第六話……信玄の遺言
「勝頼様! 同盟国の北条家から使者が参りましたぞ!」
……きっと父上の容態を探りに来たのだろう。
勝頼のみのみならず、居並ぶ重臣たちも同じように考えた。
「信廉様! お化粧のほどよろしくお願い申す!」
「……う、うむ」
影武者は信玄の弟の信廉がやることになっていたが、信玄の死が露呈した時が怖くて、北条の使者が帰るまで、勝頼は生きた心地がしなかった。
「御書判が役に立ちましたな!」
「うむ」
北条の使者には、信玄の御書判を持たせて帰らせた。
信玄は直筆の御書判を生きている間に、800枚書いて用意していたのだ。
これを使って3年死を秘せということなのだろう。
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――躑躅が崎館に急使が届く。
「勝頼様! 徳川軍が駿河の町に火を放っております!」
「許さん! 直ちに出陣だ!」
「お待ちください! 陣代様!」
「信玄公の御遺言をお忘れか!?」
勝頼は武田家の統領たる御屋形様ではなかった。
あくまでも子である信勝の後見役に過ぎない。
よって、老臣たちに信玄の遺言を出されると、黙るしかなかったのだ。
しかし、武田の動きが鈍いとみるや、家康は三河の要衝、長篠城の奪回を目指す。
老臣たちが止める中、今度は武田信廉の隊を派遣することで妥協。
しかし、信廉隊は徳川勢に追い払われ、後詰は失敗。
結果、長篠城は援軍が来ず、落城してしまった。
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「一体、いつまで我慢すればよいのだ!」
勝頼は激高した。
織田徳川両家を合わせると400万石以上。
それに対して、武田家は120万石しかなったのだ。
それだけ国力が離れている以上、座していれば、次々に味方は離れ、いずれは負けてしまう。
一度は勝っておかないと、味方が次々と離れる危険があったのだ。
――天正二年正月(1574年)
躑躅が崎館に更なる急報が入る。
「織田軍、東美濃の要衝、岩村城に大軍にて攻撃の気配とのことです!」
岩村城は信玄の西上作戦の一環で、秋山信友が落とした城だった。
これを見捨てることは出来ない。
「直ちに出陣だ!」
「お待ちください! 陣代様!」
止めるは内藤昌豊。
信玄の遺言とはいえ、老臣たちには勝頼を蔑ろにする風潮も、確かにあったのだ。
勝頼は信濃の一諸将たる若侍。
譜代の臣からすれば、勝頼は躑躅が崎館に入ってわずか2年の若造だったのだ。
「今の情勢において3年は長すぎる。3年も味方に援軍を送らねば、武田は見捨てられてしまうぞ!」
勝頼は憤った。
勝頼の言は情勢から鑑みるに正しかった。
だが、先代である信玄の遺言は、譜代の老臣たちには大きすぎる存在だったのだ。
「ええい構わぬ! ついてくるものだけで構わぬ! 岩村城の秋山を助けに行くぞ!」
「ははっ!」
この勝頼の出陣に際して、甲斐本国の老臣たちの中からは、馬場信春と山県昌景のみが参陣。
しかし、甲斐から信濃に入ると、勝頼と同じ信濃の部将たちが加わり、一万の軍勢となっていた。
……しかし、進軍中に織田軍は二万以上の大軍との情報が入る。
しかも信長、信忠の親子直々の出陣とのことだった。
勝頼の総大将としての初陣は、決して負けられない上に、さらに厳しいものとなっていったのだった。
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人物コラム『武田信廉』
信虎の三男。
信玄の弟。
勝頼政権時には、穴山信君と並んで御親類衆筆頭格。
信玄によく似ており、信玄の容態が悪い時など、影武者を務めた。
また、絵を嗜む風流な武人でもあった。
【作・松本楓湖・恵林寺臓】