それぞれの夜、それぞれの夜明け
「あら、聞こえなかったのかしら」
きっとまたマヌケ面を晒していたのだろう。
オドたちが立ち尽くしていると、仕方ないわね、とばかりに魔女の方から立ち上がり、素足のままこちらにゆっくりと近づいてきた。それも、なぜか至近距離だった。息遣いが聞こえそうなほど、肌と肌が触れあいそうなほど近い。少し姿勢を前に傾ければ、その柔らかそうな胸に飛び込めそうなほどの距離。
しかしどういうわけか体は金縛りにでもあったかのようにまったく動かせなかった。
「ひどい臭いね」
魔女はわざと覗き込むように顔を間近に近づけてきて、そして笑った。馬鹿にされたはずなのに、オドは背徳的な喜びを感じていた。ここ数日風呂に入れていないことを誇りにすら思った。いくらなんでもこんな感情を抱くことはおかしな話だが、オドはそのことに気付くことができなかった。魔女を前にして、正常な判断などとうにできなくなっていたのだ。
もちろん、魔女から漂ってくるのは花の蜜のような甘い香りである。女という生き物は、どうしてこうも欲情を掻き立てる香りを醸し出せるのか。オドはもう一年以上女を抱いていなかった。
「それで、お店の方はどうだったのかしら?」
ああ、そうだ。自分は質問されていたのだった。
オドが答えようとすると、目と目が合った。左目は金色。そして義眼だという右目は赤色。どちらも魔力が秘められているかのように怪しく光っている、とオドには感じられた。そんな左右異なる色の瞳にじっと見つめられて、思わず視線を真下に逸らしたが、すると目に飛び込んできたのは、緩い胸元から顔を覗かせる胸の谷間だった。
オドはいま一度喉をごくりと鳴らして、しどろもどろになりながら答える。
「か、確認してきた。あんたが言ってたように、喋るブタのいる店があったよ。写真に映っていた女の子も一緒だった。例のあれも、ちゃんと売られてた」
「そう。それはよかったわ」
魔女は目を細めて笑った。それはいかにも悪だくみを考えていそうな妖艶な微笑み。いや、実際に彼女はよからぬことを考えている。間違いなくあの店にとって不幸が訪れるような、そんななにかを。
「それじゃあ明日、もう一度あの店に行って、あの子たちの目の前で──」
それを聞かされたオドは、やっぱりこの女は魔女なのだな、と再認識した。
いや、魔女という生き物のすべてが悪人だとは思っていない。そもそも魔女とは、魔法という難解な力を駆使して人々の役に立つものの存在であり、それが男なら魔法使い、女なら魔女だというだけの話だ。
けれどオドは、森の奥地にひっそりと暮らす魔女はこうでなくてはならないと、勝手ながらそう思ったのだ。
「で、でも、本当にそんなことを?」
愚かにも問い返したのはバッカスだった。バッカスは体が大きいわりに臆病だから、きっと魔女の企みを知らされて怖くなったのだろう。別にこの程度、可哀そうだとは思うが、恐れることなどないというのに。
──いや、可哀そうだとしか思わない時点で、俺も随分と魔女に毒されているのかもしれんな。
「あ、あの子たちの店は客こそ多いようですが、その、売り上げは取れていないようですし、わざわざ邪魔する必要なんて……」
「ねえ、バッカス」
魔女はバッカスに向けて微笑みかけた。怯える子供を安心させるような、母性を感じさせる笑みだ。
もちろんその顔の裏には企みがあることをオドは知っているが、それでも魅入られてしまう。いまも魔女の一挙手一投足から目が離せない。意味ありげに笑い、ネグリジェの裾を揺らしながら後ろを振り返る魔女。こんなにも魔女は無防備で、いまは背中を晒しているというのに、やはり体は動いてくれなかった。
ふらふらとキッチンへ向かった魔女は瓶を手にして戻ってきた。まるでバッカスの答えを予想して、あらかじめ準備してあったかのようだ。瓶の色は怪しい赤紫色。ラベルはない。大きさからして酒瓶に見えてしまうのは、自分が酒飲みだからだろうか。
──いや、違う。この香りは間違いなく酒だ。
魔女は見せびらかすように瓶の栓を開けた。途端にアルコールの匂いが鼻につく。なんの種類かわからないが、悪酔いしそうな甘ったるい香りだ。本来なら三人ともこういう酒は好まないのだが、しかしいまはどうしてか無性にそれが飲みたくて仕方がなかった。
「余計なことはなに一つ考えなくてもいいの。ただ酒に溺れて暴れてくればいい。そしたら、ちょっといいご褒美をあげるから」
赤いマニキュアが塗られた爪が、オドの唇に押し付けられる。初めて魔女の体に触れた。それだけ血が沸き立ち、理性の箍が外れてしまいそうだった。
いいことってなんだ? なにをしてくれるというのだ?
いまやオドの目には、魔女の赤い唇しか映っていなかった。
◆
「うえぇっ、もうこんな時間!?」
ニーナはカーテンの隙間からさす朝日を、恨めしそうに見やる。錬成に集中していて気付かなかったが、時計を見ると、もう時刻は九時を回っていた。もう出発の準備に取り掛からなくてはならない。ニーナはできたばかりの入浴剤を、急いで瓶に流し込んでいく。
昨夜はほんの少し仮眠をとっただけで、ほぼ夜通し作業に追われていた。予想以上に売れた<フルーツポーション>の調合に励みながら、実家までヤギミルクと瓶を採りに行ってくれたフラウを待ち、それらが届いてからはひたすら入浴剤の調合に取り掛かった。
なお、瓶に貼るラベルは<ココ・カラー>に頼んで急遽作ってもらったものだ。ヤギと、朱色の帽子を被ったひよこが頬を寄せながら、泡まみれになっている、そんなデザインをシールとしてもらった。さすがに初日を終えた夜にこんな変更をする客はニーナぐらいなもので、それゆえ急な依頼にも応えられる余裕が<ココ・カラー>にあったのは幸いだった。
そうして瓶詰めされた<ヤギミルクたっぷりヌルテカ泡ぶろ入浴剤>は、その色合いを見てみても、美味しそうなヤギミルクに見えてしまう。使いきりでは無いので、何度も開け閉めできるように蓋に工夫がされているが、それ以外はどこからどう見ても瓶詰めされたヤギミルクそのものだ。
「いまさらだけど、どうしてこの瓶にこだわったの?」
シャンテが瓶にラベルを貼り付けながら訊ねる。シャンテもニーナよりは長く仮眠をとったが、それでも数時間前からずっと、夜が明けるよりも前から手伝ってくれていた。
「ステージを見ようと座った長椅子の隣に、小さな二人組の子供が座ったんだ。で、その子たちがりんごのシャーベットを食べてたんだけど、その容器がね、りんごの中身をくり抜いたものを使ってたの。それを見て、素材を活かした容器ってすごくいいアイデアだなぁって思ったんだ」
「たしかに、使ってる素材をアピールするにはもってこいよね」
「でしょ? 見栄えが良くなれば、それだけ注目してもらえると思うし、絶対売り上げにも繋がると思うんだ」
新しくなった入浴剤は、およそニ十回分で、価格は2500ベリル。値段だけ耳にすると高く感じるかもしれないが、これは一個200ベリルだったときと比べてもお値打ち価格である。お客様には安く提供できて、それでいて売り上げもしっかり狙える。まさに良いことづくめだとニーナは自信をもっている。
ニーナが液体を瓶に流し込み、シャンテがラベルを貼る。協力して製品化して、そうして完成した品物をかばんのなかに詰め込んでいく。
途中、ロブが一度だけ申し訳なさそうに「朝ごはんまだ?」と訊ねてきたが、シャンテはそれを無視した。ちょっと可哀そうだけど、イベント会場でなにかしら買ってもらえると思うので、それまで我慢して欲しい。
そうこうしているうちに、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。フラウが荷物を運びに来てくれたのだ。先に反応したシャンテがドアを開けて迎え入れる。
「おはよーございまーす。黒猫印の箒郵便、配達員のフラウでーす。この度は昨日に引き続きご指名いただきありがとうございます」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げるフラウは、お仕事がもらえたことが嬉しいのか、にんまりと笑みを浮かべている。
「こちらこそ世話になるわ。それに昨夜はリンド村まで大変だったでしょ?」
「いえいえ、箒に乗っているだけなんで楽ちんでしたよ。それに、お昼寝のしすぎで夜眠れそうになかったんで、お仕事もらえて嬉しかったんですよねー」
いやはやそれにしても、とフラウがまとめられた荷物へと視線を向ける。
「昨日よりずいぶんと荷物が増えましたねぇ」
昨日はかばんが四つと、それから錬金術で作った看板ぐらいなものだった。それがプランターが三つに、苗木を巻き付かせるための支柱が数本と、昨日フリーマーケットで見つけてきた小さめの浴槽が一つ。それから丸椅子が一脚に、加えてかばんも新たに二つぶん増えていた。ちなみにかばんの数が多くなったのは、入浴剤を瓶詰めしたことで、容量が増えてしまったためである。
「これ全部運べるかしら?」
「それなら全然問題ありませんよ」
そう言ってフラウは昨日と同じように魔法の風呂敷を広げて、そこへ荷物を移し替える。それからくるくるとまとめて風呂敷の端を結んで、小さくして箒に結びつけると、箒の柄の部分を伸ばして、後ろに乗ってくださいと促した。
ただニーナにはやり残したことがあって。
「あの、先に行って準備しててくれないかな? あと少しだけチョコレートの数を増やしたくて」
せっかくミスコンテストで宣伝するのに、品切れなんてことになったらもったいない。そうならないように増やしたいと秘かに思っていたのだ。
「シャンテちゃんに準備を押し付けることは申し訳なく思うんだけど、お願い! 悔いのないようにしたいんだ!」
「いやまあ、別にそんなに大変だとは思わないけど、でもさすがにずっと一人じゃお客さんに対応できないから、早めに切り上げなさいよ? 少なくともミスコンテストには間に合うよう、余裕をもって駆けつけること。いいわね?」
「うんっ!」
ミスコンテストの開催は十二時から。出場するのはニーナ自身である。シャンテが出場した方がお客さんに支持されるだろうが、<大人顔負けグラマラスチョコレート>で変身するならば、元から美人なシャンテが使用してもあまり驚いてもらえないだろうと考えて、ステージへはニーナが上がることになっていた。
そうして二人と一匹が青空のなかへと消えていくのを見送ったニーナは、よしっ、と自分自身に気合を入れると、錬成に向けて素材をテーブルの上に並べていくのであった。




