第十八話……甲相同盟と手取川
――天正五年(1577年)春。
勝頼は北条氏政の妹を正室に迎える。
躑躅が崎館に再び麗しい春が訪れた。
織田徳川に対し背後を固めたい武田と、佐竹氏の治める常陸への攻勢を強めたい北条との思惑が合致。
勝頼は若くして正室を亡くしていたのだ。
これに目をつけた高坂昌信の外交の腐心もあって、武田と北条は再び固く縁を結ぶこととなった。
甲相同盟の成立である。
「ふふふ、勝頼殿は我が弟であるか……、結構なことだな、あはは……」
相模(神奈川県)の北条氏政はとても得心が言ったように笑っていたと言われる。
――
越後(新潟県)の国、春日山城。
「勝頼殿は我が越後とことを構えるつもりはないと?」
「ははっ、さようにございまする!」
勝頼の使者は上杉謙信にも姿勢を低くして和を請うた。
「よかろう!」
上杉謙信は武田との停戦に応じる。
これは武田の思惑以外にも、将軍足利義昭の和平の斡旋があったのだ。
この時期の将軍家は織田家と敵対しており、近畿地方では再び本願寺勢力が蜂起していた。
「皆殺しにせよ!」
織田信長は越前(福井県東部)の一向宗に対し、皆殺しの命令を発する。
その殺戮被害は3万人にものぼったとされる。
この凄惨な案件もあり、北陸の一向宗は越後の上杉謙信と和睦し、上杉は武田と共に反織田同盟に加盟することとなった。
「第六魔王倒すべし!」
越後の一向宗と和睦した上杉謙信は、織田信長との決戦を企図。
春日山城を出陣した謙信率いる精鋭は、越中(富山県)を瞬く間に征服すると、能登方面にも兵を向けた。
――
『謙信来たる!』
この報は信長を震撼させた。
放置しておけば、折角、最近に織田側に着いた勢力が離反しかねなかった。
それだけ北陸の織田の支配は軟弱だったのだ。
織田家は設楽ヶ原で武田を撃破したまでは良いのだが、今度は本願寺のみならず毛利や上杉といった勢力までもが反信長同盟を結んできたのだ。
織田家はとても武田と戦うどころではなくなっていた。
そのため、勝頼は九死に一生を得て、この間は徳川家との小競り合いに終始している。
「勝頼殿に和睦の使者を出せ!」
「謙信には柴田勝家と羽柴秀吉にあたらせよ!」
こうして、信長は北陸にて謙信との決戦に臨み、武田とは和睦交渉に入った。
……が、
「織田と和睦だと!? 設楽ヶ原の恨みを決して忘れぬわ!」
勝頼は織田方の使者に対し、和平の提案をはねつけた。
武田家は先日、馬場、山県、真田、内藤など多くの忠臣を討たれているのだ。
とても飲める心情ではなかった。
……さらに言えば、ここにきて、上杉や北条、毛利や将軍家までもが反織田勢力であったのだ。
ここで武田家だけが織田と和するのは得策とは言えなかった。
――
天正五年(1577年)夏。
上杉謙信率いる越後勢は、能登(石川県北部)の堅城である七尾城を攻略。
七尾城に救援に向かったのは柴田勝家率いる織田勢3万。
しかし、織田勢は手取川にて上杉謙信に徹底的に叩き潰されることになった。
織田勢は設楽ヶ原と同じく、大量の鉄砲を活用したい思惑だったのだが、謙信は鉄砲の照準が定まらない夜間の内に奇襲したのだった。
「流石は父上の好敵手! お見事!」
勝頼はこのときの謙信の戦の手並みに感服。
急ぎ、春日山に祝いの品を贈った。
この時期、織田方は劣勢に次ぐ、劣勢。
この間に、武田は織田の虎口を逃れ、軍政などの復興を成し得るかに見えた……。