誘拐
ニーナを捕らえた魔女は杖を箒に持ち替えて、家の裏手に広がる森へと低い軌道で飛び始めた。いったいこのままどこへ連れ去られてしまうのだろうか。怖くなったニーナは透明な瓶のなかで何度も拳を叩きつけた。
見上げた先にある出口は遥か上。しかもきっちりと蓋がしてある。ジャンプをしてみても蓋までは手が届かず、しかも瓶の素材はつるつるとしていて、どうしてもここから抜け出せそうになかった。もちろん周囲を見渡してみても抜け道なんて存在しない。
それでも諦めずに亀裂のようなものを探すが、そうしているうちにも魔女は大きな木の前で箒から降りて、真っ暗闇の空洞へと入っていく。
仄かな明かりがつく。目の前には木製の扉があって、魔女は瓶を手にしたままそれを開けた。視線の先には大きなベッドが。ということは、どうやらここがリムステラの住処のようだ。狭い室内も、魔法で小さな姿へと変えられてしまったニーナにはじゅうぶん広く感じられた。
瓶の蓋が開けられる。やっと外へ出してもらえるのかと期待したが、しかしそこから外へつまみ出されることはなく、ニーナを入れた瓶はテーブルの上の妙な台座へと乗せられた。それは鉄製の三脚のようなものである。
「うわぁ!?」
足元に気を取られていると、突然目の前に白い猫がやってきた。
そいつは毛の長い猫で、ニーナに興味を抱いているようだった。きっといつもなら可愛らしく感じるだろうその猫も、いまやバケネコ同然。しかも瓶の口から白い前足を伸ばしてくるのである。ぎょろりとした目を向けて腕を伸ばしてくる仕草は恐怖でしかなかった。
「やめて、助けて!」
引っ掻こうとする猫から自分の体を守るために、狭苦しい空間のなかでニーナは身をかがめた。鋭い爪が瓶の内側とぶつかり、カチャカチャとやかましく音を立てている。このままじゃ猫に食べられてしまうのも時間の問題のように感じられて、生きた心地がしなかった。
そこへ魔女がやってきて、まだ食べちゃダメよ、と猫を瓶から引き放す。
白くて毛の長い猫は獲物を取り上げられて、不満げに喉を鳴らした。ニーナはほっと胸をなでおろす。
しかしながら、魔女はニーナのことを助けたわけじゃなかった。猫を遠ざけてくれたのも、いまから行う実験に邪魔だったから。ただそれだけだ。その証拠に、魔女は水がいっぱいに入った透明なコップを手にして笑っていた。
「なにをする気なの……?」
不穏な気配を感じてニーナは問いかけるが、魔女は微笑みを返すだけ。そしてゆっくりと、コップを瓶の上に持ってきて傾け始める。
するとたちまち、零れ落ちた水がニーナの足元を埋め尽くしていった。
「待って! これ、私溺れちゃう!」
ニーナが必死になって叫ぶあいだにも水は注がれていき、すぐに膝より上の高さまで水位が上がってきた。
しかしリムステラはコップを傾けることを止めないばかりか、ニーナの頭上を狙って水を落としてくる。
「うわぷ、ちょっと、助けて……!」
もう水は胸元まできている。ニーナは、泳げないことはないが、しかし得意でもない。だからいつまでも浮かび上がることなんてできない。
しかも、戸惑っているあいだにも水かさはニーナの身長を超えてしまった。ニーナは生きるために、脚をバタつかせて不格好ながらに泳ぎ始める。先ほど傷をつけられた右腕からは薄っすらと血が滲んだ。
そうして瓶のなかは三分の二ほど水で満たされただろうか。瓶の口までの距離は近くなったが、しかし依然として手を伸ばしても届かない。つるつるした材質では内側の壁を上ることもできそうになかった。
そんな瓶のなかを、リムステラが真上から覗き込む。
「ふふっ、必死ね。そうやっていつまで浮かび続けらるか観察するのも面白そうだけれど、でも私ってばそんなに気の長い方じゃないのよ。だから、面白いものを用意してあげるわ」
そうして次に取り出したのはアルコールランプだった。試験官やビーカーのなかの溶液を、火で熱することで温める器具である。
リムステラはそれをなんと、瓶の真下へとセットして火をつけた。
「うそ、ですよね……」
ニーナはこれから自分の身に起こる最悪の事態を想定して、顔面蒼白になる。
ここからいつまでも逃げることができなければ、そのうち……
「あなたは知ってるかしら、カエルを使った面白い実験の話を。カエルを熱湯の中に入れると、その熱さにびっくりしてすぐさまにげだしちゃうけれど、ぬるま湯の中にカエルを入れた状態で水の温度を徐々に上げていくと、カエルは温度変化に気付くことができずに茹でガエルとなって死んでしまう、というお話よ。ただ実際にはそんなことなくて、温度が上がるごとにカエルの動きは活発になり、最後には逃げ出してしまうらしいのだけど、それが本当なのかどうか、あなたで実験してみることにするわ」
「待って。私の力じゃ逃げたくても逃げられないよ!」
「そうかしら? 死ぬ気になれば案外そこからぴょんと跳びはねられるんじゃない?」
そんなのムリだ。気合とか、そんなことでどうにかできる高さじゃない。
下を見る。瓶の底では、小さなオレンジ色の炎が瓶を熱し続けている。いまはまだ水は冷たいけれど、ものの数分もしないうちにお湯に変わり、すぐさま熱湯へと変化するのだろう。
──茹でガエルみたいな死に方なんて、そんなの絶対に嫌だ……!
ニーナは瓶の端まで泳いでいき、そして瓶の内側から体全体を使って体当たりする。上から逃げられないのなら、瓶を押し倒すことで脱出を図ろうとしたのだ。
けれども、首元まで水に浸かった状態ではどうやっても勢いをつけることはできず、瓶を押し倒すような衝撃を加えることはできない。両足を使って押してみてもびくともしなかった。
「出して! ここから出してよ!」
何度も拳を叩きつけるが、やはりそれは無駄な行為でしかない。
リムステラが温度を確かめるために、指を水につける。
ニーナはその指にしがみつこうとするが、それより一瞬だけ早く指は引っ込んでしまった。
「底の方は徐々に温まってきたけど、表面はまだまだ冷たいままね」
そう言ってリムステラはスプーンを手に取ると、瓶のなかの水をぐるぐると激しくかき混ぜる。ニーナはその中心で水の影響をもろに受けて、渦を巻く水の流れによって沈みそうになる。さらにスプーンを押し付けられることで、一度完全に沈んだ。
それでも諦めずに浮かび上がって息をするが、そんなニーナを見てリムステラは満足そうに笑う。
「ふふっ、なんであなたがこんな目にあうかわかる?」
「……シャンテちゃんたちと友達だから?」
息も絶え絶えに答えると、正解よ、とリムステラは満足げに微笑む。
ニーナは、どうすることもできない自分が悔しくてたまらなかった。
「それにしても驚いたわ。あの日、巨大ゴーレム事件があったとき、私は遥か上空から一部始終を眺めていたのだけれど、まさか私の呪いを受けた男が一時的とはいえ呪いを解いて、しかも魔法を使って熱光線を防いでしまうなんて。普通なら絶対にありえないことなのに、あの男は平然とそれをやってのけた。本当に憎らしいわ。だから、私が受けた傷の恨みも含めてあの子たちに復讐するの。その手始めとしてあなたには苦しんでもらうわ」
「そんなの逆恨みじゃない。もとはといえばあなたが村の人たちを攫ったりしたから、ロブさんたちに狙われたんでしょ」
「攫っただなんて人聞きの悪いこと。私はただちょっと誘惑しただけ。勝手に男たちがついて来るから、利用させてもらっただけなの。ちょうど<青空マーケット>にてあなたたちのお店に大雨を降らせた三人組のようにね」
「えっ?」
「あの男たちをけしかけて大雨を降らせたのも、実は私なのよ。でも大失敗だったわ。まさかあの男が魔法で全部なかったことにしてしまうとは思わなかった。あれじゃあただ客寄せを手伝っただけになるじゃない。だから私思ったの。あんな方法じゃだめ。もっと心をえぐるような、泣いて許しを請うような、そんな復讐をしなくちゃいけない。そのために必要なのはあなたの死体なの。もがき苦しみ死んだあなたをプレゼントとして贈る。記憶に焼き付く最高のプレゼントだと思わない?」
「あなたは、最低だ……!」
「なんとでも言うといいわ。真っ赤な顔をしたあなたに言われても、別になんとも思わないから。……ふふっ、そろそろ熱くて辛くなってきたころでしょ?」
悔しいけれど、その通りだった。すでにお湯の温度はお風呂よりも熱く、ニーナは顔を真っ赤にしていた。額には汗をかき、呼吸は荒く、意識もぼんやりとしてきている。このままじゃ本当に茹でガエルになってしまいそうだ。
それでもニーナはぎゅっと唇を結んでリムステラのことを睨む。
魔女を前にすると心が怯みそうになるけれど、せめて弱音だけは吐かないようにしようと心に決めた。




