第九話……長篠城攻防戦
意気揚々と躑躅が崎館に帰った勝頼に訃報が入る。
「なんと、幸隆殿が!?」
父信玄を支えた名臣、上州の真田幸隆が亡くなったのだ。
幸隆も勝頼と同じく信濃を地盤とする勢力で、甲斐では肩身の狭い思いをすることが多かったのだ。
勝頼は素晴らしい友を無くした心境であった。
――天正二年(1574年)八月。
勝頼は一万二千の大軍を組織し、遠江国へと進軍した。
このころにもなると、馬場や山県のみならず、内藤や高坂といった老臣たちも、勝頼を武田の実質的な主と認めるようになっていた。
肝心の一族衆は別なのであったが……。
勝頼は城を一切攻めず、徳川領を堂々と行軍。
家康の居城である浜松城の近くにも迫り、示威行動と挑発を行った。
「もうその手にのるものか!」
しかし、慎重な家康は城を出なかった。
……が、それは勝頼の策であった。
『徳川家は臆病者。味方に値するのは武田家のみ』
こう吹聴して、遠江国や三河国の豪族に、水面下で調略を仕掛けていたのだ。
この策は功を奏し、徳川家の譜代家臣にまで裏切者が出ることになる。
このころの情勢は、明らかに武田に優勢となっていたのだ。
――天正三年(1575年)春。
「信長は石山本願寺との戦いとのことである。今のうちに徳川を潰しましょうぞ!」
勝頼の側近である長坂長閑斎などが、徳川攻めを提唱。
諸将もそれに倣い、三河国への出陣が決まった。
田植えを終えた武田勢一万五千は古府中を出発。
連戦連勝であったのもあって、勝頼率いる新生武田軍の士気は高かった。
武田軍は信濃から三河へ侵入。
北三河の長篠城を放置し、南三河の吉田城の近くまで迫った。
が、相変わらず徳川勢は、貝の蓋を閉じたように出てはこない。
「周辺の村々に火を放て!」
勝頼は徳川領の村々に火を放つよう、諸将に命令をする。
が、徳川勢に反応は無い。
「次は川の堤を切れ!」
次は徳川領の堤防を次々に破壊。
辺りの農作地は水浸しとなり、徳川領は甚大な被害を出した。
が、これを行っても、徳川勢は城から出てこなかったのだ。
「陣代様、とりあえずは後方の長篠城を奪回しては如何でしょう?」
「そうだな」
北三河の要衝な地にある長篠城は、武田より裏切った奥平信昌が守っていたのだ。
次からの裏切りをださぬために、見せしめの為にも攻略する必然性があった。
長篠城に着いた勝頼は、城の周りに鳶ノ巣砦など4つの砦を築き、万全の態勢で長篠城攻略を開始した。
「攻めよ! 攻めよ!」
長篠城を包囲した武田勢は、一斉に竹束を盾に攻撃。
武田の押し太鼓が鳴り響く。
時期的に雨の日が多く、城方の鉄砲火力もあまり強くは無かった。
勝頼率いる武田勢は、強引に力攻めせずに、掘りを埋め、土塁や櫓を打ちこわし、じわじわと包囲網を縮めていった。
「無理に攻めることは無いぞ! 味方の被害に気を配れ!」
武田勢はゆっくりと、かつ確実に前進。
西の曲輪をはじめとして、三の丸を攻略。
遂には食糧庫のある二の丸も攻略した。
もはや長篠城の陥落は、必至の情勢であったのだ。
「家康の後詰が来ませぬな?」
「……うむう」
勝頼と諸将が考えた策は、長篠城を窮地に陥れたら、徳川勢が援軍に来るのではないかという目算だったのだ。
そこを武田勢自慢の野戦で粉砕する。
そういう作戦だったのだ。
もし、城を落とせば間違いなく徳川勢は出てこない。
……雨の中、武田勢は次の方策をどのようにするかと迷ったのだった。
――
勝頼たちは知らなかった。
かの織田信長と、摂津(現在の大阪府)の本願寺との和睦が成立。
兵力に余裕が出た第六天魔王こと信長が、大軍をもって岐阜城(現在の岐阜県)を発し、徳川家の援軍へと向かっていた。
しかも、その3万の兵は、一人一本もの木材と、縄を持つという不思議な出で立ちをしていたのだった。
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人物コラム『内藤昌豊』
西上野郡代。
箕輪城代。
武田四名臣の一人。
信繁亡き後の副将と目される。
先陣だけではなく、荷駄隊の統率などもそつなくこなす。
北条や上杉との外交も担当。