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第二十話……御館の乱

 勝頼は、長年の宿敵の地である越後に、一万五千の兵を引き連れ乗り込んだ。


 ……父信玄がこの様子を見たら何と思うであろうか?

 勝頼はそんなことを思っていた。



「氏政殿はまだ動かれぬのか?」


「はっ、未だに!」


 この時、勝頼は北条氏政に疑念を抱き始めていた。

 景虎は実の氏政の弟である。

 義理の兄弟たる勝頼が兵を出しても、氏政は本国である相模国(神奈川県)から、一向に動こうとはしなかったのだ。


 勝頼の軍事行動を見て、一旦は景虎派が有利と思われたが、肝心の生家である北条家が動かない。

 これには多くの上杉の家臣が、景勝派に流れる要因となった。


 このころの上杉家は、越後のみならず、越中や能登にも領地を得ていた。

 当初、兄弟である景勝と景虎での分割相続案も存在していた。



 勝頼は、この景勝と景虎の争いを講和に持っていきたかった。

 織田家という強大な敵を前にして、内輪もめなどしている場合では無かったのである。


 ただ、北条氏政の弟である景虎が上杉家を相続すれば、北条と上杉と武田の三国同盟が成立する公算が高かった。


 ……ただ、その肝心の北条家が、援軍に来ないのである。




――


「勝頼様、我らに味方をしてくれとは申しませぬ。ただただ中立に徹して頂ければ、わが主である景勝が当主になった暁には……、武田様の旗に集うことも厭いませぬ!」


「……ふむ」


 春日山城を抑え、有利に継承争いを進める景勝は、勝頼に講和の使者を送ってきた。


 中立に徹してくれれば、東上野の上杉領と越中の上杉領の一部と、さらには黄金一万両を進呈するとのことだった。これは謙信が春日山城に、日ごろから莫大な金銀を蓄えていた結果だった。


 更には武田と同盟を結び、勝頼の風下に立つことも厭わないと言ってきたのだ。



「昌幸はどう思う?」


 景勝からの使者が帰った後、勝頼は真田昌幸に問うた。

 いまや、武田の柱石たる馬場や山県はいない。

 亡き信玄に『我が両目の如し』と評された昌幸の慧眼に、勝頼は多くを託すようになっていた。



「……されば、景勝殿の条件を飲み、しかし一旦景勝殿が旗色悪くなれば、容赦なく滅ぼしてしまうがよろしいかと……」


「……ふむう」


 昌幸は条件を飲みながらも、『状況次第では反故にしてしまえ』と進言してきたのだ。

 

 後日、昌幸の行動は、天下人たる秀吉に『表裏比興の者』と称えられている。

 当時は上手に裏表があることも、戦国武将の才覚として褒められる要素だったのである……。



「やむを得ぬか……」

 勝頼は景虎に味方したい気持ちが山々であったが、肝心の北条軍が動かないではどうしようもない。


「我等は北条の家臣ではござらぬ!」

「そうだ! そうだ!」


 動かぬ北条にこきつかわれ、武田の家臣たちのプライドは大きく傷ついていたのだ。

 景勝側からこのように良い条件を出されたうえで、景虎側に付き続ければ、勝頼が家臣から反乱を起こされかねない情勢となっていたのだった……。



「我等は動かぬ! 約束を反故にするではないぞ!」


「ははっ!」


 勝頼は翌日、景勝側に中立を約束。

 春日山城を手にして有利だった景勝側は、景虎側の御館城を包囲落城させた。


 結局北条は終始景虎に援軍を送らなかった。

 景虎は最初から、氏政に見捨てられていたのである。





――天正七年(1579年)


 景勝は正式に上杉家の当主となる。

 同時に勝頼の妹である菊姫を正室に迎え、長年の宿敵であった武田と上杉は正式に同盟関係となった。


 景勝は約束を守り、東上野の地と越中の一部を勝頼に割譲。

 黄金一万両も支払った。


 勝頼は割譲された土地を家臣に分配。

 黄金は長篠で散った勇士たちへの補償に充てた。


 上野国(群馬県)の東部の支配と、越中国(富山県)の一部、信濃国(長野県)北部の完全支配を新たに得たことにより、武田家の版図は信玄の時代よりさらに拡大。


 ここに勝頼は武田歴代の最大版図を築いたのであった。



 ……しかし、この間。

 最後の武田四名臣、高坂昌信が病没。


 北条氏政は徳川家康と結び、武田と敵対した。

 この後、伊豆沖で武田水軍と北条水軍が、海上でも戦う展開となっていく。

 

 さらに、徳川軍と遠江国(静岡県西部)で交戦。

 高天神城や諏訪原城などで、激しい攻防戦を演じた。


 ……しかし、この時。

 織田勢は徳川の援軍に現れなかった。



「勝頼様、ここは織田殿と講和するのも一手ですぞ!」


「……ふむう」


 上杉家は相続における騒乱の影響で、とても武田を助ける状態にはない。


 それとは別に、少し前。

 織田信長は勝頼に講和の打診をしてきていたのだ。


 これを再考すべきとの家臣の提言に、勝頼は肯定の方針をとったのだった。



「……北条との二正面作戦はとれぬ! 信長殿に使者を出せ!」


 長篠の遺恨より、現実を考えるべきとの武田家の外交方針の転換だった。





 北条氏政が上杉家に直接介入しなかった理由として、上杉家と険悪化している織田勢力と対立したくなかったという要素が挙げられます。

 勝頼が景虎を擁したとて、北条が織田と戦ってくれたかどうかは、見方が分かれる点かもしれません……(´・ω・`)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 遺族補償はともかく何故家臣に割譲した(笑) いゃ懐柔とはわかりますが。 [気になる点] やはり北条ですね(笑) 何故ここに来て日和ったのかの真実が。 まぁ歴史の闇ではありましょうが。 […
[一言] >長篠の遺恨より、現実を考えるべきとの武田家の外交方針の転換だった。 私はリアリストなので、この考え方には共感しますけどねw
[一言]  織田が強大であるとはいえ、武田も大大名。  名将死せると雖も、防衛に適した山岳地帯を治める武田が数年で滅ぶとはとても思えませんよね……。  ここから先も、長篠に劣らない見どころといった感…
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