをリダへと全開でかけつつ、死龍の射程圏外へと全力で逃走し続ける。あの龍が飛び込める射程は既に通り過ぎているが、ブレスの射程圏内からは外れていない。だから、ラインはその足を止めない。
そもそもラインが死龍を前にして腑抜けなければ、リダがこうして死にかけることも無かったのだ。腕の中のリダやリーヴはラインを責めることはしなかったが、そうであってもライン自身は自虐が止まらない。
全部、自分が悪い。ただそれだけなのだからーーー。
息が絶え絶えになりながらも、何とかしてラインは死龍のブレスが届かない場所にまで退避する。遮蔽物は、既に息絶えた死骸の陰。不謹慎であるのは承知の上だが、死龍の視界に入らないであろう場所がここしか無かったことは留意してくれると有り難い。
黒ずみ汚濁した液体を流す死体を陰に、しかし間違ってもリダへとそれらが触れないようにし、リダの小さな体をその場へと横たえさせる。昨日の夜に触れた時よりも更に軽くなった肉体に対して心を痛めながらも、ラインは己のスキルを全て、リダへと注ぐ。
がーーー、
「……治、らない……?」
変化が起きない。比喩ではなく血液の流れ出る量は止まらず、抉れた指先の爪も、ひしゃげた右腕の骨の一本も、千切れた脚の一本も、細胞の一欠片も何もかもが変化の一つも無い。
動揺と混乱が頭を駆け巡るラインだったが、自分の能力を見直し、その中でもスキル『能力増強』の強化に、「スキル強化」があることを土壇場で思い出す。
ブーモと戦い、絶命しかけた土壇場で覚醒したスキルの能力は、「パワーアップ」、「スピードアップ」、そして「スキル効果アップ」の3つであった。この中でもスキル効果アップだけは使う機会が無く、実質死に能力となっていたのだが、この時にはそれが役に立つ。
頭の中で考えるのを即止めるライン。エンハンスメントで高めたスキル『治癒者』のヒールを、目の前でもがき苦しむ少女へと、全力で注ぐ。
「………っ、ん…」
「リダさん!?しっかり!」
ーーと、リダの体に変化が起きる。少しずつ、本当に少しずつとはいえど、リダの足の出血は止まっていく兆しを見せている。更に至る所にあった打撲痕が治っていき、そしてリダの意識が戻る。
朦朧としながらも、虚らな目で此方を見るリダ。いつ再度意識が飛ぶか分からない状況にヤキモキしながらも、とりあえずリダの意識が戻ったことに安堵する。
あれ以降目覚めないことなどあったら、ラインはルクサスは勿論、魔界の皆へと向ける顔すら無かった。
「……ラ、イン……ここ…は……?」
「まだ死龍と戦ってる最中の戦場。まだ戦いは終わってないんだ。今はサクラとリーヴが死龍と戦ってる。だけど、あのままじゃ2人ともウイルスで死んじゃう……!ーーリダさん、どうしたらいい……?」
意識が戻りたてのリダへと、容赦なく状況説明と最終的な判断を委ねるライン。こんな時にすら人に判断を委ねる己の愚かさを心底嫌いながらも、ラインは人に頼る。
リダは判断を間違えない。《賢王》と呼ばれ、しかもそれらを転生した毎回繰り返している経験のあるノアならば、今回のような危機的状況を乗り越えてきている筈、とラインは考えたからだ。
そもそも一個人であるラインが判断をしたところで、また先程みたいに足を引っ張るだけだ。それぐらいならば、人の言うことに従順に従う傀儡の方がいい。
「……なら、ば…一つだけ…頼みが……ある……」
「うん、何でも言って。その通りにすーーー」
「ーー我を…置いていけ。その上で……まだ…息のある者共を……1人でも…多く…助けろ。我は、……もう、それだけで……いい」
ーーー何を言われたか分からない。否、分かりたくなど無かった。
今のリダの発言を文字通り受け取ると、「ルクサスの王であるリダを見捨てろ」と言うのと同義だ。その上で、まだ生きているであろう人間達を助けに行け、とリダーーノアは言っているのだ。
そんなこと、できるわけがない。先程馬が死んだ時にその翻訳でさえ発狂したレベルなのに、それが人間、しかも短期間とはいえ親しくなった人の死を妥協して他の人を助けることなど、ラインにはできない。
ましてや、見殺しなど、絶対に無理だ。
「……ごめん、できない」
その一言が無意識のうちに口から漏れる。ふと慌てて口を押さえるが、時すでに遅し。
ラインの自分勝手な言葉はリダの耳へと届き、彼女は一瞬驚愕の表情を浮かべた後、その弱々しい顔を真面目なものへと変える。そして口を開き、ラインを諭すような言い方で語りかける。
「ーーライン・シクサル…前も言ったであろう。……我、『ノア』の魂は永久に転生を繰り返す。……ここで死のうと、我は…数年すれば再度この世界へと復活する。……案ずる事は無い、再度…転生した暁には、……成長した貴様と…相間見えることを約束しよう……」
弱々しくも力強い言葉で断言され、しかしラインはその首を横に振る。こちらを訝しむような顔でこちらを見るリダに取って代わるように、ラインは口を開く。
「ーー知ってる。けど、本当に復活できるの?」
「……?何をーーー」
「ーーリダさんの復活の原理は、『輪廻の儀』ってもののハズでしょ?対象の魂に刻み込むという点で、それはある意味『呪い』と同じなんじゃないかって思ったんだ」
「…………」
「リダさんが言いたいことは分かってる。「ここでリダさんを見捨てても、いつか復活する」って言いたいことも、よく分かるんだ」
「………………」
「ーーでも、それは呪いが無ければの話だと思う。もしこのまま死んだら、ウイルスや弱体化からは逃れられるけど、呪いだけは転生後も残ると思う。そうなったら、赤ん坊のリダさんの後世は耐えられない」
ラインは、ハルトと戦った際に『魂』という概念に何度も触れ合ってきた。魂と結びついた七罪悪魔、魂を破壊する『血閃刀』、そしてハルトの持つエクシードカリバーに斬られた際の、魂を抉られるような激痛。
だからこそ分かる。今目の前で治療しているリダの治療を止めれば、リダは確実に死ぬ。それだけならば本人がいいと言うのならばまだ妥協できるが、それはあくまで呪いが無ければの話だ。
昔、キーラと勉強していた際に聞き齧った、『呪い』や『契約』についての知識。当時のラインの知能では理解し切れなかったが、異世界の知識が入った今ならば理解できる。
『呪い』や『契約』は、魂に直接刻まれるものだと言うことが書いてあった。その真偽はともかく、もしこれが事実ならば、リダは転生した瞬間に呪いで死ぬ無限ループを繰り返す羽目になる。
そして何よりリダの性格上、彼女はそれを知りながらもラインを安心させる為に、敢えて呪いに言及せずにそのまま死ぬ可能性が高いことも見抜いていた。……というよりは、見抜けてしまった。
ここでリダの真意を見抜けず、彼女の言葉に従って死なせていれば、後腐れなく見殺しにできたのに。と、どうしても思ってしまう自身が心底情けない。
「ーーーーーー」
その返答に対して、リダは無言。もしもの可能性を考えて意識を確認したが、意識を失った訳では無かったらしく、すぐさまその青くなった唇を痙攣させながらも動かす。
「ーーその通りだ。我がここで死ねば、輪廻の儀を上回る呪いで上書きされた呪いにより魂を蝕まれ、例え転生しようとすぐさま死ぬ輪廻に陥るだろうな。……フッ、『輪廻の儀』で延命した愚者が輪廻に陥って死に続けるなど、何たる皮肉だろうな」
先程の無言から一変、言葉を詰まらせながらも饒舌に話し出すリダの様子に、ラインは一種の恐怖を覚える。
何故リダは、自分の死を目の前にして笑えるのだろうか。何故リダは、自分を卑下する言葉を言い続けるのだろうか。何故リダは、もう何もかも諦めたような目をしているのだろうか。
分からない。理解したくない。だが、理解しなくてはならない。そうしないと、彼女を見捨てられない。
「ーー我を見捨てろ、ライン」
「ーー嫌だ」
「そもそも貴様は、自分に侵食しているういるすや呪いに気づいていないのか?そのままであれば死ぬぞ」
「知ってる!……けど、こんなのへっちゃらーー」
「……フッ。嘘が下手だな、貴様も。我への治療を止め、自身にだけ回復スキルをかけ、そのままどこに逃げ仰せようともそれを知るのは我だけだ。先程の発言は取り消させてくれ。貴様の好きにすればいい」
「何を…っ、そんな、無責任でクズなことなんて!」
「無責任などではない、生存本能に従った結果そうなるだけだ。それに、戦争や戦いにおいて犠牲者は出る。我はその1人になっただけだ。何ら不思議なことでは無い」
「ーー違う」
「今日この場において、『ノア=ルクサス』は本当の意味での死を迎える、それだけだ。他の者は死ねばそのままだが、我だけは400年間ズルをして生き延びてきた。それに終止符が打たれるだけだ」
「違う!死にたくないってことが悪い訳無い!死にたくないって思いは、誰にでもあることでーーー」
「ーー我は、自身が死ぬことに何ら不満は無いぞ?」
先程の弱々しさは何処へとやら、力強く断言し続けるリダの言葉に対して下手くそなフォローやら否定やらを続けて、無理矢理会話のキャッチボールを成り立たせようとするライン。
「死にたくない」という思いは誰にでもある、それは悪いことじゃない、だから生きよう、と。
ーーだがノアは、それをあっさりと否定した。
何を、と続けようとしたが、この件はラインにも否定することができない。何せノアは国を破滅に追いやった罪悪感からその魂をこの世界に縛り、ルクサスの繁栄だけに捧げてきた存在。人生経験などラインの比較にならず、それ故に価値観が合う訳がない。
彼女は自ら望んでルクサスの為に命を尽くしていたと、ラインは思っていた。それが彼女の使命であり、望みなのだと。実際、それは半分間違ってなかった。
だがノアは、もう限界だったのだ。しかも彼女の話によれば、リダへと転生するまでの15代全てで暗殺されているらしい。
ーー何度も他殺される『死』の輪廻の中で、ノアの魂は摩耗し、ヒビ割れ、そして今この場この時で、本当の『死』に直面したことで粉々に砕けたのだ。
否定など、できる訳がない。彼女の400年のことを考えれば何も言えないのは勿論、ラインもハルトを前に全てを投げ出そうとしていたのだ。そんな分際で、ラインはノアの心の悲鳴を掻き消せる無遠慮さは無かった。
「ーーライン・シクサル」
「ぁ」
「ルクサスを、どうか頼む。……などと、死の間際ですら国を案じるフリなど、我は愚かだなーーー」
その言葉を最後に、リダの体から力が抜け落ちる。
彼女の糸が切れた操り人形のように動かなくなり、悲鳴やら咆哮やらが響き渡る戦場だということを考えても、リダの呼吸音が全く聞こえなくなったのだ。
・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・
ーーーリダは、死んだのではないか。
信じたくない可能性が頭を掠めて顔面蒼白となったラインは、すぐさまその小さな胸へと耳を当て、心臓の鼓動を確認する。
すると、心音を微弱ながらも感じることができた。まだ生きていることを確認し、ラインは胸を撫で下ろす。
だが呼吸をしていない時点で、リダは遠からず死ぬことには変わりない。すぐさま人工呼吸やら何やらに移ろうとしてーーふと、心に一つの考えが浮かぶ。
ーーー【そもそも、何で自分は他人に対してこんなに必死になっているんだ?】 と。
幾度もミクスタ達仲間の為に命を賭け、時には全身を解体されながらも逃げ仰せ、今はほぼ他人のリダを救おうと躍起になっているライン自身に冷水をかけるような薄情な考えに、ラインは心底困惑する。
こんなの、自分の考えじゃない。ほんの気の迷いが原因だ、と心に決めるが、それは間違いだった。
それは、本音なのだ。そしてそれを気の迷いで処理したところで、実際に心の中に思ったという事実に何ら変化は起きないことはたかが知れている。
ラインはこれまでミクスタ達とも命を賭けたと言ったが、アレはまだ一ヶ月近くの付き合いがあったからこそ信頼などがあり、それに報いる為に戦った。
だが今回はどうだ。たかが2日3日ぐらいしか共に過ごしていない人間の為に命を張るなど、ミクスタ達と比べれば、どちらかが大切なのは明白。
そして、ライン自身にも決して余裕など無い。もはや痛みも感じなくなっているが、リダに向ける両腕は付け根まで黒い斑点が侵食しており、それを放置すれば死に至るくらい、ラインの小さな脳でも理解できる。
【(ーー別に、逃げても良いよね?)】
そもそも、ラインは死にそうなのだ。単純な言葉だけだが、それ以上の言葉は要らない。大切なのは自分の命、それを捨てて何になるのだ?
そもそも、人の為に命を賭けるのも馬鹿らしい。それが長年の付き合いである友人や家族ならばともかく、最も付き合いの長いミクスタでさえ一ヶ月程しか付き合いが無いのだ。それがデリエブならばまだ別だが、結局は他人の為に命を賭けるのが馬鹿らしい。
ラインの心根に深く決め込んだ筈の覚悟が、願いが、希望が、根本的に崩れ去っていく。今まで散々血を流して命を賭けてきた歩みの記憶が、色褪せていく。
なんでこんなことの為に、命を賭ける?
なんで見知らぬ人の為に、命を賭ける?
なんで他人の国の為に、命を賭ける?
くだらない。馬鹿馬鹿しい。見ていられない。理解などできるわけがない。そんなこと、止めてしまえ。
色褪せていく思考の中、ラインはリダへと向け続けていた両手のうち右の掌を、自分へと向けて、ヒールをかける。
すると、あれよあれよと言う間にラインの首筋の黒斑点は元の綺麗な肌へと戻っていくではないか。リダへとかけていた時には全く効かなかったにも関わらず、己にかければあっという間に黒斑点は消えていく。
【ーー自分にヒールをかけ続け、その状態で全力疾走すれば逃げられるのでは?】
また、ラインの頭を邪な思考が掠める。しかし今度は振り払う気も起きなかった。
折れかけの信念を掲げたところで次こそ再起不可能に砕かれるだけの話だ、それに何の意味がある?大切なのはライン自身の命だけで、命を守る為ならば他の何もかもを投げ捨てても良い。それをリダは肯定し、これを知る者はリダを除いて誰も居ない。
逃げればいい。投げ捨てればいい。
何が使命だ、何が夢だ、何が未来だ。そんなこと、今死にかけている時にまで拘るようなことじゃない。逃げろ、考えるな、拘るな、振り返るな、後悔するな。
そう、自分に言い聞かせる。
【それでいい。逃げろ。】
【それでいい。】
【それでーーーー。】
【きっとーーーー。】
ーーじゃなければ、この胸に残る罪悪感は拭えない。
▽▲▽▲▽▲▽▲
【僕は、逃げたいのではないのか?】
(それはそう。出来ることなら、全部投げ捨ててなりふり構わず逃げてしまいたい)
【僕は、生き残りたいのではないのか?】
(それも同じ。ハルトに腕を斬り飛ばされた時のことを思い出すのも嫌だし、五体満足で生き残りたい)
【僕は、死にたくないんじゃないのか?】
(それもそう。死にたくないのは完全な本音だ。もしこの世界で死にかけたことも無いくせに「死にたい」などと口にする輩がいるのなら、その口を縫い合わせるぐらいの権利はあると思う)
何度も己を責めるように問う言葉を跳ね返しながら、ラインは思考の海から這い上がる。しかし尚もラインを縛りつけようとする甘言はローブのように纏わりつき、その思考の中から離そうとしない。
【ーーー逃げろよ、ライン・シクサル。進んだところでどうせ死ぬだけだろ?それにキミは弱い。キミが居たところで何になるっていうんだ?自分をあまり買い被るなよ、雑魚のくせにさ】
【声】はラインを責める。まるでラインの全てを知っているかのように、ラインの心根の弱い点を、傷口に塩水を浴びせるかな如く抉り続ける。
それにラインの心は揺れる。否定したくとも事実を並べ立てられれば、ラインの乏しい語彙力ではカウンターどころか会話のキャッチボールにすらならないからだ。
ーーーだけど。
(ーーそれの、何が悪いの?)
【ーーー何?】
(みんなで生きたいって、自分も生き残って、今生きてる皆も生き残る大団円を望んじゃダメなの?魔族だからとかじゃなくて、1人の生き物として、ダメなの?)
本心からの問い。「魔族だから」という差別に悩まされる混血魔族のラインだからこそ、己のものかすら分からない【声】へと問いかけられる、素朴な疑問。
暫しの沈黙を挟み、【声】は再度語り出す。
【ーーダメだね。君が……魔族が生きている限り、世界に真の平和が訪れる訳がない。それは君達だって分かってるハズだろ?自分達がどれだけ憎まれ、嫌われ、蔑まれ、愚かしく思われているかなんてさ】
(そうかもしれない。ーーでも、それだけ?)
【は?】
(僕達魔族が生きてちゃいけない理由って、それだけなのかって聞いたんだ。差別されて、世界の人間達から嫌われているから生きたらダメ。ーーそれだけで、僕達の命の生き先すら否定されなきゃいけないの?)
【ーーそれがこの世界の理。それは1000年もの時から変わっていないことだ。ボクからすれば昨日のことに鮮明だけど、キミはまだ何も知らない若者だ。キミ達が嫌だろうと、その理は捻じ曲げられないよ】
ふつふつと湧き上がるラインの疑問を、【声】は無慈悲にも切り捨て続ける。それは世界のコトワリだと、変えることは許されないことだと、その意見の一点張りを続ける。
だがそれをくどくど言われたところで、ラインの疑問は解決されることは無い。魔族は死を甘んじて受け入れろなどと言われても、そんなのは御免被る。
ーーー「死ね」?ふざけるな、死んでたまるか。
残念ながら推定日本人の記憶が混じっているラインからすれば、何事も強制されることは反骨精神が働くのも相まって、「やってやるかよヴァーカ」という気持ちしか湧き出て来ない。
ーーやはり、ラインの本音は。
(ーー死にたくないし、死なせたくない!たとえ既に亡くなった人達は無理だとしても、今この時に死にかけている人達だけでも、僕と一緒に生き残らせたい!)
【無理だと言っているだろ?この世界の【神】が決めたことに逆らうのは、この世界で生まれたキミ達の所業としては最低の愚行だ。ーーこれだけ言っても聞かないのならば、やれるものならやってみればいい】
(ーーーーーー)
【ーーもっとも、できるものならば、だけどね】
やれるものなら、やってみろ。
その言葉は、今の高望みをやめないラインに対する最大の特効となる言葉だった。それを言い終わった【声】はほくそ笑むかのように、鼻で笑うかのような音が聞こえる。
もちろんラインに皆で生き残るなどというパワーも能力も、挙げ句の果てには脳すら無い。死龍が蹂躙を続けるこの中、ラインにできることは肉壁になるか意味のない延命措置を繰り返すことぐらいしか無い。
ーーーだけど、それでも。
(ーーそれでも、生き残りたい!生き残らせたい!できるできないじゃなくて、僕はそうしたいんだ!!)
【その一点張りか。キミの思考能力の低さには開いた口が塞がらないよ。できることできないことすら把握せず、己の欲望だけを吐け出すその姿ーー幼稚で哀れなどという、安っぽい評価じゃ収まり切らない】
(それがどうした!!僕達が生き残りたい、それの何が悪いんだよ?僕は、死にたくない!皆も、死なせたくない!それだけだ、何が悪い!?)
【力の無い分際で、それを理解しておきながら無理な理想を掲げることが矛盾していると言っているんだ。それが悪い、必要悪なキミ達魔族のサガなのだよ。魔族は悪、それを裁く人間や天使は正義。それは変わらない。魔族とそれに与する生物は等しく悪だ】
魔族が死ぬことは正義だと、魔族を裁く人間は善人だと、そう断言される。そしてそれを否定する人間や裁かれる魔族は悪だと、勝手に決めつけやがった。
ーーーふざけるな、そんな正義、消えてなくなれ。
(ーーだったら死んでやるものか!命を粗末に扱って崇め奉られる正義なんて、消えてしまえばいい!!僕はそんな下らないもので死ぬぐらいなら、プライドやら何やらでも投げ打って生き延びてやる!)
【ならやればいい。できるものならば、ね】
(無理だというのも知ってる!僕なんかじゃ、みんなを助けることも、あの死龍を倒すこともできないことだって、そんなこと、僕にだって分かってるよ!!)
【幼稚で下らない見栄。いい加減にーーー】
「ーーだから、力を貸してくれ!!悪魔達!!」
【ーーーっ!?】
最後の頼みの綱、『悪魔受肉』へと全てを賭けて、ラインは叫ぶ。ここが精神世界らしき所なのか、肉体の存在する世界なのかすら分からないまま、その声を何の恥ずかし気も無く叫び続ける。
そこにプライドやら意地は存在しない。ただ己の理想という名の戯言を叶えたいが為に、窮地を打開する手段を欲す、生物の風上にも置けない愚か者。しかもラインは己の力が足りないことを痛感した上での諦めの悪さゆえに、その愚かしさは止まることを知らない。
ーー憎悪する相手を前にして湧き上がった、轟々と燃え上がる炎のような『憤怒』。
ーーこの世界の最強を目の前にしてその力へと妬みを向けるという、底知れない闇のような『嫉妬』。
そして今、この日この時より、ラインの魂新たな悪魔が刻まれる。
その大罪は単純明快、「力無き身であるにも関わらず、有りもしない力を貪欲にも求め、あまつさえ1人では叶えることもできない未来の理想を語る罪」。
ーー有りもしない力を求め、その上理想を騙る。
そんな「強欲」さが、人と魔族の混血魔族「ライン・シクサル」の魂と「強欲ノ悪魔」の魂を繋いだ。
【……っ!! 世界の『理』へと干渉、個体名:ライン・シクサルとマーモンの魂の結合を強制解除ーー】
《ーーーさせないよ、【******】。残念》
【ーーー!! キミーーいや、お前は……!】
《ーーそうそう。ボクは『七罪悪魔』が1人、世界の無尽蔵の知識へと想いを馳せるしがない悪魔、『強欲ノ悪魔』ことマーモンだよ。大体1000年ぶりかな?》
【ーーーお前は、また、ボクの邪魔を……!!】
《ーーあ、もう話は終わりね。『しゃっとだうん』》
【ーーー!?ーーー!!ーーー、ーーーーーー】
《ーーじゃあ、始めようか。弱いのに渇望をやめない、ボクそっくりの愚か者の願いを叶えに、ね》