She broke with him(三十と一夜の短篇第79回)
ミシェル卿は重々しく告げた。
「国王陛下はあやめの国の公爵令嬢との婚儀をお決めになりました。セレーヌ女伯爵、貴女とは結婚できなくなった、済まないと詫びを伝えてくれと私めを遣わされました」
セレーヌ女伯爵ことマルグリットは陶器の人形と化した。かなしみも憤りも過ぎれば表に現れなくなるらしい。長い沈黙ののち、陶器人形は唇を動かした。
「なにゆえそのような大事を陛下自らいらして教えてくださらないのでしょう?
なにゆえ使者に貴方をお選びになったのでしょう?」
ミシェル卿は軽く頭を振った。
「私に陛下のお心すべては読めません。ですが、貴女のお気持ちを汲めるは私であろうと思され、お言葉を託されたのでしょう」
わたくしの気持ち、と呟きが漏れた。マルグリットは泣きそうになるのを堪え、顔を歪めた。
「陛下を信じたわたくしが愚かでした。そして我が父も。我が実家は陛下のお言葉に欲を掻いたと恥を晒すのでしょう」
「ご自分を貶めるような言は慎まれよ。国王陛下からゆくゆくは王妃にと望まれ、愛を囁かれて有頂天にならぬ女性などおりますまい。まして貴女はあざみの国で王族と縁を結んでもおかしくない大貴族の令嬢。陛下の思し召しを受け入れられても思い上がったなどと誰も思いません」
「貴方はなぜそうも落ち着いておられるのですか? わたくしをあざけるでもなく、責めるのでもなく……」
「私は貴女が痛ましい」
マルグリットは胸が締め付けられるように痛み、目を閉じた。
「わたくしは貴方を裏切りました」
「裏切ったと言っても、親同士の決めた婚約でした。お恨みはございません。
貴女の父上から陛下のご寵愛を賜ったからと破談の申し入れをされた時、私は受け入れました。私は国王陛下に忠誠を誓った臣下です。否やはございませんでした。それに、貴女は陛下からの寵愛を受けてお仕合せそうでした。すぐに御子にも恵まれた」
「今となっては儚いものです」
彫像のような貴婦人に、ミシェル卿は話を続けた。
「あやめの国への慮りから陛下は、セレーヌ女伯爵は一旦王城から下がり、しばらく領地で暮らされるようお命じになりました。
貴女に賜ったセレーヌ伯爵の称号はそのままに、そしていずれは御子に爵位を継がせると陛下は仰せです」
「有難い仰せでございます。
つつしんで王命をお受けいたします。明日より移動の準備を始めます」
貴婦人は力が抜けそうになるのを堪え、典雅に振る舞うのが精いっぱいの意気地だった。
「承りました。陛下にお伝えします」
宮廷の貴婦人と騎士の儀礼的な振る舞いを、一方が破った。
「どうかお許しください」
ミシェル卿はマルグリットに手を伸ばし、彼の女の手を両手で握り締めた。マルグリットは動けず、ただ驚き、うつむいた。
「陛下は私なら貴女の心を癒し、支えられるであろうとお考えになったのです。貴女には屈辱を与えるであろう辛い、そして私にとっては失った時を取り戻せるかも知れない使い。
マルグリット」
洗礼名で呼ばれ、心臓が強く脈打った。
「これも陛下から命じられてなのですか?」
ミシェル卿の眼差しはマルグリットの胸を貫くかのように強く、真剣だった。
「いいえ、これは私の気持ちです。少年の頃から変わらぬ想いで貴女を愛しています。貴女の傷心を慰め、いたわることができれば我が身のさいわい、誉れです。
五年前、親より貴女との婚約を告げられて、私の心はときめき、浮き立ちました。この喜びが恋であると知りました。しかし貴女は私を愛しているようではありませんでしたし、やがて陛下からのご寵愛が始まりました。寵姫としてときめき、王妃となられる方と諦めよう、晴れやかな立場におられる姿を拝するだけで満足と、今まで心を押し殺して生きてきました。
しかし、こうなってはこれ以上我が心を偽ることはできません。
是非にとも、すぐにでも、とは申しません。どうかこの先の人生、貴女と共に歩みたいと願っている男がいると知っていてください。私の正直な想いです」
「わたくしはもう何も知らない、無垢の乙女ではありません」
「ええ、私もまた情熱のままに振る舞う未熟者ではありません。陛下の想い人であられた方に無理強いはいたしません。
いつまでもお待ちいたします。たとえお応えいただけなくても、私は貴女の忠実な騎士でありたい」
マルグリットはほろほろと大粒の涙を零した。
「有難う」
絞り出すような声で告げ、マルグリットはミシェル卿の手を握り締め、すぐに押し返した。
「ミシェル卿、陛下のお側にわたくしがいる必要は無くなりました。王命でございますから、二度と陛下の側に参ることはございません。
行く末は領地でゆっくり考えて決めることにいたします」
騎士は貴婦人に尋ねた。
「お城に訪ってもよろしいでしょうか?」
「お好きなように」
マルグリットは思案なく社交辞令で答えたが、ミシェル卿はつれない言葉と取らなかった。
よみ人しらず
我ながら さももどかしき 心かな 思はぬ人は なにか戀しき 七五九
『拾遺和歌集』 巻第十二 戀二 引用は岩波文庫 武田祐吉校訂より